[3-34] 赫たる怒りは天を蓋いて
その場に居た者は全員が弾き飛ばされ、木っ端のように転がって、ある者は壁に叩き付けられた。
時に赤黒く、時にどす黒い宵闇の紫の色となりて、瘴気の嵐が吹き荒れる。
魔物たちは邪気を媒介として、邪神によって歪められた存在。すなわち邪気への親和性を持つ。
では、魔物ではない者たちに邪気がどう作用するかと言えば、基本的には毒だ。
邪気に冒されれば、生命としての仕組みが狂う。
ただ邪気の濃度が高い空間に居るだけでも人族にとっては害となるのだが、積極的に加害するべくより攻撃的に邪気を練り上げた毒気を『瘴気』と呼ぶ。
吹き荒れる瘴気に翻弄されながら、エルフたちは次々に吐血していた。
吸血鬼は、瘴気の暴風の中心に立っていた。
赤く染まった両目、そして腕と腹の傷から血煙が吹きだし、それは瘴気となって邪悪な風を巻き起こす。
毛皮のように艶やかな黒髪とメイド服が風にはためき舞い上がっていた。
彼女は嗤っていた。
声を暴風に掻き消されるとも、彼女は間違いなく、咆えるように嗤っていた。
この瞬間を祝福するかのように、呵々と。
群れ集っていた『映し身』は、風に吹かれた煙のように瘴気の中へ掻き消えた。
それらは聖気ではないが『反・邪気』として形作られた存在であり、邪気を浴びせられたことで相殺されて形を保てなくなっていた。
吹き荒れる瘴気はなおも圧力を高め、当然ながら洞の中には留まらなかった。
周囲全てに染み渡りつつも、荒れ狂う風となって吹き出していった。
◇
魔術に通じるエルフたちは、その異変に鳥や虫たちと同じくらいのタイミングで気が付いた。
胸をざわつかせる、なんて言い方ではとても現しきれない。
今まさにナイフを突き刺されているかのような恐怖と痛みと破滅の予感。
大霊樹がミシリと嫌な音を立てたかと思った次の瞬間、そこから瘴気が吹き出した。
穏やかに晴れた空を宵闇の紫が陰らせ、木漏れ日を消し去った。
鳥や虫が騒々しい音を立てて、瘴気に追い立てられるように一斉に飛び立ち、少なくない数が即座に瘴気に捲かれて力尽き、墜落していった。
滋養に満ちた土は大霊樹を中心に、人体の内臓を思わせるようなぬめりを帯びた、泡立つ汚泥と化していった。
運悪く近くに居たエルフたちは危険を感じるより前に倒れ伏していた。
瘴気の混じった風を半端に浴びた木々は、立ち枯れたように色褪せて葉を落とし始めた。
だが、直撃を受けた木々は。
そして爆心たる大霊樹は、それでは済まなかった。
森が悲鳴を上げていた。それは軋み歪む木々が立てる音だった。
整然と調和した姿をしていた木々は、端からその姿を変えつつあった。
奇怪にねじくれて節くれ立ち、黒く黒く、生きとし生けるもの全ての不安を駆り立てるような黒に染まりゆく。それは邪神の信徒たちが『新月色』と呼ぶ、尊き色彩だった。
大霊樹は麓の洞と、幹のあちこちに開いた傷口から瘴気の嵐を噴き上げる。それはまるで人間の街の、鍛冶場の煙突から立ち上る煙のような勢いだった。
螺旋階段のように通路として巻き付いていた太い蔦は鮮血のような赤い汁を垂らし、デタラメに分岐しながら急成長して大霊樹を絡め取っていく。どこかから邪悪な養分を吸い上げているかのように。
見た目にも確かにそれはおぞましいものではあったが、外見的変化に限らない。
黒く染まった異形の木々は本質的な部分で何かを変えられていた。
邪神によって敷かれた混沌の秩序。その一部。
予約済みの破滅への一過程。
万象が塵と消える終末を夢見てまどろむ、呪われし森へと変成していた。
◇
そしてやがて、風は止んだ。
広大な洞の中にはエルフたちが散らばっている。
皆……非戦闘員ですら生き延びている。あの魔法に直接的な殺傷力は無かったのだ。
ただし、それは『無事だった』という意味ではない。
「う、ぐぐぐ……」
「げはっ、げほっ……!」
「……あああ……あああああ……」
うめき声、咳き込む音。
瘴気を焼き付けられた肌は黒紫に爛れ、ある者は視力を失い、ある者は声を失った。
全身を苛む苦痛に立ち上がることすらできず、血反吐の中にのたうつことしかできない。
大霊樹の洞に満ちていた清らかな輝きは消え去り、今はおぞましき闇が辺りを重く満たしていた。
それが自分たちにとって本質的に毒なのだとエルフたちは分かっていた。
それでも逃げ出さなかったのは、単に身動きすらできなかったからだ。
≪赫怒蓋天・七代祟り≫。
世界への報復。虐げられた者の叫び。
その絶対汚染領域は、呪詛の烙印を世界に刻む。天地を穢した邪気は同等以上の奇跡を以てしか打ち消せず、さもなくば千年万年祟り続ける。
己の身に降りかかった悲劇は、この世界にとってあってはならない過ちだったのだと、自己証明するための魔法。
羽虫のように踏み躙られた、たった一人の怒りの具現だった。