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メイプル学園寮の窓から入り込んできたすずやかな風が、侯爵令嬢ドリカ・メインスの茶色い巻き髪をふわりと撫であげた。
あやうく帽子がさらわれそうになったけれど、どうにか頭にとどまってくれたので、ほっと息をつく。
キャペリンという帽子は、つばが広いので、風の影響を受けやすいのが難点だ。
もしかしたら、かわいらしい花のコサージュやら長いリボンやらの重みのおかげで、ちょっとした風になら負けない仕様になっているのかもしれないと思い、帽子職人さんにちょっと感謝。……いつもは重いしちょっと邪魔とか思っているけれど。
まあ、船とか家とか乗っかってないだけいいかと、半分あきらめつつ、顔をあげてみる。
空は薄っすらと青みを帯び、ゆっくり流れる雲はどれもふわふわだ。真ん中に木の棒を差し込んでくるりとまとめあげ、わたがしにしたいなんて妄想をいだく。
原料は1kg5~600円のザラメだけ。それに1本5円ほどの棒と、1枚30円程度のビニール袋。わたがしを1つ作るごとに消費するザラメは15~20グラム。だいたい5円相当。それを1袋500円で売るとはいい商売だな。なんて、かわいくないことを思っていた子供は、わたしくらいだったかもしれない。
……まあ、わたがしなんて食べ物を知っているの、この世界ではわたしくらいのものでしょうけど。
おいしそうな雲に後ろ髪をひかれつつ、ドリカは、子女寮の門番に重厚な木の扉を開けてもらうと、メイドのフロリーと共に外へ出る。
最近、学園の休日にドリカが出かける場所は、ほぼ同じだった。
トランクに荷物をぎゅむぎゅむと詰め込み、(おもにメイドが)大きな窓がついた馬車の座席に、これでもかというほど積み上げる。そして、小さく開けておいたスペースにちょこんと座り、御者台に座るヘンリーに声を掛けた。
「いいわ。出してちょうだい」
「かしこまりました、お嬢さま」
返答の後、ぴしりと軽い鞭の音がして、馬車が走り出した。
通りかかった3人の令嬢たちが、荷物の中に埋もれるようにして座っているドリカを見つけて、小さく声をあげる。
「あら…。ドリカさまは、今日も慰問へお出かけなのかしら」
侯爵令嬢、キシリア・レイモンドがつぶやくと、伯爵令嬢スーザン・クレイがうなずいた。
「きっとそうです。たくさんの荷物をお持ちになってるし」
「孤児院や修道院に寄付なさっているのでしょう?」
マリーム・ネスレ伯爵令嬢が訊ねると、キリシア・レイモンドが憂い顔で答えた。
「そのようね。そういえば、最近のドリカさまは、お洋服を新調されなくなったわよね」
「ええ。それに、ダイヤが埋め込まれたペンも、自分にはぜいたく品だとおっしゃって、売りに出されたみたい」
スーザンは、キシリアの言葉に付け加えると、少し2人に近づき、小さな声で言った。
「わたし、先日、ドリカさまのお部屋に伺ったんだけど……。国内に10セットしかないティーセットの新作もなくなっていたわ」
「それって、有名なデザイナー、エル・ニトンが手掛けた商品では…!? あれをお売りになるなんて…!」
「わたしなんて、欲しくても手に入らなかったのに!」
キシリアは、両手にほおを添えて、驚いた表情を見せた。
「まあ…! 我が国の第3王子エリクさまの婚約者でいらっしゃるキシリアさまでも、入手できないのですか…!?」
マリームの言葉に、キシリアは、すこし気分を損ねた風で言った。
「別にわたしは、第3王子の婚約者だからと言って、融通をきかせてもらおうなんて思ってないわ」
「あ、し、失礼いたしました」
マリームが慌てて頭を下げると、キシリアは、別にいいわよ、とあっさり言った。
格上の家に生まれた人物、しかも将来王族となる女性を怒らせずに済み、ほっと胸をなでおろしているマリームの横で、スーザンがつぶやく。
「…でも、ドリカさまがそこまでなさる原因って……」
すると、キシリアが、神妙な顔でうなずいた。
「もしかしたらドリカさまは、身の回りのものを喜捨なさることで、婚約者のシグナさまのお心が戻ってくるのではないかと思っていらっしゃるのかもしれないわ」
キシリアの言葉に、マリームが素早い反応を見せた。
「シグナさまと言えば、最近、ローエン男爵のご令嬢、アナベルさまと一緒にいらっしゃるのを、よくお見掛けするわ」
マリームがほおに手を添えて困ったように言うと、キシリアは同調するように声をあげた。
「ええ。まったく、シグナさまは、一体何を考えていらっしゃるのかしら」
マリームはうんうんうなずきながら、さらに付け加える。
「すでに婚約者がいる殿方たちに媚びるような、アナベルさまの行いは、先生方の間でも問題になりつつあるようですわ」
「……たち?」
マリームの言葉に、キシリアが眉をひそめる。
「マリームさまっ」
「あっ…」
スーザンがマリームを肘でこづいて止めるが、時すでに遅し。
複数形になった意味を察したキシリアは、きびしい視線をスーザンとマリームに向ける。
「あなた方…、まさかとは思いますが、わたしに隠し事などしてないでしょうね?」
「いえ、そのぉ…」
まるで失敗を咎められているかのような空気を感じ、口ごもりながら後ずさるマリーム。
だがしかし、スーザンは違った。
こうなってしまっては、曲がったことが大嫌いなキシリアの追究は免れないと察し、あきらめたように息をつくと、重い口を開いた。
「………実は最近、時おり、庭園や町中で、アナベルさまを伴うエリク王子のお姿が、たびたび目撃されているようです」
「………、……え?」
キシリアは、まるで咀嚼するようにスーザンの言葉を頭の中で反芻し、理解した瞬間、さっと顔を青ざめた。
そんな彼女に、マリームが追い打ちとも取れる真実を明かす。
「しかも、個室を予約されて、お2人きりでお食事をなさったそうです」
「……2人きり…? で、でも、従者は近くにいたのよね?」
すがるような口調で、キシリアはマリームに質問した。その気持ちはマリームにも、そしてスーザンにもよくわかる。婚姻前の貴族の子女が、従者もつけずに室内に籠るなど、2人はただならぬ関係なのだと噂してください、と言っているようなものだ。
けれども、事実は残酷だった。マリームはすでに顔面蒼白のキシリアに、はっきりと首を振って答える。
「いいえ。従者は、食事が終わるまで外で待機させられていたそうですわ」
「なっ、な……」
キシリアの気持ちは、声にならなかった。もしかしたら、今の自分の気持ちを表現する言葉が、見つからないのかもしれない。
その代わり…かはわからないが、キリシアの体が小刻みに震え出した。
「? キシリアさま?」
スーザンが、キシリアを案じて名前を呼ぶが、どうやら声は聞こえていないようだ。
キシリアの震えは次第に激しくなり、やがて、立っていられなくなったようだ。
「!! えっ、えええええーっ?!!」
「! キシリアさまっ!」
スーザンとマリームは、地面に吸い込まれるように倒れ込んで行くキシリアを支えるように、両脇に移動する。
「キシリアさまっ」
「キシリアさましっかりっ」
「気を確かにお持ちになって」
スーザンとマリームがかわるがわる声を掛ける。しかし。
「……ああ…―」
さっきまでは他人事だった婚約者の不誠実が、まさか自分の身に降りかかるとは夢にも思っていなかったキシリアは、そのまま気を失ってしまったのだった。
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(C)結羽2018
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