[6-25] ボンドる
『警備が厳重である』というのは『出入り自由』と同義である。
「マカレント農場です。牛乳のお届けでーす」
「ご苦労。台所の場所は分かるな?」
「はい!」
ノアキュリオ王宮は、悪霊や呪詛の類いが入り込めないよう、結界を布いて魔術的に防御してあった。
その一方で、対人の警備は極めて属人的な仕事となっていた。
これはノアキュリオ王国が愚かであることを意味しない。ただの『普通』だ。
夜が明け始めた頃。
高貴な人々は未だに眠りを貪っている時分だが、その生活を支える使用人や配達人たちは、とうに働き出している。
トレイシーはまず、牛乳配達の少年に変装した。
牛乳を入れた真鍮の大瓶(ジレシュハタール製)を小さめの荷車に積んで、それを引いて城門の夜間通用口をくぐった。
そして敷地内に侵入したトレイシーは、厨房方面に進んだが、牛乳を届けることはしなかった。
生け垣の庭園に台車を隠すと、上着を脱ぎ捨て、畳んで載せてあった布を広げて被る。それは地味な黒基調の作業用ドレスと、その上に着けるエプロンだった。
ほんの数秒で下級メイドの姿になったトレイシーは、おろおろと落ち着かない足取りで、庭園にまろびでる。
当然ながら、その怪しい振る舞いは、見張りの衛兵に見咎められた。
「貴様、陛下の庭で何をしている!」
「わああ、ごめんなさいごめんなさい! 道に迷ってしまいまして……」
「道だと?」
「お、一昨日から入った、台所の下働きなんです。卵を頂きに……鶏小屋ってどちらでしょう」
「チッ。向こうだ」
衛兵は舌打ちして、庭園の出口を指差す。
その瞬間、彼の視線は必然的に、トレイシーから外れた。
「ちょっと失礼」
「ぐっ!?」
トレイシーが背後から、指の関節で衛兵のうなじを突くと、彼は気絶して崩れ落ちた。
脱力したその身体をトレイシーは、低い塀の陰に引きずっていって、縛り上げて拘束し、さらに目が覚めても声が出せないよう猿ぐつわを噛ませておいて、装備を奪った。
立派な白銀の鎧兜に槍だ。少し背が低い衛兵の体格に合わせた甲冑は、トレイシーでも誤魔化して着ることができた。
衛兵姿になったトレイシーが、酷い目に遭わせた衛兵の代わりに所定の位置に立っていると、間もなく『時告げ』の鐘が鳴って、別の衛兵が高々と足を上げる歩みでこちらへやってきた。
「おはようございます! 異常なし!」
トレイシーは交代要員に向かって、怒鳴るような挨拶をした。
声は、先程装備を奪った衛兵の声音を、完全に模倣していた。
まだ薄暗い時間。口元以外隠す兜のせいで、人相も分からぬ。
相手は何も疑わず、怒鳴るように挨拶を返した。
「おはようございます! 異常なし、よーし!」
「交替、よろし!」
「交替、よーし!」
トレイシーは『勤務時間が終わった見張りの衛兵』として、堂々と足を上げて歩き出した。
仕事を上がったなら本来そのまま城下へ帰っていくところだが、本城の方向へトレイシーは向かった。
交替の時間には、城内全体で衛兵の動きが交錯する。そのせいで、特に怪しまれることもなかった。
ノアキュリオ王城のシステムは、そこまで厳密に衛兵を認識・管理しているわけではないのだ。
トレイシーが向かった先は、本城側面の、比較的小さな通用口だ。
もちろんそこも衛兵が見張っているのだが……
「おはようございます!」
「おはようございます!」
何も異常など無いかのように挨拶が交わされ、トレイシーは素通りした。
この時間帯、この場所に立つ衛兵は、シエル=テイラ亡国の隠密であった。すでにトレイシーの動きは打ち合わせ済みだ。
城内の地図はもちろん頭に入れている。
色も模様も鮮やかな絨毯の敷かれた廊下を。
名画が飾られた美術館風の通路を。
ドワーフの名工が30人掛かりで作ったというシャンデリアの広間を、トレイシーは見えない糸に引かれるように迷わず抜けていく。
必死で朝の掃除をするメイドたちは、邪魔そうにこちらを見やる者こそあれど、怪しむ様子無し。所定の時間までに仕事を終わらせなければならないのだから、構っている暇などないのだ。
そしてトレイシーは、使われていない客間に入り込む。
メイドが独り、家具に掛けられた布の上から、埃を払っていた。
「そちらの荷箱をご利用ください」
「うん、ご苦労」
このメイドも味方だった。
掃除を続ける彼女に構わず、トレイシーも自分の仕事をする。
まず、服を脱いだ。
衛兵から奪った甲冑と鎖帷子を脱ぎ、シャツとズボン、下着まで脱ぐ。
全裸になったトレイシーの身体は、まるで人形のような奇妙な造形だった。
服で隠されていた手足の関節には継ぎ目ができていて、胴部も粘土人形のようにどこか不自然に凹凸が少ない。
ここに居るのは本物のトレイシーではなかった。
ノアキュリオ王城に忍び込んだこの身体は、本物のトレイシーが意識を乗せて、城下の隠れ家から遠隔操縦する傀儡であった。一種のゴーレムだ。
ノアキュリオ王城の中枢という最も危険な場所に自ら忍び込み、無事に還るため、トレイシーが用意してきた策だった。
しかし、ゴーレムが密かに城内へ持ち込まれたりしたら、おそらく気づかれる。
魔法による陰謀を検知・防御するための仕掛けが、城には張り巡らされているからだ。特に問題となるのは、城壁(城門)越えと、城内への持ち込みだ。
だが。
人にそっくりのゴーレムが人として堂々と侵入するならば、この通り、気づかれない。これは警備体制の盲点だった。
人形の身体に乗り移ったトレイシーは、人では不可能な角度に関節を折り畳んで、小さな荷箱の中に自ら収まる。
子どもですら隠れるのは厳しそうな、乳児やバラバラ死体でなければ収まらないようなサイズの、箱の中に。
「では、お運び致します」
メイドは静かに言って、蓋を閉めた。
抱えられ、運ばれて行き着いた先は、本城中心部の地下。
まるで金庫室の入り口みたいな、堅牢な扉の前だった。
……魔術師塔へと通じる、地下通路だ。
メイドは荷箱(in トレイシー)をその場に放置して、誰かに見つかる前に去って行く。
代わって、間もなく現れたのは、本来この扉を見張っているべき衛兵だ。
目立たない場所で勤務しているせいで、こいつらはたるんでいる。大抵、交替時間に遅れてやってくるのだと、既に調べは付いていた。まあ、居たら居たでどうとでも誤魔化せるが……
かったるそうに出勤してきた衛兵たちは、荷箱を見つけて首を傾げる。
「あ? なんだこりゃ」
「まぁた魔術師様の研究資料だろう」
箱の中のトレイシーは、そこで敢えて、身じろぎひとつ。
ゴトッ、と箱が鳴って。
「「ひっ!?」」
二人組の衛兵は飛び上がった。
「う、動いた……」
「生き物かよ!」
「早く中に入れるぞ」
「……こないだみたいに毒を噴いて、運んだやつが倒れるなんて事は……」
「息止めろ。一気にやる」
衛兵たちは重厚な扉に鍵を差し込み、地下通路への道を開く。
そして(嫌そう&恐ろしげな表情で顔を背けながら)荷箱を掴むと、扉の奥に押し込んで、叩き付けるように扉を閉めた。
「はあ……生きてて良かった」
「気ぃ抜いてサボれるのはいいけどよ。不気味な仕事だぜ。これなら庭で突っ立ってる方が楽まである」
「しっ。魔術師様に文句を聞かれたら、どうなるか分かんねえぞ。俺らの前の前に、ここで立ってた奴はな…………」
衛兵どもは、何かを憚るように声を低めて囁き合っていた。
鍵を閉めなおした扉の向こうで、荷箱が音も無く内側から押し開けられたことなど、当然彼らは気づかなかった。




