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虧 盈(きえい)

作者: 蘆 山Rozan

涼子は神の憐みの愛に、祈りを捧げるのである。

 

 涼子が家に戻ってみると、三年ぶりに来訪していた古賀の伯母が玄関に出迎えて、「お帰りなさい涼子さん。あらステキなお嬢さんになられたわね」

懐かしそうな眼差しを向けてそう言った。

「いらっしゃいませ伯母さま、元気そうでよかったわっ」

そう言う涼子は、顔艶のいい笑顔の伯母が懐かしく思えていた。

「それならいいんだけれども、以前から坐骨神経痛があって歩くのがしんどかったわね。それで拓也(涼子の兄)さんが交通事故に遭って入院されたと聞かされてはいたんだけれど、そんな訳で見舞うことが出来ずにいたんだわさ。でも、このところは少し歩るけるようになって、今日やっとお見舞いに行ってこられたわね」

 伯母はそう言いながら玄関脇にある六十平米程の応接間の扉を開け入って、その中央に置かれたダーク・ブラウン色の重厚なソファに、深々と腰を沈め込む。

 拓也は三ヶ月ほど前に恵比寿駅前交差点の青信号を歩行して横断中に、酒気帯運転手のトラックに巻き込まれて坐骨損傷で入院を余儀なくされていた。


(1)


「今日、私も見舞いに行って来ましたから、伯母様のことは兄から聞きましたのよ。いろいろご心配をお掛けして、本当にご免なさい」

 涼子は伯母に続いて応接間に入り、ソファに並び坐ってそう言った。

「あらっ、一足違いだったわね。それにしても拓也さんの手脚が不自由なままになってしまうだなんて、不憫で慰めの言葉が見つからなかったわさ」

「伯母様っ、兄はきっと治ります」

 兄の再起を信じて疑わない涼子には、治らないと決め付けているかのような伯母の言動が不愉快だった。


「そうだったわ、迂闊な言い方をして本当にご免なさいよ。さっきも弟(涼子の父、康次郎)にバカなことを言って怒らせてしまったし、どうかしているわさ」

「えっ、父と喧嘩っ?」

「いやねっ…」

 伯母が話すには、静恵(涼子の母)が拓也を身篭った時期と重なって子宮体癌だと診断されたにも拘わらず、それでも頑強に治療を拒み続けて命と引き換える覚悟で拓也を産んだ静恵の心痛を察しているが、あっけらかんとしている弟のふやけた表情を見ると、つい八つ当たりしてしまうとのことだった。

「そうなんだ、伯母様」


(2)


「だから、さっき弟に何のかんのと噛み付いてしまったんだけど、むっとした表情でどこに行くのか、荒々しく玄関ドアを『バタン』と大きな音を立てて閉めてさ、外に出ていっちまったわね」

 気丈にそう言う伯母は、後悔というよりも誇らしげな表情のようでもあった。

「兄のことを心配しているのは、父も母と同じではないかしら」

 涼子は、男親と女親の愛情表現が違うのは当たり前ではないかと思っていた。

「解ってはいるんだけど、性分で厭味を言いたくなるんだわさ」

「……伯母様っ、母が兄さんを出産した時、母が『子宮体癌だった』と言ったけど、出産後には癌の摘出手術を受けたのかしら。それに私の出産時はどうだったんですか?」

 涼子は母が癌だったなどとは、これまで一度として聞かされたことはなかっただけに驚きで、それに自分の出産時のことも気になりだして、伯母にそう訊いた。

「ああ、どうだったかしらねえ……」

 伯母は空々しい言い方に変えた。その時、家に戻って来た静恵が応接間のドアを開けると顔を突き出して「帰っていたのね涼子。二度とあんなバカな真似はしないでちょうだい。心配で一睡も出来なかったんだから」

 静恵は涼子をヒステリックな声でそう怒鳴ったが、伯母様の居る手前、すぐに笑顔を浮かべて見せた。

「御免なさい」

「久し振りに古賀の伯母様がいらっして下さったから、今夜はご馳走しょうと買い物をしてきたのよ。ですから、涼子にも料理を手伝ってもらうわよっ」

 静恵は買い物袋を手にぶら下げながらそう言って、キッチンに向かって行った。

「静恵さんは何を怒っているのさっ?」

 伯母は涼子に興味有りげに訊いた。


(3)


「大学テニス部の私の女性友達が関東大会のシングル部で優勝したの。それで、お友達の家でする祝賀パーティに私も招かれて、ほんの少しお酒を飲んだだけで、気分が悪くなってしまったわっ」

「涼子さんは、お酒が合わない体質なのよ。よそ様で体調を崩してしまっては、さぞかし困ったでしょう」

「お友達が『泊まって行った方がいい』と言ってくれたから、母に電話をしてみたんだけど『その喋り方は少量のお酒ではないはずねっ。そんな乱れた姿で他人の家に泊まるなんてことは、絶対に許しませんから』だって。それでも勝手に泊まってしまったわ。だから、今日は直接家には戻りにくいし、病院の兄を先に見舞いに行って、気を紛らわせて来たんです」

 涼子は不満げな表情でそう言い終えると笑顔を見せて首を竦め、舌をペロっと出した後、静恵のいる台所へ小走りに向かって行った。

「お父様はどこかへ出かけた見たいだけど、どこへ行ったのかしらねえ。貴女、知っている?」

キッチンにいる静恵が、涼子の顔を見るなりそう訊いた。

「私が戻った時には、伯母さましかいなかったわよっ」

 涼子は伯母から聞いた話を隠す気は無かったが、伯母の厭味ごとに耐え切れずに父は何処かへ出かけてしまったなどと、敢えて母に言うこともないと思っていた。


(4)


「そう。このところ日曜日でもゴルフに出かけなくなったお父様ったら、気晴らしにパチンコを覚えたみたいなの。当人は家族に知られていないと思い込んでいるみたいだし、知らない振りをしてあげてるの。でも、けちで飽き性でしょう、だから、何時ものように、少し負ければ帰って来るでしょうよ。では涼子、お野菜を洗って刻んで頂戴」

 静恵はそういって、買い物袋の中から赤いピーマンを四つ取り出して涼子に手渡した。更に、「お父様ったら伯母様と言い争いしたんでしょうよ、きっと。昔っから顔を合わせると喧嘩する犬猿の仲だったんだから、久しぶりに会ったところで一向に変わっちゃいない二人なのよ」と言う。

 来客や父の居る時の静恵と涼子の間でも、一見、優しく接しているように見えるのだが、普段、二人っきりで居る時の会話はギクシャクしがちであって、挙句は口喧嘩になることが多かった事を思い出しながらも、伯母と父の間のギクシャクした葛藤もあったのかと知った。

「涼子、ぼんやり突っ立っていないで、早く手伝いなさいな」

「……」

 涼子は、「お母さん」と声を掛けようとするのだが、躊躇する。だが、思い直すと再び静恵の横顔を凝視して、「母さん、兄さんを出産する時期に子宮癌だったのね。私、知らなかったから本当に驚いてるわ」

 涼子は、さほど深刻な問題と捉えていた訳ではないが、それでも、心の中には言い知れぬ妖雲が漂いだしていた自覚があった。見る見る顔が赤らむ静恵だが、調理の手を休めると荒々しくエプロンを脱ぎ捨てた。

「古賀の伯母様ねっ」

 静恵は語気を荒くした。


(5)


「あらっ、別に悪いことを聴かされた訳ではないんだし、そんな言い方しなくっても」

 静恵は涼子の言葉を聞き流しているかのように、そっぽを向けて、しばらく押し黙ったまま立ち尽くしていたのだが、突如、血相を変えてキッチンから飛び出すと、応接間に入って行った。

「この家では拓也の問題で家族は忍び難い思いをしていますのに、涼子に何を聴かしたんですの?この上に余計な波風を立てられては、それこそ我が家は崩壊してしまいますの」

眉間に青筋をたてた静恵から、けんもほろろに言われた伯母は、詫び言葉もそこそこに神経痛とは思わせない達者な足取りで、そそくさと藤倉家から立ち去った。

 誰もいなくなった応接間のドアを閉じて室内に篭ってしまった静恵の動揺振りに涼子は呆気に取られはしたが、不可解さと後悔が入り交じり、心は萎えた。


 間もなく家に戻ってきた康次郎の声を聴きつけた静恵は、何食わぬ顔つきで応接間から出て、玄関口で康次郎を出迎えた。

「姉(伯母)は帰ったのかい」

 康次郎は姉の履物が玄関になかったことで、静恵にそう訊いた。

「ええ、さっき帰りましたんですよ」

「食事もしないでかい?」

「ええ」

「子供のころからオテンバのあれ(伯母)が苦手だよ。未だに顔を合わすと衝突してしまうんだ。さっきもそんな事が有ったから帰ってしまったんだろうけど」

「…」

 静恵は涼子と顔を見合わせて、言葉を詰まらせた。


(6)


「ところで涼子、友達の家であったとしてもだよ、淫らに酔って恥をさらすなんてことは学生の分際で二度とあってはならんことだっ」

 康次郎は静恵の傍らに突っ立っている涼子に一瞥を投げ、そう一喝をした。

「もう大人なのよ。お酒ぐらい皆飲んでるわよ。チョッピリ飲んだお酒で酔ってしまったの。飲みなれない私だけだったんだから。それでも淫らになんて酔わなかったわよ。でも、前もって話しておかなかったことは謝るわ。ご免なさぁい」

 涼子の言葉に安堵した康次郎は、パチンコの負けも重なった浮かない顔が綻んだ。だが、その後に食卓を囲んだ静恵と涼子の白けた雰囲気を感じ取る康次郎は、「今日はどうも、二人の様子が変だ。何か言い争いでもしたというのかね。それとも拓也に何か?」そう訊きながら、恐る恐る静恵と涼子の伏せ顏を覗き込む。

「…今日、伯母様と私は、別々だったけど兄さんを見舞いに病院に行って来たんだわ。けど、兄さんは相変わらず強がりを言っていただけよ。でも知りたくて、担当医には会って見たわ」

「……それで、拓也にその結果を話したのかね」

 困惑顔の静恵と康次郎は、拓也のためを思い重度な症状のことは隠し通していたのだが、涼子から拓也に話されてしまったのかと気になりだした。

「担当医が、『症状についての詳細は、両親によく説明してありますよ』とだけしか言ってくれなかったのよ。でも兄は『隠さんでいい。もうこれ以上は良くも悪くもなりゃしないんだから』と言って、自暴自棄に陥っているみたいだったのよ」

「…」

 康次郎は、無言でパイプ煙草にライターの火を傾けた。


(7)


「担当医から兄に説明してもらった方が、兄さんは思い悩んで卑屈になったりしないんじゃないかって、思ったわ。兄は伯母様に『再起不能になった』と言ったそうよ」

 涼子は、康次郎の横顔に怪訝な眼差しを向けて言う。

「…涼子に隠しておく積もりはなかったよ。ただ医師から、何んとも悲しい説明を受けてしまったことが、未だに信じられないでいるだけなんだ」

「…」

 康次郎の言葉の意味が汲み取れて、涼子はその場にいたたまれず、二階の自室に戻って、ベッドの上に力なく体を投げだした。

 何時しか眠りについてしまっていたが、深夜の窓を激しく叩く雨足に眼を覚ました。ーー「大好きな兄の将来はどうなってしまうのか、などと想像をめぐらせて、悲しみを増幅させていた。

 古賀の伯母が言う「子宮体癌」の言葉の反芻と、静恵の取り乱した不可解さも沸々と込み上げる涼子は、徐ら半身を起こしてベッドから降りると本棚に歩み寄り、分厚い家庭医学書を取り出した。

括るページの『子宮に生じる癌種。子宮頸癌(主として偏平上皮膚癌)と子宮体癌(主として腺癌)あり、前者の軽度は高く出血・帯下などに始まって、進めば疼痛・全身衰弱を来す』と記された行に視線をおとす。更に『子宮摘出手術を施した後の妊娠は望めなくなり……』との記述に目線を釘付ける。

 その潤む活字の中に、過去の出来事が千々に錯綜しては相馬灯の様に回り出していた。

ーー『私って誰』知ることで今の私は死ぬんだわ。でも、このまま心の渇きで根の腐食を待つのは尚辛いに違いない。それに根源を見極めなくては『私の証』は得られない、との思いに至るのだった。


(8)


 物に取り突かれた様に『国立癌医療センター』の相談室を訪れた涼子は、渋谷区役所にも立ち寄って戸籍謄本閲覧をして、その重い足取りで伯母の家がある杉並区の阿佐ヶ谷に足を向けるのだった。


 二階建ての立ち並ぶ閑静な住宅街の一角に、ぼつんと歯が抜けたように古い平屋建ての伯母の家がある。

 涼子は、その玄関口のチャイムを戸惑いながらも押すと、伯母が驚いた表情で出迎えた。

 居間へ通された涼子は、伯母から勧められるまま、長椅子側のソファに伯母と並んで腰掛けた。

 涼子は、「伯母様っ」と言ったまま、口ごもってしまう。

「何さ言い掛けて…まさか、この前の一件を蒸し返しに来たんではないでしょうねえ、厭ですよ、もう。軽はずみなあたしの一言で静恵さんや涼子さんの心を傷つけてしまったことは、深く悔いているんですからねえ」

「ご免なさい」

 涼子は伯母に心の中を見透かされていたことで、一段と身の引き締まる思いが増した。

「あたしはあれ以来、涼子さんの気持ちの動揺が気になって仕方がなかったわさ。もしかすると涼子さんが家に訪ねて来やしないかって予感もしていたんだけども、その一番懼れていたことが涼子さんの顔を見た瞬間に的中してしまったんではと、血の気が引いたわね。ですから、もうあの話だけは勘弁してもらわないとねえ、涼子さん」

「でも、私は誰なのか、一つだけ教えてもらいたいんです……もう大人の涼子ですから、伯母様にこれ以上のご迷惑はお掛けしないと誓います」

 涼子は神妙な面持ちで伯母に懇願をした。


(9)

 

 伯母は涼子の思い詰めた様子に再び自責の念に駆られだし「本当にご免なさいよ。誤解をどう解いたら良いのやら、あたしはなす術をしらないんだわさ。全く情けない限りなんだけども」

 伯母はそう言って項垂れた。

「伯母様っ、責めているわけではないの。だから謝らないでもらいたいわっ。それに誤解だなんてことも言わないでっ」

「でもねえ、涼子さん……」

「私の出生がどんなに卑しいものであったとしても決して驚かないし、戸籍の『養女』とう紙人形みたいな軽い響きの二文字が私のルーツだなんてこと、とっても耐えられないの」と、涼子は伯母の心を揺さぶった。更に「だから、命を授けてくれることが出来る伯母様にすがるしかないわっ」と言った。

 伯母は、隣に坐る涼子の肩口にそっと掌を置くその伯母の頭髪は、淡い栗毛色に染めてあり、生え際の白髪がぶち猫のようにくっきりと分かれて不自然に見えている。

 深く刻まれた頑固さの象徴でもあるかのような顔皺は、康次郎とどことなく似た顔立ちで、時折、口を噤んで微笑む表情には気品も覗かせる。

 伯母は、涼子の視線を避けるかのように立ち上がって部屋から出て行くが、再び現われた伯母の手に持つ盆上には、茶菓子と急須等が載せられていた。

「家を出る覚悟もしているわ。このままだと藤倉家に私の依拠なんてないの」

 涼子がそう言うと、伯母はテーブル上に盆を置き、指先で目頭を押さえて俯いた。

 涼子は、伯母の腕を支えて隣に腰掛けさせた。


(10)


 再び顔を上げ、観念したかのような眼差しを涼子に向けて「軽率だったと、あたしは何度もいうように後悔するばかりだわ。本当に弟が思っている通りのバカなお喋り婆さんだと言うことを、今度ばかりは自覚させられたわね」

 厳然となる祖母の目頭に、涼子はハンカチを取り出してあてがった。

「真実を知っても動揺なんてしない。いずれ早いか遅いかの違いで知ることになると思うから。話たがらない両親に私からこのことを切り出す積もりなんてないし、お願い、伯母様っ」

 涼子は、執拗に伯母を説得するのである。

「謄本で養女だと知ったのだから、それだけで気持ちを収めた方が良いと思うんだけども、涼子さん」

「『どこの誰』と、知ることの惧れはあるの。でも、知りたいと思ってしまう気持ちを押し殺す自分自身は、もっと怖い気がするの。歪んだ創造を掻き立ててしまうより、真実に勝る享受はないとも思えているんです」

 伯母は立ち上がってテーブルを挟んだ涼子の真向かいに坐り直し「仕方がないわさ、種を蒔いたのあたしだし、摘み取る責任もあるんだわね」そう言って暫らく眼を閉じた。

 再び赤く滲んだ眼を涼子に向けて「『フジ興産』を創設した先代の祖父が中気を病んで永い期間入院していたけども、快復の見込みの立たない病気でもあって、祖父が希望して自宅療養に切り替えたわね。でも自宅で伏せたままの療養では五歳の拓也がいて手がかかり過ぎるため、お手伝いさんを雇いいれて家に住まわせたんだけど、その人には離婚歴があってねえ、当時三十歳前後で朝子さんという、や さ めな人だったわさ」

 伯母は、そう言いながらテーブル上の急須と茶碗を手に取って、涼子の許に歩み寄ると湯飲み茶碗を手に握らせて、茶を淹れた。


(11)


 伯母は、涼子の真向かいの個別のソファに坐り、テーブル上の湯飲茶碗に茶を注いで自らの手に持ち啜り、呑み掛けの茶碗の淵を、指先でなぞるのだった。

 そんな伯母を見て、涼子は溜まらず伯母に近寄ると、隣の個別ソファに坐る。

すると伯母は大きく息を吸い込み、溜息をつく。

「甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれていた朝子を、祖父は大変な気に入りようで、何かに付けて、朝子朝子と呼び捨てにして甘えながら半年が過ぎた頃、朝子から『結婚する積もりです』と言い出された祖父は、とても落胆したんだわね」

「静恵さんも康次郎が代表取締役の『フジ興産』に勤める手筈になっていたことで残念ではあったけど、強引に引き留める訳にもいかず、藤倉家として祝福をしてあげようということにはなったわね」

 涼子は伯母の肩に頭を擡げかけさせて、伯母の片手を強く握り締めだした。

「朝子さんは、とりあえず秋の結婚間近まで祖父の面倒を見てくれるということに落ち着きはしたんだけども、日が経つにつれて朝子さんのお腹が大きく膨らむのが目立ってきていたんだわ」

 伯母の話では、静恵が朝子を産婦人科病院に連れて行き妊娠と診断されたが、出産の予定日が間近に迫る秋の結婚期と重なるはずの朝子は、出産や結婚の準備はおろか『結婚する』と言っていた相手の男性にさえ、妊娠の報告すらしていないようだった。それで仕方なく藤倉家が出産の準備だけは整えてやってはいたが、朝子からは何の説明も結婚をするという男性からの連絡もなさそうだから、まさか祖父が何て、バカな憶測を冗談にも家族でしたが、そんなことは月足らずであり得ることではないし、すぐに祖父の容疑は晴れて、秘かに一笑に付しもした。


(12)


 ある日、朝子にその男性のことを思い切って訊いたところ、連絡場所も、男性の名前とて答えようとはしなかった。きっと、複雑な事情があるのだろうと思い直した家族は仕方なく、腫れ物にでも触れる思いで気遣いだしていた。

 それから間もなく臨月を迎えてしまったことで、静恵は近くの産婦人科医院に朝子を連れて行き出産をさせたのだが、その出産直後に下腹部からの出血が止まらず急遽、大学病院に移送されて治療を施されたが甲斐もなく、朝子は息を引き取ってしまったわさ」

「母なのね」

 涼子は一言つぶやくと、嗚咽しだす伯母の横顔に乾いた目線を当てた。

 伯母の口は再び開かれて、 「気の毒に逝ってしまった朝子さんの身許を調べはしたんだけども、履歴書に記載されていた住所は以前に男性と同棲していた所だったらしいことが判ったのよ。でも、それ以上のことは」

 涼子は、呆然自失に陥った。

「だから朝子さんを藤倉家で手厚く弔ふてあげて、警察に委ねたわさ。そうしたら何と、一週間足らずで祖父も朝子さんの後を追うように、他界してしまったじゃないのさ」

 伯母は、涙を流しながら言う。

「…………」

 涼子は写真一つ見たこともない生母ではあるが、微笑みをうっすらと想像して描き、合掌をした。

「その亡くなる間際に『生まれた児は家の児として育てられないか』って、何度も弟夫婦に懇願しながら生涯を閉じてしまったわね。だけども、あたしが古賀と再婚して藤倉家を再び出たのは、その翌年だったのよ」

 伯母はそう言いながら皺を寄せた目頭に、そっと指先を添えた。


(13)

 

 涼子は部屋の中から廊下を隔てた透明ガラス戸越しに、猫の額ほどの庭とは対照的な幹の太いモクレン樹に視線を移す。

 軒下まで這う枝の紅紫色の六弁花が微風に揺らされて、軒に擦れ散る重層を見て取った。

 伯母は雨泣し眼を腫らしているが、涼子の瞳は乾いたままだった。

 やがて重く沈んだ空気の中で涙を涸した伯母は、乱れた染め髪を丹念に指先で梳き整えて、壁に掛けられている先だった夫の遺影に視線を投げた。

 徐に立ち上がって、襖の開け立てられていた部屋続きの仏間に入って行き仏壇前に力なく坐り込むと、線香を点じて合掌をしだすのだった。

 呆然と伯母の背に視線を当て続けていた涼子に伯母は「静恵さんは、拓也と涼子を分け隔てなく愛情を注いでいたし、それで涼子さんがこんなに立派に成長されたんだわさ。そんなことで、余りにも自然に時が経ったものだから、あたしの意識はどこかへ飛んでしまってたわ」

 伯母はそう言うと、テーブル上に置かれていたティッシュ・ペーパーを箱の中から摘みだし「グヒィー」と大きな鼻音をたててかみだした。さらに「とはいえ不見識な結果を招いてしまい、両親や涼子さんには深く詫びますよ。でもねえ、今では涼子さん判断力を十分に備えた立派な大学生になられたし、状況は浸潤と良い方向に理解を深めて行ってくれると信じているわさ」と諭す。

「解ったわ伯母様。本当に困らせてご免なさいねっ。兄の問題を抱えている父母に、私のことでも悲しませてしまうようなこと決してしない積もりだわっ」

 涼子はそう言うものの、払拭出来ない裏腹な思いを抱え込んでいた。


(14)


 康次郎から病名の真実を伝えられても、動揺する表情は見せないでいる拓也だが「自宅の療養に切り替えてくれよ」そう強く懇願をしたこともあり、もはや、効果の期待出来ないリハビリよりも、退院させて家族と共に暮らさせた方がいいのかも知れないとの思いに至った康次郎は、拓也の望みを叶えることにした。

 涼子は、そんな自宅療養に切り替えていた拓也の精気の失せた姿を見るにつけ心が痛む。気分転換に拓也を車椅子に乗せて公園にでも連れだしたいが、拓也は頑なに拒絶するばかりであったが、ある日、涼子は一計をめぐらせて、学友の咲子を拓也の部屋に招いて、数時間二人っきりにさせた。

そのことが功を奏したかのように、翌日の拓也は食欲旺盛で、笑顔まで見せていた。

 康次郎はその日の夕餉を囲む涼子に向かい、「拓也が笑顔を取り戻してくれたのは何よりだ。涼子のお陰だよ。それで、咲子さんにも涼子の方からお礼を言っておいてくれんかね」

「放って置かれている兄さんを、見てはいられなかっただけなのよ。だからつい、咲子さんに悲観的なことを話してしまったんだけども、そうしたら咲子さん『元気づけるには恋人の存在が一番よっ。でも、ガール・フレンドでもいいんだけど、異性の神通力に縋るのがいいと思うわよ』何て、言っていたのよ」

「頼らざるものは異性の神通力か、よく解る」

 康次郎はそう話した後で、静恵の反応が気になって、意識的に目線を避けた。

「彼女がいないなら、私が代役しようかしら」なんて言ってくれたから、それで気軽に来てもたっただけなのよ。だから親は無関心を装っていた方が、兄にはいいと思うんだけど」

涼子が言うと「そんなもんかね。では親は干渉しないでおこう。だが涼子『拓也が放って置かれている』などと言ったが、そんな人聞きの悪いことだけは、言わんでくれ」

 康次郎がそう言うと、傍らの静恵も口を挟んできて「そうよ、大事な息子を放っておく親が何処にいるものですか」と、眉間に青筋を立てて言う。更に「私が仕事を辞めているのも、身の回りの世話をするためじゃないの。何とか精神的にも支えになれたらと努力をしてきたんですよ。だけど、拓也はあの通り意固地になっているばかりじゃないの。そんなことぐらい、あなたにも解っていたはずでしょう」

 そうヒステリックな口調で涼子に噛み付いた。


(15)


「このところ何かと刺々しくなってしまう家族だが、これからは拓也のためにも努めて明るく振舞おうじゃないかね」

 康次郎は、涼子に注意をした一言で険悪な雰囲気になってしまったことを悔い、臆しがちに鼻白んでそう言った。

「でも、そういう父さん一番暗い顔をしているわっ」

「ああ、そうなのかね。自分じゃ少しも判らんが、これから明るく振舞う努力はしよう」と言う康次郎は、顔を擡げて全面にある大きな食器戸棚のガラス面に己の顔を映し見てさらに、「涼子、干渉する訳ではないが、咲子さんには、これからも繁く家に来てもらえると有り難いのだが」とも言った。

「咲子さんも卒論に取り掛かっている大事な時期よ。だから、どうかしらっ?でも、兄が寂しがっているからもう一度だけでも頼んでみるわっ」

「今の拓也には、異性からの励ましが一番効果のでるリハビリだろうから」

そう言う康次郎自身、咲子に過度な期待をしてしまうジレンマもあるが、さりとて他に効果の上がる治療方法がある訳でなし、そう願わざるを得なかった。

「そのうち兄さん心が浮き立って、車椅子で外に出たいと思うようになるわよ、きっと。そうなれば毎日でも車椅子を押して兄さんを外に連れ出す役目は、私がするんだけど」

 涼子がそう言うと、透かさず康次郎は、「それはせんでいいんだよ。涼子も卒論や就職のことで、手一杯のはずだろうからなっ。今後のケアのことは、専門の看護師さんを家に招いたり、私と静恵も協力して何とかする積もりでいるんだよ。涼子は自分のことに専念してくれさえすればいい」

 康次郎の胸中、兄妹として幼い時から仲睦まじかったのは好ましい事ではあったのだが、この先、真実に直面した時の拓也と涼子間の変貌と言うか、本能の目覚めのおそれを払拭しきれずにいた、複雑な危惧を抱き持っていたからだった。


(16)


 涼子が拓也の部屋に入ってゆくと、ベッドに横たえた拓也が涼子に笑顔を向けた。

「兄さんは今、咲子さんのことを思い浮かべていたようねっ」

「何、言ってんだい」

「だって、嬉しそうな顔していたわっ」

「バカものっ。冷やかすなっ。死神に取り付かれていて嬉しがることなんて、ある訳ねえだろう。でもなっ、正直に言うと、おかしな話をする愉快な咲子さんだってことは、チョッピリだけど、思いだしてはいたよ」

「おかしな話って言ったけど、咲子さんがジョーク言ったの聞いた事ないわ。だから、男性に面白がられるなんて想像できないのよ。でも、異性には見せる部分ってあるのかなあ。ウフッ」

「咲子さんは、話術で酔わせるのが得意のようだった」

「そうなの?」

「一時でも死神を俺から遠ざけて、安らぎを覚えさせてくれたんだから、感謝はしているよ。願わくば、もう一度だけでも来てくれないかって思ってんだ」

拓也はそう言いながら壁に掛けられているラガーマンだった頃の、自分の凛々しい写真に視線を向けた。

「女って、感謝の気持ちで接しられたって少しも嬉しくはないものよ。『ステキな君に逢いたい、好きだ』って、率直に言われた方が喜ぶものなのよっ。もし、咲子さんが来てくれたなら車椅子を押してもらって公園にでも出掛けてみたらどう?」

 涼子は嫉妬心を抑えて言った。

「そりゃ駄目だ。何時も言ってるだろう、こんな姿を晒し廻りたくはないってさ。それに好きだなんて丸太のように寝たきりの俺から言われたら、咲子さんばかりか世の女性たちだって、身の毛もよだつに違いないよ」


(17)


「なに卑下してんの、バカねえ。人柄に好意を抱く人は沢山いるわっ。自信がなくて言えないのなら『兄さんが咲子さん好きで逢いたい』と言っていたと、私が言っちゃうわよっ」

そう投げやりに言う涼子だが、拓也が一方的ながら咲子を本気で好きになってしまったらどうしようなどと、更に嫉妬心が増した。

「こんな死に体同然の俺にだよ、何時までも咲子さんが付き合ってくれるとは思ってないさ。けどなっ、逢いたいと思っているのは本心なんだ。だから涼子が咲子さんに何といって誘ってくれても構わんさ」

意識的に涼子にやきもちを焼かせようと揺さぶって、愛を確かめようとする歯痒さと、自己嫌悪のジレンマを抱え持っていた拓也は、幼い頃より慕って纏わりつく妹とは仲睦まじかったある時期を境にして、妹ではなく恋心に変貌した感情の変化を自覚していた。

「兄さん解ったわっ。それじゃ咲子さんに話してみるわよ。だから、死に体だなんて愚かなことは、絶対に言わないでよねっ」

「…………」

 拓也は一瞬押し黙り、天井の一点に視線を突き刺した。

「昨日、落合(拓也の友人)さんが見舞いに来てくれたでしょう『脊髄炎でもリハビリで快復した親戚がいる』って話してくれたのを私も側で聴いていて、本当に希望が持てたわよ」

「気休めで言ったんだ」

「治すって自分自身に言い聞かせて努力さえすればきっと治せると、本気で思わせてくれたのよ」

「そんな慰め言うなっ。ピクリともしないカカシみたいなこの手脚をさ、皆でばたばたさせられたって、ロボットじゃあるまいし、勝手に動き出す筈ないじゃないか。情けないけどこれが現実なんだ」

「弱気な兄さんって、大嫌いだわっ」


(18)


「今の俺、叶いもしない夢などみるよりさ、現実に妥協して生きようって思ってんだ。その方が、なんだか気持ちの落ち込みが少ないみたいだし、だから弱気なんかじゃないさ」

「…………」

 涼子は、拓也の言葉が空しく響きもするが、その言葉に多少の安堵感が広がった。

「そんなことよりさ、落合は涼子を好きだと思っていたんじゃないのかなぁ?俺にはそう感じ取れたんだ。涼子は落合をどう思ったよっ?」

 拓也は突然話題を変えて、そう言った。

「兄さんが健康体になるのを願っているだけよ。だから、他の事など煩わしくって、何んにも考えられないわっ」

 涼子は、拓也の冗談めかしの言葉に、はらだたしさと、くすぐったさを抱いてしまう。

「それより兄さん……」

 涼子は再び話題を変えたい衝動に駆られ、自分が養女だということを知っていたのかどうかを訊こうとしたのだが、言葉を飲み込んだ。

「言いかけたら言えよ」

「……でも、もう行くわっ。母さんが来るとギャギャと煩いし。咲子さんの件は任しといてっ」

翌日、咲子を伴なって家に戻ってきた涼子は、拓也の部屋に行き「また咲子さんに家に来てもらえたわよ。モンブラン・ケーキを買ってきたし、母は買い物か何かで出掛けているみたいだから、咲子さんに食べさせてもらってねっ、「私は父がゴルフに行って留守だから、書斎を借りて卒論を仕上げているわっ」

 そう言う涼子は咲子に対して嫉妬心が無い訳ではなかったが、親友である咲子以外の女性など、兄の相手として考えられないことだった。


(19)


「じゃ咲子さん、気兼ねしないで兄さんの話し相手になってあげてっ」

涼子は咲子にそう言って、ケーキの包みを咲子に手渡すと、 「その中に飲み物が入っているから、後は勝手にお願いしちゃうわよっ、咲子さん」

涼子はベッドの傍らの小さな冷蔵庫を指さして言い、部屋を出た。

涼子は気の滅入る拓也の気持ちを慮るが故に、もやもやとした複雑な気持ちを抑えて気を利かした積もりになっていた。

 未完成な卒業論文の作成に取り掛かって二時間ほどが経過した頃に、静恵が家に戻った気配を感じ取っていたのだが、日曜日の今日は「兄の話し相手に咲子さんが家にきてくれる」

 そう昨日のうちに静恵には話してあったこともあり、特別、慌てることもないと、書斎にこもったままでいた。

 するとその直後、二階辺りから静恵の甲高いヒステリックな声が聴こえ出してきた。

 涼子は急いで二階に駆け上がってみると、静恵が拓也の部屋で咲子の背に向かって罵声を浴びせているではないか。

 予想だにしない事態に唖然とする涼子だが、「止めてよ母さん。せっかく咲子さんに来てもらったのに、なぜ怒るのよっ」

 涼子は、そう静恵を制止した。

「涼子は初めっから汚らわしい女だと判っていたんでしょう」

 静恵は怒りの矛先を涼子に向けた。

「なんてことを言うのよ、母さん。咲子は私のクラスメイトだわ。父も、また来て欲しいって言ったじゃないの。咲子さんに失礼だわよっ」

 涼子はそう言って、充血した怒りの眼を静恵に突き刺した。


(20)


「この女(咲子)は拓也の不自由な体の上に卑猥な格好で跨ったりしてさ、淫らな行為をしてるじゃないの」

 静恵は、そう言葉を吐き捨てた。

 背中を向けたままで乱れた着衣の見繕いをする咲子に視線を移した涼子は、訳の判らぬ激情がメラメラと沸き起こる。

「本当なの咲子……体の不自由な兄を弄ぶなんて、最低よっ」

涼子は咲子に噛みついた。

「ステキな拓也さんが寝たっきりなんて、前に来た時もかわいそうでみていられなかったのよ。Hビデオの一つも見せてはやらないみたいで同情したし、それに好きになってしまったのかもねっ。でも涼子、ご免。私、帰るわねっ」

 快活な性格の咲子が長い茶髪を指先で掻き揚げながら言い残し、悪びれた様子もなく藤倉家から出て行った。

 一年前に、学友たちの間で、 「咲子は風俗嬢のアルバイトをしている」と言う噂が飛び交ったことがある。

 当時は不確実な情報だったこともあり、友人の咲子を信じて疑いなどは抱かなかったことを思い出していた涼子だが、破廉恥な行為をした咲子に対し、次第に拓也を汚されたと思う怒りに変わっていた。

 その日の夜に、静恵から事情を聞かされた康次郎から当然の如く涼子は雷を落とされた。

覚悟はしていたものの、余りにも凄いけんまくに涼子は耐え兼ねて、そうそうに二階に駆け上がって自室に篭もってしまっていた。


(21)


 化粧鏡に顔を映しこむその胸中には、藤倉と言う姓が虚しく何度もこだました。

 涼子は徐にロング・ヘアを丁寧にブラッシングしだし、唇に薄紅をさすと、隣室の拓也の部屋にそっと立ち入ると、ベッドに横たわる拓也は、そんな涼子に虚ろな眼差しを当ててきた。

「私、咲子さんがあんな人だとは知らなかったのよ。でも、本当にご免なさい」

「そんなことはいいんだ。俺が頼んで呼んでもらったんだから気にしないでくれよ「私、四国へ旅にでて、頭を冷やして来ようと思ってるわ」

 ベッドの端にチョコンと腰かけながら、以前に警察を訪ねて、生母の住所が四国だと訊き出していたその地へ一度は行って、生母の霊を弔うべきではないかということを考えだしていた。

「それで口紅を塗りたくる練習したんかよ。涼子の口紅をさした顔、俺、初めて見たぞ」

「似合わないと、言いたいんでしょう」

「そんなこと言ってないだろうが」

 眩しげに涼子の端整な顔立ちに視線を向けて言う拓也は、涼子が好きでたまらなかったが、「もはや叶わぬ遠い存在になってしまったのか」とも、思うのだった。

「四国へは明日行く積もりだわっ」

「ふぅん、涼子が悪るくないのに、親父にも怒鳴られたの聞こえていたから知っている。許せ、涼子。四国に旅をするなら存分に憂さ晴らしをして来いよ」

「ちょっと調べ物があっての旅よ。だから憂さ晴らしする時間も気持ちのゆとりもないのよ、きっと」

「調べ物……ああ、卒論に関係した旅ってことかい」

「…………」

 涼子は好きだと言う思いのたけを打ち明けるタイミングを失って、ベッドから離れて扉を背に突っ立ったまま、拓也の視線を外せない膠着した心情に陥ってしまっていた。


(22)


「どうしたよ?」

 拓也の訊きただす言葉に我を取り戻す涼子だが、言葉を残さぬまま部屋から出て行った。

ーー秩序だとか道義心だとか、そんな理性には愛を破壊する力はないけれど、思いを遂げる勇気は断ち切るよりも百倍いると、涼子は自室で机の椅子に腰掛けながら、そう悶々と考えこんでいた。

 涼子は、愛媛県松山市の大浦に眠る生母(朝子)の地を訪れていた。

「西の国(韓国)が祖国」と言う祖母とともに幽邃の森を背にし、沖の孤島など、無数の小島や瀬戸齊灘海の眺望に、暫し視線を奪われていた。

 祖母は、ぼそりと重い口をあけ「ここの墓は朝子と祖父が眠ってるがで」と言い、目前に並び立つ幾つかの墓の、簡素な一つに跪きだした。

 涼子も慌てて祖母に従って献花を採取して、時を忘れて嗚咽する祖母の隣で合掌をした。

 肩を並べて山道に佇みながら、蒼海の彼方を俯瞰していた祖母が「第二次大戦さなか、二十二歳で日本に渡ってきた」と語ったが、その動機の多くは語りたがらない。

 涼子は、細める目頭を滲ませながら、祖母の荒海の境涯を汲み取る思いを脳裏に描いていた。

 祖母が話してくれたのは、三十一歳の時に日本人男性と結婚をして朝子(涼子の生母)を身篭ったが、朝子が十六歳になった時に父が他界して、朝子は祖母の生計を助けるために上京をしたという。

 町工場に就職をした朝子は、工場の寮に住みながら十年の歳月が流れたある日、工場の主任からプロポーズを受けたことで、結婚を前提に同棲生活を営みだしていたのだが、しかし、相手男性の両親が朝子の身元調査を行って判明した内容は、朝子の母(祖母)は日本兵相手の慰安婦として働いていたと言うことだった。

 その所見には、韓国家族の悲惨な境遇のため、少しでも生計の助けになればと、僅かながらも送金をしていたことが証明されていた祖母ではあったが、その娘の朝子の身元調査では好ましくない旨の結論に至ってしまったのだ。


(23)


 結婚を強く反対された二人の仲は、急速に色褪せてゆき、挙句は破局を迎えてしまっていた。

 約束通りの結婚に至るまでもなく、四年余りの同棲生活にピリオドを打った朝子だが、傷心を抱えたまま藤倉家に就職をしたという。

 その後のことは、既に古賀の伯母から聴かされていた涼子だが、数奇な運命を引き摺っているに違いない祖母を、守れなかった母の無念さが判るにつれて、胸の奥底に悲しみが蓄積されだしていた。

ーーこれからは母の地で生きて、祖母と癒しの生活をしなければ母は浮かばれないのではないか……それに養女だと知ったことにより、より一層、鮮明に拓也を異性としてとらえだした感情の芽を摘んでしまい、藤倉家から立ち去るべきではないかと、涼子はそんな思いに駆られだしていた。

 祖母の僅かな畑の一角には古賀家にもあった痩せたモクレン樹が一本だけあって、その畑から瀬戸の齊灘海と戸讃線の大浦駅舎を見下ろすことができた。

 祖母は、「生まれ育った祖国の家の庭先にもあった樹で、 「モンヤン」ということを教えてくれて、その樹木の根元に涼子は腰を据え、眼下の齊灘海の凪た水面に視線を落とす。

「貧しい家族やったから、僅かながらも、おらから実家に送金しとったがで」

祖母は、力及ばずだったかのように、項垂れた。

ーー虐げられた悲運を背負う祖母には、神の愛の加護が必要だ。

 せめて残り僅かな大学ではあるけれど、中退してでも私の小さな愛であれ、鍬を持つ手も覚束ない年老いた独り身の明日が心配だから、祖母を支えてゆくべきだと、涼子は思うのだった。

 兄は両親の愛で包み込まれているのだし、それに拓也への思いを断つことができるかも知れないと考える涼子は、祖母と共に癒しの人生を送ろうと決意を固めてしまう。

 育ての両親のことや養女であること。兄への愛に目覚めてしまったことと、咲子が不祥事を引き起こしてしまったこと。それに四国に住む祖母のことなどが千々に絡みつきだす涼子だが、敢えていま、身の振り方を問われていると思うのだった。

 瀬戸から藤倉家に戻って来た涼子は、育ての両親や拓也を裏切ることに繋がってしまうことへの葛籐で、胸が締め付けられていた。だが、決断の鈍ることを恐れて三日後に、涼子は両親の承諾も拓也にも胸中を明かさぬままで、再び身の回りの僅かな手荷物だけを持ち、秘かに藤倉家に別れを告げて四国に舞い戻ってしまっていた。

 祖母の許から、怒っているであろう康次郎と静恵に宛てて、胸中を認めた手紙を送付した。


(24)


「これまで何度も考え直してみたことですけれど、生母の心残りでしょう祖母の存在を知り、私の手で守るのが当然ではないかと思いました。それで今、お別れの手紙を書いているのです。

 重大なことですし、手紙で事を済まそうなどと考えたわけではありませんけれど、今はどうしても打ち明ける勇気がないのです。ですから、少し時を経たならば必ず父母の前に跪き、許しを請うことが出来ると思います。

 けれども許されるはずもなく、赫怒は避けられないこととは承知しています。

 家族とのお別れは忍び難いのですが、血を分けた数奇な生母は、生涯で祖母を守れなかった悔いを残して他界したと思っていますから、私が代わって祖母を守っていく宿命にあるのだと、思っています。

 鬱悶の日々を送るより、瀬戸の地で祖母と心を一にした癒しの生活をすることが、何よりの供養だと考えました。とは言え涼子の一方的な決断で、育ててくれた父母を裏切る行為には違いないことですし、深くお詫びをします。

 きっと新たな深い業を背負ってしまうことにはなるのでしょうけれど、薄皮を一枚一枚剥ぐように、心を清める修業道を心がけて参ります。

 温もりのある家庭で何一つ不自由なく育まれた私は幸せでした。けれども幸せで有ればあるほど、潜む罪の意識に嘖まれていたのです。

 今は分別の付く年齢に達していますから、決意に対して後悔などは致しません。

 残り僅かな大学も逸る気持ちを押さえることが出来ずにいますから、間近な卒業ではありますが、断念せざるを得ないと考えました。

 大学よりも、異国の地で独り取り残されている年老いた祖母が、とても不憫でなりません。

 兄のことは、いろいろと気懸かりですが、専門の介護士さんが家に来て、ケアをしてくれることになったこともあり、リハビリも順調に進むと信じて決心したのです。


(25)


 私の畏友に打ち明けてみても、やはり恵まれた家を出るべきではないと諭されました。でも、日を重ねるうち次第にあざる気持ちが激しくなって、家では身の置き処さえ儘ならぬ境地に陥っていたのです。

もう仕方がありません。父や母にとっては痴れ痴れしく思うことでしょうけれど、許して下さい。

 両親への感謝の気持ちは言葉に尽くせないけれど、どうか、察して貰いたいのです。

 兄の快復は、瀬戸内の清らかなコバルト・ブルーに染めた海と、澄み渡る天に願いを込めて、祖母と二人で毎日祈り続けて参ります。

 このことは、依拠を求めた涼子の独断行動ですし、祖母を恨まないで欲しいのです。育てられた恩を忘れる涼子ではありませんから、気持ちの整理が出来るまでは、手紙にてお許し下さい。呉れ呉れも父と母はお体を大切に。涼子の分まで兄を大切にと願っています。

追伸。電話は当分の間、祖母の心中が掻き乱れるのを惧れているので、電話は繋がらない様にして置きますが、悪く思わないでください。父、母へ。涼子より」


 涼子は、僅かな農地で野良仕事をする、老いさらぼう祖母の姿に涙が零れた。

「お婆ちゃん、私のモンペ姿見て、どう、似合うかしらっ」

涼子は涙をこらえて話、祖母の目前に立ちはだかって燥いで見せると、無口な祖母は眩しそうに目を細め「うんうん」と顔を上下に振った。

 限りなく無表情ではあるものの、観世音菩薩のような、言い知れぬ温もりを感じる語りかけでもあった。

過去の虐げられた者同士の抵抗手段として、祖母に備わった会話術かも知れぬと涼子は思い、大地に抱かれたような安らぎ感と、瀬戸の齊灘海の、珠玉に触れる思いに浸っていた。

 二日目に、慣れない手付きで祖母の野良仕事を手伝っていた涼子に、畦道を自転車に跨った郵便配達人が声を掛けてきて、「婆っちゃ、家の庭先に客いたが」

そう大声で言いながら、去ってゆく。


(26)


「誰やな?」

 一言呟く祖母は、鍬から離した手を腰に当てがうと、曲がった背を伸ばすように、多少、くの字ぎみに突っ立った。「お婆ちゃん、私が家に戻って見るわっ」

 涼子はそう言って、泥の付いたモンペ姿のままで、二百メートル程の畦道を駆け出した。

 開放された家の縁側に腰を下ろして、怒りの視線を突き刺す静恵の姿が視界に飛び込む涼子は、愕然とする。

 静恵は、息を切らして面前に立つモンペ姿の涼子を呆れ顔の眼差しで見据えると、頭の天辺から足許まで冷めた目線で嘗め下ろし、「あなた気は確かなのっ。お父様は怒り狂って私に八つ当たりして来るし、遣り切れないじゃないのっ。お父様は仕事の都合で一緒にこられなかったんだけど『涼子の首に綱を掛けてでも、必ず連れ戻せ』って言うんだわ。『さもなくば今度は俺が行き、 そそのか 唆しているに違いない婆さんを懲らしめて、涼子を連れ戻す』だなんて、そりゃ大騒ぎだったのよ。

 拓也のことや会社での問題も重なって、『気が変になっちまう』だなんてことも言うんだから」

「ご免なさい」

「涼子が婆さんから、どんなことを聴かされて洗脳されたのか惑わされたかは知らないけれど、涼子は既に藤倉ファミリーなんですよ。ですから、惑わされて人生を台無しにしてしまうなんてこと、親が黙って見過ごしている訳にはいかないでしょう」

 そう静恵はけんもほろろに捲くし立てるのだった。

「本当にご免んなさい。でも 皎潔な祖母なのよ。だから『唆された』とか『惑わされている』だなんてこと、言わないでもらいたいわ。昨日、私を繋ぎ留めるどころか、暮れ泥む西空を見上げていた祖母が『親が心配するで、帰へったらよかなあ』なんて、まるで外で遊ぶ幼児にでも聴かせるように、私に言ったんだから」


(27)


「そらごらんなさい、それが本心なのよ。居られることを『迷惑』だと思っていても涼子が鈍感だから、そんな能天気なことを言っていられるんだわよっ」

「ともかく母さん、今、お茶を淹れるから部屋に上がってよ」そう言いながら土間の中に入ろうとする涼子に向かい、「お茶など要らないわよっ。それよりも早く、帰る支度をしたらどうなの」

「この地に眠る産みの母だって、そんな祖母のことを心残りで成仏できないでいるに違いないし、今の祖母には神の大きな愛の加護が必要だと思ってるの。お願いだから、肉親の苦境を見過ごしてはいられないこと、解って欲しいのよ」

「解らないわよ、そんなこと。第一、涼子に何が出来るってのさ」

「頼りない私なんだけど、産みの母が、祖母を託そうと私をこの地に引き寄せたんじゃないかって、今ではそう感じているの」

 静恵に理解を求める涼子だが、心中にはもう一つ、秘かに拓也への熱い思いも絶とうという、願いが込められていた。

 静恵は、縁側に茫然自失で腰を据えたまま時を流し続けていたのだが「肉親ねえ」と胸に突き刺さったのだろう、そんな言葉を溜息混じりに呟いた。

 唇を硬く噛み締めると、やおら立ち上がって無言で立ち去り出した。

「母さん、ご免なさい」と、涼子の一言が静恵の背を追った。

畑に戻った涼子に祖母が、「たれやった」と涼子に顔を向けずに、ぼそりと訊いた。

「誰でもなかったわよ」

涼子は何食わぬ顔で言い、再び鍬を手に握る。


(28)


 口を噤んだままの祖母が、時折手を休めて愛しい涼子に向ける眼差しが、全てを見通しているかのようだった。

「母(朝子)がお婆ちゃんを祖国に連れて行きたかったんではないかしら。私が代わりに必ず果たすわ、きっと。だから楽しみにしていてねっ」

「そこにあらぁモンヤン、貧しか家の記しみてえにあったがで、それ見っと、何んもねえ国さ帰えんども、寂しいこたぁねえ」

 諦めてしまったかのような言い方で、畑の隅にある花のない木蓮樹を仰ぎ見る祖母の背が、懐郷の念やみ難しと、涼子の眼には映るのだった。

「私にとっても半分は祖国なのよっ。お婆ちゃんを必ず連れて行くわ」

祖母は首に掛けていた手拭を外し取り、泥に塗れた皺顔と掌を拭いだす。

眼下に見える遥か沖合いを俯瞰しだした祖母は、首に掛けていた紐の先に括った小袋を取り出して、掌に固く握り締めるのだった。

「お婆ちゃん、それは?」

 涼子は訝しげに顔を祖母の掌に近づけて、そう訊いた。

「家族三人の魂や」

「まぁ、気味悪い……」

 涼子は、仰け反るように顔を遠ざけた。

「おらの守りカミだぁ。なんも気味悪かねえだが」


(29)


「神様なのっ?」

「先祖の髪の毛、へぇっちょる」

「矢っ張り気持ち悪るぅ」

 涼子は、再び眉を顰めて言った。

「この袋にゃ、長げえこと守られて暮らしてきとうたで」

「…………」

「親も兄さも袋の中、墓や。日本の血、ヘいるよる朝子の墓と別がで」

「……そうだったんだ、お婆ちゃん。じゃ、なおさら国へ帰ってお墓を造ろうよ」

「もう家も墓も何もねえ処だで、もういらねえだ」

祖母は目を細めて言った後、口を噤んでしまう。

 静恵を引き連れて祖母の家を訪れた康次郎は、血の気が失せて苦々しく眉を吊り上げていた。

涼子は、そんな康次郎の表情に他人を見る思いを初めて抱く。

 康次郎は土間から荒々しく部屋に上がり込み、八畳部屋の中央に置かれている小さな卓袱台の前に歩みよると、畳の上にどっかと腰を据えだした。

 静恵も後に従うように並んで坐る。

 涼子は早々に座布団を康次郎と静恵に差し出して、自らも卓袱台を囲んで坐るが、祖母だけは、土間の隅にある台所で茶の支度を長々としているようで、なかなか部屋には上がって来ようとはしない。

康次郎は苦々しく口に銜えていたパイプを外し、「お茶などいらんよ婆さん、早く此処に来て坐ってくれんかね」

 土間に居る祖母に顔を向け、強い口調で言った。


(30)


 腰を丸めた祖母は、怖ず怖ずと土間から部屋に上がり込んで来て、少し離れた位置に小さな体をさらに小さく丸め、視線を逸らすかのように斜に坐る。

「私が責められるのは構わないんだけど、でも祖母は何にも責められるようなことなどしてないのだし、責めないでよねっ」

 涼子は僅かな静寂を衝き、康次郎に懇願をする。

そんな涼子の言葉を無視するかのように、康次郎の苛立ちの表情は顕になった。

「涼子を誑かすのも大概にしてくれ。今さら何が欲しいというのかね」

祖母をそう責め出した。

「止めてったら父さん、私の祖母なのに酷すぎるわよ」

 涼子は、居た堪らずに康次郎にそう食い下がる。

「涼子は黙りなさい」言葉を発しないでいた傍らの静恵だが、康次郎に同調して口を挟んできた。

「出生の真実を知ったことで、これから相応しい人生を選択して歩もうと決意したことだから、お婆ちゃんを責めるなんてお門違いだわ」

 涼子は、自分の行動で、祖母をまたしても不幸に陥れてしまったと身を切られる思いに駆られ、静恵の言葉に逆らった。

「出生のことを隠し通していたのは、涼子のためだと判断していたからなんだ。

 それに今、不幸を背負おうとしている涼子のこうした状況が現実化してしまうことを何よりも惧れて、話す機会を逸してしまっていたんだよ」

「そのことは、恨んでないし、感謝をしているわ」

「でも、そうこうしているうちに涼子から恨みを買ってしまったんだろう、こういう最悪の仕打ちをされたんだから。本当に情けない限りだが、でも、恩を忘れてしまうような犬以下の育て方をした積もりはないし、なにも、こんな踏みにじり方をしなくっても、いいではないのかね」


(31)


「感謝も尊敬もしているわ。それなのに踏みにじっただなんて」

 言った後に虚しさが込み上げる涼子だが、育ての両親に、そんなふうに思われてしまうのは無理からぬ道理だとは、理解はできていた。だが、生前の生母の置かれた苦境には心が痛み、それに加えて、満ち足りた境遇に浸かって育てられたき、虧盈の隔たりに己を卑しんだ。

「だったら誑かされているだけなんだから、あえて不幸を背負うことはないだろう」

「『誑かされている』だなんて醜いことを言って、お婆ちゃんを仇のように苛め立てるのは、止めてっ」

涼子は我慢ならずに憤った。

「哀れみで誘っていると、判断できるから言うんだよ」

「どうしてもお婆ちゃんを責めるなら、涼子はもう二度とお父さんとは思わないし、呼びませんから」

 涼子は康次郎の言葉を遮って言うものの、自分の言葉を心で詫びた。だが溢れでる涙の濡れた眼光は康次郎の狼狽えた横顔を射っていた。

 傍らで項垂れる祖母の、一段と小さく丸めた背に視線を置き直し、心の痛みを倍加させてしまった自責の念に駆られだしていた。

 康次郎は父として拒絶され掛けて、痛恨の遣る瀬無い虚しさに打ち拉がれていた。だが、そんな弱気の気持ちを打ち消すかのように毅然とした表情を作ってみせ、「時期を改めるとするが、何が何でも連れ戻すことには変わりはないよ。涼子は一日も早く自縛を解かんといかんのだ」

 康次郎は強気な言葉を残し、静恵を伴って再び山を下って行った。

 涼子は、祖母の顔に刻まれた深い皺に壮烈なる半生を感じて見入り、幾多の艱難辛苦にも耐え忍んできた祖母のこと、きっと心を鎮めてくれるに違いないと、願いを込めるのだった。

 数日後、康次郎から「数ヶ月残すだけになっている学校だけは卒業したらどうなんだ。その後は涼子の生き方を尊重するから、帰って来ては……」

涼子の許に、そんな手紙が届く。


(32)


 涼子は、康次郎の条件を呑むことで藤倉家族とも擬を残さず円満に祖母と暮らせるようになるのなら、こんな喜ばしいことはないと思うのだった。

 祖母と寄り添い、仄暮れかけていた縁側に坐り込んで手紙を読み聴かせると祖母は顔中の皺を寄せ集めたような、笑顔を作って見せた。

「稲刈りは済ませてあるし、この前、家に来た農協の安西さんが『後の作業は手伝ってあげる』と言ってくれたから、私、安心して藤倉家に戻ることができるわよ。

 そう決まれば秋の授業が始まっていることだから、明日にでも東京に行くわね。お正月休みには戻って来たいけど、父の気分を損ねてしまうかも知れないし、多分無理だと思うのよ。でも、必ず七ヶ月後には卒業して帰って来られるんだから、それまでは寂しくっても我慢していてねっ。お婆ちゃん」

「なぁに、永げえこと独りやったがね」

「強がりでもいいの。戻る時に祖国へ一緒にゆく旅券は用意してくるから、楽しみにしていてねっ……」

涼子はそう言いながら、傍らの祖母に視線を当てた。

 祖母は柱に凭れ掛かった状態で、夕日を皺顔に一杯浴びながら、既に居眠りをしだしていた。

 住み慣れた藤倉家の敷居が高いと感じる涼子だが、説教や叱責は覚悟の上で余所余所しく玄関を開け入った。

 すると、玄関には康次郎と静恵が以外にも笑顔を見せながら出迎えて、「お帰り」と、それぞれ何事もなかったかのように静かに声をかけてきたその思わぬ対応に、ホット胸を撫で下ろす。

 涼子は二階に上がり、ドアの開け放たれていた拓也の部屋の中を覗き込む。

だが、ベッドに横たえているはずの拓也の姿はなくて、不安が過ぎる。

再び階段を駆け降りるとキッチンにいる静恵の許にゆき、「兄さんはどうしたの」と訊いた。

「心境の変化でしょうけど『リハビリ施設に移る』と、拓也が言い出したのよ。

だから今は、施設での療養に切り替えているんだわ」


(33)


 涼子は着替える時間も惜しみ、母から訊き出したリハビリ・センターに出掛けて行った。

 個室のベッドに横たわる拓也に会うと、「戻ったのかよ涼子。手紙、母さんから見せられて心情は察しているんだけど、俺にさえ真相を言わないで突然の出家のようだった。そんなに思い詰めていたのかと、ショックを受けたんだ。

 涼子がどうしても藤倉の家に戻らないというのなら、俺の方から四国に行ってしまおうかとも、本気で思ったよ。だから奇跡でも起こそうかと、リハビリをする気になった」

拓也は、溌刺と引き締まった表情を見せていた。

「そんなこと考えたって親が許す筈ないじゃないの。兄さんは私とは違う存在なのよっ」

涼子は、拓也の言葉に当惑しながら言って、更に、「兄さんは、私が養女だということを以前から知っていたんじゃないかって思ったわ」と反射的に訊いた。

「…………」

拓也は口を噤んだ。

「私も養女だと知りながら兄さんには隠し通していたわ。だから兄さんが知っていたとしても、責める積もりなんてないの」

「…………」

「生母の眠る地を訪ねて、私の人生観は百八十度変わってしまったわっ。それで私、四国の地に取り残されている祖母と暮らしていこうと決断したのよ。でも兄さんとは事前に話しをしておいた方が良かったかも知れないって、心残りでもあったんだけど」

「……本当は高校三年のころ、涼子が養女だということを知ったんだ。黙っていて悪かった。けど親から涼子には話すんじゃないって強く口止めされていたんだよ。それに涼子を悲しませたくもなかったし」

「母が私を嫌って意地悪い仕打ちをした時期もあったけど、今では得心しているの。でもそんな時に兄さんと父さん、いつも優しくしてくれてたわ」

「涼子はよく耐えてたよ」

「…………」

 体が不自由になってしまった拓也を、異性として秘めた愛情をもち続け、できることなら、「結婚したい」とも思っていた涼子だが、今は儚い夢のまた夢で、既に消え失せたことかも知れないと、そんな思いが脳裏を過ぎる。


(34)


「完治しないまでも、自分のことぐらい出来るようになりさえすれば、静養ということで親父を説得する積もりだったんだ。それで、一方的だけど涼子の許で暮らせないかと思ってさ」

「……私の立場と兄さんは全く違うのよ。父や母が許すはずないわよ。そんなこと考えないで、今はリハビリに専念すべきだわっ。ラガーマンの頃のファイトを思い出して、ガンバってよ兄さん」

「親は俺に会社を継がせるなんてこと、今じゃ諦めてしまっていて、疎ましい存在でしかないんだよ。だから涼子が家から出て行かれるってことの方が、特に親父にとっては辛いんだ」

 そう言って己を卑下する拓也だが、涼子が再び心変わりをし、家から出て行ってしまはないように、との願いがあった。

「祖母には私の救いが必要だと痛感したわ。きっと生母が私を祖母の許に導いたと思ってるの。だから、そんな意志に逆らうことはできないし、私白身の癒しも必要だと感じたわ」

「じゃぁ、いつの日か、また藤倉家からでて行くのかよっ?」

「……そんなことより兄さん、咲子さんのことでは本当に悪いことをしてしまったわ。御免なさいねっ」

涼子は何か話題を変えなければと感じ、咄嵯に咲子のことを再び触れだした。

「咲子さんは俺に生きる希望を与えてくれたのに、親なんて何にも解かっちゃくれないよ。ただ俺を無菌状態で隔離することばっかりしやがるだろう。伝染病でも神の子でもないのだし、生きている感触を欲して何が悪いんか。そうだろうよ涼子」

「私も兄さんと咲子さんがいい話し相手になってくれたらと、期待をしたわ。

けど、その日のうちにあんなことになるなんて想像もしていなかったことだから、私の憤慨は未だに収まってないのよ」


(35)


 涼子にも、そう思われていたとは情けない。ともかく母さんに見られことよりさ、涼子に知られたことの方が、もっとショックだったんだ」

「……咲子さんは、兄さんが好きになったからとも言っていたわよねっ」

 涼子は、嫉妬心でそう言った。

「でも俺なっ、咲子さんには感謝しているし、詫びたいとも思っているんだよ。

だから涼子から俺が詫びていることを咲子さんに伝えてくれないか」

「嫌よ、絶対に嫌なんだからっ。学校で咲子と会っても私は咲子を許さないし無視するわっ」

そう苛立つ涼子だが、再び咲子に嫉妬心を掻き立てた。

「涼子が戻ってきてくれたことで励みになるし、まあいいか。こうなったら家の方がくつろいだ気分でリハビリに取り組めるから、涼子から親に頼んでくれよ」

「それも駄目よ。兄さんが進んでこのセンターに来たいと言ったんでしょう。だから親は変に取るに決まってるわ。それに自宅でリハビリするなんてこと、前もそうだったように、甘えがでて無理だわよ」

涼子は突き放すように言うのだが、拓也への熱い思いを断ちがたくなる懼れを抱いていた。

「……分かったよ、ここでリハビリ続けたらいいんだろう。でも約束してくれよ、四国なんて行かないってなっ。涼子がいなくなったりしたら、俺は本当に屍になるぞ」

真顔で拓也はそう言った。

「それなら私にだって条件あるわっ。リハビリに努力して必ず快復するって誓ってもらうわよ」

「分かった。走り回れるように快復すればいいんだろうよ。好きな涼子が傍にいてくれさえすれば、絶対に快復してみせる」

そう強がり口調で精一杯のプロポーズをした拓也は、顔を赤らめた。

「…………」

涼子は、拓也から思わぬ言葉を聞かされて言葉を失った。


(36)


 兄の気持ちは解かってはいたものの、初めて言葉で「好き」と言われた嬉しさと悲しみの混在感にたじろいだ。

「ねえ兄さん聞いてっ。涼子も好きよっ。でも二人の間には大きな壁が立ちはだかっていて、乗り越えたり取り壊したりすると、兄と涼子の愛は壊れてしまう、そんな悲しい運命を引き摺っているんだわっ」

「あのなぁ涼子……」

 涼子は拓也の言葉を封じるかのように、そっと唇を重ねるのであった。

康次郎が再び出家するであろう涼子の意志を知ったのは、大学卒業を間近に控えた一月下旬のことで、涼子が運送会社に依頼した、四国の祖母の許に荷物を発送したと見られる控え伝票を、静恵から見せられたからだった。

発送品目の記述には、衣類、本、雑貨類等の記載があって、再び懼れていた現実を目前に、康次郎は狼狽をする。

 涼子に知らせぬまま弁護士を伴って四国に渡り、祖母の家を再度訪れていた。

康次郎は祖母を前にして、「涼子との縁を絶ち、二度と家には迎え入れないでほしい」と懇願をした。

 傍らの、鈍く光る銀縁眼鏡を掛けた痩せぎすの弁護士が、康次郎からの依頼事項を記入した書類と共に、二つの札束をカバンの中から徐に取りだすと、祖母の目前に差し出して条件の説明をしだした。

 無表情で無言の抵抗をするかのような祖母に、康次郎も弁護士も苛立って険しい表情に変わっていた。

仕方無さそうに、再び誓約書類を祖母の目前から引き戻した弁護士は、書類の住所欄だけを代筆してしまうと、祖母の手首を掴まえて、強引に掌にペンを握らせた。

 祖母は、観念して震える手で書類の氏名欄に、たどたどしく名前を記してしまう。

 弁護士は、帯の付いた二つの札束を誓約書の写しと共に祖母の目前に差し出し直し、「お婆さん、二百万円といえば大金だから大切にしまって置くんだよ」

 祖母は、目前に差し出された金には目をくれようともしない。


(37)


「藤倉の御家庭は申し分のない素晴らしい環境なんだから、涼子さんにとっては、この上もない幸せなはずだよ、お婆さん」

 弁護士は眼鏡を外し取って、ハンカチでレンズを拭きながら、祖母にそう諭す。

「涼子にとって不足が無かったかどうかは知らないが、少なくも私と静恵は涼子を幸福にしてやろうと努力をしてきたんだよ」と、康次郎も口を挟みこむ。

「今更『家を出る』だのなんのって、手塩にかけて育てられて来たはずの娘さんから、酷いことを言い出されては、ここにおられる親御さんにとって、身を切られるほど辛いことに違いないのだよ。それくらい、お婆さんだって解かるはずだと思うがねっ」

 弁護士は祖母の項垂れた顔の表情を下から覗き込むようにして言い、更に「涼子さんの幸せも考えてやり、毅然とした態度でお婆さんが拒否してくれなければならんのだよ。そうしないと涼子さん、目を醒ますことが出来ないんだ」と言った。

「お婆さんを悪いようにはしないから、ぜひそうしてくれ」

 康次郎も懇願をした。

「ニケ月後に涼子さんが来てしまうってことは、お婆さんも涼子さんからの連絡や荷物が着いているだろうから、分かっていると思うけど、直接来てしまったような場合には心を鬼にして、はっきり拒絶してくれなくては約束にはならんのだよ。さもないと、お婆さんを法廷に引っ張り出すことになるんだからねっ」

弁護士は強硬に言い含めていた、そんな経緯があったのだが、康次郎には不安の解消には至らず、ニケ月程が経過していた。

 大学を卒業した涼子が再び四国の地に飛び立とうとしている現況下で、康次郎は苛立つばかりであった。

何としても涼子を踏み止まらせたいと思うが余り、卑劣ながら苦肉な方便を弄し、祖母から約束を取り付けてしまっていたそんなことが涼子に知れたとき、もはや修復できない親子の縁が絶たれてしまうのではとも不安が過ぎり、今では侮まれていたのだが、今となっては、約束を強いた祖母の対応に期待を込めざるを得ないと観念する康次郎は、 切歯挺腕、涙を呑んだ。

 祖母とて涼子を受け入れるべきではないとの思いに胸を締め付けられていて、育ての両親に感謝こそすれど、何一つ拒む理由など無いことは解かっていた。


(38)


 されど、涼子を生き甲斐に思ってしまっている自覚もあって、祖母の心中は裏腹な矛盾を抱えていた。

 涼子は、大学の卒業を喜んでいる暇も無く韓国行きの旅券や祖母の旅行服などを携帯し、十数年前に完成した瀬戸の大橋を渡る車窓から凪た水面に視線をおとし、ーー兄の落胆は手に取るように解かりはするが、きっと両親の愛が支えてくれるに違いないし、祖母には私の支えが必要だ。それに「誰」から脱却した私自身のためにも、生まれ変わらねばならないと自分自身にそう言い聞かせつつ、祖母との生活に思を馳せて、ついに決行して大浦駅に着いていた。

 涼子は駅前で電話を掛けるが、祖母は出なかった。

きっと畑で出迎えてくれているんだと、山道上の木蓮樹のある畑方角に細めた視線を投げながら、急な山道を登っていったが、そこには祖母の姿は見当たらない。

 大浦駅の到着時間も前日に電話で知らせておいたから、何時ものように電車の走る音を聴き付けて、畑から山道を見下ろす習慣の祖母の姿がないことに多少の不安を覚えつも、涼子は足早に山道を踏みしめながら、家に向かって行った。

 家に着いてみると、いつもながらに土間続きの玄関戸も縁側れたままで、電話のベルがけたたましく鳴り響き渡っていた。

 土間に足を一歩踏み入れた涼子の眼には、祖母の転寝姿が飛び込んできた。

「なあんだお婆ちゃん、転寝していたのかぁ。心配したわよもぉ」

そう声を掛けながら近付く涼子だが、土間に接した和室の卓袱台脇で、不自然に横たえる祖母の異変に気づき、「はっ」と息を呑みこんだ。

 畳を変色させて転がる蓋の開けられた小瓶に涼子の眼が止まる。

 常に土間の片隅に置かれていた瓶で、祖母から、「農薬だで、触っちゃいけんがよ」

そう聞かされていた、紛れもない農薬入りの瓶だった。

 祖母の口許から流れ出た嘔吐の溶液が、畳を変色させていて、祖母の掌には、小袋とメモらしき紙片が硬く握られていた。


(39)


 涼子は震える手で祖母の体を抱き起こしたが、喉許に爪で掻き毟ったような祖母の傷跡を見て、一気に涙が溢れ出した。

「お婆ちゃん!私が悪かったわっ。御免なさい本当に、御免なさい。私、こんなに苦しめてしまって、……」

涼子は身を振り絞り、声にならない声で発し続けるばかりであった。

 以外にも死相は穏やかで、黄泉の国へと祖母は旅立ってしまっていた。その左掌に握られている小袋と紙片を、涼子はどうにか震える手で取り出して紙片を広げ、たどたどしく認められている文字を読みだした。

〈リヨコ、シアワセイノルタヨ、オラモシアワセタ、アリカトヨ。サイナラ〉


 涼子は、手荷物の中から旅券と祖母用に買い求めていた衣服をバッグから取り出すと、旅券を抱き起した祖母の胸許に忍ばせた。

 衣服で祖母の体を包み込むと、小袋は涼子自身の首に掛けるのだった。

 鳴り響き続ける電話のベルにも拘わらず、出ようとしないでいる涼子には、藤倉家からだと感じ取っていた。いつの間にか電話のベルも止み、無念さに夜明けを知らぬまま終の別れを惜しみ続けていた涼子の背越しの縁側で「娘はん来とうたがね。婆っちゃは、そら、そこの大金を昨日も卓袱台の上に放り出したままでいとうがで、おぶけた(驚いた)が。そっで、人事ながら無用心や思うて『しもうておかん(仕舞って置く)がね』と畑にいた婆っちゃにお節介やいたがよ。そっでも婆っちゃ何も言わんけえ、心配で郵便物ねえが、今日も寄ってみた。でも、娘はん来とうがで安心や」

 そう郵便配達人が声を掛けてきた。

 気が動転していた涼子は、郵便配達人から一方的に話しかけられたことにより、初めてその卓袱台の上の大金が目に映る。再び鳴りだした、けたたましい電話のベルにもかかわらず、出ようとしないでいる涼子の背後から、「婆っちゃ、ねよん(寝ている)とか?……娘はん。電話、鳴っとうが?」

 再び郵便配達人が、怪訝そうに声を掛けていた。

                                              完了                                                                    フィクションである。


歴史感とは、何とか悲惨なものか…

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