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上州博徒列伝  幕末の上州(群馬)は博徒の王国であった。  国定忠治  大前田英五郎 日光円蔵  板割浅太郎

作者: 舜風人

1 前説




上州博徒


上州無宿


上州長脇差  (じょうしゅうながどす)


こういう言葉を聞いたことがおありだろう。

そう、

上州は幕末 まさに「博徒の王国」だったのだ。


一般には、国定忠治や木枯し紋次郎などが有名ですよね?


おっとまった

木枯し紋次郎は架空のキャラクターですよ。実在しませんからね。


さて、、ではなぜ幕末の上州はこのように博徒の王国だったのでしょうか?


要因はいくつか考えられます。


1、当時盛んだった養蚕です。群馬の農家ではいち早く養蚕を主産業としてとりいれ

  その稼ぎは相当なものだったそうです。こういう余剰資金が博打に道を開いたと

  いうことでしょう。

 「かかあ天下と空っ風」

  養蚕は女性労働で成り立っていましたので

  男は遊んでいても食っていけたのです。


  幕末の貿易商 嬬恋出身の中居屋重兵衛

  この人のように横浜に出て大成功した絹商人もいました。

  上州は「絹の王国」でもあったのです。




2、上州気質  江戸っ子以上にその日暮らし、というか、能天気な気質があります。

  内村鑑三はこう記していますね。

  

  「上州人は世間にうとく、それほど見識も広くなく、

  才能(器用さ)に欠ける。

  意志が強く、がまん強い。飾りけがなく、口べたである。

  そのせいか、人に欺かれやすい。

  唯一よいところは、誰にでも正直に接することだ。

  誠実にして、まごころの人としての生き方は、

  いざ神の時がきたときに、必ずや勝利をおさめる。」  石碑 上州人 より


 こういう気質が博打好きという風を生んだともいえるでしょうか。




3、当時の行政区画


  そのころの群馬は小さな各藩が入り乱れていて藩を越えれば他国ですから

  逃げ回るのにも適していたようです。




4、上州の剣術


上州は馬庭捻流に代表されるように剣術が盛んでした。

上州長脇差といわれる一本刀での剣術は博徒もたしなんでいてこれが博徒の出入りにも活躍したようです。





まあこのような理由で幕末の群馬は博徒の王国と化していた、、ということが言えるでしょう。



博徒とは?


博徒とは、農業生産から外れて、無宿モノとなり、博打で食っている人のことです。

つまりアウトローです。




そういうアウトローとして有名な人物を何人かピックアップしてみたいと思います。




2、国定忠治


あまりにも有名な博徒です。

(博徒名)国定忠治  (本名)長岡忠次郎

(生没年)文化7年(1810年)~嘉永3年(1850年) 享年41歳

     上州大戸関所において磔刑


忠治は17歳で賭場で人を殺めたのち大前田英五郎に寄寓して子分となります、

後独立してショバを張りますが。様々なショバ争いを繰り返すこととなります。

切った張ったの侠客人生ですね。剣術も達者だったようです。


その一方忠治は天保の飢饉で住民を援助したりしています。

ゆえに村民から慕われたそうです。

その後役人の追求が厳しくなると逃げ回りますがとうとう逮捕されて

江戸に護送、のち

大戸関所において磔刑に処されています。

とくに辞世というようなモノはないようですが忠治の最後の言葉としては


「上州の酒を飲み上州の土となるは愉快」


という言葉が伝わっています。






2、日光円蔵(にっこうのえんぞう、享和元年(1801年) - 天保13年(1842年)[1])は

 、江戸時代後期の博徒。


  元僧侶だったが忠治の舎弟になる。のち捕縛されて牢死したとも。





3、板割浅太郎


忠治親分に忠誠を尽くし、自分の叔父の中島勘助とその息子勘太郎を殺した板割浅太郎、その浅太郎が忠治親分と赤城の山で別れるシーンがクライマックスである。


講談で有名な「赤城の山も今宵限り、、、」で有名な忠治との別れのシーン、


その後、忠治は8年間逃げまわったが、捕まり最期ははりつけの刑となった。


浅太郎は、、、


『1842年、赤城山で忠治と別れた後、仏門に入り長野県佐久、時宗金台寺の列外和尚の弟子となった。のち遊行寺の堂守となり、鐘つき、参詣者の接待、清掃をしながら念仏三昧、中島親子の菩提を弔った。その精進、改心が認められ、当時、この地にあった貞松院の住職となった。1880年、遊行寺が火災に遭った際、勧進僧となり各地をめぐり本山の復興に尽くし、明治26年、74才でその生涯を閉じた』墓誌銘より





4、大前田英五郎



 栄五郎ともいう

今の群馬県に生まれた博徒の大親分である。


本姓は「田島」と言い、上野国 大前田村生まれ、今の群馬県前橋市である。

寛政5年生まれ



親もやくざの博徒であったという、栄五郎自身も若くして博徒で鳴らし、切った、張ったの明け暮れだったようだ。


幕末ころの上州は博徒が跋扈することで有名で

上州長脇差と称する博徒が盛んにショバ争いをしていたようだ。

ではなぜ群馬がそうだったのか、。

一つには養蚕で女衆が日銭を稼ぐという風土があり

男はその金でばくちに明け暮れる?という風が盛行したようだ。

更に当時幕末の群馬は諸藩。所領が複雑に入り組み統治が末端まで及ばないいわば無法地帯と化していたようだ。

こうした風土で上州はいわば博徒が多数輩出したといわれているのだ。


最も有名なのが 国定忠治である


講談になり

映画になり

歌謡曲になり


知らない人はいないだろう。


今回私が取り上げるのが

大前田英五郎である。忠治の親分筋に当る人物である。

忠治からは「おじご」と呼ばれていたそうです。


さてこの人若いころは各地で刃傷沙汰を繰り返して諸国を渡り歩いて逃げ回ったようですが


やがて郷里へ帰りそこで各地の自分の息のかかった縄張りから上がる金で暮らしたそうです。


そして縄張り争いの仲裁人として 名をあげたようです。

まあそういう人徳?というか、リーダーシップがあったのでしょう。


その仲裁によってやがて関東一の大親分という称号が奉られるようになったそうです。


そして侠客たちの争いをうまく収めたので「和合人」と呼ばれるようになったそうです。

この人の風貌とか体形はいわゆるでっぷり形でどっしりした風格があったようです


郷里に帰ってからは自分が切った、張ったは、せずにもっぱら仲裁役に徹したので

命を狙われることもなく

お上につかまって処刑されることもなく


なんとヤクザにしては異例の

82歳の長寿を保ってなくなりました。


辞世


あらうれし ゆくさきしれぬ 死出の旅








☆結末  後日譚   明治期の上州博徒たちの運命



さてこんな博徒が幅を利かせていた群馬も江戸時代は終わり、、明治となります。



廃藩置県で群馬にも


岩鼻県が誕生します。これがのちに群馬県となります。


その初代知藩事となったのが 「大音龍太郎」おおどりゅうたろう、である。




実はこの人の人物像や岩鼻県知事時代の事績は



ほとんど残っていないのである



いわば謎の人物であり、埋もれた?人物なのである。



唯一残されているのが聞き書きというか



伝聞だけであるので信憑性は多少疑問が残る、、と、、初めに言わせておいていただこう。




そもそも幕末から明治初期の群馬地域とは



「上州長脇差」と言われるくらいの、博徒たちが横行した地域であり



江戸時代には、国定忠治や大前田栄五郎という有名な博徒の親分がいたことでも有名ですよね。




こうした、ばくち打ちのいさかいや出入り騒動や賭場での喧嘩や殺し合いが



日常茶飯事だったのが、現状だったわけです。



話し合いなんかが通じる相手ではありません。



傍若無人な博徒たちですよ。

これらが明治になったからといって消え去ったか?といえばそんなことはありません。



当時の中央政府(明治政府)も



「上州は治めがたし」、、というのが定評だったわけですね。




ですから、その県民性は、気性が荒くて、言葉は粗野で、文化は低く、



投げやりで、反抗的で、その日暮らしができればいい?というものだったのです。





こうした時代背景は大河ドラマの「花燃ゆ」にも



多少、美化?されて描かれていますよね。



さてこうしたいわば明治初期の殺伐騒然としたところへ



派遣された、初代、岩鼻県知事の大音龍太郎は



その若い行動力に任せて?



上州の大改革に着手します。



まずは、、



正業をおろそかにして



博打にふける、上州の博徒たちの一斉取り締まりに乗り出したのです。



「上州長脇差」の撲滅に乗り出したのですね。



いわゆる「武断政治」を敢行して博徒の根絶を図ったわけです。



徹底的な博徒狩りを行い、すべて岩鼻陣屋(岩鼻県庁)にしょっ引き、



近くの、烏川河畔にあった、岩鼻処刑場ですべて斬首したと伝えられています。



その数は多い日にはなんと、80人にも及んだといわれています。



大音龍太郎 在任中の、総計の斬首された博徒はどれほどになるのか?



すごい数でしょうね。




一日に80人の斬首とは、今の感覚から言ったら、おぞましい限りですが



あえて大音龍太郎を弁護?するならば、、



そのくらいのことをしなければ、当時の上州はおさまりが付かなかったほど



明治になっても、博徒の横行がすさまじかった?ということでしょう。



ところで当時の県知事(正しくは上州巡察使、軍監兼 岩鼻県知県事)



とは、今でいえば、警察、行政、司法の全権を持った絶大な権力者です。



まあ、いわばなんでも、できたんですよ。



でも?



さすがに、これでは、住民の反感を買いますよね。



それにしても、博徒だけならまだ、よかった?でしょうが、



なんと大音はある日、巡察中に



ほったらかされた、雑草だらけの畑を目撃して烈火のごとく怒ったといいます。



「畑仕事もしないで、どうせ、ばくちに、うつつを抜かしてるんだろう」



大音はそうおもったのでしょうか。



その畑の持ち主をしょっ引き、なんと、斬首してしまったのです。



一罰百戒



見せしめ?の意味もあったのでしょうか?



博徒撲滅と、正業の振興、



その理想は良いでしょうが、



しかし彼のあまりにも、急進的な武断政治は



住民の反感を買うだけでもあったということでしょうね。



やがては



こうした武断政治は、中央政府にも、届いて



「さすがに、やりすぎだろう」、、ということで、



そのため大音は、わずか半年で、罷免されてしまうのです。



しかしこうした



大音のこうした恐怖政治はつわものぞろいの「上州博徒」たちも



震え上がらせたといいますね。



そりゃそうでしょう、かなりの効果があったようです。



さて



こうして大音が、急進的な、博徒狩りで、博徒を一掃して、



地ならし?、、した後に



着任したのが、あの、楫取素彦、かとりもとひこ なのですね。

NHKの大河ドラマの「花燃ゆ」の主人公です。



彼は、相当数の博徒が根絶した後に、着任したので



まあ今のことばでいえば



「いいとこどり」できた、、というわけですね。



彼は、博徒が一掃された後ですから



彼の目指すところの、「文治政治」を実行できたのです。



それは悪役?を引き受けて?博徒狩りしておいてくれた



大音龍太郎の



まさに「おかげ」?だったのですね。



まあ




というわけで、大音龍太郎は



今でも群馬では「首切り龍太郎」と言われて



悪評芬々だらけですが



そのあとの




楫取素彦は文治政治で



群馬の文化の発展に尽くした「いい人」「功労者」「群馬の恩人」



として愛されて?いるというわけですね。




というわけで


今まで見てきたように



私はむしろ



大音龍太郎にむしろ、、共感的?ですがね。



あの時、、大音龍太郎は、そうするしかなかった?



といっては独断的結論すぎるでしょうか?




さて、皆さんは、いかが思われますか?




歴史にイフ(もしも)はありませんが



もし楫取素彦が



初代、岩鼻県知事になってたら?



当時の、騒然たる上州博徒の横行に



さてどうできたというのでしょうか?



大音龍太郎のように



敢然と博徒狩りができたのか、



それとも?



手をこまねいて、座視,傍観するしかなかったのか?



さあ?どっち?



以上



上州博徒列伝でした















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