[4a-13] 一ノ獄 鎖された街①
列強五大国のひとつ、ファライーヤ共和国は大陸南西部に位置する。
その国土は広く、南半分は張りだした亜大陸となっており、一年中暖かな熱帯気候だ。
共和国北部も気候は充分に温暖で、特にこの季節は蒸し暑く、野外で裸で寝ても凍死はしないだろう。
だが、今ウィルフレッドたちの前に広がっているのは雪に埋もれた石の市街。
吹き付けるのは容赦無く体温と体力を奪い死をもたらす北国の風。
厳しくも懐かしき故郷の風景だった。
「おい、帰り道が無いぞ!」
呆然としていると、最後尾に居た空行騎兵が頓狂な声を上げた。
全員が振り返って背後を見ると、そこには二階建てくらいの小さな塔が建っているだけ。
街壁も、それと一体化した検問所を兼ねた門塔も存在しない。
「なんだこの建物、門塔じゃないのか!?」
「外へ出る道が無い……」
さっき一行は確かに、街壁の通用口から建物内を通って、この奇妙な雪の市街に迷い込んだはずだったのだが、振り返れば元の場所へ帰る道が無い。
石の塔の中は衛兵の詰め所か休憩所みたいな小部屋があるだけだ。建物の中に入れたはずのスカイドッグたちもどこかに行ってしまった。
「この石塔……王都テイラ=ルアーレの防衛障壁展開施設……」
キャサリンは震える白い息と共に呟いて、腰のアイテムポーチ(おそらくマジックアイテムで、コンテナぐらいの容量はある筈だ)から小さな包みを取り出してウィルフレッドに手渡した。
「ウィルフレッドさん、これを」
「……これは?」
「飴です。幻を破る効果があります。私などより戦いの修行を積んだあなたの方が効果があるでしょう」
言われるまま包みを開いて、ウィルフレッドは毒々しい緑色の飴玉を口に含んだ。
焼きすぎた魚の焦げを砂糖漬けにしたようなおぞましい味がしたが、それだけだった。
「何も変わらないが……」
「同じく」
帝国兵たちも何か妙な札だのなんだの取り出して、幻を破る術を使っていたようだが、冬黎は首を振る。
「ならば、これを」
今度はキャサリンは、青銅色をした小さな独楽みたいなものを取り出した。
摘まみ上げていたキャサリンが手を離しても、その独楽は空中に留まっている。
「ほう、『空震独楽』ですか。よくこんなものをお持ちですな」
「なんですかそれは?」
「空中に浮かんで回る独楽です。敢えて複雑な機構を仕込み、繊細な調整によってバランスを保つようになっておりまして、周辺の空間や世界そのものの異常を検知すると」
キャサリンが突くと、その独楽は空中で回転を始め、だがすぐにガクガクと千鳥足のように軸をぶれさせ始めた。
「回り方がおかしい。やはり、ここは……異界?」
「『隠れ里』ですかな?」
「はい。私も専門ではないので確たることは言えませんが」
「俺たち、神隠しに遭ったってのか?」
ウィルフレッドも冒険者として『隠れ里』なるものの存在は知っている。
神々の忘れ物、小さな異界、地上に残る神秘。
危険かどうかは場合によりけりだが、うっかり足を踏み入れれば非常に厄介なことになるのは間違いない。
確かに現状はいかにも、神隠しの物語めいている。
あり得ない景色の中に迷い込み、そこから帰る術を見失うなんて。
「……静かに」
ふと、首の裏を氷で冷やされたように感じ、ウィルフレッドは声を殺して鋭く注意を呼びかける。
闇の中に。
掲げられた松明の明かりを受けて蠢く異形の影があった。
『……ぁ、あア…………い、たい。痛い、痛い、いだい…………』
「アンデッド!?」
うめく声がした。
引きずるような足音がした。
朧に青白い半透明の人影が闇の中から近づいてくる。
それは、なんということもない中年の男だった。
胸部を切り開かれ、腹の皮を剥かれ、顔の穴という穴から血を流していること以外は。
ヒリつく気配を漂わせ、その目つきは明らかに正気を失っており飢狼の如き敵意にぎらついている。
「≪聖別≫!」
「【気刃】!」
空行騎兵の一人が神聖魔法によって仲間に加護を与え、ウィルフレッドは抜刀と同時に練技を行使しカタナに闘気を纏わせる。
魔法の如き武技、『練技』。
一般にそれは武術を極める中で適正のある練技を自然と体得するものだ。魔法と違い、覚えようと思って習得できるものではない。達人の領域に至りながらも練技を持たない者もある。
しかしウィルフレッドが学んだドージョーでは、限られた数ながら『習得・伝授可能な練技』を編みだし、それを教えていた。同じようなことはケーニス帝国にあるという武僧たちの寺院でもやっているとかなんとか。
【気刃】はそうして教えられた技の一つ。カタナに纏わせた闘気によって形無き物すら斬り裂く奥義だ。
「はああああっ! スシ!!」
緩慢な動作で向かってくる悪霊に対して逆に踏み込み、聖気の剣を手にした空行騎兵と共に、ウィルフレッドは斬りかかった。
闘気を纏うカタナが悪霊の肩に触れ……
「なにっ?」
何も、手応えが無い。
まるっきり素振りでもするかのように、ウィルフレッドのカタナは霊をすり抜けた。
同じ事はすぐ隣でも起きていた。
聖気の剣は悪霊に全くダメージを与えられず素通りし、そして敵前で盛大な隙を晒した空行騎兵は悪霊に組み付かれた。
『いだいいいいいいいいいいい!!』
「ああああああっ!」
身も凍るような壮絶な悲鳴が二つ、上がった。
空行騎兵に掴みかかった悪霊は苦悶の叫びを上げながら、綿の塊でも二つに分けるように、信じられない怪力で彼の身体を引き裂いていた。
臓物と鮮血が湯気を立てながら石畳に飛び散り、びちゃびちゃとやかましく音を立てた。
「下がってください! ……≪聖光の矢≫!」
神聖魔法使いの空行騎兵が叫び、聖気の光が闇を斬り裂いた。
短杖から放たれた無数の光の矢は幾何学的な軌跡を描き、一旦広がった後で絞り上げるように一気に収束。悪霊を滅多打ちにした。
だが。
光の爆発を振り払うように、と言うかそもそも何も起こっていないかのように、悪霊はふらふら近づいてくる。
「効かない……? そんな馬鹿な!」
絶望的な声がした。
確かに、強いアンデッドに半端な聖気攻撃では碌なダメージにならないが、これは違う。
一欠片のダメージも与えられていないのだ。
『あ、あ、ああ……』
「ダメだ、逃げろ!」
「キャサリンさん、手を!」
全員が同じ判断を下した。
これだけの精鋭兵と手練れの冒険者が揃いながら、ただ一体の悪霊を相手に踵を返して遁走したのだ。
薄く雪が積もった石畳の道を一行は駆けた。
道には滑り止めの加工がされていて、表面が凍り付かない限りスリップはしない。馴染みのある感覚だった。
「くっそ、しつこいな!」
どこかで見たような、しかし明らかに王都よりも広い、果ての見えない市街を一行はひた走る。
背後を見れば、薄青い血まみれの人影はいつまでも追いかけてきた。
誰が掲げたのかも分からない松明だけが燃えているが、街にそれ以外の明かりは無く、人の気配も無く、どこまでも不気味に黒く暗かった。己の足音ばかりが虚しく高く響く。
――まずいぞ、アンデッドは無限にスタミナがある奴ばっかだ。逃げ続ければまず冬黎のじいさん、次にキャサリンがへばって捕まる。
一塊になって逃げる一行はスピードを上げきれない。
兵たちは冬黎に合わせて走り、最後尾のウィルフレッドはキャサリンを追い抜かないように走っているからだ。
追いかけてくる悪霊は、速度そのものは普通の人が走るのと大して変わらないのだけれど、それでもウィルフレッドたちは逃げ切れず、逃げ切れない以上はいつか捕まる。
「建物に、身を、隠しましょう」
息を切らしながらキャサリンが言った。
「相手は霊体系のアンデッドですよ? そんなの見通されて壁を抜けてくるんじゃ?」
「それは『自覚がある』場合です。生前の感覚に囚われる怨霊も多く……!
あの個体は先程から目視でこちらを追っています!」
言われてハッとしたウィルフレッドは背後を振り返る。
曲がり道なども何度か通ったが、確かにあの悪霊は建物の中を通り抜けてくることもなく道に沿ってこちらを追っていた。
話を聞いていたらしい冬黎が振り返る。
「一旦分かれて隠れましょう」
「了解!」
この人数で一箇所に隠れれば発見されやすくなる。
冬黎の号令で、四辻に差し掛かった一行はさっと三方向に分かれた。
ウィルフレッドは走りながら背後を確認。
悪霊は交差点の真ん中で戸惑うように立ちすくんだ後、ウィルフレッドらとは別方向へ向かった兵の背中を追っていった。
一緒に逃げているのは帝国兵一人とキャサリン。
三人は目配せしあい、ウィルフレッドとキャサリンは道沿いの神殿に、帝国兵は道の反対側にあった商店へ飛び込んだ。
バラバラになって撒くとは言ったが、離ればなれになっては意味が無い。悪霊が他の者を追いかけて行った以上、遠く離れず身を隠し、合流に備えるべきだ。
神聖な領域であるべき神殿は、しかしそのような気配など無い。心を冷たく研ぎ澄ますような聖気の気配が漂っていない。
明かり一つ無い聖堂は、荒れ果てているわけでもないのに廃墟の風情を漂わせる。
ウィルフレッドとキャサリンは礼拝堂を駆け抜け、講壇脇の階段から二階へ上がり、おそらく神殿長の執務室であろう場所に飛び込んだ。
キャサリンが息を整える間にウィルフレッドは窓から外を覗く。
「撒いた、か……?」
暗い通りに人影は無く、耳が痛いほどに静まりかえっていた。
悪霊に追いかけられていた兵がどこまで逃げたかは不明だが、上手く隠れて目を眩ませたと信じたい。
一息ついてウィルフレッドは、抜きっぱなしだったカタナをようやく納めた。
「なんだったんだ。俺の練技ならともかく、神聖魔法すら効果が無いなんて」
サムライにあるまじき若干の恐怖と、釈然としない思いをウィルフレッドは抱えていた。
冒険者としてウィルフレッドは幾度かアンデッドと戦っている。その時はつつがなく勝利を収めていたし、対処は今回も間違っていなかったはずだ。だが、奇妙なことに全く手応えが無かった。
息を落ち着けたキャサリンは、鋭い目をして虚空を睨み、何事か考えていた。
「ウィルフレッドさんの練技は、『気』の圧力によって邪気の結合を破壊・四散させるため。神聖魔法は邪気を聖気で中和するためアンデッドに効くんです。
……これは、いずれも『アンデッドは邪気によって維持される』という前提あっての対処法です。
ですがここが異界であるなら全く異なる法則でアンデッドが成立するかも分かりません。もし、この世界そのものがアンデッドの存在根拠であり、ゴーレムを操るように怨霊を操っているのだとしたら……」
「無敵なのか!? そんな馬鹿な!」
敵が強いか弱いか、脅威の度合いはいかほどかという話になるならまだ対処のしようもあるが、そもそもどう足掻いても倒せない相手なんて詐欺のようだ。
弱き者を守り助けるため、力を求めサムライを志したウィルフレッドにとって、それは絶望的な仮説だった。
「分かりません……この世界がどのような法則で成り立っているのか次第ですから。
確たる事を言うには、まずこの世界のことを……」
『……調べ……ないと…………』
突然。
石と雪の香りを塗り替えて、むせ返るほどに鉄臭く生臭いニオイがウィルフレッドを包んだ。
震える蒼白な唇が、聞き覚えのある女の声で、ウィルフレッドの肩口で呟いていた。