モノノケとニンゲン
満月の夜に創成川へドボン。気付くとテレビ塔の色は変わっていて、狐の耳が映えた奇妙な少女に出会って。たった一夜にして、青年、恵野由の世界は全く変わってしまった。都内の大学受験に失敗して、半ば都落ちのようにして北海道に流れてきた彼であったが、一夜にして彼はこの世界の秘密を知る特別な人物となってしまったのである。それがいかばかりか彼に優越感を与えたかは分からない。しかし、人間の世界に帰ってきて彼が見上げたコッパーローズは一月前に比べればずっと鮮やかだった。
もちろん、良い事ばかりではなかった。人間世界に帰ってきた彼には、ぴったりと頭痛の種が引っ付いていたのである。
北海道大学は、そのとんでもない敷地の広さで知られている。大半は農学部用の農地なのだが、北8条から18条まで一気にぶち抜くメインストリートは壮観だ。そんな通りの北の方には1年生が基礎的な教養を学ぶ教養棟から、彼らやサークルメンバー達の溜まり場になっている食堂やテスト勉強に励む学生で混み混みになる図書館まで、一通りのスペースが揃っている。最初は暗澹たる気持ちだった由も、涼やかな初夏と賑やかな空間のお陰で前向きな日々を送るようになっていた。
そんなわけで彼は図書館のデスクに向かい、講義で出されたレポートの課題をこなしていた。指定された課題図書を開いて、念仏か説教かとばかりに書き連ねられた文章を何とか読み下し、凝り固まった頭をほぐしてパソコンのキーボードを何とか叩く。
「はーん。勉強勉強……真面目なんだねえ、アンタは」
しかし、そんな由の隣ではローライズを履いた少女が不届きにも机に腰を掛けていた。その耳は狐のそれで、ふわふわの尻尾がはたきのように机の上を掃いている。
「うるさいなあ。気が散るから話しかけないでくれよ」
「だってアンタ、年頃の男女があんなにひしめいてんだぜ。普通は『お相手』を探すので必死になるのが先じゃないの?」
キツネ少女――霜星は本を一冊手に取ってぱらぱらとめくる。しかし彼女は眉間に皺を寄せてばかりだ。
「こんな小難しい本ばっか読んでさぁ……つまらないだろ?」
「別に面白くはないさ。でもそれが勉強だろ」
「知ったような事言っちゃってさぁ……つーかさっさと終わらせろよ。こんなレポートよりも先にやることあるだろ?」
「やる事ってなんだよ」
「忘れたのか? モノノケ世界とニンゲン世界がどうして別々になっちまったのか調べに行くって話しただろ?」
「別に俺が協力するなんて一言も言ってないじゃないか」
「なにぃ? あれは完全に協力する流れだろ? お前には探求心ってものが無いのか? それが無かったらいくら勉強したって無意味なんだぞー。ツルの爺さんが言ってたぜ」
こんこんと本の角で少女は青年の頭を叩く。
「いってぇ、やめろ。つーか、お前こそそんな堂々といていいのかよ。捕まってグレイ型宇宙人みたいに写真に撮られたって知らないぞ」
「はん? 別に平気だよ。どうせこの世界の誰にもあたしの事なんか見えやしない」
彼女がいうなり、静かな図書館にこっそりと悲鳴が響いた。振り返ると、眼鏡を掛けた一人の女が、本をドサドサと落として眼を真ん丸に見開いている。由は抗議めいた眼差しを霜星へ向けたが、彼女はただ悪戯っぽく笑って、手にした本を由の側に投げ出した。女はますます息を詰まらせた。
「ぽ、ポルター、ガイスト……!」
ぼそぼそと呟くと、女は慌てて本を掻き集めて由の目の前を駆け抜けてしまった。由はぽかんと口を開けっ放しにする。
「ポルターガイスト?」
「言っただろ。あたしの事が見えちゃいないんだ。あいつには本がひとりでに浮いて動いたくらいにしか見えなかったんだよ」
メインストリート。コンビニでサンドイッチを買ってきた由は、メンストに面したベンチに腰掛け包みを破く。隣ではくんくんと霜星が鼻を鳴らしていた。
「まあ、何だ。ニンゲン世界にあたしらモノノケが下ってきてもな、別に誰にも見えやしないんだよ。今もお前は一人で寂しく遅い昼飯を食ってるってわけさ」
「うるさいなあ、いちいち。ほっといてくれよ」
「ま、お前を寂しくない奴にしてやる事も出来るんだけどな」
言うなり、霜星はその姿をキツネのそれに変えてしまった。いきなり2つめのサンドイッチを草むらに突き落とすと、霜星は地面に降りてむさぼり始める。途端、メンストの周囲で黄色い歓声が上がった。
「キツネ! ほら見て!」
由の足下でサンドイッチを食べるキツネを見つけて、皆が早速スマートフォンを構え始めた。わざとらしく周囲を見渡した霜星は、写真に撮られながら博物館の裏手へとそそくさと駆け去っていく。
やがて、耳を揺らし、尻尾を振りながら暢気に霜星が戻ってきた。しかし人々は彼女には気付かず立ち去っていく。再びベンチの隣に腰を落ち着けると、霜星は得意げに胸を張った。
「ざっとこんなもんよ」
実際に見せられれば納得するしかない。由はサンドイッチを頬張りつつ、彼女の顔を見遣る。Tシャツにホットパンツのいかにもラフな少女の姿が、彼以外には見えていないというのだ。そのメリハリの利いたスタイルにちらちら眼を奪われつつ、彼は一つの疑問に行き当たった。
「じゃあ待てよ。それなら、どうして俺には霜星の事が見える? 俺だって人間だぞ」
「考えりゃわかるさ。簡単な事だろ」
霜星は由の額を軽く小突き、その顔をじっと覗き込んだ。
「アンタはあたしを知ってるだろう?」
小さなアパートに帰っても、やっぱり霜星はくっついてきた。1DKの小ぶりなスペースを見渡して、彼女はクッションにどさりと腰を落とす。
「狭いなあ。この部屋。こんなんじゃつがいが出来てもろくに連れ込めないぞー」
「勝手な事ばかり言って。さっさと帰ってくれよ。君がいると落ち着かない」
由は鞄をテーブルの側に投げ出すと、ポットにお湯を組んでスイッチを入れる。特に料理をする気もない。夕飯は安売りの総菜とカップ麺だ。霜星はそれを覗き込んで鼻で笑うと、のこのこと冷蔵庫の前にやってくる。
「ちょっとくらい自分で料理作れよ……出来合いばかりじゃ体によくないぜ?」
霜星はそんな事を言いつつ、冷凍庫から小さな棒付きアイスを取り出す。包みを破くと、彼女は当たり前のように噛り付く。振り向いた由は眼を剥いた。
「おい、勝手に食うな! それ寝る前に食べようと思って取っといたんだぞ!」
「良いじゃねえか。アイスの一つや二つくらい。近くにコンビニだってあるだろ」
「そういう問題じゃない。もう帰れよ!」
由は霜星の肩を掴み、玄関までずかずかと追いやっていく。
「やーめーろー! 今日はもう満月じゃないんだぞ。外に放り出されたってあたしはモノノケ世界に帰れないんだって! 『道』が閉じてんだから!」
「じゃあその辺で野宿しろ」
由は冷たく言い放つ。食べ物の恨みはげに恐ろしい。霜星は口を尖らせた。
「年頃の娘を夜中に放り出すのかよ! どうなったって知らないぞ!」
「お前は誰にも見えないんだろ。何ともないじゃないか」
「ぐぬぬ……」
霜星は歯を剥く。眼をちらりと泳がせ逡巡していたが、やがて由の手を振り解いて目の前に両手両膝をつく。
「あたしだって向こうじゃちゃんと家持って飯食って暮らしてんだよ! それをいきなり野生の世界に放り出さないでくれよ! なあ頼むよ、別にあたしネズミ捕って暮らしてるわけじゃないんだからさー……ほらこの通り!」
平身低頭の霜星だが、由の眼は冷ややかだ。
「んなこと言われても……これから次の満月までずっと君の事を養えってことだろ?」
「頼むよぉ。あたしだって温かい飯が食いたいんだよー。……そうだ。一緒に寝てやってもいいんだぜ?」
急に霜星は笑みを浮かべ、そっと由へ迫る。ふてぶてしさの塊のような少女だが、目の覚めるような美人には違いない。キラキラと光る瞳を見つめて、思わず由は息を呑んだ。
「どうなんだよ。イイ話だと思わないか?」
「うむむ……」
由も年頃の若者。古くから国を傾けてきた女狐の誘惑には抗いきれなかった。
数時間後。由は布団の上で丸くなるキツネを押しのけようとしていた。
「やっぱりそういう事になるんだよなぁ。くそっ」
「言質は取ったからなぁ。それにキツネと寝られるなんて、こんないい事無いだろ。ついでにその辺のと違って汚くないぞ。良い匂いするだろ?」
キツネを端っこに押しやり、無理矢理由は布団に寝そべる。確かにシャンプーに似た良い匂いがする。キツネは口角を上げると、ふさふさした尻尾を由の顔に押し付けた。
「ほら、尻尾を触らせてやるよ」
「暑苦しいだけだって」
由は尻尾を押しのける。キツネはそんな由を横目にけらけら笑っていたが、不意に首をもたげて真剣そのものの顔になる。その変わり身ぶりに、思わず由も身を起こしてしまった。
「どうしたんだよ?」
「これから寝る時間だってのに。……寝る時間だから出るのか。仕方ねーなあ」
再び人の姿に変身した霜星は、網戸を開いて一気に下へと飛び降りた。どこかを目指して、彼女はバタバタと走っていく。由は首を傾げると、玄関から階段を降り、そのまま彼女を追いかけた。
角を二つ折れて、アパートの裏手へと回る。霜星はそこに立ち尽くしていた。その奥には、黒い靄に包まれ、虚ろな顔をした一人の男が立っている。その異様な姿に、思わず由は息を呑んだ。
「何だよ、これ……」
「着いて来たのかよ。面倒くさいなあ」
振り返った霜星は肩を竦める。
「こいつはモノノケに憑りつかれたんだ」
「モノノケに……?」
「そうだ。言っただろ。モノノケは人間には見えない。それでもそこにいるのは、モノノケを人間がどこかで覚えているからだ。……でも、それすらもなくなったら、世界からそのモノノケは消えるんだ」
「……消えたくない奴は、こうして憑りつく。そして無理矢理生き残ろうとすんだよ」