[4b-37] ファックオフ民営化
デボールは控えめに言ってブチ切れていた。
老齢のドワーフであるデボールは、魔法動力研究の権威である。
少なくともデボールの実績を知る者からはそう評価されている。問題は、そうして評価してくれる者の絶対数が少ないことだが。
かつてはステルウェッド大で教授職にあったが、今はモルマ工科大学にて特任教授として研究チームを率いていた。
ところが大学の経営体制が変わるなり、『成果が出ていない』ことを理由に、一方的に契約解除を告げられたのだ。
この場合、成果とは、大々的に報道されて大学の評価を高めるようなものや、金を生み出すようなものだ。この共和国では金こそが正義だった。
デボールの研究は多くの応用技術を支えるものだが、ひたすら地味だし、それ自体が直接的に金になるものではない。
数十ページの資料を作成して、デボールは己の実績と研究内容について訴えたのだが、教育省出身の大学経営委員は三分間で資料を流し読み、デボールの目の前でごみ箱に捨てた。
デボールは普段入らないような安酒場で、本日十本目の酒を飲んでいた。
頭の中で渦を巻くのは、どうしようもない現状への怒りと、屈辱。なおも折れぬ矜恃と使命感。
デボールの研究は道半ば。そしてデボールの代わりは居ない。ここで研究が動かなくなれば、技術の進展が遅滞する。それはこの世界にとっても、共和国にとっても良くないことだ。
「あちらの方からです」
飲み続けるデボールのテーブルに、まだ頼んでいない十一本目の酒が置かれた。
安い酒場で精一杯高価な、家庭的な高級ワインだ。
店員が手で示した方をデボールが見やると、そこに居たのはスーツを着た男……役人的で堅い雰囲気のエルフだ。
「ゴゴトック博士、お会いできて光栄です」
「酒をありがとう。だが、儂に何の用かね」
「デルク動力機研究所の者です。
単刀直入に申し上げましょう。あなたと、あなたの研究チームを丸ごと買いたい」
「ほ……!?」
デボールが、何を言われているか即座に理解できなかったのは、酒のせいでもあるまい。
思ってもみないほど、あんまりに都合の良い話だったからだ。
唖然とするデボールに、男は名刺を差し出した。
『デルク動力機研究所』という、彼の所属機関は、聞いた事も無い。男も詳細について何も言わなかった。
だがそれが、何であるかは、あまりにも明白だった。
名刺の片隅に印刷された、赤薔薇の印章が、全てを物語っていた。
「何を、しろと?」
名刺を恐る恐る受け取って、デボールは睨むようにエルフの方を見た。
「概ね現在のお仕事のままで結構です。
ただ、こちらからお願いしたい研究があるのと……
後は少し、現場で研究の実践をしていただきたい」
酔いはとっくに醒めていた。
デボールが今考えているのは、己が研究者として死ぬべきなのか、真っ当とは言えない道で生き延びるべきなのかという事だ。
* * *
ク=ルカル山脈の東の果て。
シエル=テイラ亡国、暫定王都シエル=ルアーレにて。
「すみません。
どうしても直接話を聞きたい、と申しておりまして……」
「いいわ。
これも私の仕事よ」
何故か裸白衣姿だったエヴェリスは、服を着ながら王城の廊下を突き進む。
この日、シエル=ルアーレには、スカウトされた学者の一人、デボールが訪れていた。
彼は単独で渡航し、ルガルット王国経由でやって来たのだ。
まだ、彼はスカウトに対しては何とも返事をしていない。こちらの研究施設と待遇を、己の目で見て確認するためだそうだ。
魔物の国と分かって自らやってくるのだから、なんとも度胸があるように思えるが、デボールはもう失うものが少ないのだろう。
それにシエル=テイラ亡国自体、共和国内では既に、そこまで警戒されていないはずだ。人界の倫理の外にあるが、それでも話は通じる相手だと思われているだろうから。
だが、ここで仕事をできるかどうかとなると、また別の話。
そして不安と疑いを払拭するのは、無理だ。国の行く末はしっかりと邪悪なのだから。
ならば示すべきは、身内への誠実さと、仕事の魅力だ。
おろし立ての研究機材が置かれた研究室で、デボールは案内の者らと共に待っていた。
もしデボールが亡国へ来るのなら、与えられる予定の部屋だ。
「デボール・ゴゴトック様。
此度は、我らの申し出に応じて頂けましたこと、心より嬉しく思っております」
「まだそうと決まったわけではないぞ」
デボールは恐れた様子も無く、不遜なほどに胸を張り、エヴェリスと対峙した。
「儂が最も我慢ならんのは、技術というものを一切理解しない、頭がお粗末な輩の下につくことだ。
簡単なテストをさせてもらうぞ。
……チャッタレー予想に関して、最新の知見を述べよ」
「Mmax(1-Mw#2)^Mn、ただしMnが自然数の三乗である場合は1と見做す。
私が知ってる名前は『ターナーの観測特異点定理』だけど」
「は……!?」
その会話の意味を正確に理解できたのは、その場に居る者ではデボールとエヴェリスだけだった。
デボールはしばし、呆然とした。
それから、手の平に指で何かを描いて、すぐにそれでは間に合わなくなった様子で、新品の黒板に勝手に数式を描き始めた。
十分も経った頃、デボールは呼吸を忘れていたかのように、息を切らせて振り返る。
「それは、本当か?」
「ダテに先々史時代から生きてないわよ」
「儂は、儂らはっ……! 今まで何をしておった!
学ぶべきものはここにあった! 既に解き明かされているものを……嗚呼、なんという時間の空費か!」
編み髭の老ドワーフは、目を剥いて頭を掻き毟り、それから慟哭した。
実のところ人界の技術の中には、大戦の混乱を経て遺失したものも多い。
何しろ人族の数そのものが、一時は限界まで減ったのだ。即座に役に立つような技術は多くが現物として残っていたが、遺失したことすら忘れられた技術・理論もある。
もっとも、魔族の側も総じて学問を体系立てることが苦手なので、結果として人族と魔族の技術水準に大きな開きは無い。
そんな中で魔女はただ独り、記録し、記憶していた。
少なくとも、自身の興味が及ぶ範囲の事は。
「私のささやかな蔵書を、見せてあげて良いわ。
たーだーし、一ページでも読んだらもう逃がしてあげないけど」
「か、構わぬ!
儂に残された人生は少ないのだ、最早、一日たりと無駄にできぬ!
研究を三百年分は進めてくれるわ!」
「あっはっは!」
血相を変えたデボールに、エヴェリスは呵々と笑った。
「我々が何なのか、まさかご存知でない?
永遠の時間に興味はありませんかい?」
はっと、デボールは息を呑む。
彼は、その邪悪な提案を、一笑に付さなかった。
「……まあ、すぐに答えを出すようにとは言いませんよ。
ごゆっくりどうぞ」
交渉事では、相手が悩んだ時点で勝ったようなものなのだと、エヴェリスは心得ていた。