[5-36] 伝播する怖気
テイラ=ルアーレに近い、とある街道宿にて。
この地方を冬に旅する者は、普段であれば、少ない。
だが今だけは違った。降り積もる雪でも隠しきれぬ足跡が、街道に残っている。
何らかの事情や優柔不断さゆえに、ギリギリまでテイラ=ルアーレに残っていた者らが、戦いを前に逃げ出した結果だ。雪に負け、力尽きて死んだ者もあることだろう。
途上の街道宿は、いくら宿代をつり上げても客が飛び込んでくる、降って湧いた書き入れ時だ。もっとも宿の主もとっくに逃げ出しているのだから、誰も金など取らないが。
避難民たちはベッドに入りきれず、部屋にも入りきらず、食堂の暖炉の前でテーブルクロスにくるまって眠る者もある程だった。
朝になれば人々は三々五々、宿を出て行く。みんな気が急いて、朝飯もそこそこに飛び出していく者もあった。
ある者は、西アユルサが作ったキャンプを目指す。ある者は、ディレッタが拠点とするウェサラを目指す。
その中で、日が高く昇ってもグズグズと、宿に居残る一団があった。
本来なら二人用の部屋に十人ばかり、ひしめき合って座る男どもが居た。
「いかがです?」
「西アユルサと話ができる奴に、繋ぎを付けようとしているところだ。
いつ返事が来るかは……分からぬが」
「ここにだって、いつまでもは居られないぞ」
ハルゼン伯の名代の騎士・キルベオと、配下の民兵たちだった。
彼らはテイラ=ルアーレの戦いから逃げ出し、鎧を捨てて避難民に紛れ、ここまで来たのだ。
「くそっ!
いっそ、あのまま王城が落とされていれば……」
兵の一人が、いらついた様子で煙草を吹かした。
ベーリ王が討たれていれば、逃げた者こそ勝者だった。だが戦いは続いた。敵前逃亡か、ともすれば裏切り者として、処断される立場になった。
邪悪なる魔物の軍勢との戦いを前にして、逃げ出したのだ。神の尖兵を自負するディレッタ神聖王国にとっては許しがたい罪だろう。戦いが切羽詰まっている状況だ。人心を引き締めるため、見せしめに処刑されることもあり得る。
「どっちが勝つと思う?」
「考えても仕方がない。
どうなっても生きて逃げられるように、やり方を考えるんだ」
兵たちは声を潜め、囁き合う。
家族とともにこの国を脱出し、ディレッタの手が及ばぬ西アユルサへ亡命することが、彼らにとってひとまずの希望であった。
キルベオは曲がりなりにも騎士だ。多少の人脈はある。
伝手を使って状況をどうにかしようと計っているところだった。
今は待つだけだ。
じりじりと時間だけが過ぎていた。
そんな中、部屋の扉が急にノックされた。
「なんだ?」
「まだ宿に残ってる奴が居たのか?」
部屋の中の全員が、氷像のごとく制止する。
反射的に、剣に手を掛ける兵もあった。
キルベオたちは、勝手に宿に上がり込んで勝手に泊まっている立場だ。鍵も持っていない。
それなのに部屋を閉めて返事もしないのは、相手が誰であろうと、かえって不審に思われるだろう。
「私が出よう」
キルベオは腰の後ろに剣を隠し持ち、もう片方の手で扉を開けた。
「はい。どちら様でしょう」
「あなたが頭を垂れるべき相手です」
「何?」
扉は砂の如く崩れ散った。
廊下に立っていたのは、着古した様子のみすぼらしい防寒着を纏う少女だった。
どこにでも居そうな、野暮ったい雰囲気の少女であったが、彼女がさっと上着を脱いだ瞬間、彼女の首から血が噴き出して滴る。そして彼女の目と髪が、冷たく輝く銀色に変じた。
「あ、ああ、あっ……!?」
それは、死であった。
生きとし生ける者全ての原初の恐怖を背負う少女であった。
キルベオの手は震えて剣を取り落とし、後ずさって尻餅をついた。
ここは暖炉が燃える部屋の中なのに、一瞬で猛吹雪の中に放り出されたような、寒気と心細さをキルベオは感じた。
「旧王都の戦いより逃げた者ら、ですね」
少女は部屋の中を睨め回す。
目が合った一瞬、キルベオは冷たい氷の鎗で頭を刺し貫かれたようにすら思った。
――何故、ここに。
いかなる不運か、偶然か。
“怨獄の薔薇姫”。
亡きエルバート王の遺児にして、この地に攻め寄せた魔物どもの首魁。
「わたしに剣を向けず、彼方へ逃げ去るのであれば、その苦難を罰として赦そうと思っていました。
ですが、見つけてしまった以上は放ってもおけません。
シエル=テイラの騎士たるなら、正しき王権に従いなさい。
さもなくば、今ここで、わたしの手で誅します」
キルベオはどうにか呼吸をした。
もう逃げられないと悟るまで、流石に、長い時間はかからなかった。
ディレッタに捕まるのと、どちらがマシだろうか。
「……一つだけ。
我らは、生きてまた家族に会うため、戦い、そして逃げたのです。
どうか、お守りください。我らの、家族を」
慈悲を請う以外に、できることはもう、何も無い。
ある意味でキルベオは覚悟を決めた。
* * *
骨だけの狼が二頭、雪の上を走っていた。
体重が軽いスケルトンは、雪に足を取られにくい。
足にカンジキ状の靴を履かせて重さを分散すれば、道無き雪山も平気で駆け抜ける。
背中の鞍に跨がるのは、ルネとトレイシーだ。
ルネは邪神のお告げを受けて、今後への布石を打ちに行った。
補佐として随行したトレイシーの出番は、幸いにも無かったが。
「感想は?」
「半信半疑だね。
悪い人ではなさそうだったけど、どこにでも居る平凡な騎士……だと思った」
ルネ自ら勧誘しに行った、脱走兵の一団。
その頭目であるキルベオについて、トレイシーは身も蓋もない感想を述べた。戦局を左右する重要人物だと言われても、半信半疑だろう。
「だけど彼を放っておいたら、うちの脱走兵と結びついて、育つんだって」
ルネの行動は、邪神のお告げによるものだった。
キルベオなる騎士を手中に収めよ、と。可能であれば自ら出向き、畏怖を刻むのが望ましいと。
「寄せ集めでしかなかった集団の、便宜上のリーダーになる。曲がりなりにもまとまってしまうことで、片手間に排除できるものではなくなる。
寄せ集めは長じて軍閥となり、癌のように膨れて、祟る。そして彼自身も、水を吸うスポンジのように、経験から学び……」
そうなるのだと、ルネは聞いた。
自分で説明していても、夢物語に思われた。
「信じられない?」
「まあ、ボクら隠密衆も、情報を集めて知識で分析して、未来を予測するからね。
それだって何も知らない人には予言みたいに聞こえるはずだ。
もし世界の全てを見て、知っているなら……桁違いの精度で予測ができる。そういうことかな」
トレイシーも頭を抱えて悩んでいたが、彼の考えを聞いてむしろルネの方が得心した。
意思と知性を持ち、目的を与えられ、世界を演算し続ける計算機……
神というものの性質を考えるなら、なるほど、そんなこともできるだろう。
それからしばし、風を切る音だけが聞こえる中、二人は骨狼を走らせた。
トレイシーが幾度か、何か話そうとしてやめたのを、ルネは彼の感情から察知した。
“竜の喉笛”のことを、聞こうとしたのかも知れない。
結局、彼が何か言い出す前に、狼は目的地に着いた。
針葉樹の合間から、空に向かって立ち上る廃蒸気が見え隠れする。
西アユルサが作った避難民キャンプだ。
ここに、サトゥワという下級騎士が居る。
キルベオと同じく、戦いから逃げ出した騎士だ。だがこちらは勧誘ではなく殺害が必要だと、お告げが下った。
サトゥワは騎士よりも詐欺師の才能がある男で、戦いの前から、『自分はシエル=テイラ亡国に伝手がある』と大嘘を吹聴し、密かに金と人を集めていたそうだ。
だが、このままでは嘘が真になってしまう。ルネの軍隊がいかに鋭い剣でも、上下左右四方八方を同時には斬れないのだから、処分する手が足りない。最悪よりマシな選択として、詐欺師でも懐柔して味方として使うことになる。さすればやがて、祟るのだ。
そこで今、ルネ自らが至高の呪いを施し、他への見せしめとする。この誅戮によって、後に続く戦略級の問題を、事前にいくつも帳消しにできるというのだ。ならルネ自らが出張る意味はあった。
……ミアランゼなら代役になったかも知れないが、彼女は今、動ける状態ではない。八人に分裂したまま全員暖炉の前で丸くなっている。『わたしははたらけます』とニャーニャー合唱するミアランゼたちを振り切り、籠に放り込んでルネは出かけてきた。
ルネは魔法で幻を被り、先程と同じように、くたびれた避難民の少女に化ける。
これは憑依の技ではなく、ただの魔法による変化だ。
その場しのぎの誤魔化しだが、ルネはここに、更なる技を組み合わせている。自ら生み出した異界を外套のように被り、世界を遮断することで、邪悪な気配を悟られぬよう防いでいるのだ。
ルネがさっと手を振ると、雪の上に燐光が迸り、転移の魔方陣を描く。
目眩。そして次の瞬間には、二人は真鍮色の街の中に居た。
薄暗い行き止まりの路地から出た瞬間、弾けるようなざわめきが、押し寄せた。
ルネは随分と久々に『活気のある街』というのを見た気分だった。
そこは大都市の目抜き通りには及ばないが、しかし、この大きさの街には本来あり得ないほど賑わう商店街だった。
真鍮色のパイプが縦横に走る、箱形のプレハブ建築の店舗が並び、その合間を人々が行き交っている。
売られているのは食料品や生活雑貨だけでなく、書籍や蒸気銃まで。ジレシュハタール連邦から持ち込まれた品だろう。もちろん金は必要だが、儲けが出ているのか怪しい程度には、安い。
このキャンプに逃げてきた者らは、蒸気暖房と配給食で、ひとまず命だけは繋げる。
だがここでは金さえ出せば、列強の一角が持つ桁違いの豊かさに触れることができる。金が無い者も、目の前にぶら下げられたご馳走に焦がれることができる。
西アユルサが国全体の蒸気化を進め、事実上ジレシュハタール連邦の一部として経済発展の兆しを見せていることは、この『東側』でも知られている。それを見せつける展示場だった。
「……じゃあ、ボクはここで。
用件が済んだら合流するよ」
「分かったわ」
今日、トレイシーは(彼にしては非常に珍しいことに)、キザで中性的な少年の装いをしていた。
この地には、かつてのトレイシーの知人が山ほど居る。己を知る者に気づかれぬよう、裏を掻いた扮装をしているのだ。
黒板消しで文字を消すかのように、彼の姿は人混みに消える。
ルネは目の前で見ていたはずなのに、魔法的感覚と『感情察知』能力を使ってようやく彼の動きを追跡できるほどだった。誰もが意識の外に追いやるような、街の景色の一部にトレイシーは溶け込んだのだ。
あくまでもトレイシーは、少し特殊な生い立ちの人間に過ぎないはずなのだが、ルネには時々、彼の技こそが奇跡に思えた。
「あっれぇ」
何しろ唖然と感嘆してトレイシーを見送っていたので、ルネは少し、気づくのが遅れた。
自分に意識を向けている者が居る、と。
「ねぇ、お嬢ちゃん。あなた、見た目通りじゃないよねぇ~?
何者ぉ?」
「!」
朗らかに笑いながら、酔っ払ったような胡乱な口調でルネに声を掛けてきたのは、奇妙な女だった。
背が高く、分厚い防寒着を着込んでいても分かるほどの、エヴェリスと勝負できそうな豊満体型。
小洒落た黒縁眼鏡の奥の目は、常に色が変化し、虹色に移ろう。
だが目の色など、誰でも表面的に分かる、彼女の奇妙さのほんの一端でしかなかった。
――こいつ、心が読めない……って言うか……
他者の感情を読めるルネだからこそ、分かった。
ドブ川の汚濁のように、ありとあらゆる激情の入り交じった混沌が、彼女の中に存在すると。
何故、こんなものを抱えて平然としていられるのか。
否……平然としていられること自体、壊れている証だ。
即ち、彼女は狂っていた。




