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古代ローマの建築家ウィトルウィウスは、水車を広くヨーロッパの人々に広めた人物である。半永久的な動力装置として、水源の豊かな地域を中心に漸進的な普及をした。とはいえ、最初の用途は工業や農業でのごく限られたものだった。まさか数千年後に、電力というエネルギーのクリーンな供給源として盛んに利用されることになるだなんて、古代ローマに暮らす人々の誰にも想像できなかっただろう。
その水車が、僕の街では止められている。数年前に起きた水害事故の続発で、水車に対する反対運動が発生したからだ。危険なものは遠ざけろ、人々のもつこのスローガンは行政を無理やりに動かした。放っておけば勝手に回り続けてしまう水車に対して、その板敷を取ってしまうことで無力化した。
水車は今や、ただの巨大な骨だけの輪として川の中に佇んでいる。壊してしまうのが人々の総意であったが、あまりにも巨大なので解体するのに十年単位の月日が必要になってくると言われていた。力を持て余すとはこのことだ、と人々はまた大きく不満を口にした。ここ数年は、街の議会でその不満を聴かない日はないほどだった。
僕はごく平凡な学校生活を過ごした。可もなく不可もない成績で試験を越え、卒業が約束される身となった。
「お前ら、卒業したらどこへ行くかさすがにもう決めただろ」
食堂で眼鏡の友人が質問してきた。小太りの友人が「田舎へ行くよ」と答えた。質問した方があきれ顔をした。
「お前ずっとそればっかだな。ちょっとは他のことしてみたいと思ったことないのかよ」
「うーん、ないな。全くない」
「世捨て人にでもなる気かよ。わかんねえなあ。せっかく大人として認められるんだぜ? せっかく都会で目いっぱい遊べるのに。第一、お前、農家の仕事なんかできるのか」
「それはこれから学べばいいよ」
気軽に言ってのける膨れ気味の顔と、冗談だろうと呟く友達の納得いかなげな眼鏡の顔。それらを交互に見て、笑いたくなると同時に、切なくもなった。この二人と食堂で会うのも今日が最後だと思うと感慨深かった。
「なにを微妙そうな顔で笑っているんだよ」
と、眼鏡の方に小突かれた。
「いや、ごめん」
「謝るほどのことじゃないけどな」
指摘されて、確かにと頷く。眼鏡の友人はまた例の質問をした。
「お前は卒業後、決めているのか?」
きた、と思った。少しだけ間を置いてから、僕は口を開いた。
「港の大学へ行くよ。すでに入学の手続きは済ませてあるからね」
在学中に試験に受かっていた。必要書類と入学金をそろえて提出してあった。学校を卒業して春を迎えたら、港の寮に引っ越すことが決まっていた。
「はあ、好きだねえ。よくそんなに学ぶ気になれるな」
「まだまだ知りたいことがあるんだよ」
その説明を、僕は何度も繰り返してきていた。知りたいこと、たいていは昔に葬られた技術のことを指していた。
山のゴミ捨て場に行ったときのことを今でも身近に思い出すことがあった。捨てられていた技術が蘇れば世の中はどう変わるか、考えるのが楽しかった。手がかりとなるような書物は表向きには一切残されていなかったので、一人で図書館に籠って調べているときには苦労した。そんな折、同じように学を究めようとしている級友から、港では海外から新鮮で表に立たない知識を得ることができるという噂を聞いた。港の大学を行き先として選んだのにはそのような事情も絡んでいた。
眼鏡の友人は僕の言葉を受けて感心そうな顔をしていたが、それを崩すと、ひとつ大きなため息をついた。
「俺はてっきり東の街へいくものだと思っていたけどな」
「え?」
いきなり言われて、僕はうろたえた。東の街、川の向こうの街。どうして、と訝しむと同時に、懐かしい影が思い浮かぶ。
「あ、僕もそう思っていたよ」
小太りな友人が追い打ちをかけてくる。
「なんで?」と聞くと、小首を傾げて答えてきた。
「だって彼女は東の街にいるんだろう? 会いたいと思わないの?」
僕は返答に窮した。彼女と帰ってきてから今まで、こんなに明確に彼女のことを尋ねられたのは初めてだった。
あの家出から、そして彼女と会わなくなってから半年が経った。あのときは過去になっていて、将来がもう目前に来ていた。
まだ彼女には会っていない。
水車が止まってしまった以上、川の向こう側へと行くのは大変なことではなかった。定期船に乗れば三時間で到着できる。休日を利用して会いに行くことは十分に可能だったし、実際学校に残された側の彼女の友達は何人か彼女に会いに行っているようだった。それなのに、僕らはどうしてか会おうとしなかった。遠慮していたわけでもない。僕の父も、母も、あのときのように怒っていないことは明らかだった。
結局のところ、会わないことが常態化してしまっていたのだと思う。小太りの友人に尋ねられて、そのことがわかった。
しかし、自然に答えるにはタイミングがずれてしまった。眼鏡の友人の、嫌な感じのにやけ顔が僕に向けられていた。
「そんなに照れることないだろ。俺たちみんな知ってるんだから。なにせあの駆け落ちは今でも語り草で、後輩たちに語り継がれているくらいだからな」
「語り継がれる? いったいいつの間にそんなことしたんだよ。ていうか、駆け落ちじゃないだろ。帰ってきたんだから」
「未遂だって十分話題になるんだぜ」
「あのなあ」
今度は僕が呆れる番だった。「そんなんじゃねえよ」と言いながら、笑いが込み上げてきた。そしてふと、この話題で笑えるようになった自分に気づいた。
そこから僕は、すぐに動いた。
授業を抜けたおかげで、ちょうど三時間の猶予ができたのだ。
冬の終わりを感じさせる暖かい風を切って、陸地にいる限りとにかく走り続けた。
川について、定期船に飛び乗って、接岸したらまた走って。
そして、「久しぶり」と声を出した。
重々しい門の前だ。東の街の学校は、僕の街の学校より小奇麗だったが、門だけは同じくらい大きかった。
振り向いて、驚いているその顔は、間違いなく彼女だった。
「なんで?」
と言いつつも、彼女の口元には、もう笑みが広がりつつあった。
「昼休みに君のことを思い出したんだ。ちょうど話に出てきて。だから、会いたくなった」
知らない学生たちが脇を通り過ぎていった。この学校での彼女の知り合いが見ているかもしれない。もしそうなら、さぞや嬉しそうに囃し立てていることだろう。
「何も準備してないのに」
彼女が口を尖らせた。それでも笑みが消えていなかった。僕が幼いころから知っているあの笑顔そのものだった。
「そのままでいいよ」
と僕が言うと、彼女はすぐに納得してくれたようだった。
彼女は僕に手を伸ばしてきた。斜陽に照らされて、橙がよく沁み込んで見える。
僕は彼女を見つめた。
彼女も僕を見つめている。
このときになって、僕はようやく確信した。
彼女の中に僕がいる。だから、僕も彼女もひとりじゃないんだ。
そう思うと、胸が奥底から温かくなった。
夕暮れ迫る街中を、僕たちはゆっくり歩き始めた。止まってしまった巨大な水車を時折見上げるようにして。




