[5-44] 化学的な罠
救貧騎士団の歴史は古い。
ディレッタ神聖王国が今の形になる前から、それは存在した。
聖典に曰く、人の社会は、国は、富むべきである。
何故ならそれが魔物と戦う力になるからだ。
しかし現実には、どうしようもなく貧しい状況というのが存在する。富が偏ることもあれば、ただただ全てが足りぬ場合もある。
なればこそ助けねばならぬ。なればこそ救貧騎士団は存在する。
エドフェルト侯爵領領都、テイラ=カイネ。
支援物資を満載したディレッタ神聖王国のキャラバンが街門をくぐると、待ち構えていた市民は歓声を上げた。
まさか自分だけ先に貰えると期待しているわけでもなかろうが、大路の真ん中を行進する馬車に皆がはしゃいで寄ってくるものだから、脇を固める騎士たちが威圧的に睨みをきかせ、押しのけなければならないほどだった。
――これでいい。皆の命は救われ、ディレッタは信頼を回復する。
現在は事実上、ディレッタの行政府となっている旧領城の城壁上から、オーレリオはオペラグラスで市街の様子を観察していた。
此度の救貧騎士団派遣は、父であるクリストフォロと協力し、オーレリオが主導となって企画したものだ。
時を同じくして西アユルサが(つまり実質的にはジレシュハタール連邦が)人道支援をぶつけてくるという奇妙な成り行きになって、サミュエルからも『今更無意味ではないか』と詰られたものの、動き出した計画は変えられないし、変える必要も無い。
結果としてそれは正しかったのだと、オーレリオは久方ぶりに市民の明るい声を耳にして、胸をなで下ろしていた。ディレッタのすることが『物足りぬ』と、皆で文句を言っていたはずなのに、こうなると現金なものだ。
「10年前を思い出しますな」
「ええ。全く懐かしい……」
「卿が救貧騎士団を率いて我が街へやってきた、あの時の心強さは今でも鮮明に覚えております」
したり顔で共に街を見下ろしているのは、エイルスという男だ。
ずる賢い狐のような顔をした男で、実際その本性もずる賢い狐のような男だった。
彼はかつてエドフェルト候に仕えていた騎士で、今は領都テイラ=カイネの代官をしている。エドフェルト侯は10年前から空位のままで、ここは実質的に王宮直轄領。エドフェルト候の代官とは名ばかりで、エイルスは王の代官だった。
もっとも、より正確に言うなら王宮付き信仰促進官サミュエルの子飼いで、ゆえに今日の地位があるようなものだ。つまり彼はサミュエルの代官と言うべきか。
御用聞きの商人みたいに、ディレッタ騎士に媚びを売って回る生活をしているが、彼は名よりも実を取る性質で、満足している様子だった。
もちろん、そんなだからエイルスは、潔癖で四角四面なオーレリオとはそりが合わない。
――油断ならん男だ。
こいつは確か10年前も、救貧騎士団の物資を勝手に差配して、意図的に『余り』を作り出して商会に払い下げていた。
総督閣下の覚えがめでたかったために、有耶無耶になったが……
オーレリオが救貧騎士団を動かすのは二度目だった。
一度目は、このシエル=テイラへ赴任するのと同時。“怨獄の薔薇姫”が国を滅茶苦茶にした末、ディレッタの騎士団に敗れて逃げ去った、その直後だ。
市民生活の立て直しは急務であり、救貧騎士団が必要だった。
あれは有意義な仕事だったが、その難しさも知った。次々に『足りないもの』が見つかって、手のひらから命がこぼれていくような感覚に苛まれたものだ。
救いを行き渡らせることの難しさも身にしみた。全員分用意したはずの食料が、全員に行き渡らないのは、当たり前だった。原因の一部はエイルスのような輩だが、決してそれだけではない。
だがそれでも、救えたものには意味があるのだと己に言い聞かせるしかなかった。
「では、私はこれで。
物資の配給と共に炊き出しを行います故、それを手伝って参ります」
「あなたが、自ら?」
「かの聖人クトニウスも辻説法から信仰の道に入り、雨降れど雪降れど、野を歩き人々に寄り添う生き方を貫いたのです。
私如き不肖の身が、それをせずしてなんと致しましょう」
「ご立派なことですな」
エイルスは鼻を鳴らす。
この男にしては随分抑えた皮肉だなと、オーレリオは思った。
* * *
何のかんので、オーレリオもまた、この地では知れた顔だ。
なにしろ弟がいろいろな意味で有名だったし、オーレリオ自身ディレッタ進駐部隊のナンバー2でもある。
そのオーレリオが街頭に顔を出すとなれば……市民が喜ぶかは別として、話題性はあった。
「さあ、シエル=テイラの皆様。
これなるは神の愛。神の慈悲。我らではなく神が施すのです。
故にどうか、ご遠慮なさいませぬよう」
オーレリオは自ら大鍋をかき回し、湯気立つ具だくさんの豆のスープを、魔土器(地の元素魔法で作った使い捨ての食器)によそう。
此度の救貧騎士団が施すのは、冬越えの物資。
人々は災害に遭ったわけではないのだから、今宵の宿や明日の飯には、まだ困っていない。
それでも炊き出しをするのは、温かな飯こそが人の心に火を灯すからだ。
炊き出しをする広場は大賑わいで、鍋はいくつも用意しているのに、次々空になっていく。
「……騎士様。私のような卑しき身の上であっても、お慈悲に縋れるのでしょうか」
炊き出しに並ぶ者の中に、悪い意味で人目を引く女が居た。
外套の下に見え隠れする、派手なのに安っぽい服。ケバケバしい厚化粧。なのに、手負いの野良犬のようなしょぼくれた雰囲気がつきまとう。
彼女がどういった類の生業を持つか、オーレリオは問わずとも分かった。
ディレッタ神聖王国に娼婦は存在しない。
……ことになっている。
現実的に、娼婦やそれに類する者が居ない状態など実現不可能で、色々と名前や建前を変えてまかり通っているのだが、とにかく公的には存在しないことになっている。
そしてディレッタは支配下に置いた国に対しても、『人道化』を推し進めている。
今のシエル=テイラ王国で、売買春は違法であった。
オーレリオの目の前に居るその女は、明らかに娼婦の格好で、つまりその時点で罪人であった。
だがオーレリオは、微笑む。
「もちろんです。
罪には償いを、苦難には救いの手を。そこに矛盾はございません。
……おい、あれを」
オーレリオは背後に声を掛け、芋の皮を剥いていた従騎士に、判子に似た器具を持ってこさせた。
「お手を拝借致します。
目立たぬよう、手首の内側に印を付けます。痛みはありませんよ」
救貧騎士団のやり方である。
罪は見過ごせぬ。しかして、罪人にも救いを施す。
故に、罪人と分かれば、印を刻んだ上で施しをするのだ。
それを見て女は、身を引いて渋った。
「騎士様。私が、この烙印の意味を知らぬとお思いですか」
「ご存じでしょう」
「でしたら尚のこと、酷でございます。
この印を持つ者がどう扱われるか、あなたこそご存じですか」
「それは償う者の証。罪を問うためのものではありません。
あなたなりの償いが済んだら、神殿にて懺悔なさい。さすれば印は消してもらえるでしょう」
娼婦である事は罪だが、盗みや殺しのような重い罪ではない。
救貧騎士団の前では問うに値せぬ、印だけ刻んで放免するような罪だ。
これは慈悲である。
だが、女は食い下がった。
「私たちは、闇に生きる者の庇護無くば、仕事ができません。
ですがディレッタに膝を折る者は、警戒され、疎まれるのです。官憲に首輪を付けられたイヌではないかと」
たとえば娼婦が、客の男に殴られたとしよう。
その時、衛兵に助けを求めれば、自身も罪を問われることになる。
だから彼女らは、犯罪組織などの庇護下で仕事をする。用心棒代を彼らに支払って。
それこそが真の罪であると、オーレリオは考えていた。彼女は彼女で必死なのかも知れないが、人の生き血を啜る犯罪組織の肥料となっているのだ。
「どうか、これ以上の罪を重ねませぬよう。
当座の糧であれば、我らが施せましょう。その先は……そうですね。
今のシエル=テイラ王国は、我がディレッタ神聖王国の制度を元に、人々の暮らしを安定させるための様々な新制度が導入されています。
新たに仕事を探すこともできましょうし、その間の生活にも援助がございましょう」
「騎士様」
彼女の両手が、オーレリオの左手をさっと取り上げて包んだ。
寒風に吹かれた彼女の手は冷たいが、こそばゆく柔らかい。相手に快感を与える触れ方を分かっている。
「物事はそう、都合良く行かぬものです。
烙印を恐れ、この場にやっても来れぬ者すら居ると、分かりませぬか」
「……手を」
目を潤ませて訴える女を見て、オーレリオの心は凍てついていく。
我慢にも限界というものがある。
まして、こんな媚態で自分の同情を引いて、厳格に運用するべき制度を曲げられると思っているなら、それは侮辱であった。
「みだりに誘惑的な所作をすることは、サキュバスの道。悪しき振る舞いです。
手を、お離しください」
「騎士様。あなたは酷いお人です。
ではどうか、私の骸に祈ってください。私があなたより長く生きることは、きっと無いでしょうから」
女は獣のような目でオーレリオを睨み付けると、ヒールを慣らして去って行った。
「…………難しい、ものだな……」
不意の突風が過ぎ去った後のように、オーレリオは一息つく。
問題は複合的だ。自分と相手、どちらかが折れれば良いというものでもなかろう。
救えぬものは、救えぬ。
* * *
その晩、オーレリオは突如高熱に襲われ、左手が腫れた。
そして二日後に回復して公務に復帰した。
急な体調不良の原因は判然とせず、何者かの呪いすら疑われたが痕跡は見受けられず、結局、疲労によるものではないかと診断された。




