[4b-20] バケモノと異教徒は殴っていい
支離滅裂にも思える、シエル=テイラ亡国の策動……
だがそれは確かに、ファライーヤ共和国に大きな波紋を広げていた。
亡国は次に何のために何をするのか、魔物や軍事の専門家が議論し、飲み屋や一杯喫茶の人々も囀り合っていた。
だが、そこには幾許かの他人事感も漂っていた。騒動は起きているが、それは決して、一般市民を無差別に殺傷するような事態にはなっていないからだ。
例外はトルハの街で住民が丸ごと消失した事件くらいだが、なにしろ当事者がほとんど死んでいるので話が広まらない。
共和国政府は僅か二名の生存者から事情を知ったが、その結果、事件の真相に関して口を噤む決定をした。さらにシエル=テイラ亡国関係者も目下沈黙していたので、一般市民はトルハの一件について“怨獄の薔薇姫”の関与さえ知らないという状態だった。
……まあ、事情を知ったなら知ったで、あの標的は特別だったのだと思われるような話だが。
詰まるところ、ほとんどの共和国市民にとって、これは楽しいショーだった。
己の立つ日常が、幻像劇のような非日常のステージに変わっていくのだ。
その興奮、熱狂が、社会に渦巻き始めていた。
だが政府は……特に警察は、浮かれてなど居られない。
社会秩序を乱し法に反する行為があれば、誰が何のためにやったとしても、それを取り締まらねばならないのだ。
神出鬼没に『悪事』を働くシエル=テイラ亡国の次の行動は読めないが、ただ一つ予告されているのが、トウカグラ地下の金貨を再び狙うということ。
必然、それを阻止することが第一の目標となる。やると事前に言われた犯罪行為を止められなかったら、政府と警察の威信は丸つぶれで、国が揺らぎうる大失態だ。
そして金貨そのものの防衛も重大な目標だった。なにしろ街一つ作れるほどの金額である。
既に政府は、トウカグラで土地利用権や建物を買った商会から、補償はどうするのかとせっつかれているのだ。ウィズダム商会から金貨を回収できなければ、財務省は血の涙を流すことになるだろう。
騒がしくなっていく世間を尻目に、警察は金貨を護るための準備を始めていた。
そして、会議は初手から躓いた。
「話は簡単だ。今すぐトウカグラを空っぽにすればいい。さすれば十全に戦える。
どうせもうすぐ無価値になる街だろう?
忌まわしき呪いも、邪悪なる化け物どもも、神の炎で街ごと焼き尽くせばいい」
白地に金糸で仰々しく装飾された、威圧的な聖衣で会議室にやってきたその男は、当たり前のようにそう言って居並ぶ面々を絶句させた。
“聖なる狂犬”『滅月会』。
ディレッタ神聖王国の中央大神殿に所属する、地上最強の対邪悪戦闘部隊。神罰の代行者たち。
その一員、『戒師』の位にあるジュマルレだ。
種族は人間。歳は三十代後半ほど……長生きした方である。天上の輝きを湛えた金髪金目は、度重なる戦いによって、彼の肉体が戦闘聖紋に侵されている証であった。
滅月会の戦闘員は、ほんの百人余り。
世界中を転戦し、時に護りとして駐留し、冒険者では対処が難しい邪悪な脅威に対処している。
特に列強五大国ほど大きく広い国であれば、いつもどこかで邪悪な事件が起こっているもので、(ディレッタ神聖王国と仲が悪いケーニス帝国以外には)滅月会の戦闘員が常駐していた。
ジュマルレは、ファライーヤ共和国に駐留する五人の筆頭格だ。
シエル=テイラ亡国の策動に対応するなら、滅月会の力を借りるより他に無し。
そのため呼ばれたわけなのだが、警察の者たちはジュマルレを溜息で迎えた。
「まず、大前提を共有したいのですがね。
“怨獄の薔薇姫”や、その関係者を討つことは、目的のために必要とあらば採るべき手段に過ぎません。我々の目的はまず、市民への被害を出さぬことです。
これは命だけではなく財産も含まれ、穢された金貨も、トウカグラの街そのものも、可能な限り守らなければなりません」
スーツがはち切れそうなほどの隆々たる筋肉を持つ、黒い肌の大男が、噛んで含めるように述べた。
禿頭であごひげを蓄えた彼はドワーフのような風貌だが、その上背が示すとおりドワーフではなく人間だ。
機動警備課長、オズロ・ゴメス。部下たちからは『アゴヒゲゴリラ』とも呼ばれる、ファライーヤ共和国警察最強の男である。
「特に、あの金貨は守り切り回収できなければ、共和国にとって大きな打撃となるでしょう」
「浅ましい……
人は、死すれば赤の他人として輪廻転生するのだ。なのに神への奉仕より今生の財に執着するとは、なんと醜いことか」
オズロの言葉に、ジュマルレは苦い顔で首を振った。
皮肉ではなさそうだった。彼は本気で言っているのだ。
ジュマルレは子どものように純粋だった。そして、いかにも滅月会らしい物の見方をする男だった。
彼らは、自分たちこそが絶対的に正しいのだと信じている。その正しさは、神の正しさであるのだから。
俗世に生きる人々にとって、滅月会は、時に魔物より異質な存在だ。
対してオズロは個人としての力も持つが、組織内外の政治を知り、社会の複雑さとそれを動かす術をも心得ていた。
もはやオズロはジュマルレとの建設的話し合いを期待しておらず、ディレッタ本国の生臭坊主どもに話を付けて、ジュマルレを制御する段取りを考えていた。彼らはちゃんと俗世のことが分かっている。
頭はお粗末だが、それでもジュマルレはシエル=テイラ亡国の企みを阻むために必要な駒だ。聖なる狂犬が役目を果たすよう、飼い主にはしっかりと鎖を手繰ってもらわなければ。
「地下の浄化には、どの程度の時間が掛かります?」
オズロの問いにジュマルレは、苛立ちを隠さずに答えた。
「破壊するのであれば、今すぐにも。
……それをしないのであれば『涙の杯』が派遣されるのを待つことになる。到着してから七日がかりだろう、おそらくな」
ジュマルレは既にトウカグラ地下の状況を確認している。
その上での、専門家としての彼の意見には、オズロも信を置いた。
あの金貨群が浄化されてしまえば、いくらでも移動させられるのだ。
それまでに魔物たちは確実に金貨を狙うはず。
共和国警察は、なんとしてもそれを阻まなければならないのだ。
* * *
ファライーヤ共和国で最も栄えている都市は『商業首都』ことステルウェッド・シティだが、本来の首都は政治機能が集約されたこの街、リャーティルトゥレ・シティである。
警察庁での会議を終えてジュマルレが帰途に就くと、既に外は暗く、石と鉄で構成された街を街灯が照らしていた。
政治の街と言えど、そこで働く者たちのために娯楽が提供されている。
酒場の賑わいを聞いて、ジュマルレは、居ても立ってもいられないほどの苛立ちを覚えていた。
――俗世の者らはサルにも等しい!!
今や、この世には四億を超えるという数の人族が存在し、大地のほとんどを支配しているのだ! これだけの人が神の教えを真に理解し、邪悪との戦いを行えば、邪神ごとき直ちに滅ぼせるだろう!
だがそうはならぬ! 俗世の者らが驕り、堕落しているからだ!!
ジュマルレは立場上、行政機関などとの話し合いに出る事も多い。
その度にジュマルレは、俗世間の何たるかを感じ、失望する。
いくら戦っても、世界は何も変わらない。
滅するとも滅するとも邪悪は現れ、人はただ目の前の快楽にばかり耽っている。
ならば自分の戦いにどれほどの意味があるのか。腐り熟れた果実の如き世界のため、神の剣となったわけではない。
時としてジュマルレは、邪悪に対する怒りと同じくらいに、俗世間に対する激しい怒りを覚えることがあった。
賑わいから逃げるように歩いて行くと、辺りは少しずつ薄暗く、静かになっていく。
宿舎も目前。
リャーティルトゥレ大神殿の、既に閉ざされている正面入り口を横切ろうとして、ジュマルレは足を止めた。
神殿の扉へ至る石段に、跪く者の姿があった。
それは質素な服装の少女であった。
長い三つ編みが特徴的な、10歳くらいの少女だ。
彼女は神殿の正面を照らす灯りの下、石のように身動きせず神殿に向かって頭を垂れ、硬く手を握り合わせていた。
年端もいかぬ少女が一心不乱に祈る姿は、俗世の穢れに触れてきたジュマルレにとって、心洗われる光景に思われ、感動の余り溜息をついたほどだった。
しかしジュマルレはすぐ、我に返る。
いくら治安の良いリャーティルトゥレ・シティと言えど、この年頃の少女が夜に独りで出歩くのは、あまりよろしくない。
「……もし、お嬢さん。このような時間に独り、ひたむきな祈りを捧げるとは……
あなたは如何なる試練に見舞われているのでしょうか?
よろしければ私が神々の耳となりましょう」
ジュマルレが声を掛けると、少女は頭を上げた。
黒髪黒目で、健康的に日に焼けた少女は、どこか東国風の雰囲気も漂わせていた。
縋るような眼差しがジュマルレに向けられる。
「お話を聞いてくださるのですか? 神官様」
「ええ。そして、お家まで送りましょう」
ジュマルレは少女の手を取り、立ち上がらせる。
いかなる悪漢とて、ジュマルレが手を引くのを見れば、彼女を狙いはしないだろう。
しかし少女は、顔を曇らせ、目を伏せた。
「お家には帰れないの……」
悲しげに、そう呟いて。
「お前たちのせいで」
一瞬の出来事だった。
吹き上がる邪気を感じ、反射的にジュマルレは身を逸らす。
その左胸から肩辺りまでを、深紅の剣閃が斬り裂いた。
それは常人であれば確実に死に至る一撃!
心臓を半分潰されながら未だ命を繋いでいるのは、滅月会の戦闘員に与えられる正義の力……その身に宿した戦闘聖紋によるものだった。
――この邪気は……!? 私とあろう者が気付かなかったというのか!?
たたらを踏み、後ずさり、しかしジュマルレは踏みとどまって腰に佩いた聖剣を構えた。
左腕は動かず、肩の傷は邪気に冒されて不快に疼いていた。
神殿より漏れ出る聖気など、もはや塗りつぶされて微塵も感じられない。
悪魔の口の中にでも飛び込んだかのように、辺りには邪気が渦巻いていた。邪悪との戦いを数限りなく重ねたジュマルレに、なお寒気を覚えさせるほどの、おぞましき邪気が。
その中心に少女が居た。
彼女の手には宝石を削り出したような深紅の大剣。
黒く長かった三つ編みは、銀の輝きとなって解け、その目も凍てつく雪のような色になる。
質素なワンピースのスカート部分には、いつの間にやら、人血の薔薇が浮かんでいた。
「……“怨獄の薔薇姫”……!」
「どうせ話は通じない。血と刃で語りましょう」