トイレット
駅のトイレに入ると、一つの大便器用の個室の上から紐が伸びておりそれが天井近くを通ってる配管に括りつけられているのが見えた。
「・・・」
見た瞬間、一瞬足が止まったものの生理現象には勝てない。だからまずそれは置いておいて小便器の前に立って事を済ませることにした。何せ我慢していたのだ。暑い屋外から涼しい電車内に入って数駅。そらおしっこも近くなる。チャックを下ろしてパンツの前を開けるのにも苦労した。手があわあわしていた。焦ってたから。漏れそうだったから。気も急いていたから。
「ふー」
しかし、なんとかかんとか事は無事に済んだ。おしっこというのは間に合って衣服に被害を出さずに出すべきところに出せた瞬間ほぼ終わりである。後は出るまで、出しきるまでの時間というのは安心を得るための時間と言い換えてもいい。
「・・・」
しかし、その時はそういう訳にはいかなかった。尿の出に比例して安心の製造をすればするほど、反比例して背後の大便器用の個室が気になった。
尿の出によって五感だって正常に戻ってくる。耳が聞こえるようになってくる。それによって背後の大便器用の個室でぎしぎしと鳴ってる音も聞こえだして、それが気になってくる。気になって仕方なくなってくる。
吊ってるのかな?
そう思えてくる。
括っているのかな?
そんな事を考えるようになってくる。
ドキドキしてくる。
「・・・」
やがて尿を終えて、ブツを衣服の中にしまい込み、社会の窓を閉めた。全部そのままの態勢で、前を見た状態で、壁を見ながら行った。
その間も背後からギシギシという音は聞こえてきていた。トイレにも空調が効いてるんだなあ。そんなことを思った。
そのまま後ろは振り返らずに洗面所に向かった。そこで手を洗った。大きな鏡に天井近くを通っている配管の部分から大便器用の個室に下っていく紐が映りこんでいた。
「自分にはどうすることもできない」
手を洗って持参している手拭いで拭いて鏡を見ながらマスクの位置を整えて服装の乱れを整えて、それからそんな風に思った。
「それに」
こんな自分にだって用事がある。何の用事も無く外に出たわけじゃない。こんな昨今だ。こんなコロナの昨今。用事も無く外に出るような事はしない。そんな愚犯さない。
「南無三」
だから心の中で手を合わせて、そのままトイレを出ようとした。
「おまえはなにもじないのがあああ!」
そしたら入口から恐ろしい面相の奴がなんか叫びながらトイレに入り込んできて自分につかみかかり、そのまま力の限り揺すったり罵声を浴びせたりしてきた。
「おまえはひどでなじだあああ!」
生きた感じはしなかった。おそらく死んでる人。首のぐるりに黒いあざがある。だから多分あそこで、あの大便器用の個室でぶら下がってる人。
「みごろじだあああ!」
だから思いっきりぶん殴った。
喧嘩なんてしたことない。喧嘩慣れしてる人からしたら全くみえみえの肩の動き。振りかぶって当たるわけないような拳。
でも、そいつにはそれが当たった。そしてそのまま脇にあった用具入れにぶつかって静かになった。
「自分があんたに死んでくれと願ったわけじゃない。自殺してほしいと思ったわけでもない。あんたの事なんか知らないよ。そもそもこんな公共の場で自殺するようなあんたに人格を否定される筋合い無いです」
本心で。本心でそう思うわ。そういうのはあんたをそれに追いやった奴にやれよ。そいつを何度も殺したりしたらいいんだよ。関係ない奴を巻き込むな馬鹿野郎。死んだと言えども節度をもって行動しろ。
そのままトイレを出た。
改札を抜けて駅からも出た。少し行った場所に人目につかないような公衆電話があったので、あたりにカメラの類が無い事を確認したのちそこから警察に電話した。
「駅のトイレで死んでる人がいます」
そう言ってすぐに電話を切った。指紋とかも一応拭いた。
「・・・」
全く知らない人だ。
全く知らない死んだ人に絡まれた。
なんなんだよもう。
袖触れあうのも他生の縁とはいうけどさ。
こっちはそれで、今度お茶とか花とかちょっと買って行こうかなと思っちゃってるよ。
自分の身も、お寺とかで多少清めてもらった方がいいのかなって思っちゃってるよ。
それに今回のこの体験のせいで、そういう体質にでもなってたらもうホントあいつの事許さない。
もうほんと許さない。
こっちはトイレしたかっただけだぞ。
自分は絶対にああなりたくない。
死んでもそうやって関係ない人に絡む類にはなりたくない。
自分を自殺させた原因のある人の所に行って、そいつの事を殺して生きかえして殺して生きかえしてするわ。
一生そうするわ。
関係ない人を怖がらせるような事はしない。
そうしよう。
絶対に。
頑張ろう。何一つ頑張らない自分でも、それだけは頑張ろう。ホントに。