[6-11] つけ麺
ディレッタ神聖王国の建国と、“深淵の女公爵”の関係について、知る者は多いが、語る者は少ない。
そも、神の剣たるディレッタ神聖王国の領内に、何故、おぞましく邪悪なアンデッドの首魁が居を構えているのか?
答えは簡単で、因果が逆だ。
“深淵の女公爵”が居る場所に、ディレッタ神聖王国が出来たのだ。
“深淵の女公爵”は、500年前の大戦でも血族を率いて魔王軍に協力した。
やがて人族は魔王軍を押し返したわけだが……人魔がせめぎ合う戦線の遥か後方に取り残され、人の領域の中に孤立しても、“深淵の女公爵”と、血族たる吸血鬼たちは抵抗をやめなかった。と言うか、人族は彼女を滅ぼすことができなかった。
人族は、“深淵の女公爵”を見張り、封じ込め、戦い、滅ぼすための砦を築いた。勇士が集い、次代を育て、神の威光をいかにして地上の武力とするか果て無き研究がされた。
やがて、それは、神の懐に抱かれた国となった。
だが。
ディレッタ神聖王国がどれほど強大になろうとも。
列強五大国の最長老として人族世界を導く地位になろうとも。
未だ、“深淵の女公爵”を討つには至っていない。
ある意味では神聖王国の敗北……“深淵の女公爵”が存在し続けていること自体が、ディレッタ神聖王国の恥なのだ。
もちろんディレッタも無能ではなく、夜闇に暗躍する吸血鬼たちと死闘を繰り広げ、民を守り続けている。
しかし、いざ“深淵の女公爵”を討とうとすると(この戦いは大抵、内政の失敗から国民の目を逸らすために企画される)、手ひどいしっぺ返しを食らう。想定された最悪の結果の、さらに斜め下を行く大敗を喫する。
その負け方すら一様ではなく、あるときは厳重な警戒と何重もの結界を叩き潰した夜襲で討伐軍を蹂躙し、あるときは軍の主立った者たちが誘惑されて同士討ちで果て、あるときは未知の疫病が突如発生して戦いどころではなくなり……まるで神の僕たちを嘲笑うかのように、“深淵の女公爵”は神聖王国を手玉に取ってきた。
戦況は常に一進一退だった。奇妙なほどに。戦いが永遠に続くよう、何者かが操っているかの如くに……
「遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました」
そこは、木々という木々が枝葉の先まで腐れ、だが朽ちずに立ち並んでいるという、禍々しく奇妙な森だった。
鬱蒼とした森は昼でも暗いだろう。
まして、月の無い夜となれば尚更だった。
辛うじて木々が身を避けて存在しているかのような、森の中の小さな広場。
四頭立てのワイバーン・ゾンビが運んできた飛行籠からルネが降りると、ヘッドドレスからエプロンまで漆黒の侍女たちが、ずらりと並んで出迎えた。
一様に肌は蒼白で、闇の中で光る赤い目をしている。
“深淵の女公爵”に仕える吸血鬼たちだ。
貴人に仕える侍女が、自身も高貴な身分というのはままあることだが、出迎えのヴァンパイア・メイドたちも、力ある闇の眷属だとルネは察知した。
仮に相手が『滅月会』だったとしても、並みの隊士ならあしらえるやも知れぬ。
なるほど、ディレッタ神聖王国を相手に戦い続けられるのも道理だ。
「公爵様がお待ちです。
どうぞ、いらしてください」
侍女たちは古びたアンティーク風のランプを掲げ、ルネたちを先導する。
ルネの供は、エヴェリスとミアランゼだけだった。神聖王国の領土(領空)へ飛び込んでいく隠密行動ゆえ、大所帯では来れないから……という理由もあるが、それだけではなく吸血鬼たちを刺激せぬように、との配慮でもあった。
陰鬱とした森がいつ果てるともなく続いているように思えたが、少し歩いただけで、森の中に石造りの古城が現れた。
蛍の群れたような明かりが各所に掲げられ、窓の向こうに、城壁の落とす影に、闇という闇になにかが蠢いている気配が感じられた。
意外にも手入れは行き届いていて、古さ以外に不潔な点は無かった。真祖の住処たれば、荒れ果てた不気味な古城の方が似つかわしいかとも思ったのだが……
ちょっと考えてみれば当然だ。わざわざ掃除をサボる理由は無い。まして掃除をするのが使用人ならば。
奴隷たる下等吸血鬼ぐらい、いくらでも用立てられるだろう。
闇を払うことなど最初から考えていない光量の、朧な照明に照らされた城内は、アンティークの家具と調度品が時々思い出したように置かれている中、鮮血色の立派な絨毯が道を作っていた。
その道に立ち塞がるかのように、ルネを出迎える者あり。
「よくぞ参りましたね。
私と同じ、旧き魔女よ。そして、新たなる死を担う者よ」
闇に溶けるような黒のドレスを着た老婆であった。それが喪服に見えたのは、黒のヴェールで顔を覆っているためか。
外見年齢とは裏腹に、しゃんと背筋が伸びてキビキビした所作で、彼女はルネに歩み寄る。
だが、ルネはそんな無意味なものを見ていなかった。
――空白だ。
こうして向き合うだけで重圧を感じた。
だと言うのに、彼女の心に何も見えない。操り人形のような……いや、それも少し違うか。
この光景が一枚の絵なら、彼女だけをべったりと白い絵の具で塗りつぶして、辛うじて人型と分かるシルエットにしたかのような、奇妙な『隠蔽』。
そして、同時にルネは、自分の内側に響いてくるような何者かの殺気を感じ取った。
魔力を練り研ぐ、余波。戦いの気配だ。それが、まるで頭蓋骨の裏側を引っ掻くかのように響く。ルネのものではない殺気が、ルネの内側から響く。
「私こそが“深淵の女公爵”。
ですが、そんな仰々しい呼び名ではなく、どうか、エリザとお呼びになって」
皺深く厳めしい顔を少し緩め、優しげな雰囲気をかもして、彼女はルネに手を差し出した。
その手を取って握手することも、ルネにはできた。
だが、そうしてはならないと、思った。
……丸見えのトラバサミ罠にまっすぐ腕を突っ込んで挟まれるのは、バカのすることだろう。たとえ、トラバサミが握手を求めて来たとしても。
ルネは自分の手を見て、二、三度、握り治した。
すると、その爪が急激に伸びた。赤一色で、蛇腹状の籠手のような付け爪となった。
「あら、猛々しいこと。
爪のお手入れの仕方を教えましょうか?」
「剣を抜かなかっただけお行儀が良い、と言ってはくださらないの?」
普段ルネは、自らの血と呪いを剣の形に変え、武器として振るっている。
やろうと思えば別の形にもできるのだ。
こうして、鉄爪の暗器みたいな形状にして指先に付けることも可能。
ルネは、その爪を立てて。
障子紙でも破るように、虚空に突き込んだ。
エリザと自分の間に。
そして。
ルネは、空間を引き裂いた。
細い五本指の裂け目は、途端、急拡大。
古城の景色は崩れ落ちた。
そして浮遊感!
床が無くなったことを認識するや、ルネは背中に吸血鬼の翼を生み出し、羽ばたいて滞空した。
「姫様、これは……」
「正体……でしょ」
異臭。
鮮血と、死の香り。
ルネは、果てが見えないほど広大な地下空間に浮かんでいた。
一切の光が差し込まぬ真の闇の中だ。
眼下には正視に堪えないものが敷き詰められていた。
腸詰めのようなグロテスクな肉塊が、千万の蛇の如くに絡み合って、蠢いていた。
見渡す限り、果て無き地下空間のどこまでも、肉塊が敷き詰められて蠢いていた。
「「「……フフ……」」」
蠢く肉塊が、そこかしこで裂けて、牙のある口を模り、笑った。
まさに異口同音。
声音も、タイミングも完全に揃った、無数の笑い声が立ち上る。潮騒のようにさざめく。
その声はもはや、威厳と共に響く老婆のものではない。聞いているだけで頭の奥がビリビリ痺れそうな、甘ったるくてキンと高い声だった。
蠢く肉の海の中に、なにかが居た。
いや。
違う。
この肉の海全てが、彼女の下半身なのだ。
「「「……フフフ、ウフフフフフ……!」」」
肉の海から突きだした上半身が、あった。
漂白されたように白い肌の、瑞々しい裸身を晒した女が、身をよじって狂おしげに笑っていた。
一糸纏わぬかわりに、艶やかな漆黒の髪が彼女の身体を隠していた。血のように赤い目と唇が、闇の中で、目に焼き付くほど鮮やかだった。
「これで、『第一問』は及第かしら」
違和感。
この世界のルールの遮断。
トンネルをくぐらせたように変な場所から響いてくる殺気。
気づいてみれば答えは簡単だ。なにしろ、普段ルネがやっていることなのだから。
常の世界からほんの僅かにずれた、極小の異界。『隠れ里』。
エリザ……“深淵の女公爵”は、そこに自らをしまい込んでいた。そして指人形でも動かすように、常の世界に化身を投影していたに過ぎないのだ。
さらには化身に異界を纏う、護りの技まで披露した。そして世界の裏側を通し、事もあろうにルネが抱える異界『怨獄』を通して、敢えて見え見えの殺気をぶつけてきた。
私はここに居る。分かるだろう。応えられぬなら、言葉を交わす価値も無い。……と。
「「「可笑しなお嬢ちゃんだこと……真実を暴くことに、どれほどの価値があると言うの」」」
「わたしは“怨獄の薔薇姫”、ルネ・“薔薇の如き”・ルヴィア・シエル=テイラ。
お育ちが悪いものでして。売られた喧嘩は買うべしと、学んで参りました」
「「「よろしい。では、『第二問』と参りましょう……か……」」」
肉塊の裂け目が血を吹いて、たちまち、広大な地下空間は濃厚な血と殺気のプールとなった。
「あーあー、結局こうなるのね」
折りたたみ飛行箒(としか言えない外見の変な物)に腰掛けたエヴェリスは、肩をすくめてこれ見よがしな溜息をついた。




