Chapter7 忍び寄る気配
家の茶の間。
ジルベルトと向かい合う形で座布団に腰掛け、影に侵された右腕を差し出すと上からジルベルトの手が重ねられる。
すると彼の掌から淡い光が当てられ、右腕に纏っていた黒い影は少しずつ薄れていき、終いには何もなかった時同様綺麗さっぱりになっていた。
「一先ず応急処置で押さえ込んでおいた。治った訳じゃないから油断するなよ?」
「う、うん…」
解放された右腕を持ち上げてあらゆる角度から眺めてみる。治ったように見えても、実際に消えた訳ではないらしい。
ほっとしたのも束の間だった。あの後は何とか家まで辿り着けたが、いつも以上に疲れた気がする。果たして気分転換とやらにはなったのか。
死神に関わるのはやめておけ、と言い残した男の言葉がふと頭を過ぎる。確かにジルベルト達が来てからの方が危険な目に遭っていた。
けれど最初に悪霊と遭遇したのはジルベルト達が来る前だ。彼等を追い出したところで、きっと状況は変わらないのだろう。
「あ、ちょうちょ!」
横から晴香が興奮で立ち上がった。つられるように妹の視線の先に目を向ければ、家の中に青白く光った蝶々が飛んでいた。
その場で高く跳ねて掌で捕まえようとする妹に、ジルベルトは苦笑を浮かべた。
「おっと、捕まえないでやってくれ。その蝶は俺達死神のお供なんだ」
「お供?」
「ああ、死んだ人間の魂が蝶の形で具現化してるんだ。あの世からの支援役だから、死神の側にいるんだ」
死んだ人の魂が、蝶の形として現れている。あの時、蝶の行動に意思のようなものを感じたのはそういう事か。
大事な役割を担って死神の手助けをしているのがこの蝶であると知れば、自然と興味深そうに見つめてしまう。
「そもそも、死神って、どういう人がなるの? あの男は悪霊の事を獲物って呼んでたけど……」
彷徨う霊と何が違うのか。一般的なイメージでは寿命が近い人の魂を刈り取る悪魔のような印象だが、見たところ彼等は印象とは反対寄りで、まるで何かに仕えているかのようだった。
意外な質問だっただろうか、ジルベルトが一瞬呆けた表情をしたが直ぐに此方を真っ直ぐに見据えてきた。
「……死神はな、主に罪人の魂がなる。自分の罪を償い切るまでは、あの世に帰ってくるなと門前払いされるんだ」
そして彼は片手を広げると、掌の上に小さな光が集約する。其処に白い砂時計が浮かび上がった。
手品のような一連の流れに感嘆の息が零れそうになる。彼は砂時計の上の砂を指差した。
「上の砂がその人の罪の量だ。これが全て下に落ちれば死神業を終えられる。魂の穢れを落とす為に悪霊を狩ったり、死者を冥府へ導いている。要は仕事と同じさ。対価の為に奉仕しているようなもんだ」
「なるほど…」
「けど、それは悪霊と死霊と死神、其々の数がバランスよくあってこそ成り立っている。今は死神の数が増え続けていてな、逆に悪霊の数は減ってきている。死神が罪を償いたくても、悪霊や死霊がいなけりゃ出来ない。それで、死神による争奪戦のような状態って訳さ」
ゆっくりと拳を握ると砂時計は消えた。罪滅ぼしと、故郷に帰る為に社会貢献しているようなものだと思えば理解出来た。
「ジルは、その…、何で死神になったの?」
罪人の魂ならば、目前の彼も罪を犯した事になる。尋ねるのは気が引けたが、如何しても気になった。今までの彼を見る限り、とても罪を犯すような人には見えないからだ。
ジルベルトは一瞬瞠目した後、眉尻を下げて笑う。それから間を置いて少しだけ視線が外される。
「さあ、何でだろうな」
酷く曖昧な返事だった。矢張り触れてはいけないところだったようだ。
「……ごめん。余計な事を聞いたかな」
「いや、響哉は謝らなくていい。何て言えばいいのか少し困ってな。その内話すとしよう」
徐に席を立ち上がったジルベルトはくるりと身を翻して響哉に背中を向ける。
「少し外を見てくる。他にも死者の声が聞こえるかもしれない」
それだけ告げて、ジルベルトは霊体化して見えなくなった。あからさまに避けられたような気がする。
アリサとシンシアは既に霊体化していて、自分だけが部屋に取り残された。先に眠っている兄弟がいる寝室を一瞥すると、自分も寝ようとパジャマに着替えた。
「罪人の魂…か」
誰に告げる訳でもなく、独り言が零れ落ちた。
もし、あれも罪に含まれるのだとしたら、自分も死んだ後は死神になるのだろうか──。
※ ※ ※ ※
「お疲れ様でしたー」
この日は残業で終電も過ぎてしまった深夜の時刻。
同僚と別れ、駅から近い家までの帰路を辿っていく。いつもなら多少の車くらいは通る道も、今日に限って一台も走っていないのだ。
風に揺れる木々の葉音くらいしか音はなく、聞こえるのは自分の足音のみで。
──何故だろう。この静けさが妙に落ち着かない。
最近ホラー映画を見た所為か。こういった静けさは妙に意識してしまう。早く家に帰ろう。そう思い、早足で渡った。
家まではそんなに遠くない筈なのに、まだかまだかと焦燥感だけが募っていく。
後ろから何かが迫ってきているような。無意識にそんな恐怖心に囚われていた。振り向いても何もいない。だが、嫌な気配だけがずっと付き纏っている。
止まってはいけないと、全身が警告を出しているかのようだ。次第に歩みから走り始め、気が付けば全速力で駆け出していた。
「はっ…は、…」
呼吸すら苦しくなる程に前へ前へと進んでいく。漸く前方に見慣れた景色が見えた。
良かった。家だ。あそこを曲がれば玄関に辿り着ける。玄関を潜ればもう安心だ。
「あれ……?」
玄関前に人が立っているのに気付いた。誰だ、そこに居たら家に入れない。
「あ、……ああ」
気付いて男は立ち止まった。理解すると同時に絶望した。
そう、あそこに立っているのは"人"なんかじゃないと。彼の逃げ場はとっくに失われていたのだ。
前方の影は嗤う。その背後から大きな無数の真っ白な腕が生えた。
咄嗟に反対方向を向いて逃げようとする。背中を向けて走り出すが、刹那、鋭い熱が足を裂いた。
「■■■──ッ!!」
声にならない絶叫を上げて地面に倒れ込む。流れた血が地面を濡らしていく。何が起きたのか理解する間もなかった。
「ひっ…!」
追い着いた大きな白い腕が彼の身体を持ち上げる。宙に浮いた足をばたつかせるが、力強い腕に抵抗は虚しくも意味を成さなかった。
真下にはローブで全身を覆った人型が立っている。──狩りだ。唯単に肉食獣が獲物を捕らえただけの事。
いやだ死にたくない痛い苦しい助けて嫌だいやだ──。
刹那、腕は其の侭彼を握り潰した。鮮血の飛沫が雨の如く降り注ぎ、肉体から取り出されたのは小さな光の粒子だった。人型は其れを口から呑み込み、空腹を満たして満足する人型はけたけたと嗤っていた。
※ ※ ※ ※
御前七時。
大きな欠伸を漏らして席についた兄弟の姿を見て早速朝食をテーブルに並べていく。
点けたテレビからは朝のニュースが報じられていて、キャスターが読み上げているのは如何やら事件のようだ。
『昨夜零時過ぎ、住宅街で男性と思われる遺体が発見されました。遺体はバラバラに切断されていて、現在身元の確認を急いでいるとの事』
淡々と画面の向こうから伝えられる内容に響哉は渋い顔をする。朝から食欲がなくなりそうだ。
「あれ、ここって……」
具体的な住所が表示されると、其処は響哉の家からそう遠くない場所だった。
「ジル」
「ああ、わかってる」
アリサは何か勘付いたのか、ジルベルトに視線を送っていた。
「響哉。この事件は悪霊が犯人の可能性が高い」
「どういう事?」
「考えてもみろ、生きた人間の仕業ならこんな目立つところに遺体を放棄しない。大抵は山奥とかだ。でも、これはなんつーか遺体を見せびらかしている印象だ」
「喩え見つかっても痛くも痒くもない存在だとしたら、充分に有り得るでしょう?」
箸を持つ手が止まってしまう。人間の仕業なら、警察が何とかしてくれる。
だが、悪霊なら如何だ。霊が見える人なんてほんの一握りしかいないだろうし、流石の警察もお手上げだろう。
ちらりと向かい側のジルベルトに目を向ける。そういう意味では死神は死者側の警察とも言えるのではないか。
「「ごちそうさま!」」
朝食を食べ終えた弟と妹が声を揃えた。食器を重ねて台所まで持っていく。
そうだ。そろそろ時間だった。響哉も残っていた目玉焼きを口に含み、全て平らげた。
妹は脇に置いていたランドセルを背負って、弟も通園バッグを持って準備を終える。
一通り片付けを済ませたなら黒のビジネスバッグを手に提げてリモコンに手を伸ばす。テレビの電源を消して玄関へ急いだ。
「響哉、俺もついて行こうか?」
「えっ」
革靴を履こうとしたところで思わぬ申し出が聞こえた。壁に凭れ掛かりながら腕を組んだジルベルトが此方を見下ろしていた。
恐らくは今朝のニュースが気掛かりなんだろう。身を案じての声掛けは有り難く、然し通勤時までついて来られるのは変に目立ちそうだ。
「いや、いいよ。家で留守番しててほしい」
彼等も他にもやる事があるだろうと思い、遠慮した。
何時の間にか死神が家に居座るのが当たり前になっていた。帰る場所がない死神を再び外へ追い出すのはとても気が引けたからだ。
「行ってきまーす!」
玄関で靴を履いた晴香がジルベルト達に手を振って外へ出る。それに続く形で鞄を持ち、祐樹の手を引いて玄関の扉を開けた。
「えっと…、行ってきます」
「おう、行ってらっしゃい。霧には気を付けろよ?」
一度足を止めて振り返り、控え目な口調で告げるとジルベルトは笑って手をひらつかせた。
バタンと扉が閉められる。静まり返った室内にジルベルトは深めの息を吐き出した。
「さてと…」
「待ちなさい」
ジルベルトの身体が光の粒子となりかけたその時だった。制止する声に肩を跳ねさせて後ろを振り向いた。
「貴方、霊体化して追いかけるつもりでしょう?」
「あちゃー、バレたか」
態とらしく肩を竦めたジルベルトにアリサが近付いていく。
「ねぇ、ジル。一条響哉が深刻な状態なのはわかるけど、私達には悪霊が増える原因を突き止める任もあるわ。そろそろこっちにも集中してもらいたいのだけど」
痛いところを突かれたと、ジルベルトはばつが悪いそうに視線を外す。
「悪いな。それで、昨日は何かわかったか?」
「……。私達が見た限りでは、これまでに浮遊霊が悪霊と遭遇して二次感染するパターンを幾つか目撃したわ。それだけなら何処にでもある話しだけれど、件数が圧倒的に多い」
「偶然出会ったというよりは、悪霊のいる場所まで導かれた、といった感じですね。意図的なものを感じます」
後からやってきたシンシアがアリサの隣に並び立つ。双子は目を合わせて小さく笑った。
二人の報告を聞き、ジルベルトは後頭部に手を添える。面倒くさそうに一息吐いた。
「…それじゃあ悪霊に餌をやってるようなもんじゃないか」
「ええ、そうよ。そして増えた悪霊が、一条響哉に引き寄せられてこの付近まで集まってきている。という事かしらね」
「他の死神が我先にと集まってくるかもしれません」
他の死神と聞いて先ず浮かんだのは刀を持った死神だ。
彼は特に悪霊を狩る事を楽しむ素振りを見せていた。交えた刃も己の正義を振り翳すかの如く、力強さを感じた。
彼のような死神が大勢集まったところで、今度は死神同士の戦いになるのが目に見えている。結局平和とは程遠い。
もう一人、死神の姿が思い浮かんだところで首を横に振った。彼女だけは、出来るなら避けたい相手だった。