[5-49] 袋小路
その邂逅は、戦いが始まって間もなく。あっけないほど間もなくの出来事だった。
偶然ではない。向こうから探しにきたのだから、必然だ。
「まず聞いていいか。てめぇ、こんな場所で何してる」
その兵は独り、ウヴルの前に現れた。
動きやすく、雪に紛れる白の防寒着。その上から身体の要所だけを軽装の防具で守る、斥候兵の出で立ちだ。
とは言えそれは本来なら人間用の装備らしく、フードに潰された三角耳が二つの突起を作っている。
大柄な肉体に似合わぬ身軽な動き。ふわふわの雪にも刻む足跡は浅い。
サバトラ色の顔面を、吹き付ける雪が化粧して、白猫のごとくに見せていた。
「……よう、兄貴」
軽く苦い笑いを浮かべて、ムールォは片手を上げ、会釈した。
かつてはウヴルの片腕だった男。共に麦畑を赤く染めて逃げ出した、魂の兄弟。
脱走兵の一人。
そして、今は……
「どこか遠くでよろしくやってると、俺ぁ思ってたんだがな」
ムールォの防寒着は、ディレッタの兵が身につけているものと同じだった。
ウヴルは既に、その服を見慣れている。散々斬ってきたからだ。
「ディレッタに買われたんすよ、俺ら……
建前は自由の身だけど、この戦いに自由意志で志願するくらいしか、金と市民権を手に入れる道が用意されてなかった。
まあ、よくある話っすね。一緒に買われた人間どもは今頃、ディレッタ本国で『亡国』の悪口を言う大事な仕事をしてる頃でしょ」
怒りを忘れたようにあっけらかんと、ムールォは言った。
ウヴルは静かに、奥歯に力を込める。これが人間どものいつものやり方だ。奴らは決して獣人を、人間と同列には扱わない。そして、恐ろしいほどの計算高さと悪意で以て、生き方に枷を嵌めるような『見えない檻』を作り出すのだ。
共和国でもそうだった……普通に、真っ当に生きていけると確信できれば、ウヴルとてギャングになどならず、今頃は大工でも石切りでもしていたかも知れない。だが獣人に許された生きる道は、その多くが惨めなもので、一握りの幸運な者だけが人間と肩を並べられるのだ。
「他の連中はどうした」
「……ディレッタが助けてくれるってまぁだ信じてる奴と、単に破れかぶれの奴と、半々ってとこすよ。勝ちゃいい、勝つしかねえって、案外みんなやる気でさ。
でもよぉ……無理だろ。死ぬだろ、俺ら。仮にここでディレッタが勝ってもよ」
「それが見えてるなら、てめぇは優秀だよ。やっぱりな。
で? 俺を殺しに来たのか?」
「まさか。それこそ無理ってもんっす」
そう言ってムールォは、尻尾を巻いて両手を合わせる。
ウヴルですら滅多に見た覚えの無い姿、猫獣人の礼だ。
「最期に詫び入れたかったんでさぁ。
兄貴はずいぶんよくしてくれたのに、その恩も返さずに、砂掛けて出て行っちまった。
……すいやせん」
「そうか」
打算の見えない、清々した謝罪だった。守るものも、失うものも、もう無いからか。
ムールォは言い訳をしなかった。それでもウヴルは大方の成り行きを察していた。
ムールォが下の不満を拾い上げて優しい顔をし、ウヴルが引き締める。
懐柔と脅威。飴と鞭。善い衛兵と悪い衛兵。
古典的なやり口だ。それで、チェーン・ギャング“赤麦の兄弟”は上手く回ってきた。二人はそれぞれ別の形で手下たちに慕われていた。
だが、つまり、そのせいで、秘密の打ち明け話なんぞはムールォに流れてくる。
「荒くれどもを束ねるにゃ、爪と牙を見せて吠えるしかねえ……
嫌われても、それで構わねえって思ったがよ……
なあ、おい。お前の方が貧乏クジだとは思ってなかったぜ、俺は。
俺に言えねえ話を、お前、クソボケどもからいくつ聞いてきた?」
「パッと思いつくのは22個くらいっすかねー」
「……ったく」
ムールォは、『亡国』を抜け出す相談まで持ちかけられたのだろう。
そしてムールォは、滅びへ向かう兄弟たちを見捨てられなかった。愚かな選択と知りながら、道を共にした。兄弟たちを生かす道を探ろうとした。そういう奴だ、ムールォは。
結果は、まあ、見ての通りだが。
「なあ、兄貴ぃ。
一生のお願いだと思って、聞いてほしい話があるんすよ」
「なんだ?」
「他の誰かじゃあなく、兄貴の手で死にてえ」
ビリビリとヒゲを震わせながら、ムールォは腰の鞘に手をやった。
彼が好む武器は鉤爪であったが、今装備しているのはディレッタ軍の短剣だった。
ムールォが武器を抜くなり。
うなる風がウヴルの隣を吹き抜けた。背後から、前方へ。
舞い飛ぶ吹雪を貫いて、手槍ほどに大きい矢が、夜を裁つように一直線に飛んできた。
街壁からの狙撃である。
対人攻城弩とでも言えばいいのか……とにかく、前線の戦闘を支援するための狙撃兵器だ。エルフたちは己の腕で引く弓だけでなく、絡繰りの弓も実に巧く扱い、己の技に妥協しない。
その矢は轟音と共に石畳をかち割って深々、ナナメに突き立つ。
「亡国は忙しくてな……そんな情緒は許されねえらしい」
「ああ……そっか、ゴフッ! そりゃ……しょうがないっすねえ……」
腹の半分を吹き飛ばされたムールォは、己の血と臓腑の中に膝をついた。
白い雪の上に赤いものが広がって、白い湯気が立った。
「チッ」
ウヴルは顔を歪め、今までの人生で一番重い舌打ちをした。
それから、ムールォの手からこぼれ落ちた短剣を拾い上げると、そいつの切っ先で己の頬をひっかいた。
何かありがたいデザインで、神様の偉さを表したのだとかいう短剣の先が、赤く染まる。
そして、その短剣をウヴルは、ムールォに放って渡した。
「俺は姫様の向かう先全てで先駆けとなる。命を落とそうと、この身体が磨り潰されて塵と成り果て、魂が燃え尽きるまで戦い、英雄の名を轟かせよう。
その時、兄弟に自慢しろ。『俺は、かの英雄ウヴルに一矢報いたんだ』ってな」
吹雪はますます勢いを増していた。
やがて、ムールォは伏したまま、泣くように笑ったか、笑うように泣いた。
「ハハ……やっぱり兄貴は優しいや……
付いてきて……正解だったぜ……」
「そうやって俺の背中だけ見てりゃ、もっとマシな死に方ができただろうによ。馬鹿野郎が」
それが別離の言葉となり、それ以上の猶予は許されなかった。
目もくらむような白輝の爆発が、ウヴルの目の前で巻き起こった。
聖気の光をまき散らして、ムールォが爆発したのだ。
これは死後、魂を邪悪に奪われぬための護り。授けた者の死をトリガーとして発動する祝福。
と、言えば聞こえは良いが、実態は魔物に向けた粗悪な爆弾だ。
あまり有効な罠ではない。ゾンビやスケルトンの兵を多少吹き飛ばす程度か。生者で、人族であるウヴルには、全く痛痒たり得なかった。
ディレッタは一般の兵に、こんな雑な加護を授けない。囚人部隊になら使うかも知れない。
「この馬鹿野郎……」
雪混じりの凍てつく風が、ウヴルの呟きを攫っていった。




