[6-26] ガラス玉
トレイシーは、箱の中から無音で滑り出る。
城の設備として存在する『魔術塔』は、宮廷魔術師の住まいを兼ねることも多い。
居住スペース、実験室、倉庫、書斎等々が詰まっている場所だ。
本城と『その魔術塔』を接続する地下通路に侵入した時点で、既に空気が違った。
産毛を逆立たせるような魔力が満ちて、薬液の香が微かに漂ってくる。
一見すると魔力灯照明が等間隔に埋め込まれただけの、何も無い地下通路だ。
だがトレイシーが、人形の目に搭載された術式を起動すると、空間が寸断された。
閃光のような感知帯が、蜘蛛の巣みたいに複雑に、通路に張られていたのだ。
――動体察知か。
これ自体に攻撃力は無い。
だが『通行証』を持たない者が勝手に通れば検知され、何らかの攻撃的な仕掛けが発動するはず。
まっすぐ通路を歩けば、魔術塔へ辿り着くまでに十度は死ぬだろう。
さらに、照明の一部に偽装するかのように、何らかの魔力の波動を照射するための発生器が据え付けられていた。
一目見ただけでは性質は分からないが、それが何なのか、取り付け方からトレイシーは察した。
――気配察知。生体魔力察知。この辺は、今は気にしなくていいや。
今、トレイシーが意識を乗せている人形の身体は、ゴーレムと変わらない。
気配や魔力で侵入者を検知するシステムは無視できるのだ。
感知帯だけを避けて、そっと一歩踏み出そうとした瞬間……
トレイシーは、勘としか言えない何かで仕掛けを察知した。
今まさに踏もうとしていた敷石に、風化の痕跡みたいな小さな傷があった。
目を凝らしてみれば、それは術式であった。
――感圧……
敷石が沈み込むような、よくあるタイプの物理的トラップスイッチではなく、踏んだこと自体が検知されてスイッチになる術式だ。
それが、隙間無く存在する。
――厳重すぎる。まるで宝物庫の前みたいな警戒体制だ。
仕掛けを一つ攻略されても、別の何かで侵入者を検知できるよう、十重二十重に準備されている。
侵入まではせめて気づかれずに、というつもりだったが、トレイシーは方針を切り替えた。
人形の身体の胸部にあるハッチ状の収納から、小指の先程のクリスタルを取り出し、前方に投じたのだ。
それは澄んだ音を立てて砕け、銀色の破片を周囲に撒き散らす。
同時に、通路に掲げられていた魔力灯照明が全て落ちた。
導力の流れを止め、周囲に設置された魔動力装置を停止させる道具だった。
仕掛けは止まった。
だがおそらく、『仕掛けが止まったこと』だけは、魔術塔の主に気づかれる。
この時間には本城上層で、王や重臣たちと会談しているはずだが……走って戻ってくるとして、猶予は5分か、10分か。
転移の魔法で即座にすっ飛んでくる可能性もあるが、それならそれでいい。『城内で転移魔法を使えるような特権的地位が、正体不明の宮廷魔術師に付与されている』という事実だけでも収穫だ。
トレイシーは、闇に沈む廊下をまっすぐ駆け抜けた。ここからは時間との勝負だ。
――目標は、敵が何者であるかの特定。能力、来歴、宮廷との関わり……
侵入に気づかれることは最初から想定内だ。
だから、使い捨てる前提で人形の身体を持ってきたのだ。
この一度のチャンスでどこまで情報を掴めるか……おそらく二度目のチャンスは無い。
地下通路の突き当たり、トレイシーはミスリルの封印扉を、蹴破るように押し開けた。
そこは魔術塔の地下の部屋。
円筒形の透明なシリンダーが、等間隔でずらりと並んでいた。
同じものは、トレイシーもエヴェリスのところで見たことがある。何か生体を収めるための容器らしいが……今のところ全て空だった。
これだけでは何のための設備なのかすら不明だが、部屋の隅に資料を積み上げた机があった。
研究データを記した、走り書きのメモが散乱している。
書き手の人となりも、ここで何をしているのかも、能力も、知ることができるだろう。
……と、思ってトレイシーは当然、そこを調べた。
見覚えのある筆跡だった。
まともな内蔵など存在しないはずの人形の身体なのに、トレイシーは背筋が凍り、心臓を針金で締め上げられているように錯覚した。
どれほどあり得ない事物だとしても、その目で見たものは真実である。
――嘘でしょ。じゃあ、ボクの用心なんか全部無意味じゃないか……!
反射的に踵を返そうとした瞬間、トレイシーの身体を、熱線が横切った。
「!!」
胸部と両腕を焼き切られ、輪切りにされた身体から、血飛沫の代わりに人形の内部を構成するパーツが散らばった。
どこからどうやって攻撃してきたのか、と考えている場合ではない。
人形だから大丈夫なんて言っている場合じゃない。
トレイシーは状況を放棄し、離脱する決断をした。
「……『解体』、『切断』……っ!」
人形の術式を起動する、命令文言を口にする。
「もう、遅い」
「!?」
トレイシーに答えるように、艶めいた女の声がした。
*
……城下。
会員制のサロンに偽装されて商業区に紛れている、『亡国』の諜報拠点。
儀式の間に設えられた魔方陣の中央で、トレイシーの本体は瞑想の態勢にあった。
トレイシーは飛ばしていた意識が戻り、跳ね起きるなり逃げようとしたが、それは叶わなかった。
「あぐっ!?」
トレイシーの手足は勝手にまっすぐ突っ張って、ヒトデのような体勢で倒れ込み、そのまま床に張り付いたかの如く動かなかった。
身体が勝手に動かされていた。
目の前で、魔方陣の中から何かが湧き出してくる。
闇が吹き上がって、やがて輪郭を持った。
それは、人だった。少なくとも人の形をしているものだった。
重く暗い色のフード付きローブで全身を覆った、何者かであった。
――一瞬で逆探知して……傀儡を操作する術式の『波』を通って、転移してきた……!? こんな曲芸ができるのか……!
何が起きたか、トレイシーは理解できてしまった。
そもそもトレイシーが尻に敷いていた魔方陣は、遠隔操作用の人形に意識を飛ばすためのもの。間違っても転移陣ではないのだが、それが無理やり転移の出口として使われた。自分で敷いた陣でもないのに、制御を奪取して。
常識で考えれば、あり得ないことだ。
だが、高笑いと共に常識を踏み躙り、不可能を可能にする術師が……
トレイシーが知る限り、この世には一人、存在する。
いや、一人だが一人ではなかったと言うべきなのか。
「知っての通り、君の身体には【隷従核】が埋め込まれている。抵抗は無意味だ……正確には、抵抗の意思があっても何もできなくなる。制御権限を持つ者に対しては」
その女は、全ての歓びと愉しみを彼方に置き忘れてきたかのように、酷く冷たく無機質な口調で、トレイシーに言った。
「どうして……ここに居るのさ……」
「おっと。まだ口が動くか」
彼女の一睨みで、トレイシーの口は硬くこわばり、結ばれた。
「ぐ……ぎっ!」
「たかが魔法と身体能力を封じただけでは……指一本、舌一枚でも動いたら、君は何をするか分からないからね」
まるでトレイシーの全てを知っているかのように。
聞き慣れた声で、聞き慣れぬ口調で、彼女は呟く。
ある意味で納得できる答え合わせだった。
彼女なら、自爆装置付きの超巨大ゴーレムを作りたがるに決まっている。
それを成す技術力もあるし、秘密裏に事を運ぶ周到さと狡猾さも持ち合わせている。
――どうしてここに居るのさ、魔女さん……




