汗と涙と蝉に捧ぐ、僕の野球生
頬を伝うしょっぱい液体を拭うことすら、その時の僕は億劫だった。
ホームベース付近には、相手チームの感嘆の輪が出来ている。ホームを踏んだ走者、ヒットを打った打者両方が英雄のように敬われて、笑顔でいる。彼らも坊主頭から汗が滴り落ちている。しかし本人も周りも誰一人気にも留めていない。
僕はそれを目の端に捉えつつ、ゆっくりとマウンドにへたりこんだ。滴り落ちる汗は永遠に止まらない。口に入るとその汗は異常にしょっぱく、そのことが分かった途端もっと水分が、体から飛び出していった。
後1つのアウトだった。その1つをとるためにどれだけ努力したのだろう。
ただ、それが出来なかった。ただそれだけの話である。
入道雲が空一杯に広がり、ミンミン蝉が己が生きてることを主張し出したあの日、あの夏、僕の最後の悪あがきが終わった。
その時から、いやその前からずっと僕は知っていたのかも知れない。人間は恐怖に、トラウマに打ち勝つことは出来ないと。
額に汗をかく。かいた汗をスーツのポケットから、取り出したハンカチでゆっくりと拭う。
空は、気温はあの日以上に暑い。就職活動中だろうが、高校野球の地方大会決勝だろうが、僕を叱りつけるように照りつける。あの日の敗戦から逆境には慣れたつもりだった。
しかしこの暑さは辛い。僕の体力と気力をゴリゴリと削っていく。汗は滝のように流れ続け止まるとこを知らない。こんな暑い夏はいつもあれを思い出す。
最後のバッターに投げてしまった、甘くて悔いの残ったストレート。仲間が点を取ってくれないことに、キレた幼稚な心。八つ当たりをしてしまったせいで、仲間もゆっくりと減っていってしまった。最後にキャッチャーの山中に言ってしまった、言葉は今も僕の心を蝕み、侵食し、錆び付かせている。
結局僕はあの日から1mmも進めていないのかも知れない。
それを指摘してくれる人間も、その止まってしまった時間を動き出させようと努力してくれる人間は僕の回りにはもう誰もいない。
「子供が出来ちゃった」
夏の暑さにやられて、食欲もなくなってしまった僕に素麺を作りながら君が言った言葉である。
君に言われたその言葉の意味を理解するのに僕は多大な時間を費やしてしまった。
元々無かった食欲はカンペキになくなってしまった。
部屋にはクーラーと扇風機の音がコントラストのように鳴り響き、外の蝉の音を書き消していた。
冷や汗が流れただでさえ冷ややかであった部屋の温度は急激に下がった。
僕のミスでなにかが起こって怒る。
この恐怖はあのときに嫌というほど思い知らされていたはずだった。
君の嬉しそうな顔は、僕を地獄の門へと駆り出すのには十分だったのかもしれない。
いつまで、ウジウジしている?
あのときに犯してしまった業を精算するのは丁度良い機会ではないのか?
そんな風に思ってしまった僕は君の目にどんな様子で映ったのか。その時の君の顔を僕は一生忘れることが出来ないだろう。
君の頬を流れる水分はあの日僕が流したものと一緒だったのだろうか。それは分からない。
外では蝉が短い命を誇張するように音を掻き鳴らしている。彼らは汗をかくことを知らないだろう。
苦しさを知る前に死んでしまうだろう。僕はそれが酷く羨まして、憎らしくて、だけど可哀想になってしまう。ただ生きるために死ぬ。
僕の流して拭き取れなかった汗は、水分は一体どこに行ってしまったのだろう。
人間は打ち勝つことが出来ない。
僕は一生あの時あの投球に悔いを持つ。だからこそ、僕はあの日口に入った、あの水分のしょっぱさだけは、僕を鼓舞するためだけに覚えていたい。
太陽と蝉が僕を叱りつけている。
またあの暑い季節がやってくる。
お久しぶりです。
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