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 水車の中央には、回転の影響を受けない空洞があいている。船を三艘並べてあまりある通り道だ。河を渡って東の街へ向かうためには必ずそこを通らなければならない。街から出ていく人たちも、当然そこへ押しかけていくこととなった。

 最初の移民船はごく小規模で、水車反対派の中でも急進的なものたちが多く乗っていた。住民の要望から第二、第三の移民船計画が立ち上げられると、参加者数は増加の一途を辿った。折しも台風が到来しやすい時期だった。またあの日のような事故が起こる前に、もっと住みやすい平和な街へと移住してしまおう、と考えた人が大勢いた。

 移民船は行政の支援のもとで運行された。ひとつの船がたつと、またすぐに次の船を希望する声があがった。支援の手は休むことが無くなった。希望が出ている限り、できるだけのことはする。行政のこの支援方針は住民から支持された。それで拍車がかかったのだろう。台風が多少来ようとも、支援が止むことはなかった。

 雨が朝から降り続いていた。午後になって勢いが増し、斜めに降り注いでいた雨が、日の沈む頃には横殴りになった。当日予定されていた移民船は急遽中止となり、乗る予定だった人たちは初めこそ文句を垂れていたものの、本格的な台風の荒れ模様の前に言葉を失った。一旦自宅に帰って時が経つのを待つのがもっとも懸命だったが、あいにく移住を前提にしていたために住居を売り払ってしまっていた人も数多くいた。そのような移民船の乗客は避難民となり、港の一時避難所に押し込められたが、限界はすぐ訪れた。吹きすさぶ風雨にさらされながら、多数の避難民が路頭に締め出される事態が起きたのである。屋根のある場所を求めて、彼らは橋の袂や路地裏に身をひそめ、時間が経つのを待つよりほかないのだという。


 一連のニュースを僕が聴いたのは自室でラジオに耳を傾けていたときだった。父親は例によって水車の管理に駆り出され、母親は別の部屋に籠って自分なりに社会を案じているらしかった。僕は膝を抱えて顎を載せていた。出来る限り楽をしたくて身を屈めていたのだが、心臓は強く脈打っていた。

 移民船の乗組員のインタビューが始まると、僕は耳をそばだてた。台風を憎む声がする。路頭に迷う自分の身の上を嘆く声。行政への怒りを露わにするする声。いくつもの声が耳に届き、多種多様な人物像を思い描いたが、僕が最も聞きたがっていた声は出てこなかった。

 彼女の両親が脱出を思いついたのは一週間前のことだった。彼女は学校から帰りがけの僕を掴まえて、半ばヒステリック気味に両親の決定を教えてくれた。

 目を潤ませる彼女に対して、僕はまた言葉が思い浮かばなかった。彼女が悲しんでいるのは十分にわかっていた。そうだからこそ、何を言っても無駄だと思ってしまった。どうあがいても彼女はこの街を出て行ってしまうだから。

 だけれども、僕は自分に納得がいかなかったのだろう。だから今もこうして、ラジオを通して彼女の声を探している。

「ここはひどく窮屈で、混乱しています」

 ラジオからの声が僕の耳に飛び込んできた。聞き覚えのある声だ。僕は小さく息をのんで、それから続く声に集中した。

「船に乗ろうとしていたのに、突然欠航になるから……みんなが避難所に押し掛けたせいで、家族散り散りになったんです。娘もどこかへ行ってしまって、どうしたらよいのか」

 はっとした。「娘」の言い方に癖がある。彼女の、母親の声だ。

 僕の胸の中がにわかにざわついた。彼女は親とはぐれた。もしそうだとしたら、彼女はおとなしく親の元へと帰るだろうか。

 それとも。

 僕は母に聞こえないように忍び足で玄関まで歩き、ドアを開いた。大雨の音がたくさん入り込んできてどきっとしたが、母が部屋から出てくる様子はない。僕は背伸びをして、雨具さえももたず、ドアの隙間ぎりぎりをすり抜けるように外へ出た。

 視界はとても悪い。雨は激しく迸り、僕の皮膚を叩きつけてくる。目を開けているのもやっとだった。だけど、僕は走り続けた。無我夢中だった。感覚が麻痺している。雨の冷たさも痛みも、あるのだろうけど、あえて気づかないふりをした。気にしてなんかいられなかった。僕の頭の中では彼女がひとりで泣いていた。

 堤防を目指したのは直感だった。彼女がどこに行くかを考えて、思いついたのが、堤防を歩く彼女の横顔だった。いつもそうしていた気がする。だから、目指した。

 川縁の葦原には大小の岩が転がっている。ずっと昔に川によって運ばれてきた岩の隙間に、人影を見た。

 彼女がいた。岩の隙間から、川を眺めて立ち尽くしている。

 僕は喜ぶよりもまず駆け寄って、肩を叩いた。彼女は衣服の裾がが翻るほど勢いよく僕を振り返った。驚きで見開かれた両目が僕を突き刺したかと思うと、瞬時に弛緩して、笑みに変わった。そしてすぐに雫が浮かんだ。

「チャンスだ、と思ったの。お母さんの手から離れられて、見えなくなったとわかったから、走って逃げてきちゃった。あのままだったら、私は連れていかれちゃったから、そんなのいやだから、だから……どうしよう。私、興奮して、ああ、なんで」

 大きな波が川岸にあたって、飛沫が僕らにかかってきた。水はすぐそこまで来ている。僕は彼女に手を差し伸べたが、彼女はまだ狼狽していた。「どうしたら」と彼女は繰り返した。

「とにかく今は、ここにいたら危ない」

 僕は腕を伸ばして彼女の手のひらを握った。息をのむほど冷たかった。彼女の吐息が、一瞬途切れた。それから、「うん」と小さく頷いた。

 駆けだした僕らの後ろで、波がまた一際大きく破裂した。


 一度走り出したら、なかなか足は止まらなかった。僕らは繁華街を抜けて、住宅街の石畳を駆け抜けた。僕らの家へ帰れる分岐点をはっきりと認識していながら、少しも振り向かずに真っ直ぐ進んだ。僕らの街が遠ざかる。僕らは行き先を話し合ってすらいなかったのに、足取りは全く乱れなかった。制止の言葉も文句も無かった。

 僕らは同じ気持ちを抱いていたのだと思う。ただひたすら、この街から、生まれた場所から遠ざかりたいと。昨日今日の話じゃない。おそらくずっと前から僕らはそう思っていた。この街は囲まれている。西には山が聳えていて、東側には果てしない川が流れていて、上空から水車が延々と見下してくる。僕らはそれらを嫌い、睨み、呪っていた。僕らは物心つく前から出会っていて、とても近い距離にいて、同じように憤っていた。だからきっと、気が合ったんだ。走りながら、そんなことを思った。

 景色が徐々に変わってきた。家の数は明らかに減って、石畳の造りが雑になり、やがて土に紛れて消えた。舗装されていない道をひた走ったが、疲労は思いのほか早く僕らを蝕んでいた。最初に彼女が躓いて、直後に僕が大勢を崩し、危うく畑へと転びかけた。ぬかるんだ土が跳ねて僕の頬まで飛び掛かってきた。僕らは疲れていた。

「休める場所を探そう」

 整備の行き届いていない田舎道だった。石造りの気配さえない。木材でできた家が散見し、背丈の長い作物の葉が、雨に打たれてしな垂れている。

 掘立小屋があった。畦道の隅っこに雑然とたたずんでいるそれに、僕らは急いで転がり込んだ。座り込んで、荒い呼吸を整えようと試みる。一応戸があったけど、隙間だらけで、屋根にも穴が空いていた。雨はまだしも、冷気は防げそうもない。

 二人とも雨具がなく、服がぐっしょりと濡れていた。掴めるところを掴んで捻ると、うんざりするほどの水が出てきて、音を立てて地に落ちた。

 僕らは二人とも震えていた。握っていた手を組ませて、肩を寄せ合った。とても冷たかったけれど、空気にのみ包まれているのよりかはましだった。

「ここはどこだろうね」

 僕が震える声で話しかけた。弱々しかったけれど、意識を保つのにちょうどよかった。

「こっちの方まで来たことないから、わからない。農家の親戚もいなかったから」

 農業を営む人は少ない。学校で先生が教えてくれたところによると、今の技術ならば人々に必要な食料は全て工場で作れるのだという。それでも作物を相手に生活することを楽しんでいたいと切に願う人が、寄り集まって田舎の農村を作っていた。趣味の集まりみたいなものだ。失敗したら大人しく科学技術の恩恵を受ければいい。きっと昔と比べたら途轍もなく楽なのだろう。今の時代はだいたいどこもそうだ。

 はるか昔、農家は代々継がれていたという。農家に生まれた子は、親から農業を学んで、一日中作物を相手にしていた。畑を耕して種を撒き、成長したら刈り込んで中央政府に収め、商人に売り、余剰分を自分たちで消費していた。天候の影響が強く、作物が枯れれば容赦なく飢餓に苦しめられた。救いの手など一切ない。人類の歴史には多くの飢えの苦しみが伝説として語り継がれている。人は自然の言いなりだった。農家はその中でも、商人や政府の言いなりで、農家そのものの言いなりでもあった。

 彼らは何を考えていたのだろう。彼らは抗わなかったのだろうか。束縛される自分をいったいどうやって肯定していたのだろうか。


 雨が少しだけ弱まった気がした。風の音が大人しくなりつつある。恐る恐る戸を開けると、雨が真っ直ぐ降りるようになっていた。僕は彼女と顔を合わせ、頷き合った。「行こう」と、二人で口にした。

 僕らは西へ向かい、山を登ることにした。川に向かうより現実的だと思った。地面が続いている限り歩くことができる。それに、山の向こうを僕たちは見たことがない。違う街があることは知っていたが、どんな形をしているのかは詳しく知らない。それを見たいと思ったので、僕らは一歩ずつ歩き出した。

 田舎の道が、そのうち石の道へと変わった。木々も増えてきた。次第次第に森に囲まれてきているようだ。もともと薄暗かった空の色が、ますます濃くなっている。夜が近い。僕らは身を近付けて、離れまいとした。雨が確実に弱くなってきていた。

 勾配が大きくなってきたと感じた頃に、とうとうあたりは暗闇に包まれた。

 僕らは道端の草むらに入って、腰の高さほどの岩に寄りかかった。雨は小雨へと変わり、もう数分すれば止むようだったが、僕らは動けなくなっていた。

 想像以上に足が疲れていた。冷気に包まれながらも火照っているのを感じ取れる。無我夢中もここまでで、僕の意識は疲れの中で喘いでいた。

「何時間歩いたんだろう。時計が無いからわからないや」

 僕のぼやきは薄闇の中に紛れて霞んだ。彼女の必死な呼吸が聴こえる。横顔を見たが、表情はぼやけて良く見えない。

 もう、夜が僕らを包んでいる。

 目線を遠くへ向けた。今来た道の方角に明かりが見えた。巨大な水車が半分ほどライトで照らされている。管理会社の人たちが作業のためにライトアップしているのだ。それが、明らかに僕の目線よりも下にある。僕らは水車の半分よりも高い位置に来ていた。あの街を見下ろす水車を、辛うじて見下ろし返せる立場にある。

 それでも。

「まだ、あんなに高いんだ」

と、彼女が行った。

 あの水車はまだ視界の中にある。僕らを逃がしてくれない。あの水車から逃れるためには、僕らはもっと山を登らなくてはならない。そう気づいて、身震いした。あの水車は巨大なのだ。あの街にいたままでは、到底越えようなどと思えないほどに。そんなものに僕らは見下ろされていたのだ。知らないうちに、生まれた時から。

 彼女の吐息がした。震えが伝わる。彼女は弱々しく笑っているようだった。

「バカみたい。あんなの、越えられないよ」

 僕は彼女を見ようとした。表情を汲み取ろうとしたが、闇が邪魔で見えなかった。僕の視力はすっかり奪われてしまっていた。彼女のことは、声と、手触りでしかわからない。笑っているのか、怒っているのか、泣いているのかさえもわからない。

「夜の山には入っちゃいけないんだよ」

 彼女が言った。

「山には狼がいるんだもの。私たちなんて、見つかったら、あっという間に食べられちゃうよ」

「ならないよ」

 僕は咄嗟に反論した。「どうして?」と彼女が言った。

「それは……きっと見えないよ。狼だって」

「たとえ見えなくても、匂いでわかるよ」

 彼女の言葉には自嘲があった。彼女は諦めてしまっている。僕は首を横に振り、彼女の肩を掴んだ。

「そんなことない。そんなこと考えちゃだめだ」

「どうして?」

「生きなくちゃ、だめだ」

「生きていたくなんかないよ」

 彼女が語気を強めた。僕はたじろいて、言葉が途切れた。返す言葉が思いつかなかった。

「生きていたら、連れ戻されちゃう」

「だからって死ぬことはないだろう。逃げればいいんだ。ずっと」

 僕が言うと、彼女がしばらく間を置いた。

「それ、本気で言ってるの?」

 答えようとして、続かなかった。どう答えてもひどく軽いものになってしまう気がした。

 彼女の手が僕の手に触れた。僕は彼女から掴まれることでかろうじて彼女の存在を感じられていた。

「どうして生きなくちゃならないの? 逃げ続けて何があるの? 私たちに何ができるというの? 世界はこんなにも広いのに?」

 矢継ぎ早に言葉を浴びせられた。彼女の顔はきっとそばにある。でも彼女は見えない。闇が深い。声が途切れる。たかが数センチの闇のせいで、僕の世界から彼女がいなくなる。

 僕はちっぽけな存在だった。五感がなければ生を知らない。どんなに歩いても、水車を越える前に足が悲鳴を上げてしまう。僕の身体はもう動かない。疲れて、何もしたがらない。そしてたとえ生きていたとしても、いずれは血相を変えた家族に捕まり、あの街へ戻される。たとえどこまで逃げたとしても、僕はこの世界に縛られ続ける。いや、僕のせいじゃない。この世の誰もがそうなのだ。この世にいる限りみんな、この世から逃げられない。高く高く上り詰めても何者かに見下される。水車を越えても空があり、空の彼方に星があり、それ以外の全てに闇があるのだから。

 僕は彼女を抱き寄せた。彼女は無抵抗だった。彼女の腕が僕の腕と組み合った。柔らかい肌に僕の爪が沈み込んだ。僕の頬がどこかに触れている。彼女の頬なのか、額なのかもわからない。僕はさらに強く彼女を抱いたけど、わからないものはわからなかった。僕は彼女のことがわからない。触れ合っていても一緒になれない。そう思うと、途方もない寂しさを感じた。

 僕はどうしたって一人だった。寒さのせいで触覚も鈍い。風前の灯火のような温もりが、闇に紛れ生まれた虚しい幻覚のように感じられた。彼女はここにいるのだろうか。僕は本当は一人きりなのではないか。それもとても微かな一人きりだ。このまま狼の餌になっても、僕というちっぽけなそれが消えるだけでしかない。たとえそうなったとしても、世界はどこまでもいつも通りに続くだろう。


 僕らはどうして生きているのだろう。どれだけしがみつこうとも、僕らは永遠に一人きりだというのに。


彼女が静かな息をしていた。眠っているのだとやがて気づいた。そう感じるや否や、僕も眠気に襲われた。足の火照りが身体の芯まで侵食し始める。視界にある水車の半身が歪み、目を閉じれば、何も見えなくなった。

 夜の鳥の鳴き声が聞こえてくる。どこか遠くで獣が吠えている。目を閉じたからこそ、自分が森のただ中にいることを悟った。怖い、とまず思った。もしもこの状態で狼に襲われたらひとたまりもないだろう。先を急ぎたい。でも脚は動いてくれない。石のように強情に、地面にへばりついて離れない。まるで地面とくっついてしまったかのように。

 あるいは僕はすでに地面と一緒だったのかもしれない。狼に食われ飛び散る前に、気持ちはすでに大地と同化を始めている。魂が僕を放り出し、居場所をもとめて闇の中を彷徨っている。

 すぐ近くで遠吠えがした。

 僕は自分が目を閉じていることを忘れた。意識の所在が曖昧になった。握りしめた彼女の手の僅かな温もりを感じながら、深い眠りの底へと沈んでいった。

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