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学園寮の消灯時間から、1時間ほど経過したころ。
簡素な深緑色のドレスに身を包んだドリカは、わずかばかりの月明りを頼りに、1人そっと寮を抜け出した。
向かう場所は、学園にある中でも、ひときわ大きな杉の木の下。
そこで、学園からの注文の荷を下ろした商人と、落ち合うことになっている。
空になった木箱に入れてもらって、こっそり学園を抜け出す手はずだ。
商人は、ここ最近、ドリカが身の回りのものを売るのに通っていた商店の経営者。
最初にこの提案をした時は、貴族のお嬢さまを木箱に入れるなんてとんでもない! と顔を青くされたのだが、もう貴族じゃなくなるからと説得し、ようやく了承を得た。
そうだ、平民になるんだから、これから自分の食い扶持は自分で稼ぐ必要がある。前世の知識を駆使して、何か商売でもしてみようか。
たとえば、パン職人とか。
この世界では、小麦を挽くのにいちいちお金がかかるのが難点だけれど、そこは、前世チートを駆使して、まだ使われていないりんごとかももの酵母を使っておいしいパンを作れば、買ってもらえるかもしれない。
修道院に行ったらさっそく作ってみよう。そして院長さんに味見をしてもらおう、そうしよう。
何だか、明るい未来が待っている気がして来た。そう思うと足取りも軽くなり、ドリカは、暗い夜道を軽快に進んで行く。
そして、待ち合わせ場所に指定された杉の木の下に男性の人影を見つけると、はしたないかと思いつつ、もう貴族じゃないからいいかと、小走りで近づいた。
すると。
「んん?」
杉の木の下に佇む人影は、商人にしてはやけに姿勢がよく、堂々としているように思えた。
服装も、まるで軍人のようないでたちだ。チュニックの下がやけにがっしりしているように見えるのは、中に鎖帷子を着ているからではないだろうか。
しかも、腰に剣までぶら下げている。
グリップを見るかぎり、祭事用のきらびやかな装飾がついたものではなく、滑り止めの皮が巻かれた、ごくごく実用的な剣だ。
もしかして商人は、今回の逃走劇がバレた時には、追手をあの剣でどうにかするつもりなのだろうか。
さすがに、そこまでしてもらわなくていいのだけれども。
それならいっそ、明日のダンスパーティに参加して、公衆の面前で断罪を受け、国外追放される方が心臓にはやさしい。
そう思いつつも、すこしずつ杉の木に近づいて行くと、ドリカに気づいたのか、向こうも動き出した。 すぐに、逃亡の手助けを頼んだ商人本人でないことには気づいたけれど、ドリカに向かってまっすぐ歩いてくるので、商人が手配してくれた人物なのだろう。
でもあれ? 月の光に照らされた髪の色が…銀色? そして、生まれてから一度も笑ったことがなさそうな、精悍な顔つきは――――――………。
「………、シグナさま?」
まさかと疑いつつも、思い当たる人物の名を呼んでみる。
すると、その人物は、月明りでも確実に相手の顔が確認できる距離、ドリカの数歩手前で足を止めた。
「……本当に来るとは…」
眉間にしわを寄せて、はあ、と大きなため息をつくシグナ。
何やらショックを受けているような様子で横を向き、ひたいに手を当てるシグナに、ドリカは首をかしげる。
「………ええと…、あの、シグナさま?」
「……何だ」
疲れた声で応じるシグナに、ドリカは訊ねた。
「もしかして、シグナさまが、わたしの逃走を助けて下さるのですか?」
「………」
ドリカの言葉に、シグナの眉間のしわがさらに寄った。
「そんな訳ないだろう」
「あら、ではどうしましょう」
もうすこし待てば、商人が来てくれるのだろうか。そう思い、ドリカは杉の木の下に向かう。
けれど、シグナとすれ違ったところで、ぱしんと手を掴まれてしまった。
「あの、シグナさま」
「何だ」
「えっと、手を離していただけませんか?」
「断る」
「? では、わたしの用が済むまで、ご一緒してくださるおつもりですか?」
確かに、学園内とは言え、消灯後に貴族の女性がひとりで外出するのは外聞が悪い。
もっとも、まもなく貴族でなくなるドリカだ。もはや外聞など気にする必要はないのだが、現時点でまだ婚約者であるシグナの立場からすると、ドリカが夜更けに出歩いているのを承知で、ひとり放置するのは、決まりが悪いのかもしれない。
いやいや、でも、このままシグナにいられたら困る。シグナにとってドリカは確かに邪魔者で、いなくなったらうれしいんだろうけれど、さすがに、逃亡のためとは言え、木箱に入るのは止められるんじゃないか。
そういえば……、あれ? どうもシグナは、ドリカがここに来ることを知っていた様子。何故? どこから情報が漏れたのだろうか? ん?
ひとりでしきりに首をかしげるドリカを、シグナの黒い瞳が睨みつけた。
「商人は来ない」
「え?」
「商人は来ない、と言った」
ドリカにしっかりと分からせるように、強い口調で告げるシグナ。
「まあ…」
どうやらシグナは、ドリカがここに来ることどころか、商人と待ち合わせをしていることも知っていたらしい。
「ウェイク家の情報網って、すごいんですのね」
となれば、ドリカが夜逃げするつもりでいるのも、すでにバレているのだろう。
ならば、自力で脱出しようと移動を試みるが、シグナにしっかりと繋がった手を引っ張られ、もとの場所に戻される。
困ったドリカは、シグナの顔を見上げて言った。
「あの、シグナさま」
「……何だ」
「えっとですね、わたし、諸事情がありまして、今日中に学園を出たいのですが」
頼むドリカに、シグナはそっけなく答える。
「必要ない」
「でも、わたし、明日までここにいると、国外追放になりますでしょう?」
「ならない」
「国内なら、まだ、つてを頼りに生きて行くこともできますが、国外となるとさすがにちょっと生活の不安がありまして。まあ、いざとなったらしかたないので、隣国に行ってもしぶとく生き抜くつもりではありますが、でもやっぱりできることなら、国内にとどまりたふごっ」
ドリカの言葉は、突然引き寄せられたシグナの胸に吸収された。
上に布製のチュニックを着ているとは言え、その下は鎖帷子だ。ぶつかれば当然痛い。
ドリカは、空いている方の手で、ひたいを押さえる。
最初に胸にぶっかったおでこは、もしや赤くなっているんじゃないか。
乙女の体に傷がついたら、どう責任を取ってくれるんだ。そもそも嫁にする気もないくせに。
と、心の中で悪態をつきながら、むっとした表情そのままにドリカが顔を上げると、見下ろすシグナに、切れ長の目でじろりと睨まれた。
「……、………」
どうやら本気モードで怒っている、シグナの眼光の鋭さに押されて、ドリカはそろりと視線を外す。
まるで、いたずらがばれた子供のようなドリカの様子に、シグナは小さくため息をついた。
そして、握る手はそのままに、もう片方の腕を、ドリカの肩にそっと回す。
ドリカは、一瞬ぴくりと身をこわばらせたものの、シグナの仕草がやさしいことから、とりあえず逃げられなさそうだし、今はこれ以上無体なこともされないだろうと、大人しくしておく。
すると、頭上から、おだやかな声が降って来た。
「まずはおれの話を聞いてくれ。あなたの話はその後で聞こう」
「………わかりました」
ドリカが小さくうなずくと、シグナは、ゆっくりとした口調で話し出した。
「今、寮に兵隊が向かった」
「!」
ドリカの肩がびくりと震えた。
断罪の日が、1日早まったということなんだろうか。
だから、シグナは今、武装してこの場にいるのだろうか。
聞きたいことはたくさんあるが、今、ドリカに発言権はない。
開きそうになる口をつぐんで、シグナの話が終わるのを待つ。
「アナベル・ローエンは、まもなく逮捕される」
………逮捕…。
そうだ。ゲームの中でも、悪役令嬢は、パーティー会場で断罪されてから、近衛兵に連行されて、後日国外追放になった。
たぶん、連行されてからしばらくの間は、逮捕という形で、牢に入れられていたんだろう。
牢屋ですか…。地下牢だと、きっとそうとう湿っぽいのでしょうね…。あ、でも、お肌の潤いを保つという意味ではちょっといいのかしら? わたし、乾燥肌だし。
「隣国の密命を受け、国家の王子に取り入り、国を転覆させようとしていた女だ。万が一死刑にならなかったとしても、長期間の幽閉は免れないだろう」
え。幽閉ですか。国外追放ではなく。
だとすると、閉じ込められる場所が気になる。
捕まってしまったら、侯爵令嬢と言えど、待遇は他の犯罪者と変わらないだろうから…。
せめて、フランス最後の王妃さまレベルでお願いしたい。その息子ちゃん的な扱いは、つつしんでごめんこうむりたい。1日中暗い場所に閉じ込められて、着替えの支給もなく、おトイレないのに掃除もしてもらえず、虫とか蛆とか繁殖したら泣く。
「………っ、…」
自分の悲惨な行く末を想像してしまったドリカの体は小刻みに震え出す。
溺れる者は藁をもつかむ勢いで、思わず目の前のチュニックにしがみついた。
「そんなに怯えなくても大丈夫だ。あなたがあの女に会うことは、もうないだろう」
シグナは、ドリカの背中をそっとさすった。
「これで、おれの話は終わりだ。今度はあなたの話を聞こう」
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(C)結羽2018
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