[5-32] 不死
赤黒いペンキをぶちまけたかのように、瞬時に、ファンシーな景色が塗り変わった。
一瞬の後、そこはもう、トレイシーの部屋ではなかった。
赤い赤い闇の中。
滅びの薔薇が咲き乱れ、もはや肉塊と化した虜囚たちが架台の上で苦悶し続ける。
現世とはズレた場所に存在する異界。かつて創成に使われた、奇跡の力の欠片によって自らの法を形成し、以て生み出す閉鎖空間。
ルネは自らが作り出すその場所を、二つ名から採って『怨獄』と名付けた。
「こいつは結界……じゃないね。なるほど、異界を作り出してるのか」
異界の風景を見て、ディアナは顔をしかめる。
だが、もちろん、怯みはしなかった。
足下を確かめて(ルネからは、咲き乱れる薔薇の花を踏んでも痛めないか確認したようにも見えた)、それからルネの方へ向き直る。
「……来な。そうやって見てても、戦いは終わりやしないよ」
ルネは挑発に乗った。
血を蹴り、咲き乱れる薔薇を散じ、突進した。
まずは一太刀。
踏み込みながら剣を振……ろうとした瞬間、それに被せ、機先を制して銀鞭が飛んだ。
まるで意思を持つかのように自在に、銀鞭は真紅の魔剣に絡みつく。
ルネは即座に、魔剣を捨てた。
これはルネが自らの血と魔力から生み出したもの。いくらでも生み出せるし、使い捨てて惜しいものでもない。
むしろディアナが鞭を逸らされた格好だ。
銀鞭が引き戻されるより早く、ルネは手の中に二本目の剣を生み出して、次の一撃。
否……ディアナの判断が早い!
白銀の手甲が火花を散らし、魔剣の側面をこすり、擦れ違うように拳撃を繰り出す。
そして、硬質な響き。
ルネは、腹部を狙った一撃を、三本目の魔剣で受け止めていた。
ナイフのような小さな魔剣だ。自ら生み出す武器なので、大きさも形状も自在。
大小の剣による二刀流は、古今東西に見られる型だ。左手に持った小剣を牽制用や、盾として使うのだ。
ルネは二本の剣を鋭く交差させ、乱撃を繰り出す!
火花が散って、その度にディアナの踵は地を削り、花を散らした。
白銀の手甲に細い溝がいくつも刻まれ、ディアナの頬が一筋、赤く血を吹いた。
「剣技が全く違う……デュラハンの本能的武術じゃあないね。学んだのかい」
仮面の下に覗くディアナの口元が、ほころぶ。
少し嬉しく思った自分が、ルネは悔しかった。
「イアアアアアアッ!」
至近距離からのディアナの回し蹴り、は、空を切る!
≪短距離転移≫で背後に回り、ルネは回避と同時にカウンターを仕掛ける。
背中への一撃を見舞う刹那、回し蹴りからワンテンポ遅れて、その後を追うように銀の流星が迸る。銀鞭が格闘の隙を潰していた。
さらに、背中の翼が白く冷たく輝く。
振り向きざま、ディアナは翼から聖気の光を撒き散らした。
銀河の如き、さんざめく光は……鈍い!
「ん!?」
ディアナが訝しむ声を上げる。
神聖魔法の出力が、思ったほどに出ていないのだろう。
ここはルネの世界。神の支配を拒む法の世界。己の身に宿した奇跡のみが、力だ。
ルネは聖気の抱擁を正面から受けた。
生きとし生けるものを祝福する光は、邪悪に染まったアンデッドの存在根拠を灼き溶かす。
だが、耐える! 痛手ともならず!
攻撃の動作を歪め、体捌きで回避しようとするディアナの脇腹を、魔剣が切り裂く!
舞い飛ぶ血の中で聖気と邪気が相殺され、火花が散った。
――浅い……!
不意打ちの機会だった。生かし切れなかった。次はもう、こんな隙を晒してくれないだろう。
ルネは畳みかけた。
真紅の魔剣を地面に向けて、叩き付けるように突き刺す。
途端、ディアナの足下より魔剣の切っ先が、二十以上は同時に突き出す!
「おっと!」
掠り傷を負いながらも、ディアナは跳躍、羽ばたき逃れる。
ルネは鋭く魔剣を振った。
その剣圧に圧されたように、薔薇の花が一斉に散り、花吹雪が舞い上がる。
紅い嵐は竜巻となって吹き荒れ、花弁が寄り集まって、陽炎の如きルネの幻影を模った。それが、一人、二人……十人余り。
花吹雪の中、ルネの幻影が一斉に、中空のディアナに襲いかかった。
包囲攻撃に対し、ディアナは鋭く滑空しつつ、世界を裏返すほどの勢いで銀鞭を打ち振るう。
直撃を受けた幻影が、輪郭を失って花吹雪となり、散る。
しかし、それを捨て駒として、次が、さらに次が、交錯! 斬り付け、散る!
「はああっ!」
飛行の態勢を崩したディアナ目がけ、ルネ本体が飛びかかる。
滑空するディアナの更に上へ跳躍し、逆手に剣を構え、突き降ろす一撃。
辛うじてディアナは回避。だが、思い切り地に突き立った剣は、エネルギーの余波を爆発させる。
赤黒い力の波動が一閃!
白い羽根が散った。
弾き飛ばされたディアナは、輝く羽根を撒き散らしながら地を転がって、弾む鞠のように鋭く受け身を取って飛び起きた。
「……光あれ!」
ディアナは天に向かって銀鞭を打ち振るう。
逆しまの流星の如き、一筋の光が天に昇り、それが幾重にも分裂して降ってきた。
だがルネには当たらない。狙いがバラバラだ。
真の標的にルネが気づくまで、一瞬、間があった。
それはまさしく、光の爆撃。
天落つる流星はルネでなく、決闘場の囲いみたいに立てられた架台を、磔られた肉塊ごと破壊した。
「!!」
「読めたよ、絡繰りが」
歯抜け状態になった架台を見回し、ディアナは獰猛にほくそ笑む。
「妙に手強いと思ったんだ……
こいつらの悲鳴が、あんたの燃料。それが、この異界の法則だろ。違うかい?」
ルネは沈黙で肯定するしかなかった。大正解だ。
……普通に考えたら、まだヒントは与えていないはず。だが、戦いの中でディアナもまた、尋常ならざる感覚によって勝利の端緒を探っていたのだろう。破られるのがここまで早いのは予想外だった。
『怨獄』に囚われた者の苦しみを、ルネは己の力に転化していた。
さらに言うならば、これは魔力不足のシエル=ルアーレを動かすための動力炉でもあった。
戦いの流れが途切れた。
凍り付いたように構えを取ったまま、二人は対峙する。
タネが割れたことで戦いは膠着した。我慢しきれずに手を出した側が不利になる、という予感があった。
「ディアナ。
あなたは……仇討ちをしに来たの?」
「一応、そうだと言っとくよ。
別に間違ってはいないからね」
仮面の下の表情はよく見えないが、その仇討ちは決して復讐ではないように思われた。
彼女にもまた、裏切れない義理と、通すべき道理がある。そして、それと、ルネへの感情はまた別だ。
「なあ。あんたは、何故戦う?
……仮に、だよ。アタシを殺したことで、もう後には退けないと思って突っ走ってたんだとしたら、ホレ、この通り。あたしゃピンピンしてるさ。
神聖王国の税金で悠々自適の暮らしだし、酒だって毎日飲んでる。心配も義理立ても無用さ。
そして、あんたが戦いを止めるなら、もうアタシがあんたと戦う理由も無い。
アタシの仕事はそこまでなんでね」
意地の悪い言い方だと自覚している様子だった。
経緯を考えれば当然のこと、彼女もルネに甘いばかりではない。
ルネもその程度でしおれては居られない。
「わたしは……あなたを殺した後も、ずっと戦ってきた。
そして、わたしの痛みも所詮、この世に数多存在する『よくあること』の一つだと知った……」
そう。
人生を滅茶苦茶にされて、家族もろとも命を奪われることさえも、ありふれた悲劇に過ぎなかった。
だからこそ救われない。悲劇を看過し、そういうものだと納得する口実を、誰もが探している。
「命を、幸せを、奪われる者が居るなら、奪う者が居る。
その非道を正義と呼ぶのなら、誰がそれを正すの?
神にも法にも裁けないなら、悪の手で罰を下す。
……驕れる正義に、悪の鉄槌を」
それだけはきっと揺らがないはずだと、ルネは信じた。
どれほど遠くへ来ようとも。
いかなる非道に手を染めようとも。
何を犠牲にしようとも。
ディアナはじっと身構えたまま、じっとルネの言葉を聞いていた。
「真面目な子だねえ……本当に……」
そうしてしみじみ、溜息をついた。
「知ったような口をきくな、天使。
お前が姫様の何を知っている」
そこに、雪の中から掘り出したナイフのように、冷たく尖った声が降ってくる。
赤黒い闇を裂いて、どこからか、闇に溶ける黒装束のメイドが落ちてきた。
体重が無いかのようにふわりと、彼女は二人の間に割って入り、着地する。
「ミアランゼ……」
「姫様、遅参をお詫び致します」
背中を丸めて耳を伏せたまま、ミアランゼは詫びる。
「この場は私にお任せください。
此奴は……なんとしても私が倒さねばならぬようです」
そう言ってミアランゼは、己の両腕に爪を立て、メイド服の袖ごと引き裂いた。
吹き出した血霧が、折り畳まれた竜の翼の如くに、ミアランゼを纏った。




