表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

6

 揺れを感じたのが、最初の意識だった。湿った木の醸し出す深い匂いがする。

 目を開いたら、横になった彼女が見えた。小さな手を顔の前で丸く柔らかく握りながら、静かに寝息を立てている。

 空は晴れているようだ。彼女の姿がよく見える。僕らは広い木の板の上にいた。僕らは何かに乗っている。少なくとも、しっかり生身で。

「起きたか」

 声がした。僕は上体を起こそうとして、あまりの痛みに悲鳴をあげた。その声もひどくしわがれている。全身が万遍なく痛い。特に脚が、角ばった鉛を無理やり埋め込んでいるかのような痛みを放つ。辛うじて動かせた首を捻って回したら、僕らの乗っている木の板が荷台のようなものだとわかった。僕らは運ばれている。

 前方に目をやった。木の板の向こうに寂しそうな白髪が見えた。馬に乗っている。

「覚えているか」

 その人がいった。その途端、記憶が蘇った。街で会った宝石売りの老人の声だった。

「どうして?」

 あらゆるものを含んだ問いをしたら、喉が痛んだ。僕の喉は疲労によってずたずたにされていたみたいだ。咳払いをしたら、むしろ咳き込んでしまった。

「狼が嬉しそうに吠えておったからな。何だろうと思って行ったら、おまえさんたちが寝ていた。足を見てみな」

 言われるがままに視線を向けて、「うわっ」となった。足には歯型がついていた。狼の歯型だ。血の痕跡も残っていて、脚に広がる痛みの一因だとすぐにわかった。

「全然気づかなかった」

 僕は素直にそう言った。老人が愉快そうに笑った。

「お前は叫んでたぞ。昨夜のことは覚えてないのか」

 僕は首を傾げる。

「何も覚えていないんですけれど」

「じゃあ寝ぼけていたんだろうな。でも、確かに叫んでいたぞ。『助けて!』ってな」

 僕は唖然としてしまった。

 老人が笑い、それから会話はなかった。荷馬車はゆっくりと道を進んでいった。

 鳥の声がする。日は高く昇っている。すでに一日が始まってから、何時間も経っているのだろう。僕と彼女は、宝石売りの老人に助けられていた。


 山の中に木を組んで作られた小屋があった。石造りの暖炉も備え付けられていて、僕と彼女はその傍で並んで寝かされ布団を包ませられた。起きている僕は、彼女の布団が勝手に暖炉に突っ込んでしまわないよう見張ることになった。老人は外に出て何やら作業をしているらしかった。

 やがて彼女が目を覚ました。

「おはよう」

 と声をかけると、彼女は呆然と僕を見つめてきた。あまりにも呆然とするので「なに?」と声をかけてみた。

「信じられない。私たち、生きているの?」

「うん。山の人に助けられたから」

「そうなんだ……あの、昨日のこと」

「え?」

「あ、いい! なんでもない」

 そう言って、彼女が首を僕の反対側へ向けた。暖炉の方だ。きっと熱いだろうに、彼女は顔を戻さなかった。頬が赤らんでいるようにも見える。

「なんだよ」

「なんでもないよ」

「なんのことかわからないんだけど」

「わからなくていいんだってば」

「何も覚えていなくて」

「いいの」

「どうして?」

 と僕が聞いたら、彼女は言葉を返さなかった。何も言いたくないらしい。仕方なく僕も話題を止めた。

 昨日のことは、疲労もあっておぼろげだが、覚えている部分もあった。

 彼女は生きることに疑問を持っていたはずだ。僕はそれに応えられなかった。そのときのやるせない気持ちがまだ残っている。

 でも、夜のときほど重苦しくはない。僕の目にははっきり彼女の後頭部が見えた。どう見たって、そこにいる。

 昨夜は彼女の存在がわからなくなった。彼女がそこにいるのか不安になって、信じられなくなって、孤独になった。

 今は、なんだか、違う。僕は自分の手を見た。布団から突き出る足も見た。肉体がそこにあり、僕はここにいる。疑えば疑えるのだろうけど、今は疑う理由がない。

 ほっとした。直後に、思い出した。闇の中で抱き合ったときの柔らかな感触を。

「あ、ごめん」と思わず言ってしまった。

 彼女がすぐに振り向いてくる。非難の色が見えて、僕は慌てて二の句を継いだ。

「悪気は無くて。昨日は、その、寒かったからつい」

「はあ?」と彼女に呆れられた。言葉を返そうとしたけれど、指の先で記憶してしまった彼女の柔らかさのせいで、身体の底から火照っているのに忙しくて、それはもう大変に忙しくて、答えるどころじゃなくなってしまっていた。


 宝石売りは帰ってくるとすぐに、僕と彼女を椅子の上に乗せてくれた。節々が痛んだので、この手助けはありがたかった。小さな丸いテーブルの前で僕らは並んだ。

「食事にするぞ」

そう言われたとき、僕は正直にいえば乗り気ではなかった。ものを食べる動作が実感できないほど、身体の感覚が麻痺していた。宝石売りは僕の顔を覗きこんで、眉根を寄せた。

「食べないと元気にならんぞ。力もわかん。いいから黙って食え」

 それからほどなくして、僕らの前にスープの入った器が届けられた。底が深くて、並々と注がれたスープはとても澄んでいる。香りが僕の鼻にあたり、呼吸をするたびに野菜の温もりが思い起こされる。

 堰を切ったように、猛烈な食欲がわいてきた。疲れや痛みなどそっちのけで、僕は器を抱えるように持ち上げ、一気に飲んだ。喉が闊達に上下する。温もりに喜び騒ぐ胃を実感し、自分の腹の中が本当に何もなかったことを思い知らされた。飲み終わった直後にお腹が鳴り、宝石売りが大声で笑った。一語一語はっきり発音された、迸るような笑いだった。

 食事は野菜を主に使っていた。宝石売りはベジタリアンだったのかもしれない。僕と彼女のスープの中には時折小さな鶏肉が見えたけど、宝石売りの手元のこじんまりとしたお椀の中は見られなかった。それでもお腹は十分に膨れた。これほど満足感のある食事をしたのは生まれて初めてだったかもしれない。食材の収まった腹の底から止めどなく力が溢れてくる予感がした。

「お前たち、どこを目指してた」

 宝石売りが質問してくる。僕と彼女は目を合わせ、それから僕が、「上へ」と答えた。

「山頂か?」

「そうかもしれないです。とにかく、高いところへ。あの街から離れたくて、水車を見下ろせるくらい高いところへ行きたかったんです」

「あれが好かんのだな」

 水車のことだろう。宝石売りのその問いに、僕はすぐ頷き返した。宝石売りは何事かを考えるそぶりになった。

「お前たち、身体はどうだ。動けるか?」

「僕は……たぶん大丈夫」

 腕の痺れが萎んでいるのは肌身に感じていた。

「私も、さっきよりましです」と彼女も言った。宝石売りは満足げに頷いた。

「それなら、山頂へ行こう。おれの馬に乗れば日が傾く前には着く。そこでお前さんたちに見せたいものがある」

 僕と彼女がきょとんとするのを、宝石売りは愉快そうに眺めていた。気にはなったが、その場所にいくまで教えてくれそうもなかった。

 食事を終えて、歩く練習をした。食事のお蔭なのか、起きたばかりのころより力が湧いた。僕らが部屋を動き回れる程度に回復したのち、宝石売りは僕らを馬の牽く荷台へと案内してくれた。僕らが座ると、宝石売りが手綱を引いた。馬がいななく。木々の鳥が空へと羽ばたく。僕らは山へと進み始めた。

 道の勾配は急で、きっと自分の足ではひどくしんどかっただろうと思われた。ここを夜通しで登ろうとしていたのだから、恐れ入る。もし昼間の見えているときに見ていたら、道半ばで大人しく家に帰っていただろう。それくらい高く、長く続く道だった。

 馬は高所に慣れているらしく、流れるように僕らを運んだ。疲れも苦しみもまったく見えなかった。馬は宝石売りと一緒によく山のぼりをするのだろう。歩き方に慣れの自信が感じられる。足取りに迷いがない。僕は安心して自分の身を荷台に預けることができた。

 上空にオレンジ色が兆しはじめた頃、道は急に平坦になった。僕らは前を見た。薄い針葉樹の林に囲まれた岩道が見えた。

「もうすぐだ」と宝石売りが言った。「この山の頂上は草原になっている。この木々を抜ければすぐだよ」

 宝石売りの言った通りに景色は変化した。薄い森が終わり、広々とした背の低い草原に辿り着いた。僕は驚いた。山頂と言われれば、もっと切り立った岩壁を想像してしまっていた。だけど、目の前にあるのは、穏やかで優しい広々とした自然だった。枯れ葉も朽ち木も岩もない。

 その景色の中で、もっとも僕を驚かせたものは、山のはるか遠くにあった。

「うそ……」

 彼女が呟く声がする。僕もまったく同じことを言いかけていた。

 僕らの前には水車があった。僕の今いる場所からずっと遠く、僕らの知らない川の上を回っている。僕らの背後の、僕らの街の水車と同じくらいの大きさだ。

「あれが、今の世の中で一番クリーンな発電装置とされている」

 遠い巨大な水車は、僕らの街の水車と同じように、絶え間なく回転を続けている。この国にある幅の広い川には大抵同じように水車が備え付けられているのだと、宝石売りが説明してくれた。

 僕の口から溜息が漏れた。

「なんであんなに大きいんだよ」

 やりきれない思いを吐き捨てたやった。

 少しだけ間を置いてから、宝石売りが「もう少し歩くぞ」と言った。

 荷馬車はまた僕らを載せて歩き出した。水車の方角に向かっていたけれど、ちっとも近くなるは気配がなかった。あの水車はとても遠くにある。僕らが山に隠れている間、その巨大なフォルムを隠し通してきていたらしい。そう思うと、ぞっとした。

 ゴミ捨て場は草原の西の、段差の先に落ち窪んだ場所にあった。そこだけ陥没したみたいになっていて、地面を覆いつくさんばかりに灰色のもので溢れていた。僕は息をのみ、彼女は小さな悲鳴を挙げた。そこには見知らぬものが山ほど詰め込まれていた。見たことのない灰色の四角の塊が、大なり小なり、みんなそこで集まって朽ち果てようとしている。ゴミ捨て場というのだから、みんないらなくなったゴミなのだろう。あまりにも数が多すぎて、土地の全容がつかめない。

 よく見ているうちに、落ち窪んだ場所が深い穴だとわかった。

「ずっと昔から使われているゴミ捨て場だよ」と、宝石売りが教えてくれた。いっぱいになってしまったから最近は頻度が減ったが、それでもたまにひっそりとゴミが捨てられに来るという。

 僕と彼女は荷台から降りた。昨夜とは違う暖かな風が頬を撫でた。

「ここに捨てられているものは、みんなに要らないと思われたものだ」

 宝石売りはゴミに近づき、うちの一つをさし示した。埃を被った灰色の四角い箱で、一面にはガラスのようなものが貼られている。用途がなんであるかは僕にはわからなかった。

「これは何をする道具ですか?」

「映像を受信する機械だよ。この世のどこかで発信された電磁波を受けて色彩データに変換し、表面にそっくりそのまま映し出すことができる」

「映像を? そんなことができたんですか」

「ああ。『テレビジョン』と言われていた。ほんの二十年ほど前までは使われていたんだ」

 僕が生まれるほんの少し前まで使われていたことになる。その場を見渡せば、『テレビジョン』の残骸が最も上部に積み上げられているのがわかった。つまりそれだけ最近になって捨てられたものだということだ。

「そんなものがあったなんて、聞いたことなかったわ」

 彼女が言った。僕もその言葉に同意だった。遠くのものを伝える機械なんて、電話かラジオくらいしか見たことがない。

 宝石売りは僕らの反応を見て満足そうに笑みを浮かべ、「まだあるぞ」と、山になっていたテレビをどかしていった。次第に、年季の入った鉄製の板のようなものが見えてくる。色は抜け落ちていて、錆びで赤黒く爛れている。傾きのある四面体で、それぞれの面の上部には大きな四角い穴が空いている。中には簡単に入れそうだ。一見すると、口を大きく上げた猛獣の頭蓋骨のようであった。

「『自動車』だ。燃料を入れてスイッチを入れればどこまでも機械の力で行くことができる。馬よりも速いし、持続して走り続けられる」

「どこまでも?」

 僕は驚かずにいられなかった。馬に乗らなくても、どこへでも行ける。そんな自由な機械がこの世にあったなんて、これまた僕は知らなかった。

「これもほんの三十年前までは使われていた。それが、行政の方針で捨てられることになったんだ。『自動車』は、自由に動ける分、その道中で多くの人にぶつかり死傷させてしまう恐れがある。いくら注意して運転していても誤りは生じてしまう。だから、人々は話し合った。近場を移動するなら『馬車』がある。遠出をするなら『飛行機』がある。だったら自動車は要らないんじゃないか。そう結論付けて、『自動車』をお払い箱としたわけだ」

「『テレビジョン』もそうなの?」と彼女が聞く。そう、と宝石売りは答えた。

「どうして? 何が悪いというの?」

「悪いんじゃない。みんながテレビを見なくなったんだ。『テレビジョン』が受信する映像は世界中で見ることができる。誰でも見ることができる分、誰にでも快く受け止められる内容でなければならない。そのような制約を意識してしまうと、次第次第に内容が似たり寄ったりのものとなってしまう。結局のところ、最後にはニュースばかりが視聴できるようになった。そしてニュースなら『新聞』や『ラジオ』で十分じゃないかという話になった。あとは同じように、政府の方針で『テレビジョン』が一斉に廃棄させられることとなった」

 長い説明を終えて、宝石売りは一息ついた。『自動車』にしても、『テレビ』にしても、僕の全く知らない事情があった。

「ひどい」と僕はこぼした。

「こんなものがあるなんて全く知らなかった」

「言わないように強いられているんだよ。思い出して、勝手に作られては困るんだな。みんながそう決めた」

「そんなこと言われても、僕にはわからないよ。これは僕が生まれる前に捨てられているじゃないか。知らないものが良いのか悪いのかなんて判断できないよ」

「だったらどうする。お前はこれがほしいか? 作ってみたいか?」

 宝石売りが真っ直ぐに僕を見つめてきいてきた。僕はほんの一瞬気おされて、すぐに彼の言葉に興味が湧いた。

「作れるの? 『自動車』を」

「当然、わしは作り方なんぞ知らんよ。お前らもだろう。知っている人はきっともう老いてしまった。しかし、人が作った者をわしらが作れん道理はない。『自動車』も『テレビジョン』もかつてこの世にあったのだから」

 僕は言葉を失った。ゴミ捨て場に転がっているゴミたちが、突然輝きを放ちだしたような気がした。いったい知らないうちにいくつもの機械が捨てられてきたのだろう。僕のこの世界は元々どのような姿をし、どのような発展をしてきたのだろう。そう考えていると自然と心が快く踊るようだった。

 宝石売りと共にゴミ捨て場を回った。時間としてはそれほど長くない。けれどそこでの散策は、とても満ち足りた心地がした。太陽の傾きがほんの少し急になり、東の空に群青の色が見受けられるようになるまで、僕らはゴミを手に取り宝石売りの教えを受けた。知らない機械がたくさんあった。いくら説明されてもキリがなかった。僕らがもっと教えてとせがむのを、「暮れたらまた狼が出てくる」と宝石売りが制した。

「またいつでも来れる。おれに会えたら案内してやる」

 しゃがんで、『テレビジョン』の下に手をのばしながら宝石売りが言った。僕はまだうずうずした気持ちを静められずにいた。

「どこで会えるんですか」

「近いうちに街に行く。前とはまた違う場所だが、探せば会えるさ」

「でも、この前お店が潰されちゃったじゃないですか」

「あんなの平気だよ。よくあることだ。店くらい、なんだ。すぐに作れる。『自動車』よりずっと簡単だよ」

 宝石売りは『テレビジョン』の下から手を引いて、「よしよし」と満足そうに立ち上がった。手のひらに輝きが見えた。大きさがバラバラの宝石が、その片手いっぱいに握りしめられている。

「売り物は全部ここにある。要らないとして捨てられたゴミなんだ。それを要る人に渡す。形はどうであろうと全ての商売がそうできているんだよ。だから俺は必ずまた店を出せる」

 宝石売りが笑った。この人らしい、朗らかで、はっきりとした笑いだ。つられて僕も、彼女も、笑った。

 日が暮れてしまう前にと急いで宝石売りは木造小屋へ帰り始めた。荷台の上に僕らを載せて、暮れなずむ道をゆったり歩んだ。

 照明に照らされた暖かい光の下で、僕と彼女は夜を迎えた。身体は昼間よりもずっと軽くなっていた。昨夜まで死を覚悟していたことがまるで信じられなかった。宝石売りのご厚意に甘えて、一泊し、翌日早くに街へと帰ることとなった。


 その夜、僕と彼女は床に並んで布団を被っていた。僕は目がさえてしまっていた。「ねえ」と彼女の声がして、彼女もまだ起きていることを知った。

「帰るの?」と彼女が聞いてきた。「うん」と僕は答えた。

「どうして? あんなに逃げてきたのに」

 そのときもまた、彼女の顔は見えなかった。何を考えているかはわからない。それを重々承知しながら、僕は自分の意見を述べた。

「逃げたくなくなったんだ。逃げたところで、あの水車は無くならない。あの街のエネルギーはあの水車でまかなっているんだ。別の方法でエネルギーを作る方法を考えれば、あの水車は必要なくなるはずなんだ。それまで、逃げたくない」

「そんなの、あるの?」

 不安そうな彼女の顔が暗闇の中に浮かんだ気がした。僕は口元を緩ませた。

「見つける。きっとゴミ捨て場の中にヒントがある。そうじゃなかったら自分で探す。知らないことは、まだまだたくさんあるんだから」

「そう。でも、それじゃ私の親は待ってくれないよ。戻ったらすぐ連れて行かれちゃう」

 彼女の言葉の終わりの方は、弱々しく萎んで消えていた。

 何を言えばいいだろう、と思った。どういえば彼女が悲しまなくなるかを考えた。だけど、すぐにそれはやめた。どうあがいても彼女は親の元へと行ってしまう。まだ大人でない僕たちにはそれが当然で、逃げ出している今がイレギュラーだ。言葉で言い繕ってしまうのは、現実から目を背ける行為にすぎない。現実にある悲しみを、止める手立てなんてものはない。

 僕は布団から手を出した。真っ暗な中を、彼女の方へ向けて伸ばした。窓からは星あかりが差し込んでいるが、それ以上の深い闇が僕の視界を埋め尽くしている。彼女の大まかな位置しか判別できない。それでも僕は手を伸ばすのを止めなかった。

 すぐに指先に触れるものがあった。彼女の指だとすぐにわかった。昨夜は気の毒なほど冷え切っていた指先が、今日は温かい血潮に満ちているのを感じ取った。

 闇はどうでもよくなった。僕は彼女の存在をすぐそこに感じ取ることができた。たとえこれから離れるとしても、彼女は絶対にいるはずだ。僕はそう感じている。それ以上に、何も要らない。

「ごめんね」

 と、細く震えた声で彼女が言った。泣いている声だ。僕らが成長するうちに、すっかり出さなくなってしまっていた声。

 何も言わず、僕は彼女の手のひらを掴んだ。僕の手のひらと彼女の手のひらがぴったりと組み合わさった。それはあまりにも綺麗に合わさっていて、どれだけ力を込めたとしてももう二度と離れないと思えた。

 彼女の泣き声が、しゃくりあげる呼吸の音が、徐々に闇へと溶けていった。彼女はもう不安じゃない。そう感じると、僕の方まで嬉しくなった。手のひらは動くことのないまま、僕は静かに眠りに落ちていった。


 宝石売りは麓に降りるまでついてきてくれた。あまり街に近づきすぎると役人に脅されるのだと言われたので、田舎を前にして別れた。それから僕は彼女と街へ向かって行った。

 土の道が石畳に覆われ始めるあたりで、僕らは警官隊と出会った。彼らは僕らを見つけるや否や声を掛け、腕を掴んできた。僕らは抵抗せずにじっとしていた。警官隊は無線機で仲間と更新している。その会話から、山で行っている間に僕らがずっと捜索されていたことがわかった。

 強い力で促されるまま、僕らは町へと引き戻された。僕らの家出はいよいよもって終わりを迎えた。

 警察署の中の小さな暗い一室で腰を下ろし、長い時間待たされた。やがて僕の両親と彼女の両親が一丸となって部屋に入ってきた。

 真っ先に動いたのは僕の父だった。真顔で僕を見つめながら距離を詰めてきた。立ち上がろうと腰を浮かせた僕の顔面に、一発きつい一撃が見舞われた。誰かが息をのむ音が聴こえた。

 壁に叩きつけられ、視界に星が回る僕の襟首を掴んで、父親が散々怒鳴り散らしてきた。僕の父はものすごく怒っていた。父の怒りがこれほど率直に僕に向けられるなんて、今までに一度もないことだった。力の加減もめちゃくちゃで、受け手である僕は意識が飛びそうになった。僕の母親と彼女の父親が飛んできて止めてくれなかったら、僕はもう二、三発は殴られていただろう。

 僕の両親は彼女の両親に何度も深く頭を下げた。相手が「いいから」と言ってもやめようとしなかった。僕も父と母に首の後ろを握られて何度も頭を下させられた。そんなのいい、自分で謝る、と言おうとしたけど言葉にならなかった。首が苦しかったし、父の勢いに怯んでいたし、なによりとても申し訳なかった。父親にも母親にも申し訳なくて、やっぱり彼女の両親にも申し訳なくて、最終的には彼女に対しても申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 先ほど殴られたときに切れた口の傷から赤々と血が滲み出てきていた。口の端で泡ができるのを感じながら、「ごめんなさい」と一言絞り出した。

 彼女の家族とお別れをして、自分の家に帰ってきた。あれだけ強い雨が降り、風が吹いていたというのに、家はちっとも変っていなかった。そのとき、僕はようやく自分の家出が幕を閉じたことを自覚した。


 その晩、彼女の家族はこの街を離れていったらしい。出航の時間が僕に知らされなかったのは残念だったけれど、娘を散々連れまわされた彼女の両親の気持ちを思えば当然のことだった。

 台風の季節がすぎて、秋が深まってくると、街は一段と静かになった。水車の動きは完全に止まったまま、遊泳のシーズンも終わり、以前とは違う静かな月日が流れていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ