[5-45] インナーフォーカス
「ぬううううう! 雑念よ消え去れ!
リン・ピョー・トー! ナムアミダ!
リン・ピョー・トー! ナムアミダ!」
「ウィル。隣の部屋の人に怒られるわよ」
一方その頃。
暖炉石が燃えていてもなお薄ら寒い、宿の一室にて。
ウィルフレッドはフンドシ一枚でカタナと対座し、精神統一の呪文を激しく繰り返していた。
眠ることすらできぬほど、ウィルフレッドの心は乱れていた。
遂に邂逅し対峙した心の師匠、サムライ修行を志したきっかけ、ウィルフレッドにとって永遠の英雄であった男……ウダノスケ。
その枯れ寂びた姿が、ウィルフレッドのまぶたの裏から消えない。辛い。あまりにも。
「分からない……あんなのは師匠の本当の姿じゃないんだ。絶対に違う……
だけど、師匠自身にさえ……どうすれば伝わるのか……」
第一にそれはウィルフレッドにとって、己の原点を穢された痛み。
第二にそれはウィルフレッドにとって、自身を卑怯者の檻に閉じ込めているウダノスケへのやるせなさ。
第三にそれはウィルフレッドにとって、今や輝きを失ったウダノスケにすら剣腕及ばぬ己のふがいなさ。
己の気高さを知らぬ者は不幸である。
心の師が己の不幸に気づいてすらいないのは、ウィルフレッドの方が辛い。
だが、どうすればいいのか。あるいはウダノスケを想うことも所詮はウィルフレッドの独りよがりか……
「ん?」
「あら?」
深く悩んでいたもので、ウィルフレッドは最初、苦悩のあまり耳鳴りが起きたのかと思った。
だが違った。
高く鋭く澄んだ音が、どこからか響いていた。それはキャサリンにも聞こえているようだった。
謎の音は、キャサリンの荷物の中からだった。
二人は目配せし、頷き、ウィルフレッドは片手にカタナを掴んだまま、そっと音の出所を探った。
すると、お上品に防水紙で包んで縛った何かが、輝きながら甲高く鳴いていた。
「な、なんだこれ!?」
「ディアナの銀鞭が……」
キャサリンが包みを解いた……か、どうかという瞬間。
「うわっ!」
「きゃあ!」
「おわっち!?」
影が膨れ上がり、白い爆発が起きて、光が満ちた。
ウィルフレッドの目が確かなら、光り輝く金属片の中から人が飛び出してきたように見えた。
収まりきるはずがない、と言うかそもそも何かを収納するスペースなど無いはずの、手のひらに載るほどの金属片の山から人が出て来たようにしか見えなかった。
白い羽が舞い散る中、軽装な鎧と仮面を身につけた、有翼の女性が床にひっくり返っていた。
前転の途中で壁にぶつかった子どものような、情けない格好で。
純白の翼に、屋内の明るさならぼんやりと見て取れる頭部の後光。
何より、相対するだけで心洗われるような聖気……否、神気。
天使である。
「あああ、もうなんだい、奇跡も融通が利かないね。
もうちょっと着地のことを考えて……」
悪態をつきながら、純白の羽が積もった床の上に起き上がって、天使は仮面を脱ぎ捨てる。留められていた淡赤の髪が、ばさりと広がった。
「……ディアナ?」
「キャサリン! あんたキャサリンか!」
そして天使は、キャサリンの姿を見ると、歓喜と共に抱きついた。
立って向かい合うと、彼女とキャサリンは頭一つ分以上の身長差があって、ちょうどキャサリンは胸に抱き寄せられた格好だ。キャサリンが窒息しないか心配になるほど固い抱擁だった。
「あれまあ見違えたよ、美人になるとは思ってたけど予想以上だ!
しかも、なんか……」
ようやくキャサリンを離した天使……ディアナは、彼女の肩に手を置いて、しげしげと眺め溜息をついた。
「……大人になるのも当然か。本当に久しぶりだもんねぇ」
幼少期のキャサリンが親しかったという冒険者。
ウィルフレッドも、以前関わった奇妙な事件で、ディアナの声だけは耳にしている。
その時はすぐに別れてしまったが……
「では……ディアナ、あなたがディレッタの戦乙女?」
キャサリンの問いは、会話をかなり省略していた。ウィルフレッドは思考を置いていかれそうになる。
ネジ一本、バネ一つに到るまでバラバラになったゴーレムを見て、その完成図を頭に思い描くような芸当だ。
異界に囚われた二人に賜わされた、奇跡の助け。ディアナが死んだ時期、ディレッタに天使が現れた時期。神の視座からして、ディアナをルネにぶつける戦略的有用性と底意地の悪さ……
確かに考えてみれば諸々がピタリと合致する。
「ああ、そうさ。
なんだか知らんが、あんたに会っとくよう上から言われてねえ」
「上って……」
「上さ」
三人揃って天井を見た。
その遙か上に命令者がいるのだろう。ディレッタの聖王などではなく。
「あんた、ケーニスの官僚になったんだって?」
「はい。
……その、私の居場所をディレッタに……」
「言わないよ。
そういう命令は来てないからね、だったらディレッタに肩入れする理由も無い」
あっけらかんと、ディアナは笑って、虚空に手をかざす。
次の瞬間、彼女はお上品な蜂蜜酒のボトルと、宝石を埋め込んだ豪奢な盃を持っていた。
「ま、積もる話の前に一杯どうよ。もう飲める歳だろ。
城の蔵から、一番いいのをかっぱらって来た」
「では、お言葉に甘えて」
「チーズだの干し肉だの、無いかい」
「携帯食料を使わなくても、何か食堂で用意してもらいますよ」
二人が平然と酒盛りの酒盛りの準備を始めるに到っては、ウィルフレッドはもう、開いた口が塞がらない。
ディアナはまあ分かるとして、旧知の者が天使になっていきなり目の前に現れたのに平然としているキャサリンはどういう神経なのか。彼女の気性を把握しているウィルフレッドでも、驚き呆れて感服する有様だ。
「なあ、君の心臓はミスリルでできてるのか?」
「そんな、人をゴーレムみたいに言わないでよ。
私だって人並みに驚いたりするわ」
「あれが旦那かい」
「そこまでご存じで?」
「上から情報が回ってきたんでね、今ならあんたの今日の下着の色まで言い当てられるさ」
「まあ」
ディアナは髪を掻き上げて、ぴたりとウィルフレッドの前に立つ。
ウィルフレッドだって背が低い方ではないのに、目線が合うほどだ。
こうしてディアナに相対すると、一つ一つの所作に力が満ちているように見えて、神気だの聖気だのという曖昧な概念とは別の気迫をウィルフレッドは感じた。
「アタシはディアナ。
元はシエル=テイラの冒険者だったけど、色々あって今は天使をやってる」
「拙者はウィルフレッド・ブライス。
シエル=テイラの誇りある騎士、ユイン・ブライスの息子。
今はケーニス王宮のお抱え冒険者で……キャサリンの、夫にござる」
「よろしくね。
ま、あんたも飲みな。なんかどうも大変な状況みたいだし、ならいっそ飲んじまった方が良い」
言われてウィルフレッドは、自分がフンドシ一枚の姿である事をやっと思い出した。
ディアナは余り気にしていないようだったが、初対面の、しかも女性に見せる姿ではない。慌ててウィルフレッドは服を羽織った。
天使は自ら、黄金色の酒を盃に注いでいく。手酌で飲み慣れた者の手つきだった。
「情報だけは貰ったが、あたしゃ是非ともあんたの口から聞きたいね。
最後に会った後、今に到るまであんたがどうしてたか」
「あの、ディアナ。私からもお願いがあるの」
もじもじと、何事にも果断な彼女にしては極めて珍しいことに躊躇いがちに、キャサリンはディアナにねだる。
「もし……お嫌でなければ、ルネと戦ったときのことを聞いてもいいかしら。
ルネは、どんな顔で何を言ったの? あなたの攻撃にどう対応したの?
それと、ルネの魔法を浴びたり、あの呪いの剣で斬られたりしたのよね? どんな感覚だったか教えてほしいわ!」
「そんなことに興味があるのかい?」
「ええ、だって私はまだ死ぬわけにいかないんですもの」
ウィルフレッドには、今度こそキャサリンが何を言っているのかよく分からなかった。




