[5-31] 霊界理論
歪んだ空間の中の部屋は、ほんの数分前までの戦いが嘘のように静かだった。
トレイシーは立場上、守るべき秘密が多いことから、私室に関しても特別に取り計らわれていた。都市内の全てから隔離された場所に存在し、トレイシー自身の操作によって呼び出せるのだ。
魔法のケトルに入れた水は、注いだときにはもうお湯に変化していた。トレイシーは部屋の隅の小さなキッチンで、まず茶葉を入れずティーポットにお湯を注ぎ温める。
ディアナは丸っこい椅子に、窮屈そうに座って待っていた。窮屈なのは、背中の羽根のせいばかりではあるまい。ディアナは可愛らしい小物よりドワーフとの飲み比べを好むような豪快な人物だった。触れれば破れてしまいそうな、淡い夢の如き空間など、彼女には居心地悪かろう。
「ま、あんたが生きてて良かったよ。
シエル=テイラ崩壊の大混乱で、アタシの知り合いもずいぶん死んじまったろうからね」
防具のような拘束具のような、重厚な仮面を弄びつつ、ディアナは軽い調子で言った。
「ボクが今何してるか分かっててそれ言う?」
「楽しそうで何よりじゃないか。
苦労はあるかい」
「向かうところ全て困難だらけだよ。
でもそれは苦労じゃあないよね」
「ちなみに待遇は」
「まあまあってとこ。それから定期的な延命措置」
「延命?」
堅く訝しげな声を、ディアナは上げた。
会話には流れがあると、トレイシーは思っている。
溝を掘ればそこに水が流れるように、一言一言で、会話の流れ着く先を規定できると。
そのための道具としてトレイシーは、気軽く、自分の身の上について明かした。そんな自分にトレイシー自身も少しだけ驚いていた。
「若さと美しさを保つ代わりに、ボクは長く生きられないはずだった。
そこをイイカンジに誤魔化して貰ってるんだ」
「へえ。
そういう話、前は誰にもしなかったじゃん」
「秘密なんて、明かしても良いこと無いじゃーん?
……って、思ってたんだけどね」
「今は違うのかい」
「変わらないよ。ただ、ちょっといい加減になっただけ」
それを会話の手札にできる程度には、余裕ができた。
ねじくれた話にも思えるが、かつての生き方は今と比べればまるで綱渡りだ。少なくともトレイシーの体感としてはそうだった。
「確か蒸留酒が好きだったよね」
「ああ……」
背中越しにディアナに問いつつ、トレイシーは棚をあさる。
その、トレイシーの脇の下を、銀の風が吹き抜けた。
まるで白銀の茨。
ディアナの持つ特徴的な得物、『滅月会』の神聖武器、銀鞭である。
それは一直線に壁に突き刺さり、棚の奥に隠されていた諜報支援ゴーレム『スカイフィッシュ』を粉微塵にしていた。
「ヒュウ」
「そーゆー無粋なのは抜きだ」
ディアナが手首を返すと、銀鞭はするりと壁から抜けて引き戻され、ディアナの腕に収まった。
まるでカメレオンの舌だ。
トレイシーはそのまま、何食わぬ顔で茶を入れた。
ディアナの分にはたっぷりと酒を混ぜ、エルフたちが花の蜜から作る奇妙な焼き菓子と共に出した。
「キミが現れたことで色々と、ボクの中で引っかかってたことが繋がって理解できた。
なるほどって感じ」
「何がどう?」
「姫様がテイラ=ルアーレから脱出し、ウェサラを滅ぼすまでの空白の一ヶ月さ」
ディアナが茶で咽せそうな顔になった。
咽せなかったのは、もはや呼吸など不要の肉体だからだ。
彼女はティーカップの嵩が減った分、小瓶からさらに酒を注ぎ足して混ぜ、それを一息で飲んだ。
「そこまで察してるなら、説明は要らないか」
旧シエル=テイラの崩壊に際して、おそらく当事者以外で最も早く事態に感づいていたのはトレイシーだろう。
だがそのトレイシーにとっても謎の部分があった。
ルネが語らぬものを問うわけにもいかない。
ディアナの声音と表情は、悲しみともやるせなさとも言えるものだった。
それがトレイシーの推測を肯定していた。
「……キミは、神様に会ってきたのかい?」
トレイシーは話題を変えた。
これ以上、掘り返す意義を感じなかった。
神、という単語を聞いた瞬間、ディアナの眉が跳ね上がる。
「ああ。でもね、なんて言うか、ありゃ……思ってたのと違ったよ。
奴には善意も悪意もありゃしないんだ。必要とあらば、どうとでも振る舞えるけれど……人の尺度であれを理解しようとするのが間違いだね。
本質はゴーレムみたいに自動的で、なのに、最高の陰謀家のように……全てを操って世界をどこかへ持って行こうとしてる」
せき立てられるようにディアナは言葉を紡ぐ。とりとめのない説明でも、自分の感じたことを余さず伝えようと。……トレイシーならそれを拾いきれると。
実際、時間は無かった。お互いにとって奇妙な小休止だ。その間に全て伝えなければならないと、焦っているようでもあった。
「会ったこと無いが、邪神とやらも多分同じだろう。
歯車が二つ噛み合って、人も魔物も、その狭間で挽きつぶされてく……
歯車を作ったのは誰だ? 己を裂いて世界を作ったという『中庸の者』とは何で、何のため、こんな馬鹿みたいな仕掛けを……?
神々の名の下で戦ってる限り、勝っても負けても、めでたしめでたしにはならないって予感がするのさ」
「神話陰謀論かい」
「知らないよ、そんなの。
あたしゃそういう話はさっぱりなんだ。
だから、この話は預けたよ」
「引き受けよう。それは多分、ボクの仕事だ」
「そうかい。……ああ、やっと清々した」
皮肉げに顔を歪めてディアナは溜息をつく。
元は人の身でありながら今や天使となり、大神の手先であり、ディレッタ神聖王国の客分である彼女が、こうして信仰に対する最も深い疑念を呈しているのだから確かに皮肉な話だ。
聖職者でありながら、彼女は神よりも人の力と酒を信じる者であった。それは今も変わらないようだった。
「でも、差し当たって今は、戦うしかないわけだ」
大きな焼き菓子を丸ごとすっぽり口に入れ、肉食獣の食事みたいにワイルドに咀嚼しながら、ディアナは立ち上がる。
「だろ? ルネ」
ディアナは振り返る。
そこに銀色の少女が居た。
「……どうして」
迂闊に身体を動かせぬかのように、崖っぷちに立ったかのように、ルネの足はこわばっていた。
ルネは戦場でももっぱらドレスを身に纏うが、それはうっすらと戦塵にまみれていた。
「どうして、あなたが」
いくつもの意味を持つ『どうして』だった。
何故ここに居るのか、という意味でもあったし……
トレイシーが察するに、今のルネの戦いの、本当の意味での起点は、ディアナの殺害……彼女との離別だ。その大前提が覆されたのだ。
「まだ知らなかったなら覚えときな。
世の中ってのは、大抵、一番起こってほしくないことが起こるんだ。
誰かが仕組んでいるなら、余計にね」
重く無機質な、仮面状の防具を、ディアナは着け直した。




