[6-61] オフレコ
紅き魔刃は、天使に届いていなかった。
宙に浮かんだ光の盾を串刺しにして、そして、そこで止まっていた。
正邪の力が相剋し、黒白の火花が散って、光の盾と赤刃は、共にヒビ割れ朽ちていく。
「これ……戦闘聖紋!?」
見覚えがあった。
『滅月会』が用いる奇跡の技。
命を削って、本来なら人の身に扱いかねる神威を顕すもの。
敵方の『滅月会』は始末したはず。
天使たるディアナが、わざわざ人のための道具を使う意味も無い。
では、誰が。
「【重奏神盾紋】……励起……」
普通に接近してきたのなら、ルネは気づいたはずだ。
だが彼女は。忽然と、唐突に、そこに居た。
雪風に蜜柑色の髪をなびかせて。炎と灰の目で、ルネだけを見て。
キャサリン。
前に会ったのはもう3年前だったろうか。
あの時もずいぶん大きくなったと思ったものだが、さらに美しく。百合の花のような色香すら漂わせて。
そんな彼女の、左手の甲から肘にかけて。まるで長手袋でも嵌めているみたいに複雑な刺青が刻まれて、それが燐光を放っていた。
普通なら全身に幾多もの戦闘聖紋を刻み、それを使い分けるものだが、キャサリンのそれは左手のみ。『盾』の聖紋のみだった。
戦闘聖紋の使い手は、数が限られる。
正確な数はディレッタの首脳陣しか知るまいが、同時に存在できるのは、およそ100人ほどと目される。
戦闘聖紋を余所者に渡すはずもなし。では、これは一体。
「あたしゃ、こんな使い方のために、あんたにお下がりを渡したわけじゃないんだけどねぇ」
ディアナは抑え込まれたまま、溜息一つ。
その彼女を包むように転移陣が輝いて、ディアナの姿は床に吸い込まれる。
そして、キャサリンの隣にひょっこり飛び出した。
キャサリンの傍らで、転移陣を刺繍した小さなカーペットを、ウィルフレッドが広げていた。これでディアナを回収したのだ。
彼はオレンジの振り売り商人みたいに、ぶら下げた鞄に大量の魔石を抱えていた。
「ダメよ、ルネ。今はまだ、その時じゃない」
キャサリンは首を振る。
少し、重く。どこか沈痛に。
「……どうして」
「そろそろディアナを滅す頃だと思ったから来たの。
それとも手段を聞きたいの? ディレッタが要人脱出用に備えていた転移陣を逆接続したのよ。彼らはとっくに潰走していたから、『出口』も空いてたし」
なるほど、とは思った。
キャサリンが助けに来ようとしていることを、おそらく神は天より見ていたはず。
なればこそディアナに捨て身の戦い方をさせたのだ。ディアナという手駒を失うリスクは小さかったから。
気になるのは、そこではないが。
「姫様? こいつは……」
ウヴルが物騒な気配を漂わせるや、その足下に星形の投擲刃が突き刺さった。
「黙っているでござる、犬ころ。
……二人の時間だ」
そして、その場の者たちは、足を床に縫い止められたかのように、彫像を並べたギャラリーみたいに、それきりじっと動かぬままで対峙した。
「ねえ、ルネ。
神様がどんなものなのか、あなたは知っているのよね」
ミュージカルの歌のように、朗々と弾む声でキャサリンは問いかける。
「それはむしろ、あなたがどう考えているか、わたしが聞き返したいのだけど」
「予想はしていたわ。そしてディアナが答え合わせをしてくれた」
未だ夜明けの気配も見えない暗い空を、キャサリンは見上げる。
実際のところ、神や天使が地上に関わった事例や、かつての大戦の記録など。神の真実に迫る手がかりの断片は、地上にも存在する。
そんな情報の多くは、神殿が都合の良い伝説として編纂してしまうか……都合が悪いなら異端の解釈として攻撃する。だが、生の情報を拾い集めてそれを繋ぎ合わせたら、神に迫ることもできるだろう。
おそらく、神殿と仲が悪いケーニス帝国でなら、そういう話もしやすいはずだ。竜淵皇帝は、神すら『利用価値があるなら利用する』程度にしか思っていないだろうし。
「私は、神の答えを変える。
私の存在によって、神の最適解を上書きする。
そんな私になる。偉人にだって伝説にだってなってやる。
だから、ね。
神様とか、世界とか、滅ぼさなくてもあなたの戦いを終わらせられるように考えてるの。
もしかしたらそれは、私が死んだ後になるのかも知れないけれど」
ルネは、キャサリンが何を考えているか、予想はしていた。
そして今、答え合わせができた。
世界を滅ぼして、神の横っ面を張り飛ばすよりは、多少は現実的な目標かも知れない。
もし正邪の神が、この世の全てを変数として、未来を予測し勝利の最適解を叩き出すだけの計算機なら。歴史を変えうるほどの偉人によって、彼らの最適解も変化しうるだろう。
キャサリンは、それをしようとしている。ルネのために。
「ああ、でも……
また、暖かな暖炉の前でお茶会ができたなら、きっと素敵な事ね」
場に似つかわしくないほど朗らかに、キャサリンは微笑む。
「だけど、それでは何も変わらない。
悲劇と不条理を引き起こしたモノがみな、看過されてしまう」
「変わるわ。変わるのよ。
全てを少しずつマシにすることはできる。遙か未来に開くであろう花の種を撒ける。
あなたが全てを終わらせる必要は無い。この世の全てを背負った、柱になる必要は無いの」
ルネは特に反論しなかった。
たとえ世界をぶち壊して作り直したとしても、それが『人の世界』である限り、完全無欠の楽園とはなるまい。今より少しマシな世界だ。
なら別に、こんなメチャクチャな戦いをしなくても成せるだろうというのは、確かに一面の真実ではあった。罰することも、救うことも、何かを変えることも、できたはず。
それでも世界と戦うべきだと思ったのは、意地とも言えるわけで。
「……それじゃ、時間も無さそうだし今夜はこの辺りでおいとまするわ。
私が生きてる間に、また会えると良いわね」
「ここまでされて、ただで帰すと思ったかしら」
「あら。私を殺せるか試してみる?」
堪えきれぬ笑みがキャサリンの顔に咲いて、ルネは軽く、戦慄する。
ルネがキャサリンから読み取った感情は恐怖でも勇気でもない。……歓喜だった。
牽制程度のものではあるが、ルネに殺気を発されて、そのことをキャサリンは喜んでいる。自分がルネにとって、殺すに値するほどの『何か』になれたことを。
ルネは、この女がどれだけヤバいのかに関して、自分の認識がまだ甘かったのだと思い知らされた。
同時に、おそらく、キャサリンは備えている。
逃げるだけの備えはしている。手札を用意している。
一方のルネは手札を全て使い切って、それで戦いに勝った状態だ。
いくつかの計算が、ルネの頭の中で動いた。
今後の世界戦略にキャサリンやディアナが及ぼす正負の影響。今現在の戦況。戦果を深追いする意味……。
ルネの握っていた深紅の魔剣が、霧散する。
「…………またね」
「うん。またね」
二人はひらりと、手を振り合った。
触れれば殺せる。殺さねばならぬ。だからルネは触れようとしなかったし、キャサリンも近づいてこなかった。
「あんたら、アタシが思ってたより遙かに容易じゃないのね」
ディアナは偏頭痛を堪えるような顔で一緒に手を振った。
ウィルフレッドが乱雑にも思えるほどの大盤振る舞いで、床に魔石をぶちまける。
ディレッタ騎士たちが埋設していたらしい転移陣が起動して、湧き上がる光が人々を照らしだした。
「一つだけ、俺の戦いの話をしよう。俺はいつか、お前から『サムライ・ウダノスケ』を取り戻す」
転移陣に踏み入ろうという刹那。
キャサリンの付き添いに徹していたウィルフレッドが立ち止まり、研がれた刀のように鋭い声音で、ルネに言う。
「首を洗って待っているでござる。
……待てこの言い回しは良くない。既に首を斬られている相手にこれでは質の悪い皮肉にしか……いや、すまぬ。そんなつもりではなくてだな!」
「ウィル? 転移陣の魔力が尽きるわよ?」
「ああもう!
とにかく! それだけは! どうにかするからな! さらばだ!」
そして、しどろもどろに啖呵を切って。
彼らが転移陣に踏み入ると、立ち上る光はぷつりと途絶え、転移陣は跡形もなく消え去った。
ディレッタ騎士たちが用意していた、この要人脱出用転移陣は、暗号化が施された上に自壊術式が仕込まれていた。通るべき者が通ったらそれ以上は通さない仕組みだ。
後は魔力を使い切った魔石クズが散乱しているだけだ。
「締まらないねー。
ま、いつぞやのお坊ちゃんがご立派に育ったみたいで、何より何より」
いつの間にやら瓦礫に座って、観客を気取っていたトレイシーが、口調だけはのんきに言った。




