[5-33] 破滅
ダストシュートを滑り降りて飛び出すかのように、ルネは空間の狭間を抜けて、シエル=ルアーレの指揮所にある軍議卓の、自分の椅子の上に着地した。
「戦況は!?」
「姫様!?」
軍議卓には、何層にも分かれた都市内の接続図と、周辺の地図が広げられていて、エヴェリスとアラスターはそこに『盤上君主』の駒を並べて戦況を分析しているところだった。
天使を異界に引き込んで戦っていたはずのルネが、いきなり降ってきたのだから、流石に驚いた顔だった。
「敵は……」
「ミアランゼに任せた」
「えええ!?
ミアランゼは、混合体と言えど吸血鬼よ!?
それを正真正銘の戦闘用天使に……」
「大丈夫」
ルネは、エヴェリスの言葉を遮った。
「大丈夫だから……」
戦塵に煤けたスカートを握りしめて、ルネは言った。
どれほど危険かは当然分かっている。ミアランゼ自身も、おそらく。
だがルネはミアランゼの意地に賭けた。
実際に剣を交えて分かったことだが、ディアナは一時的にルネに勝利できても、逃げ去るルネを追い詰めて、消滅させるほどの力は無い。身に宿す奇跡の格が違うのだ。
彼女だけで最終的な勝利を掴むことは不可能。だと言うのに彼女が単騎掛けをした(させられた)意味を考えるなら、ルネがディアナの相手をすること自体が戦局を傾ける危機だ。とは言え、彼女を城の中で暴れさせるわけにもいかない。
……もはや、『何を失うリスクを選ぶのか』というだけの話だ。そしてルネはミアランゼの意地に賭けた。
「分かったわ……
次の手だけれど、旧王都からの一時撤退を進言するわ」
「現状だと、旧王都を奪還し損ねた時点で敗北よね?」
「もちろん。勝利に望みを繋ぐ転進よ」
いつも楽しそうな参謀も、今宵ばかりは鋼の堅さと稲妻のひらめきを言葉に宿す。
ふと気づけば、エヴェリスは制服代わりの白衣の下で、暴力的なサイズの胸部に堅くサラシを巻いていた。激しく動いたときに邪魔にならぬための備えだ。大変珍しい姿だった。
「旧王都を押さえるには時間と魔力が足りない。『天使』に対応するため、兵を戻し始めてたんだもの。
しかもこっちは想定外に防衛陣地をフル稼働させた上に、動力炉も止められたからね……
ディレッタが退却ついでに、旧王都に置いてた防衛用の魔石をほとんど持って行ったのも、こうなると痛いわ」
「なら、その対処は」
「姫様に魔力を供給していただいて王都の非常動力源にすると同時に、このまま着陸させて睨み合う形になる、かな」
ルネは出力の方もそれなりだが、単純に、魂に蓄えられる魔力の量が常軌を逸している。中規模都市の地脈にも匹敵する、戦略レベルの魔力を個人で蓄えられるのだ。
言うなれば、最後のへそくりだった。
エヴェリスの提案の意味を、その先の展開を、ルネは必死で頭に描いていた。
ギリギリの逆転劇によって全てひっくり返されそうだったところを、泥仕合に引きずり込むまでは再逆転できる。
「今度こそ本当に退路が無くなるのは、まあこの際、いいとして。
多分ディレッタは旧王都を『毒餌』にする気で動くでしょうね。
腹ペコの私たちは、それを食べずに居られないけど、食べたら祟る毒餌よ」
エヴェリスが非常レバーを引くと、指揮所の壁の一面が、ぱっかりと開く。
直径1メートル近い、白銀の注連縄みたいな物体が、そこにあった。
ミスリル製の魔力導線だ。この浮遊都市に魔力を循環させるための大動脈の一部である。
敢えてこの場所に導線を露出させられるよう、設計してあるのだ。
「毒餌だろうと消化して、血肉にするしかないんでしょ!」
ひんやりと冷たい導線に、ルネは手を突く。
そしてそこに、蒼雷を迸らせ、魔力を流し込んだ。
* * *
「はあああああっ!」
ミアランゼが腕を振り下ろすと、漂う血霞はミアランゼより巨大な鉤爪付きの巨腕を模り、叩き付けられた。
血霞よりも赤い花弁が、巻き上げられて舞い飛んだ。
仮面の天使は、引き裂かれ、叩き潰される寸前で爪の下をくぐり抜け、駆け抜ける。
そして銀鞭が閃く!
鎗か、あるいは矢の如く。
串刺しの一撃は、血霞を蹴立て、真っ直ぐミアランゼに向かう。
鮮血のガラスとでも言うべき、邪気の障壁が展開されるが、それは脆く砕け散る。
次に、虚空に生み出された血霞の剣が、銀鞭を撥ね除けようとするも、へし折られる。
そして銀鞭がミアランゼを貫く刹那。
ミアランゼは砕け散った。
自ら数百のコウモリに変じて、銀鞭の直撃を防いだのだ。
無数のコウモリは散開し、砂嵐か竜巻かという勢いで旋回飛行。
仮面の天使は即座に銀鞭を引き戻し、うなりを上げて振り回す。軌道上のコウモリは全て、銀鞭に触れるなり濡れ紙のように破られ、灰となって散った。
だが、同時に。
コウモリの飛翔に紛れ、バラバラと何本も、鮮血を固めたような鎗が降ってきた。
天使の頭上へと。
「……っと!」
仮面の天使は、銀鞭を引き戻しつつ走り出す。
攻城弩の弾かと見紛うほどの大鎗が、地を揺るがして突き立った。天使は駆け抜け、右に左に急転回。上空からの攻撃を正確に見極めて、紙一重で回避していく。
そして遂に避けきれぬ一撃へ、鋭く銀鞭を打ち付け、邪気を破砕。
ミアランゼは既に、天使の背後に居た。
避けられ、地に突き立っていた鎗を手に。
散っていたコウモリが集い、急速に実体を形作る。
「せいっ!」
鮮血の鎗が、裂帛の気合いと共に突き出される。
仮面の天使は身をよじり、辛うじて一撃目を回避。戦装束の帯が裂けた。
二撃、三撃。左手の手甲だけで穂先を受けて、逸らす。
そして銀鞭が、ミアランゼの鎗を絡め取った。
瞬間、間近に突き立っていた鎗をミアランゼは尻尾で掴んで引き抜き、横薙ぎの一撃。
光と闇が交錯した。
二人が飛び離れたとき、ミアランゼの片手は灰となって散っていた。手首から穢れた血が溢れ出し、失った手は即座に再生する。
仮面の天使は片翼を切り飛ばされていた。その傷口から黄金の光が湧き出して、翼はすぐに元通り回復した。
「よくやるねえ……」
仮面の天使は、再生させた翼の調子を確かめるように動かしつつ、感心と呆れが混ざったような溜息をついた。
「吸血鬼は弱点が多すぎる。
ご近所の神殿の聖印でも大火傷するってのに、天使と戦おうなんて無謀もいいとこよ」
「黙れ!」
体力を削り合う展開だった。
それを互角の戦況とは言えない。吸血鬼にとって、天使の一撃は重すぎる。
だがミアランゼは、退かず踏み込んでいく。
「姫様の振るった剣を! 負った傷を! どれほど知っている!?
それが実を結ばんとする今になって現れて、訳知り顔で説教か!
愚弄の極みだ!!」
「一理あるね」
「!」
天使が、何か変なものを蹴りつけた。
ミアランゼの攻撃でもがれた、翼の残骸だ。
蹴り上げられたそれは、瞬きの間に、光の矢に姿を変える。翼を切られる寸前に、何か仕込んでいたようだ。
そして同時に、銀鞭が襲い来る。
ミアランゼは、マントを翻すように闇を巻き上げて、光の矢の威力を減衰させ、被弾を許容し、より致命的な銀鞭に対処することを優先した。
及第点の回答を出したと言えよう。
それでも力が及ばなかった、というだけの話だ。
光の矢がミアランゼの脇腹をもぎ取った。
銀鞭が鮮血の鎗に打ち払われて軌道を乱した。
その時にはもう、仮面の天使は闇の障壁を突っ切って、ミアランゼに飛びかかっていた。
そして、足だけで抱え込むように組み付く。天使らしからぬ泥臭い体術だ。そのままミアランゼを押し倒した天使は……いつの間にか、片手の手甲を外していた。
指部分の装甲を真っ直ぐに伸ばして固めた手甲を、彼女はナイフの如く、逆手に構えて持っていた。
吸血鬼には弱点が多い。
その中でも、存在を完全に葬り去る致命的な(もとより命無き者ではあるが)弱点と言えば、清らかな日光と、心臓への杭打ちである。
躊躇いも容赦も遅滞も無い一撃!
手甲の杭が、ミアランゼの左胸を貫き、地に縫い止めた。
ミアランゼは、血ではなく灰の塊を口から吐く。
「でもそりゃ、あんたがお節介するんじゃなくてさ、あの子が自分でアタシに言うべきこっちゃないのかい?」
「お……のれ……」
「悪いね。
仕事は仕事なんだ」
ミアランゼの伸ばした手は、指先から脆く崩れていく。
あと一掻きすら、届かず。
灰が散った。
真っ白な灰が花を薙ぎ、静かな雪のように、赤黒い世界を染めた。
天使は息を整えるように、じっと佇み、墓標の如くに突き立った手甲の杭を見ていた。
「……ルネの友だちを減らしちまったか……」
天使の吐息に、舞い散る灰が乗って、細くたなびく。
そこに突然、血が飛沫いた。
ずんぐりと太短い投げ槍によって、仮面の天使は腹部を貫かれていた。
背後から。
背中側から。
「ゆだんしたな、てんし」
仮面の天使は、突き刺さった鎗に手を掛けたまま、ぎこちない動きで振り返る。
ミアランゼはそこに居た。
人間で言うなら、二つか三つの幼児の外見。身体は羊水の如き粘液にまみれ、メイド服ではなく、黒く艶やかな獣毛を纏う、生まれたままの姿で。




