第1筆 紅茶と呼び出しがある優雅な生活
2021年4月14日に驚きました。
純文学月間ランキング2位に入っていました。
びっくり!感謝です!
2021年5月9日
か、感謝で感謝の言葉しか、見つかりません。
応援、本当にありがとうございます!
「休憩だ!」
リットが羽根ペンを投げ出した。
「招待状の残りは百八十六枚です。リット様」
椅子の背にだらしなく身を預けた主へ、トウリが言い放つ。
「さっき休憩したばかりじゃないですか」
午前の紅茶を済ませて、一時間と経っていない。
「さっきはさっき。今は今」
屁理屈をこねて、リットが椅子から立ち上がった。
「ああ、手に鉄の蛇が巻きついているようだ」
右手首の柔軟をしながら、執務室の中を歩き回る。その動きを追って、三つ編みの長い茶髪が尻尾のごとく揺れる。
トウリがため息をついた。
「リット様。王家が催す夜会の招待状が遅れるなんて、不名誉極まりないですよ」
「知るか」
「あんた宮廷書記官でしょ!」
「俺は片田舎の代筆屋で満足していた」
「昔は昔、今は今です。働け!」
トウリが執務机の上に洋紙の束を置いた。一枚一枚に、王冠を戴いた金蔦が縁に描かれている。王家専用の手紙洋紙。
「有能な少年侍従を持って、俺は幸せ者だな。なんと優雅な生活か」
ははは、と乾いた笑みを浮かべ、リットが窓の外を見る。初夏の青空に刷毛で梳いたような薄雲が二筋。壮麗な白石造りの王城に、王旗がはためいている。
「では、インクが乾くまでの小休憩ということにします」
懐中時計を取り出して、トウリが律儀に時間を確認した。
「ああ、うん。お前も自由にしてくれ」
「かしこまりました」
トウリが執務机のカップとソーサーを下げる。暖炉の灰で保温していた紅茶を注ぎ入れ、窓辺に立つリットへ手渡す。
「どうぞ」
「ん。ありがとう」
長く、成人男性にしては細い指がソーサーごと受け取る。羽根ペンを握っていたその手に、インクの汚れは一切ない。
「そういうところが宮廷書記官ですね」
「何の話だ?」
リットの翠の目が瞬く。いえ、とトウリははぐらかした。
「まだアイスティーにしないのは、腹を下すと、招待状書きの執務に支障をきたすからですか」
ずずず、とリットが温い紅茶を啜る。
「まーな。締切りに遅れると、方々に迷惑が掛かる」
「そうお思いなら、今すぐ取りかかるべきかと」
「夜会の招待状を仕上げる期日は、まだ余裕あっただろ? 焦っては事をし損じる」
「御尤も。ですが、リット様。あと百八十六枚です」
「ああ、今日は風があるようだ。紙が飛ばされないよう気をつけようそうしよう」
見上げるトウリの視線を無視して、リットが窓の外へ現実逃避した。
『――ぬう、何奴!』
『はっはっは。悪党に名乗るには惜しいが、あの世への餞別だ。教えてやろう』
仮面の騎士は白いマントを翻した。
『我が名は、レオン・ランロット・ヴァーチャス!』
『何! 隠し名だと!』
『そうだ。王より賜りし栄誉の名だ。そして、お前を成敗する者の名だ!』
「〈白雪騎士物語〉か」
背後からの声に、トウリは椅子から飛び上がった。
「ちょ、リット様。気配を消さないでください!」
文官のくせに何故か武術の心得があるので心臓に悪い。
「面白いか、それ」
トウリが座る椅子の背に腕を預け、開かれた本の紙面を覗き込む。
主人公、白雪騎士と悪党の決闘場面。片側のページには、黒のインクで二人の騎士の挿絵が描かれている。
「知らないんですか? ものすごく人気ですよ」
「どんなところが人気なんだ?」
途端にトウリが目を輝かせた。
「強くて正義感がある白雪騎士が、とってもかっこいいです! 本当は先王の王子なのに、そのことを隠して現王に仕える忠誠心。現王も、実はすべて承知していて、だから白雪騎士の忠誠を信じて、隠し名を与えているんです! そして二人だけの仕草の暗号とか!」
はー、とトウリが息をつく。
「いいなぁ、超絶的信頼関係。いいなぁ、隠し名持ち」
「ふーん。じゃあ、トウリ。騎士になればいいじゃないか。武功を挙げて、王から栄誉の隠し名を賜れば?」
「僕に出来ると思っているのですか?」
「やる前から逃げるのは臆病者の一手だぞ」
「分を弁えているだけです。それに僕がいなかったら、誰がリット様の尻を叩くのですか」
「飴も鞭も、お前ほど知り尽くしている者はいないかな」
「リット様は物語をお読みにならないのですか?」
「まーな」
ふっと、翠の目が眇められる。
「所詮、この世は夢物語。嘘が真で、真が嘘。誰もが与えられた役を演じる影法師。それで十分さ」
「よく、わかりません」
「それでいい」
リットがトウリの頭を撫でる。くすぐったさと、嬉しさを誤魔化すように、トウリが懐中時計を取り出した。
「さあ、休憩は終わりです」
「Yes, Sir.」
「主人はあんたでしょう」
「どこの世に主人をあんた呼ばわりする侍従がいるかね」
「ここにいます」
トウリが本に栞を挟む。椅子から立ち上がり、本棚へと〈白雪騎士物語〉を戻す。肩を回しながら、リットが執務机の前に座った。王家の手紙洋紙を手に取る。
「……どこの世にあんた呼ばわりを許す主人がいるんですか」
「うん?」
インク壺の蓋を開け、リットがにやりと笑う。
「ここにいる」
「そうですか」
「聞いておいて、そっけないな」
「ええ、まあ」
トウリが机上の招待客リストを指差す。
「続きはコーネス家からですね。ご令嬢、リリア様宛です」
「ふーん。王も大盤振る舞いだな」
意味を図りあぐねたトウリが眉を寄せた。
「三年前に没落ったんだよ。コーネス家」
「名詞を動詞にしないでください」
トウリの苦言に鼻を鳴らし、リットが羽根ペンの先をインクに浸す。
「王子たちの妃には相応しくない家だが。何をお考えかね?」
夜会といえば、婚姻相手探しが目的だ。
華やかに着飾った貴人たちが繰り広げる愛憎劇。権力闘争。
「ま、元々力ある貴族じゃなかったし。お前の憧れの隠し名持ちでもなかった」
「そうなんですか?」
余分なインクを壺の縁で落として、リットが洋紙にペン先を下ろす。
軽やかに文字が綴られる。
流麗で壮麗。
絵画を描くように、羽根ペンが走る。
速い。
躊躇いなく、綴字誤りなく、文字を書き上げていく。黒インクの濃淡。文字を構成する線の太さ細さが秀逸。識字能力がない者でも、その筆跡の美しさにため息をつく。
トウリは静かに主を観察する。
ありふれた茶の髪から透けて見える、翠の瞳。今は鋭利な光を宿して紙面に向けられている。その真剣さ。黙ってペンを持てば、王族のように毅然とした威厳を放つ。
「ん。こんなもんか」
リットが羽根ペンを置いた。
トウリは書き損じ洋紙――他の書記官のもの――を渡す。余分なインクを吸い取らせて、リットがコーネス家の招待状を手に持つ。全体の文字のバランスを確認する。
「いやあ、隠し名も略名もないから助かる」
「……文字が少なくて済むから、ですか?」
「うん。なんでお偉方は名前を長くするのかね。王族は王族のくせに短いのに」
「不敬罪で投獄されますよ」
「仕事しなくてもいいなんて天国だ」
じとり、とトウリの目が据わる。
「働かざる者、食うべからず。首チョンパされたら、どうするんですか」
「はっはっは。若者言葉は物騒だな」
リットは心底面白そうに笑って、招待状に金の羽根ペンで代筆者名を書き入れた。
「斬首される前に、騎士団への紹介状を書いてくださいね。あなたは良いお人だった」
「おっと、トウリ。勝手に主人を殺すなよ」
「なら、働いてください」
完成した招待状を受け取って、トウリがリストを読み上げる。
「次は子爵家の、ルファド……」
コンコン、とドアがノックされた。
「はい」
トウリが取り次ぎでドアを開ける。文箱を持った青年侍従が一礼した。
「失礼いたします。リット・リトン様へ、殿下からです」
「ああ。ありがとう」
リットが外面の良い笑みで応える。
手紙を受け取ったトウリが、ドアを閉めた。
二人して去って行く青年侍従の足音に耳を澄ます。遠ざかり、やがて消えた。
「あんた何やったんですか!」
叫びながら、トウリが手紙を手渡す。
「知るか! 何もしてない!」
「間が良すぎです!」
「ええい、動揺するな! どっちの殿下だ?」
封蝋を剥がす。手紙を広げると、簡潔な一文だけ書かれていた。
――暇なら紋章の間に来い。
「暇じゃねーし!」
椅子から立ち上がったリットは、手紙を机に叩きつけた。
「ちょ、不敬罪ですよ!」
「はんっ。この程度で罪に問う器量の狭い主なんざ、こっちから願い下げだ」
「僕の将来も懸っているんですが!」
「あー、うるさい、うるさい! 行くぞ、トウリ」
椅子に掛けてあったマントを羽織った。白い三枚の羽根を金のブローチで留める。
「待ってください!」
さっさと部屋を出て行く主の背を、トウリが慌てて追った。