[6-13] 旧きものについて
屍の竜は、闇空を駆ける。
吊り下げられた飛行籠を地上から見咎める者も無い。居たとしても容易く手出しはできぬだろうが。
一戦交えた後の話は、トントン拍子だった。
“深淵の女公爵”はシエル=テイラ亡国への支援を約束した。望み通りの成果を得て、ルネは帰路についた。
その途上、ルネは“深淵の女公爵”との戦いの最中に見たもの、感じたことを、じっと反芻していた。
「難しい顔だね、姫様」
乗り物酔いもなんのそので、何かの設計図のラフスケッチをしていたエヴェリスが、いつの間にやら顔を上げてルネの方を見ていた。
「エヴェリス。あれは、何なの?」
質問の意図が掴めぬ様子で、エヴェリスは少しだけ首を傾げた。
確かに“深淵の女公爵”は人智を超えた怪物ではあったが、ルネが言っているのはそんな表面的な部分ではない。
「最初、“深淵の女公爵”を見たとき、わたしは全く感情を読み取れなかった。
それは異界を操る力で、わたしの力を遮断していたから……だったけれど……隠れ家に乱入して、相対しても、彼女からまともな感情は読み取れなかった。
何も無かった。
膨大な情報を処理しているから、わたしたちの尺度で観察すると、感情や意思が存在しているように見える、だけ……
まるで大神や邪神と同じだった」
ルネは幾度も繰り返して記憶をなぞり、自分が感じたものを確かめた。
“深淵の女公爵”の、異質な精神構造を。
笑っていても愉快なわけではない。攻撃しても防御しても、それに伴うものが何も無い。侮りも称賛さえも見た目と中身が一致しない。
しかして、空虚な作り物というわけではない。裏側に存在するのは、読み取りきれないほどに圧倒的な量の、情報の奔流。その在り方は、かつてルネが視た、神々にも似ていた。
では、“深淵の女公爵”とは何なのか。
神のように駆動する彼女は、何を求めているのか。
「まつろわぬ大物。アンデッドの親玉。
眠りについていた旧き勢力が、新たな希望を見いだして力を貸す。
……そういう話は確かに、分かりやすいけれど……」
表面上、“深淵の女公爵”は無礼にもルネを一方的に試して、納得するだけのものを見せられ、感服して力を貸した……という体だ。
それを額面通りに受け取って良いのか、ルネは疑問だった。
あんな『わけのわからないもの』が、そんな十人並みの振る舞いをするだろうか? ……と。
「私だって全部を知ってるわけじゃないよ」
エヴェリスは腕を組んで、これ見よがしに豊満な胸部を持ち上げ、唸る。
「確かに彼女には謎が多いわ。どこから生まれた何者なのか、どういった存在なのかさえも、誰も知らない。
この世の始まり……『中庸の者』が己を裂いて、全てを創り出した時に生まれたモノの一つ、だなんて話も聞いた。
与太話よ? 魔王軍のどんな年寄りも彼女の誕生を知らなかったもんだから、そんな噂が立っただけで、特に根拠は無いんだけどさ」
エヴェリスはかつて、“深淵の女公爵”と同じ陣営で、味方として戦った。
とは言え、当時の魔王軍は大陸を埋め尽くしたほどのとんでもない大所帯だという。同じ陣営だったと言えど、親しい付き合いだったとは限らず、エヴェリスと“深淵の女公爵”も、お互いを認識していた程度の知り合いらしい。
だから彼女の秘密など知らない、というのは、理解できる。
「少なくとも彼女は、一度同盟した味方に対しては、誠実な振る舞いをする。
今はそれで十分でしょう。今は」
「……そうね」
ルネは、受け流すような返答をした。
エヴェリスが言っていることそのものは、まあ頷ける。
“深淵の女公爵”の秘密を深掘りしたところで、何かが得られるわけではないのだから、ひとまずは目の前のことの集中すべきだろう。
しかして。
戦友として長い時間を共に過ごしているルネだからこそ、エヴェリスの態度に違和感を覚えたのかも知れない。
――嘘や誤魔化しでは、なさそう、だけど……何か、おかしい?
まるでエヴェリスは、“深淵の女公爵”に関して考えることを避けているかのようでもあり。諦めが良すぎるようでもあり。
エヴェリスらしい好奇心が、“深淵の女公爵”に対しては発揮されていない。未知に対して心を沸き立たせる、彼女らしい反応が見えない。
事情を探り、存在の根源を知り、その知識から変な物を発明する……というのが、いつものパターンだ。それが気配すら感じられない。
考えないための言い訳に安直に飛びついた、ようにも見えた。何かを隠しているのだろうか、と疑いたくなるほどに。
疑う?
エヴェリスを?
――『ねえ、姫様。ボクたちはちょっと魔女さんに依存しすぎじゃないかな』――
数ヶ月前、トレイシーが何かの折に、ルネにそう言った。何故だかルネは急に、彼の言葉を思い出した。
――『新王都も、ボクやミアランゼの身体のこともそうだけど……魔女さんはこの国の要と言える部分の、命綱を握りすぎてる。自然とそうなるしかなかった、わけだけどさ……魔女さんの気分一つでこの国は壊せるんだ』――
昼夜を問わぬ激務の合間の、ちょっとした息抜きの時間だった。
上層庭園の東屋でルネは新作の毒草茶を飲んでいて、トレイシーも相伴に預かっていた。耐毒の訓練を積んでいるというトレイシーは、美味なる毒草茶を解毒剤と交互に飲むことで平然と飲み干していた。真似をすれば普通は死ぬ。
花壇の真ん中ではミアランゼが丸くなって光合成をしていて、庭園立入禁止に処された馬鹿犬の悲壮な鳴き声が下層から立ち上っていた。
確か、防諜の体制と新施策について、雑談的に説明を受けていた中で、トレイシーがぽろっと言ったのだ。
――『いや、ボクだって魔女さんを疑ってるわけじゃない。むしろ彼女は不気味なくらいに忠実で、今を楽しんでる。でも……だとしても筋論として、構図が良くない。それを克服していかないと、だよ』――
ルネは他者の感情を読む力がある。
だからこそ今までも戦いの中で、信じた者に裏切られたり、不必要に味方を疑うことは無かった。
だが、もし、自分が感情察知の能力を持っていなかったら、エヴェリスのことはまず疑っていただろうとルネは思う。トレイシーが危惧を抱いたのもよく分かる。
エヴェリスの存在はルネにとって、あまりにも都合が良すぎた。
技術、知識、人脈(魔物脈?)、経験……ルネが必要としていたあらゆるものを、エヴェリスは提供した。ルネの戦いはかなりの割合で、エヴェリスのお膳立てによるものだ。と言うかエヴェリスの助力でどうにかやっていける道を選んで、ルネは進んできたとも言える。
それほどの貢献をしながら、引き換えに彼女が要求したものと言えば、研究予算に、助手兼実験用の美少年たちくらい。
確かにエヴェリスは勢力のトップに立つような柄ではない。
ルネには、その目的性と、己を正当化する物語性がある。
二人が組むのは、互いを補い合う取引ではあった。あったのだが。
こんな一方的な取引の裏に、欺瞞や騙しが無いのだとしたら、それはそれで歪んでいる。ルネは今更ながらに、自分たちの関係性に思いを馳せた。
――今、“深淵の女公爵”を視ておいて良かった。何かとんでもない厄ネタが、彼女の足下には埋まってる。だけどエヴェリスは……それが気にならないの?
杞憂だろうか。あるいは……?
魔女は切れ切れに鼻歌など歌いながら、何かの図面の草稿を書き付けていた。
もし、エヴェリスが“深淵の女公爵”から目を逸らす理由があるのだとしたら。
エヴェリスが、自身の考えを不自然だとも思わぬままに、この世の謎を看過する理由があるのだとしたら。
その齟齬は。
この陽気な魔女の歪みとは、何だろうか?




