[6-17] テーブルマナーはチャーミング
……“黄昏の竜王”は、人に与さぬ。
人の事情を汲んで、群れの決定や行動を変えるということをしない。
半ばは傲慢ゆえに、半ばは群れの戦略として。
ことに、特定の国や勢力に肩入れすることは禁忌としていた。
理由はドラゴンの後ろ盾など得てしまった勢力は、強くなりすぎるからだ。
放っておけば人は人同士で争い続け、その狭間にドラゴンたちが巣くうだろう。
しかし、圧倒的に強大な国が生まれてしまえば、ドラゴンの群れとも戦いうる。ドラゴンの群れから縄張りを奪う動機も生まれるし、採算を取る目処が立てば営利的なドラゴン狩りすら行われるだろう。
そんな情勢を作らぬ為、どれほど宝物を積み上げられても、“黄昏”の群れが人の傭兵になることはない。
しかし。
人の世にも『君子は豹変す』の言葉在り。
“黄昏の竜王”も、群れのドラゴンたちも、頭の中に化石を詰めた愚者ではなかった。
* * *
エルシウス砦の戦いより、半月ほど前のこと……
ノアキュリオ王城内の魔術塔(※主に儀式魔法や魔法研究に用いられる建物)にて、それは行われていた。
内側に向けて対魔法装甲を張り巡らせた部屋だった。
五芒星魔方陣の各頂点に宮廷魔術師が立って、精神を統一し、魔力を制御する。その陣の中央に置かれているのは……手のひらに収まるほどの、真っ赤な宝珠だ。炎そのものの如くに真っ赤な宝珠が、チカリチカリと光を瞬かせていた。
「偉大なるものよ、我が声に応えたまえ。
古き盟約の元、我は喚ぶ。我は喚ぶ……」
魔方陣の一歩外側から、輝く宝珠に向かって歌うように呼びかけるのは、王師軍の長・ジヨルエだった。
ジヨルエは王の信頼も厚い立場。と言うか諸侯は各々に手前勝手だし、財力や武力の面で王家を侮る者もある。本当に慎重な仕事を任せられる者は少ないのだ。
明滅するばかりの宝珠に向かって、ジヨルエは語りかける。幾度も幾度も。
本当にこんなことに意味があるのかと、ジヨルエ自身が疑問に思い始めた頃、それは起こった。
炎が爆ぜた。
「うわあ!?」
まるで深紅の宝珠が爆発したかのように、そこから炎が噴き出して、魔方陣の内側いっぱいに広がり、吹き荒れた。
この魔方陣は、宝珠に対する魔力の供給路であると共に、内側に向けた防壁でもある。故に周囲の者たちは炎から守られたが、万一があり得るのではないかと恐怖して仰け反るほどの業火だった。
やがて火勢が収まったとき、魔方陣の中には、燃える人が立っていた。
いや、薪も無いのに燃え続ける炎が、人のような形をしているのだ。
長い髭を生やし、筋骨隆々たる肉体を簡素な布で覆った、厳めしい老爺がそこに居た。
『何を呆けておる、人間。儂を喚んだであろうが』
炎の老爺は周囲を睨め回し、遠雷の如き声で言った。
それだけで人間どもはすくみ上がった。気の弱い者なら心臓が止まっていたかも知れない。幸い、そんな小心者はこの場に居なかったが。
ドラゴンは、人に化けるという。古今東西の伝説に聞く話だ。
宝珠から生み出された炎の人影は、自己紹介すらしなかったが、周囲の誰も疑わなかった。彼こそが“黄昏の竜王”。その化身だと。
「“黄昏の竜王”陛下におかれしましては、ご機嫌麗しゅう……
あなた様のご威光に、謹んで敬意を捧げます」
ジヨルエがへりくだって恭しく挨拶をしたものの、“黄昏の竜王”は歯牙にも掛けず。
安置された小さな宝珠を見て、どこか皮肉げに片眉を吊り上げていた。
『人とは可笑しなものよな。ほんの50年前の契約を『忘れた』と言って反故にする傍らで、こんな些細な品を300年も遺しておるか。
しかも……斯様な些事を、『盟約』と申すか。言葉の重さを知らぬと見える』
ジヨルエは腹の中を掻き回されているような、落ち着かない緊張を覚えていた。
300年前、現王の祖先の一人が“黄昏の竜王”と見え、人と竜それぞれの住処について交渉し、何らかの約束を取り付けたという。拘束力の無い、理念的な、不干渉の誓いだ。
もっとも、その後の時代において約束が守られていたかと問えば、人竜のどちらを見ても、首を傾げることになるが……
ともあれ、その際に“黄昏の竜王”から人間の側に渡されたというのが、この深紅の宝珠だった。どうしても必要なときには、この宝珠を通じて“黄昏の竜王”と話ができる、と。
結局、過去に使われたことはなく、言い伝えのみが遺る骨董品だった。だがノアキュリオは、今、その言い伝えにすら縋るしかなかった。そして、埃の積もった倉庫の隅から、これを引っ張り出してきたのだった。
こんなもので本当に“黄昏の竜王”を喚び出せるのか、賭けではあった。
そして、どうやら喚び出すことには成功したようだが、一件落着ではない。ジヨルエの仕事はここからだ。
『次第に依れば、儂自らが、貴様らの思い上がりを戒めねばなるまい。
そう考えて出向いたまでよ』
「!!」
『だが……実のある取引なら、応じぬでもない』
やはり、こんな骨董品で彼を呼びつけるのは無礼に思われたようだ。
宝珠から噴き出す炎で構成された老勇士は、眼光だけで刺し殺せそうなほど鋭く、値踏みの目線を投げかけていた。
戦慣れしているはずのジヨルエさえ、震えながら腰砕けになって跪いてしまいそうだったが、それでも彼は己の背骨を支えて、言葉を返した。
「あなた様のお言葉を……ええ、シエル=テイラ亡国を震撼させた勇猛なる咆吼を、我らも聞き及びましてございます。
まこと、ごもっともで、我らも深く共鳴するところであり……」
『貴様らの薄べらな繰り言など聞きとうない。
なんぞ願いがあるなら、獣が吠えるように乞え。それが貴様らに相応しかろ』
ジヨルエは閉口する。
手ひどく見下され、侮辱されているのは確実だったが、力関係からすれば仕方の無いことではあった。
それに感情的に反発しても、何も得られはしない。
一瞬でジヨルエは、腹を括った。
そうすべき戦局だと彼は判断した。交渉事もまた、戦と同じで、有利不利の風を読んで切り込むことこそ肝要だと彼は考えていた。
「“怨獄の薔薇姫”、並びにシエル=テイラ亡国打倒のため!
我らノアキュリオ王国と、あなた様の群れ……共闘致しませぬか!」
それこそが、主題だった。
“怨獄の薔薇姫”、そしてシエル=テイラ亡国は、ノアキュリオ王国と“黄昏の竜王”にとって共通の敵……であるはずだ。
緒戦で主力軍が大損害を被ったノアキュリオ王国は、“黄昏の竜王”との同盟に活路を見いだした。
ドラゴンと共闘できたなら心強い。千万の軍にも値するような援軍だ。
とは言え、前例は無い。至難か、無理難題か。
竜の化身は、失笑する。
『やはり言葉の使い方を知らぬようだ。
共闘だと? 『助けてくれ』というのが本音であろう』
「亡国は既に、あなた様の群れの一員を討っております!
我らだけの脅威ではありませんでしょう!」
ジヨルエは敵対的に聞こえぬよう配慮しつつも、退かずに言い返した。
明らかに乞う側の立場であったとしても、毅然としていなければ、骨までしゃぶり尽くされるのが交渉事の世界だ。
それに、共闘が成立すれば互いに利益をもたらすだろうとも確信していた。ならば後は利害調整の問題だろうとも思っていた。
だが、“黄昏の竜王”は、ジヨルエが思いもしなかったことを言った。
『確かに共闘は、双方の利益となろう。
だが。
儂の助勢を得て、貴様らが“怨獄の薔薇姫”を討てば、やがてノアキュリオの王は世界の王となる。
儂は、それを認めぬ』
「そ、そのような大それた……いくらなんでも、あり得ますまい」
『……ふん』
妙に確信的に“黄昏の竜王”は言い切ったが、ジヨルエは戸惑うばかりだ。
此度の戦いは侵略を退けるだけ。仮にシエル=テイラ亡国を攻め滅ぼして、グラセルムの鉱脈を奪い取れたとしたら莫大な利益を生むだろうが、その程度で世界の王にはなれるまい。
一歩退いて考えてみれば、列強は他に四カ国あり、世界情勢の危うい均衡を創り出している。その中でノアキュリオが抜け駆けすることなど、できるだろうか。
……ジヨルエはそう考えたし、今の人族世界でジヨルエの考えは、真っ当な国際情勢感だと言われるだろう。とは言え、それを人とは常識が違うものに懇々と説いたところで、通じはしないだろうともジヨルエは思った。
「仮にそれが真だとして、我が国の窮地を救ったドラゴンたちの恩に、どうして仇を返せましょうか」
『貴様ら人間の言う、恩や仇が、どれほど軽く無意味無価値なものか、儂はよう知っておる。
故に、要は今よ。
そうさな……共闘の代価に、この城の宝物庫の中身を全て寄越せ。今現在、中にあるもの全てだ。選別は許さぬ』
「は……い!?」
事もなげに冗談みたいな要求をされ、ジヨルエは耳を疑った。
だが聞き間違いではなさそうだった。そして、“黄昏の竜王”は、冗談を言っている様子ではなかった。
「そ、それではあまりにも!
宝物庫には国家の象徴たる奇跡の至宝も、他国の王や諸侯からの預かり物も、あり……
な、何より、莫大な財貨が突然失われれば、我が国は大混乱に陥りまする!」
『そのためぞ。
シエル=テイラ亡国を打ち倒した者は、強大な力を手にするであろう。そのために、ノアキュリオが世界の覇者となるようでは、いかぬ。儂が許さぬ。
故に、この場で力を殺いでおく』
あるいは、交渉事らしく豪快に吹っ掛けているのかとも、ジヨルエは疑った。
だが、そんな調子とも思えない。
この馬鹿馬鹿しく法外に聞こえる要求を、“黄昏の竜王”は全くの正当なものとして主張しているのだ。
「いくらなんでも……私には決められませぬ。それに、陛下に諮ったとて、諾とおっしゃるはずもなし」
『貴様らは国が滅ぶと思うたからこそ、儂に呼びかけたのではないか?
国と宝と、どちらが大事か。燃え落ちる城から、己だけは生き延びて宝を持ち逃げできるとでも?
それほどに愚かであるならば、儂は最早、言葉を持たぬ』
ジヨルエは言葉に詰まり、進退窮する。
『陛下や諸侯と会議をする時間が欲しい』などと言える雰囲気ではなかった。
『決断せよ。
是か、否か』
実際、ジヨルエは、もし“黄昏の竜王”と交渉に持ち込めたら全権を委任すると申しつけられている。
とは言え、だからこそ下手なことはできない。ジヨルエは私欲ではなく、王家と国家を想う忠臣だった。
差し迫った軍事的脅威……本当に国が滅ぶ危険は、どの程度か。
一方で『傭兵』への法外な『報酬』……その結果としてもたらされる混乱はいかほどで、対処可能か。
だいたい本来であれば交渉事というのは、何段階にも(場合によっては何十段階にも)分けて、相手と周囲の反応を窺いながら、堀を徐々に埋めて城攻めをするかのように慎重に進めていくものだ。損得勘定をする時間だって十分にある。
出会ったその場で決断しろだなんて、野蛮人の商談だとジヨルエは思う。こんなもの、普通ならテーブルを蹴って席を立っても許される状況だろう。だがここに交渉のテーブルなどなく、相手は人外の怪物だった。
ジヨルエは頭を絞るように考えて、そして言葉を絞り出した。
「打倒亡国、成った暁には、感謝と共に喜んで全てを差し出しましょう。
ですが、ですが、支払いは亡国に勝利した時です。かの魔城を陥落せしめた折には、必ずや。
御身のご懸念にも添う契約となりましょう」
『よかろう。
なれば至急、契約を枝葉の末まで固めよ。こちらも交渉用の奴隷を遣わす』
「ははっ!
寛大なるご判断に感謝を申し上げます!」
報酬だけ持ち逃げされたらたまったものではない。
ジヨルエは踏みとどまり、最後の一線だけは守った。
本当にこれで大丈夫なのかという不安と、ひとまずの承認を得られたという安堵が、渦を巻いてジヨルエの中で暴れていた。
勝手にこんな大事が決まったとあれば諸侯の反発は必至だし、王宮も対応に追われることになるだろう。だが、ドラゴンを味方に付けて戦に勝利すれば、全てを埋め合わせて余りある。そう信じたかった。
『……ああ、それと』
ついでのように付け足して、“黄昏の竜王”が言う。
その瞬間、部屋の隅に隠し置かれていた計器が相次いで破損、騒々しい音を立てて全て弾け飛んだ。
「ぎゃああああ!」
同時に、魔方陣を構成していた宮廷魔術師の一人が、炎上した。
竜の化身が炎の拳を握ると、まるでその手が締め上げているかのように、彼は燃えながら潰れて火柱の中に消えた。
人間どもは、唖然。
見る間に炎は収まって、跡には骨灰どころか、僅かな塵しか残らなかった。
『この宝珠が駆動する様を調べておったな。
儂が気づかぬと思うてか』
冷たい炎で心臓を焼かれたかのように感じて、ジヨルエは息を詰まらせた。
別に、済まないとも危ないとも思わぬまま、計器を置いて室内と宝珠の状態を観測していたのだ。
それを気づかれた。
しかも、その制裁として一人殺された。余りに容易く。
そもそも、この深紅の宝珠は、遠見の水晶のような『通信器』と目されていた。それがまさか、人を殺しうるほどの竜の力を顕現させるなど、誰一人予想しなかったのだ。まして、安全装置的な魔方陣の中に設置されていたのに、竜の炎はその外側に至った。
奇妙な遺物の分析を誤っていたと言うより、こんな些細なアイテムすら媒介として暴威を振るった“黄昏の竜王”が規格外だったと言うべきだろう。
『これは警告だ。
次に、儂の顎の裏を嗅ぎ回るような真似をすれば、一人では済まさぬ。
この城の誰一人、我が炎より逃れられぬと知れ』
怒りは見えなかった。
蚊が腕に止まって血を吸っていたら、人間だってそれを叩いて殺すだろう。“黄昏の竜王”には、その程度の僅かな苛立ちと不快感しか見られなかった。
格が違いすぎて、本気で怒りを表すことなど思いもよらない。そしてそれでさえ、人を一人殺すには十分な理由なのだ。
「もっ……申し訳ありませぬ!」
ジヨルエはもう必死で、交渉の機微など頭から飛んで、恐怖のままに平伏していた。
幸いにも“黄昏の竜王”は、これで気が済んだようで、ネチネチと追及する気は無さそうだった。
魔方陣の中に満ちていた炎は、吹き消されたように唐突に散って、竜の化身は立ち去った。




