[5-46] 二人の力
「はあ……いいねえ、こういう下品な飯は。
ディレッタの連中、美味くもないのに高い食い物ばっかり出してきやがるんだ」
炙り焼きの干物を行儀悪くむさぼって、天使はご満悦だった。
そして自分が持ってきた酒を、だいたい自分で飲んでいた。
彼女の豪快な飲みっぷりは、間違いなく生前からのものだろうと、ウィルフレッドは否応なく理解する。
荒くれ冒険者どもと飲み比べをして平然と勝利するような、豪傑だったに違いない。
「ディアナ。
あなたは神様に逆らえないの?」
「ぶっ込んでくるね」
キャサリンは茶を飲むように、行儀よく一口ずつ酒を飲みつつ、容赦の無い質問を浴びせる。
再会の喜びもあろうが、それ以上にキャサリンにとって、ディアナとの会話は決して他では得られない情報収集の機会。
ともすれば、この小さな飲み会が世界の趨勢すら左右するかも分からないのだ。
「養蜂って、あるだろ」
「蜂蜜を採るための?」
「そうそう、その養蜂だ」
ディアナは蜂蜜酒を呷って、蜂の話を始めた。
シエル=テイラは養蜂が盛んだ。冬を乗り切るエネルギー源として、この地の人々は、老若男女、貧富貴賤を問わず、とにかく蜂蜜を食う。特産のスノーローズから採った蜂蜜は滋味深く、時に遠方でも珍重される。
甘くない茶は茶にあらず。実のところウィルフレッドがサムライ修行で一番つらかったのは、精神修養のために苦いワビチャを飲むことだった。
「養蜂家は、適切な場所に巣箱を置けば、望みの成果を得られる。
蜂一匹一匹まで管理しなくても十分上手くいく」
「では、私たちは蜂ですか」
「利口な蜂さ、命令を聞くんだから。
……やろうと思えば神様は、奴隷みたいにアタシに電撃首輪をつけることも、心の無い人形にすることもできたろうにね。おそらく、する必要が無いんだ。そんな余計で面倒なことは。
逆に恐ろしいと思わないかい?」
蜂。
神と対比して、ディアナは人をそう表した。その意味を深く考えるほどにウィルフレッドは寒気がした。
鉢は自ら巣を変えることならできるが、人のように巣箱を置くことはできない。いや、それどころか、人がそれをやったのだと認識することも、目的すら想像できぬだろう。
見通すものの遠さも、まるで違う。
「アタシは大雑把な命令通りに動かされるだけで、裁量はある。
敵対的怠業くらいはできるだろうさ。だが上は、アタシが大筋で命令通りに動けば問題ないと思ってる。多分ね。そういう風に巣箱を置いてるんだろ」
力で押さえつけられるより恐ろしい話だ。
抵抗しても歯牙にすらかけられない、悪あがきすら最初から勘定のうちに入れられているのだとしたら。少なくともディアナはそう思っている。
そしてその状況が少なくとも、彼女にとって鬱憤の源なのだということも、ウィルフレッドには分かった。
意に沿わぬ仕事だからと言うより、おそらくは、縛られること自体が。
「虚しい話だと思うかい」
「いえ。私は、あなたがそこに居てくれるだけで大変心強いです」
だがキャサリンは微笑みかける。
掛け値なしに。
「蜂を人と比べれば遙かに劣るでしょうが、それでも人は蜂を利用しなければ蜂蜜を作れませんし、時には蜂が人を殺すことだってあるではありませんか。
微力とは無力ではありません」
「あんたがルネをどうしたいのか、アタシはいまいち分からないんだけどね」
「簡単ですよ。あの子のために、あの子を止めなければならない時が来るとしたら、私がそれをするんです。
それと、できるなら世界を変えたいですね。ルネがわざわざ滅ぼさなくていいように」
「あっはっはっは!
そりゃまた見上げたド根性だ!」
ディアナは心底痛快だったようで、腹を抱えて笑う。
ディアナはキャサリンの大言壮語に驚きもせず、無理だと否定もしなかった。神の全知の欠片を賜ったと言う彼女が。
キャサリンには世界を動かしうる力があると、ディアナは知っている……
そして何よりキャサリンは、如何なる労苦も惜しまぬだろう。それがルネのためだと思えば。
「なあ、ウィル坊。分かってんのかい。
あんたの嫁さんは別の相手にぞっこんだよ」
「分かっていますよ。最初からね」
背中をバシバシ叩かれながら飲む蜂蜜酒は、思いのほか苦かった。
* * *
酒瓶が二本空になったところで、天使は帰って行った。
彼女は王都の結界を維持しなければならない。長時間、王都を留守にはできないのだ。
と、なれば長々とキャサリンの話を聞いてもいられないわけで……なるほど、話をすっ飛ばせるよう事前にキャサリンの情報を与えていた神は周到だ。ワビもサビも解さぬほどに。
天使が去った部屋は、ほのかに酒臭くて、静かだった。
精神統一をやり直す気にもなれず、ウィルフレッドはじっと窓の外を見ていた。
外はもう、暗かった。吹雪の夜など珍しくもない。
「ウィル。どうかした?」
ふと、キャサリンが声をかけてきた。
「……あのさ、例えば俺が斬った奴に嫉妬とかしないだろ、お前」
「それはもちろん」
「だよなあ」
答えは分かりきっていた。
それでも訊いてみたい気分になるのだ、たまには。
「やだ、妬いてるの?
かわいいー」
コロコロと、まさしく鈴を転がすようにキャサリンは笑った。
ウィルフレッドは溜息ばかり積み上げる。とにかく彼女にはかなわない。
思い悩んで気分が沈んだときには、連鎖的に、普段は目を背けているあれやこれやまで気になってくるものだ。
自分はキャサリンと比べるなら、凡人のうち。釣り合わぬ関係だと思うこともある。愛しいと思う気持ちだけで付いてきたが、いつ自分が不要になるのかと、黒い不安を抱く日もある。
なにしろキャサリンにとっての『一番』が誰なのかは、ずっと前から明らかで、変わらないのだから。
しかし、そんなウィルフレッドの遣る瀬ない想いを見通した風で、その気持ちさえ包み込むように優しく、キャサリンは言う。
「大丈夫よ。安心して。あなたは私にとって特別なんだから。
だって考えてご覧なさい。あの子と世界の戦いが、100年や200年続いたとしたら……」
密やかな衣擦れ。
ばさりと、分厚い服をキャサリンは脱ぎ捨てた。
「誰かが私の意志を継ぐ必要がある」
「おい、まさか、それは……」
それから、きしりと、床が歌った。
キャサリンは女性としても比較的小柄な方だ。
だが、その肢体はしなやかにして完全なる形。
彼女は食事、肌の手入れ、歩く姿勢に至るまで、己の身体の美しさを如何にして磨き続けるか常に考え尽くしている。サムライが常に技を練り、カタナを研いでいるかのように。
戦いの才覚を持たぬ彼女は、それ以外のすべての力を貪欲に求めていると言ってもいい。美しさも力である。だから貴婦人たちは、恐ろしいほどの金と時間を費やして美しさを求めるのだ。幼少よりの習いとしてキャサリンの身にも染みついているのだろう。
精緻なシルクのレースの下着を、よどみない手つきでキャサリンは脱ぎ捨てる。
透き通るほどに白く肌理細やかな肌が、今や完全に露わになっていた。
細い指が、そっと、窓ガラスに触れる。
炎と灰の色をした眼がウィルフレッドを捉え、捕らえている。
もはやウィルフレッドには身じろぎできる空間も無い。柔らかな双丘が、ウィルフレッドの腹筋の割れ目をなぞるように押し当てられた。
「永遠なる不死の力に対するは、代を重ね意志を繋ぐ生者の営み。
だから私には夫が必要だったの。
それがあなたなら、不足無いわ。ウィル」
虎はウサギを食う前に、きっと、こんな顔で笑うのだろう。
キャサリンは舌なめずりをするように、桜色の唇を舐めて湿し、てらりと輝かせた。




