[5-6] リメンバー・ミー
『なるほど、今はあなたが長老でしたか。
純粋な獣人は老いるのも早いものですね』
『お前っ……ミアランゼか、本当に!?
何故、このような……このような、姿に!?』
長老ウルドーニは、ただただ愕然とする。
若い戦士たちは戸惑った様子だ。ミアランゼを知っているのはウルドーニだけらしい。
ミアランゼは、問われて笑った。
『私は奴隷商人によって北へ売られ、下劣な人間貴族の遊び道具として被虐されておりました。
そこを姫様がお救いくださり、姫様のお力を授かったのです』
ミアランゼは笑ったのだ。恐怖と苦痛と屈辱の記憶であろうに、笑って話した。
ウヴルには、その理由が分かってしまった。すべてを精算できると信じているから笑って話せるのだ。
『……ご覧ください』
ミアランゼは手近な戦士が丁度持っていた鎗を取り上げる。
ウヴルが見るに、人間の国ならば近衛兵が持つような、ミスリル製の上等品だ。
それをミアランゼは、ぽいと投げ出した。
次の瞬間、その鎗は、地面から飛び出した手に握り潰されていた。
ミアランゼが己の手を握りしめた瞬間、鮮血の霧が巨大な手を模って同じ動きをした。
そしてミスリルの鎗を藁のように、三つ折りに握り潰したのだ。
『ひっ』
ウルドーニも、部族の戦士たちも、ウヴルの手下さえも、息を呑んだ。
今潰されたのは一本の鎗だったが、強固な鎧であっても同じように握り潰せるはずだ……中身ごと。
鮮血の霧は陽光の中で溶け消え、ミアランゼは嘆息する。どこか皮肉げに。
『力を持つ、というのは素晴らしい心地ですね。
まるで全てが思い通りになるかのように感じます。
ああ……あの人間たちの気持ちが私にもやっと分かりました』
彼女は笑っていたけれど、嬉しそうではなかった。
『ですが現実には、私の力も、姫様でさえ……
シエル=テイラ亡国の総力を以てしても、届かぬものが数多く存在する。
どうすれば、それに勝てると思いますか?』
猫獣人たちは答えなかった。
正解が分からないからではなく、恐怖に舌すら凍てついているからだ。
そしてミアランゼも最初から、答えなど期待していない様子だった。
『多くの力を束ねるしかありません。
……小さな力も合わせれば巨大になる。現に人間の国は、それをしているのですよ。
人間という種に、人間の国に、力がある。だから彼らは獣人に何でもできる。
人間の群れに抗う、大きな群れが必要なのです』
まるで氷の剣で突き刺すかのように、ミアランゼの言葉は鋭くまっすぐだった。
揺るぎ無き、欺瞞無き、信念の表出。
正義を語る言葉であった。たとえそれが、人の世において、『悪』の名に値するものであったとしても。
『私は、それを理解した上で……その大義を胸に抱き、姫様の下に参じてほしいと思います。
抑圧によって結ばれた主従の絆など、枯れ葉のように脆いですもの』
『うおおおっ、姐御! 姉御と呼ばせてくだせえ!』
「おい、ムールォ、口を挟むな!」
話を聞いていたムールォが、たまらなくなった様子で快哉を叫び、ウヴルは慌ててそれを制した。
幸いミアランゼが気分を害した様子は無かった。
とは言えウヴルにもムールォの気持ちは分かる。
ミアランゼの言葉はウヴルにも響いた。
闇奴隷の身分を嘆き、ウヴルが幾度も考えた事だった。
そもそも獣人の繁殖力は人間と同じか、それ以上だ。
だと言うのに人間が獣人より遙かに多いのは、獣人が短命だからではない。国家という高度な群れを作る能力において、人間が極めて秀でているためだ。
数の多さはそのまま力となる。
故にこそ必要なのだ。
虐げられし者たちの王が。
力と魅力と物語を兼ね備えた指導者が。……その下に存在する国が。
『どうか、シエル=テイラ亡国にいらしてください。
希望は、そこにあります』
ミアランゼはウルドーニの目を覗き込んで、語りかける。
痛みを知る故の、優しい労いだった。
『ただし、あくまで人族世界の側に立つのでしたら、私はあなた方をここで殺します』
『な…………』
そして。
聞き流してしまいそうなくらい自然に、完全に脅迫でしかない言葉を口にした。
『あなた方には幾ばくかの恩がありますので、慈悲として先に警告いたします』
『なん、待っ、何故そうなるっ!』
『誘いに応じぬ者に関しては、「殺せ」とも「殺すな」とも命じられておりません。
ですので、これは私の判断です。
この期に及んで人族世界を選ぶなら、やがて味方より敵になりましょう?』
ウルドーニは絶句。
ウヴルですらあんまりだと思った。
確かに合理的な考え方ではあるのだが、普通そこまで割り切った考え方をできるかと問われれば、また別の話だ。
『……殺すかも知れませんので先に聞かせてください。
父さんと母さんが殺されて、私が攫われた日……
あなたは何をしていましたか?』
ウヴルもミアランゼの過去の出来事を概ね察した。
詰問、ではなかった。
彼女が言うとおり、今すぐ殺すかも知れないから先に聞いただけなのだろう。単純に、本気だから。
どう受け取ったかは分からないが、ウルドーニは喉の奥で言葉を反芻する。
それから、絞り出すように答えた。
『奴らは周到だった……他のどんな奴隷狩りよりも、だ。
我々は気づかなかったのだ。
お前にはそれだけの価値があったのだろう。準備に時間と金を掛けて、最悪の仕事をするだけの、価値が……』
ごまかしではないだろう。
ウルドーニの言葉にウヴルは、掛け値無しの悔恨を見た。
あまりにも多くの色を混ぜて、真っ黒になった絵の具のように、ミアランゼからは感情を読み取れなかった。
ただ、少なくともあと十秒間は指一本動かしたくない、呼吸すらしたくないとウヴルは本能的に感じた。己の吐息一つですら、ミアランゼの意識に触れたくないと。
『……お前の父が人間の旅人など助けなければ、お前の存在が森の外に知れる事も無かっただろうに』
『私が村の中に住めていたら、あんな無茶な狩りはできなかったでしょう』
そして会話が途切れた。
何を責めても、何を嘆いても、過去は変わらないのだ。
『あなたが姫様の牙となるならば、つまらぬ遺恨は水に流します。
さもなくば、私の運動にお付き合い頂きます。
卑劣なだけの奴隷狩人より、あなた方の方が良い戯れになりそうですから』
猫獣人たちは沈黙した。
逃げる者さえ居なかった。
ミアランゼの言葉に心打たれたからだろうか?
彼女が恐ろしいからだろうか?
あるいは……己らは既に戦いの渦の中に存在するのだと。目を背けても戦いは消えないのだと、感じたからだろうか。
「怖えな」
「ああ」
ムールォがこぼした呟きに、ウヴルは頷いた。