第11筆 踊る影法師たちの舞台
大広間は人々で溢れていた。
華やかなドレスのご令嬢たちが、洋扇で口元を隠し、噂話に興じる。
「――ねえ、お聞きになって? 陛下が、夏の離宮を大々的に改修なされるそうよ」
「――本当ですの? 姉君がお亡くなりになった、あの悲しい場所を?」
「――そうそう。あの有名な〈悲恋の塔〉がある王宮よ」
「――身分違いの恋に、引き裂かれた王女と恋人……」
「――役人だった恋人は、先王の怒りに触れ、首を刎ねられたと噂の……」
「――王女は悲しみのあまり、恋人と過ごした塔から身を投げたと伝わる……」
「――ああ、なんて心が乱れる話だわ!」
煌びやかに着飾ったご令嬢たち、花壺に活けられた色とりどりの花々、三百本を超す蝋燭、白銀に輝くシャンデリアが八つ。
一際豪華な大シャンデリアは、フレスコ天井画の中央から吊されていた。
天井に描かれているのは、美しい夜明け。
紫がかった雲が、繊細な筆跡で表現されている。天井画の縁取りは白銀。
窓の外には闇が広がっているのに、まるで昼を切り取ったように明るかった。
楽人たちが弦楽を奏でる。
招待客たちの話し声と混ざり、独特の和音となる。衣擦れ、磨かれた床に響く靴音、宝石がしゃらんと鳴く。
「――何故、陛下は王太子をお決めにならぬのだ」
「――王太子は第一王子だろう? 今宵は、その発表の場ではないのか?」
ひそひそと、貴族の当主たちが言葉を交わす。
「――大穴は第二王子か?」
「――まさか。夢見る無謀だぞ」
「――婚約者そっちのけで、小娘に熱を上げている」
「――実は、王姉の子が生きているという噂だ」
幾人かが息を呑む。
「――王子たちの従兄弟だと?」
「――それは、三番目の王継ではないか」
「――いや、信じぬぞ。所詮、噂だ。そのような者、誰も見たことがない」
人々の声がさざめく。
噂話、御世辞、美辞麗句、笑い声、ひそやかな声。流れる弦楽の音。王城の夜会の協奏曲。
その中で。
「……何をやっている」
ジンが呆れた。
「見て、わからん、のか?」
「わからないから、訊いている」
壁際に立つ主人の背を、トウリがぐいぐいと前へと押していた。全力でリットがその場に踏み止まっている。
「本当に、壁の、装飾掛布に、なっているなんて!」
「壁の、華なら、いいのかっ!」
「御託は結構! さっさと、挨拶回りに、行ってこい!」
「やだ」
「子どもか!」
「俺の仕事は、招待状の代筆で終わったはずだ! 何が悲しくて、夜会まで参加せにゃならん!」
「夜会が終わったら、シンバル産のハイグロウンティーを淹れてあげますから!」
「何だと、トウリ!」
ぎらりと、リットの目が光った。
「どんな伝手で、そんな高級紅茶を手に入れた!」
「侍従を侮るなって話です!」
「ええい、白状しろ!」
「後でお教えしますから! どこぞの物書きがページ数のために駄文を連ねるような時間稼ぎは、おやめください!」
「見事な皮肉だな!」
主従のやり取りを身守っていたジンが、ひとつ頷く。
「では、微力ながら協力しよう。トウリ」
そう言って、リットの首根っこを掴んだ。
「ぐえっ。し、締まっている」
降参して、リットがジンの腕を叩く。二秒後にジンが手を離す。
「……絞首刑になるかと思った」
「斬首のほうがお好みか?」
長剣の柄を握ったジンに、リットは首を横に振った。
至近距離で、茶の三つ編みがジンの顔に当たる。
「ぐ!」
「あ、すまん。わざとじゃない」
「……ああ」
ジンが手で鼻を押さえた。地味に痛かったらしい。
「リット様」
トウリが目を据わらせている。
「わかった。そろそろ行く。ちょうど、宮廷書記官長もお見えになったことだし」
胸に見事な銀細工――片翼の飾りを着けたバルドが、スピルドを伴って大広間に現れた。
「宮廷書記官長どのは険しい顔をしておられるが。何かやったのか、リット?」
ジンの言葉に、リットが首を傾げる。
「心当たりが多過ぎて、思い付かない」
「そうか。それは良かった」
リットの職位のマントを、ジンが引っ張る。
「ご本人に聞こう」
「いや本当だって。バルド宮廷書記官長を困らせることは、思い付かん」
「困らせることは、だな。怒らせることはあるようだ」
「細かい男は嫌われるぞ、友よ」
「往生際の悪い男もな、友よ」
ジンの切り返しにリットが口を噤む。後ろに控えたトウリが無音の拍手をした。
「リット!」
バルドが名を呼ぶ。
「ご機嫌麗しゅう、バルド宮廷書記官長」
「道化を演じている暇はないぞ」
鋼のようなバルドの声音に、リットの表情が消えた。
「何かあったのですね?」
無表情だと、殺気を帯びているように見える。冷たく鋭い翠の目に、スピルドが唾を飲み込んだ。
「リトン一級宮廷書記官。この夜会の招待状を何通、代筆したか覚えておるか?」
「五百五十六組です」
宮廷書記官長の問いに、リットが淀みなく答える。
「おお、月神よ!」
バルドが天を仰いだ。何事かと、周囲の人々が窺う。
「この世は完璧ではない、ということか」
「お気を確かに。バルド宮廷書記官長」
スピルドが追従の笑みを浮かべた。
「所詮、リットも人の子。間違いはあります」
「何だって!」
ジンが一歩踏み出す。
その肩を、リットが手で掴んで止めた。口を開きかけた侍従は一瞥で黙らせる。
「詳細をお聞かせ願いますか」
ふん、とスピルドが鼻を鳴らす。
「覚えがないのか。それは、そうだろうな」
「バルド宮廷書記官長」
リットがバルドを見た。
唸りながら、バルドが白い顎髭を手で撫でる。
「不名誉なことを、宮廷書記官長の口から言わせまい。私が教えてやろう」
翠の目が、やっとスピルドを映す。
スピルドが招待状リストを掲げ、言い放つ。
「陛下がお決めになり、ラウル殿下がお前に代筆を命じた招待状は、五百五十七組だ!」
リットの目が見開かれる。
スピルドが持つリストの最後に、招待状を代筆した覚えのない名があった。
――スミカ・スコット子爵令嬢。
招待状リストは、そのまま招待客が王城に到着した際のチェックリストにもなる。
「招待状を書き漏らすとは何事か!」
高らかに叫ばれた不祥事に、人々がざわめいた。
「リストと招待状の照合を行ったのは、貴殿だったはず」
普段と変わらないリットの声音に、スピルドが眉を寄せる。
「責任転嫁か。見苦しいぞ、リット」
「いや。正確に言えば連帯責任。と」
リットが付け加える。
「監督不行き届き」
バルドが深く息を吐いた。
「聞け、リット。スコット家には、スピルドが早馬で招待状を送ったそうだ」
「ほう。私の尻拭いを、フラス様がやってくださったとは」
無表情のまま、リットの声音が凍てつく。
「――いつ、お気付きに?」
しん、と大広間が静まり返った。
「ラウル殿下が示された期日の三日前に、すべての招待状を書き終えました。フラス様なら、足りないことに気が付いたはず」
ジンがトウリへ振り返った。
仕事の期日を守ったことは事実であると、トウリが無言で首肯する。
スピルドが嘲笑を浮かべた。
「すぐに気付いた。だが……、私を除けばただひとり。一級宮廷書記官の職位を持つお前が、間違いを犯すなんて信じられなくてな。胸が痛んで、なかなかバルド宮廷書記官長に言えなかったのだよ」
そりゃどーも、とリットが呟く。
「それで。万が一、億が一、狼と鯨がダンスをして私が間違えたとして。スミカ嬢は、お見えなのか?」
スピルドが笑みを深くした。
「残念ながら、まだだ」
チェックのついていない招待客リストを、スピルドが高々と掲げる。
「ああ、もう王族の方々のお出ましの時間だ!」
芝居がかった嘆きに、ジンが舌打ちをした。
「嵌められたな、リット」
「ああ。見事に嵌まった」
「冗談を言っている場合じゃないぞ。スミカ嬢に詫び状を書け」
「それでお前はどうする」
「スミカ嬢をお連れする。誰か! 馬を引け!」
近衛騎士団副団長の声に、何人かが走り出す。タルガとユーリの姿も見えた。
楽人たちが楽器を下ろす。
代わりに、まばゆく輝くトランペットを手にした楽人が大広間に現れる。
「ジン副団長様」
人垣が割れた。金色の洋扇を手にしたヴァローナが、三人の侍女たちを引き連れ悠然と歩いてくる。
「スコット子爵家に肩入れする必要はありませんわ」
「しかし!」
「もう王族の方々のお目見えです。子爵のご令嬢なぞ、どうでもよいではありませんか!」
おーほっほっほ、とフィルバード公爵令嬢の哄笑が響く。
「どうしましょう、リット様!」
堪らず、トウリが主人の服の端を掴んだ。
「このままでは、本当に首チョンパになっちゃいますよ!」
「――落ち着け、トウリ」
リットの唇が弧を描いた。
「焦っては事をし損じるぞ」
翠の目が、嗤う。
トランペットのファンファーレ。荘厳で威厳のある響き。
「おい、リット!」
「リット様!」
ジンとトウリが叫ぶ。
トランペットの吹奏が止んだ。
式部官が述べる。
「夜空を統べる月神の守護を! タギ第二王子殿下の……御成り!」
大広間の人々が、一斉に上座へと最敬礼をした。
着飾ったタギが姿を現した。
「あ」
声を漏らしたトウリが、慌てて自分の手で口を塞ぐ。
「……おい」
肘で小突いたジンへ、リットは無言で片目をつぶる。
バルドが今にも天に召されそうなしゃっくりをした。スピルドとヴァローナは揃って顔面蒼白。
タギの茶に近い金髪に、華やかな夜会に相応しい銀の装飾を着けられている。
王族の証である紫の目は、落ち着きなく泳いでいた。何度も、自分の後ろを振り返る。王族ではない令嬢がタギの後に続く。
「夜空を統べる月神の守護を! ラウル第一王子殿下の御成り!」
金髪を颯爽となびかせ、ラウルが現れた。
高みより、堂々とその紫の目で人々を見渡す。リットを見つけると、僅かに目を細めた。
「夜空を統べる月神の守護を! 国王陛下、王妃殿下の御成り!」
王と王妃が玉座に座れば、人々は声を揃えた。
「月神の守護よ、永久に! 銀雪の国よ。栄え給え、輝き給え!」
大広間の天井に人々の声が吸い込まれると、後は静寂だけが残った。




