[5-64] 死ぬまで親友
旧シエル=テイラ王国にて、第二の都市であったウェサラ。
鉱業と、それに付随する工業の中心地であることは、今でも変わらない。
今はディレッタ神聖王国の、事実上の総督府が置かれている街だった。
テイラ=ルアーレが陥落したと言えど、『亡国』の軍勢はまだこちらに至っていない。
その猶予の間に、残されたディレッタの者たちは逃げ支度をしていた。
本国から、この場に踏みとどまるよう命じられてはいない。なにしろ、まだ王宮も結論を出していないのだから。不都合な命令が下るかも知れないから、その前に価値あるものと自分の命だけを抱えて逃げ出そうという算段だ。
もし総督……もとい信仰促進官殿が生きていたらまだ統制を保っていたかも知れないが、それもなかった。
貴族たちは三々五々に馬車を走らせて街を出て行き、一緒に『王国』を脱出しようとする者たちが隊列にまとわりつく。
隊商とも行軍とも異なる、混沌とした人の川が、街道に生まれていた。
「……ひでえな」
大行列と大渋滞の中、馬車を自ら操りながら、ウィルフレッドは溜息交じりに呟いた。
ウィルフレッドとキャサリンは、東のノアキュリオ王国へ脱出し、そこからケーニス帝国に戻る手筈だった。ニンジャ哲学に曰く、人は人の中に、タヌキはタヌキの中に隠れるべきだと言う。この民族大移動に混じるのが最も目立たないと考えたのだ。
ウィルフレッドは、可能なら道すがら、ウェサラに寄りたいと思っていた。子供時代の一時期を過ごした思い出の街である。
だがそんな状況ではなかった。街門は外からも中からも人が詰めかけて大混乱で、門番は槍を振り回してヒステリックにわめき散らしながらディレッタの馬車を通すことしかできていない有様だった。
もっとも、街を訪れたところでかつての面影はあるまい。“怨獄の薔薇姫”に破壊され、ディレッタによって手前勝手に再建されたのだから。
ディレッタ貴族と共に出て行こうとする者の中には、ディレッタから出稼ぎにやってきた者や、ディレッタに協力していたシエル=テイラ王国民も含まれている。
ディレッタがウェサラを放棄したという噂は既に広まっている、と言うか貴族たちが逃げ出している様子を見れば明らかだ。数日中には『亡国』がウェサラまで占領するだろう。そうなれば処刑されるか、死ぬより酷い目に遭うと予想した者たちが逃げ出しているのだ。
行く当ての無い者も多かろう。どこにも辿り着けず野垂れ死ぬ者も、ノアキュリオに寄生して物乞いや盗人になる者もあろう。
あるいは今ここで事件の一つも起きるかも知れない。ディレッタ貴族たちは蓄えた資産を馬車に積んでいて、完全武装した傭兵や、家臣の騎士たちに厳重に警備させていた。魔物や賊ではなく、小バエのようにたかる避難民たちを警戒しているのだ。
「……だらぁ、てめぇ! ……しねぇと……この……」
「…………やめて…………」
前方で、何か騒ぎが起こっていた。
ウィルフレッドは少し腰を浮かせて、そちらを警戒し観察する。
「ウィル、どうかした?」
背後からキャサリンが顔を出した。
キャサリンは、長い蜜柑色の髪をネットでまとめ、その上から金髪の鬘を被っている。そして鼻にそばかすを描き、後は、がさつな者が忙しい朝に間に合わせたように、雑な薄化粧をする。
それだけで別人と思えるような印象だ。伯爵令嬢でも帝国官僚でもなく、女商人の如くに。
ウィルフレッドも馬車とキャサリンを守るため、あえて恐ろしげな変装をしていた。
髪を銅色に染め、口に綿を含んで肉付きよく見せ、頬に傷痕の化粧を、手首に刺青のペイントをする。これ見よがしに威圧的な鎧を身につけ、いつものカタナは仕舞って、大ぶりな剣を背負う。どこぞの貴人か商人が雇った、御者兼用心棒といった風情だ。
もし子供時代の知り合いに出会っても、これがウィルフレッドだとは分かるまい。
「……どうも、誰かがディレッタの騎士に殴られてるらしいな」
物を盗もうとしたなら、この程度では済まないだろう。
何か無礼を働いて気に障ったか、近くを歩いているのが鬱陶しかったか、そんなところか。
ぼろ切れのような外套を纏った、中年の女だった。
ひとしきり殴られた後で、彼女は捨て置かれる。もちろん誰も助け起こそうとなどしない。関わり合いになりたくないのだ。
隊列はゆっくりと、とてもゆっくりと進む。
倒れたまま息を整えていた女が、ちょうど自分が隣に来たときに立ち上がったので、ウィルフレッドは面倒なことにならなければいいなと思った。
果たして、その女は袖で強引に鼻血を拭って、ちょうどすぐそこに居たウィルフレッドの馬車に縋ってきたのだ。
「どうか、お恵みを」
身一つで逃れてきて路銀も無いのだろう。彼女はこの場で物乞いをしているのだ。
サムライの誇りに照らして考えれば助けてやるべきだが、場所が悪い。一人に施せば百人につきまとわれるだろう。ここで目立つわけにはいかないのだ。
物乞いの女は、尚も何か、同情を引く言葉を吐こうとした。
だが、その言葉は散り消える。
「キ、キャサリンお嬢様!?」
「あなたは……!」
キャサリンは特徴的な赤と灰の妖瞳を隠すため、片目に眼帯を巻くはずだった。まだそれを巻いていなかった。
呼吸も忘れて寸暇、二人は見つめ合う。
やがて物乞いの女は酷く恥じ入った様子で顔を隠し、身を翻した。
「ご無礼をお許しください。
お見苦しい姿を!」
「待って、いいのよ!
どうしてこんな場所に……」
ウィルフレッドはキャサリンに視線で問いかける。キャサリンは頷く。
ウィルフレッドは馬車を飛び降り、逃げ去ろうとする女をジュードー・カラテの要領で捕まえ、ひょいと抱え上げた。彼女は痩せていた。
「きゃっ!?」
そのまますぐさま踵を返して、ウィルフレッドは馬車に飛び乗る。
事情は分からぬが、この女、キャサリンの正体に気づいてしまった。このまま放り出すわけにもいかないのだ。
* * *
馬は賢い。慣れた馬車馬なら手綱を逐一動かさずとも、隊列の進みを見極めて車間を保ってくれる。
ウィルフレッドは馬車を一時、馬に任せた。
そして締め切った馬車の中に入っていた。
「……私はサーリア。
かつてキーリー伯爵家に、お嬢様方の家庭教師として仕えておりました」
やつれた様子の中年女は、伏し目がちに言う。
かつてキーリー伯爵家は、ジレシュハタール連邦によって取り潰された。
その政治的意義はともかくとして、伯爵家が抱える使用人たちにとっても人生の転機だった。
他の働き口を見つけられた者、実家に帰る者、路頭に迷う者。
その中には、旧キーリー伯爵領を含む西アユルサ王国ではなく、『東側』へ向かった者もあるのだ。
貴族の子女が一般の神殿学校に通うことは少なく、上流階級向けの学校で寄宿するか、家庭教師に指導を受けるのが一般的だった。キャサリンにとっては親よりも長い時間、一緒に過ごした相手だろう。
貴族の子女に直接教育をするのだから、家庭教師の地位は必然的に高い。教養ある良家の女の仕事だ。やつれて薄汚れた、浮浪者の如き雰囲気の彼女と、その肩書きは遠くも思える。
「……親類を頼って東側に渡ったのですが、此度の魔力使用制限で、もはや生きてはいられぬと……
神殿のお慈悲に縋るため、こうしてウェサラにやってきていたのです」
「ご家族は?」
「ウェサラへ来るまでの街道で賊に襲われ、行方も知れませぬ……
共に居た者は私の家族も含め、10人ばかりでしたが、逃げ切れたのは私だけでした」
悲しむことにも疲れた様子で、重く無感動に、サーリアは述べた。
この国の治安が、崩壊以前より悪化していることは、事前情報としてウィルフレッドも把握していた。犯罪組織『ナイトパイソン』の崩壊により、かつて統制されていたならず者たちが好き勝手に仕事を始めていたのだ。
キャサリンは、サーリアが汚れて腫れた顔を恥じて隠そうとするのを、覗き込むようにして問いかけた。
「魔物の支配する国で生きる気はありますか?」
問われたサーリアよりも、それを傍で聞いていたウィルフレッドの方が息を呑んだ。
魔物とは誰で、その国とはどこか。明らかだった。
「生きていけるなら、もうなんでも構いませんよ。
私にはもう、命しか残されていませんから」
サーリアは捨て鉢気味に、苦笑交じりに、力無く言った。
キャサリンは返答を聞き、静かに頷く。
「少し、血を頂いて構いませんかしら」
「血を……まさかそれで紹介状を?」
「私の紹介なら決して無碍にはされません」
キャサリンは荷物から小皿を取り出し、そこにインクを溜める。
そしてサーリアの指をナイフで切って、真っ赤な血をインクに混ぜた。
血は、その持ち主の命や魂と結びついている。しかるべき魔法的鑑定を行えば、このインクに混ぜたのは間違いなくサーリアの血だと分かるのだ。
キャサリンはそのインクを使って、証文用の羊皮紙に、美しい文字で一編の詩をしたためた。
シエル=テイラ出身の有名な詩人の詩だと、ウィルフレッドは気づいた。
「一目で紹介状と分からぬようにします。
価値ある紹介状は、奪って自分のものに書き換えようとする人も居ますから」
最後にキャサリンは自分の親指にも刃を走らせ、判子のように拇印を押した。
「これで、シエル=テイラ『亡国』にて働き口をお探しなさい。王城へ持ち込めば誰かが意を酌んでくれるはずです」
キャサリンとルネの奇妙な関係に関しては、ウィルフレッドにとっても不明な部分がある。
敵同士ながら二人の間には、貸し借りや、それなりに重い頼み事をし合える程度の信頼関係は存在するようだ。
もう少し正確に言うなら、それは『信頼関係が存在するという信頼』。キャサリンは、自分の頼みならルネは聞くだろうと確信している。文面の上では紹介状ですらない、謎かけのような一編の詩で、自分の意図を察して酌んでくれるとも。
「しばしウェサラに留まることです。
『亡国』が攻めてきたら、なるべくスケルトン兵を選んで下ると良いでしょう。見た目は恐ろしいですがゴーレムと同じようなものです。戦の興奮で無意味に市民を殺すことはありません。そして紹介状をお見せなさい。
それまでは、このお金を使いなさい」
「ああ、ありがとうございます、ありがとうございます……」
紹介状と金を渡されたサーリアは、キャサリンの手を堅く握り、神像を拝む時のように頭を垂れた。
「その代わり、どうかその紹介状を使うときまで、私と会ったことは誰にも内密に」
「はい、命に替えても!」
穏やかな笑顔で、ついでのように釘を刺すキャサリン。
サーリアは感涙にむせびつつ誓いを立てる。
その様子を見てウィルフレッドは舌を巻いた。
キャサリンの行動は慈悲だけではなく、合理的な判断によるものでもあったのだ。
飢えた者は盗む、奪う、そして親兄弟や主君でも売り渡す。
故にキャサリンは秘密を守らせるための餌を与えた。
証文用の羊皮紙は、魂を縛る魔法的契約や呪いには使えないよう加工されているはずだ。
だがキャサリンは今、羊皮紙一枚でサーリアの魂を掴んだのだ。
「ところで、お嬢様は何故、ここに?
連邦からでは、こちらへ来るのも難しいでしょうに」
ふと疑問に思った様子でサーリアは言った。
当たり前だが彼女は、キャサリンがケーニス帝国に渡って仕官したことを知らない。お家の取り潰しに遭い、ジレシュハタール連邦に渡ったキャサリンが、どうしてディレッタの植民地と化した『東側』に居るか疑問に思ったのだろう。
「私は、今この国に居なければならなかったんですよ。きっと」
キャサリンの答えは、結論しか存在しなかったが、それでも確信に満ちていた。
* * *
半月ほど後。
サーリアは震えながら平伏していた。
氷のように冷たい、真っ黒な石床の上で。
心臓を針金で縛って絞り上げているような、濃厚な死の気配と異様な緊張感の中で。
確かに生きる糧を求めて、仕事を乞うためにここへ来たのだ。
しかし、本来の王都の隣に黒々とそびえる恐るべき魔城都市があるのも度肝を抜かれたし、自分がその奥深くへ連れて行かれるとも思っていなかった。
酷く険悪な目つきの、猫だか人だか魔物だか植物だかも分からないものにお仕着せの服を渡されて、サーリアはそれに着替え、じっと平伏していた。
「キャサリンが貴女をどう思っているかは、この紹介状で分かりました。
彼女に救われたことを恩と思うなら、その名を汚さぬよう務めを果たしなさい」
「は、はひ……!」
サーリアが仕えるべき新たな主は、子供特有のキンキン響く、しかしどこか貫禄と重さを感じさせる声で、告げた。
何もかもがねじ曲がっていて、夢でも見ているような奇妙な気分だった。それが悪夢かどうかはひとまず分からないが。
「ところで、キャサリンは……わたしについて、何か言っていたかしら」
「え? あ、はっ、いえ、おそらく何も……」
突然の問いかけに、サーリアは必死で記憶を手繰った。
特にそれらしい言葉は思い当たらなかった。だいたいサーリア自身、キャサリンに貰った紹介状でここまで来れるとは思っていなかったのだ。
少しだけ、沈黙があった。
「……せめてなにか伝言ぐらい……言いたいことは全部言ったとでも……」
何かブツブツ呟きながら少女は歩き回っていた。
ふとサーリアが、許しを得てもいないのに思わず顔を上げると、銀色の月がそこにあった。
邪悪なステンドグラスを透かして差し込む本物の月光が、彼女を銀の月の如くに輝かせていた。
それは、言うなれば存在そのものの輝きだった。
己のあり方を研ぎ澄ました故に輝くものだった。見られたのは一瞬だったが。
「んぶっ!」
「姫様のお許し無く、かってに面を上げるな」
「やめなさい、ミアランゼ」
「はっ」
サーリアは背後から頭を踏みつけられていた。
「いいわ。もう下がりなさい」
「来い、人間。仕事をくれてやる」
「ミアランゼ!」
「……はい」
サーリアは導かれるまま、蹌踉と立ち上がる。
キャサリンは旧シエル=テイラの伯爵令嬢で、かつての王の遺児が“怨獄の薔薇姫”だ。
なら、たとえば二人が顔見知りでも不思議は無いだろうと、サーリアは単純に考えていた。そして旧知同士が敵味方に分かれても人脈を保つことは、ままあると。
だがそんな単純な話ではない、何かがあるのだと察するには十分だった。
それから、決してルネが、怨嗟のみにて存在する怪物ではないのだと理解するのにも、十分だった。
ここまでお読みくださいましてありがとうございます!
第五部はこれにて完結となります。
第六部開始は11月のどこかになる……気がします。
今後の進行も含めた構想をまとめたり、別口のコンテスト原稿やったりのために、少しお時間を頂きます。
シリーズ全体の予定としてはちょうど折り返し。今後は列強五大国と本格的に事を構えつつ、この世界の根っこの部分に迫っていきます。よろしければお付き合いくださいませ。




