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父は僕が起きるよりも早く出勤した。水車の管理社員は街の電気インフラを支えているから、非常時でも外へ出て汗水流さなければならない。こんなことを言ってしまっては父親に悪いけれど、僕にはあまり魅力的な仕事とは思えなかった。父がどうしてその職業を選んだのか、昔聞いたことがあるけれど、「この街の水車が好きだったからなあ」と、苦笑いをするばかりだった。
他の学生に混じって机に座り、羽根つきペンを走らせて、板書や先生の口頭弁論を書き写していく。真面目な奴は手を上げて質問を挟むが、僕を含めたそれ以外の学生は黙々と先生の言葉をノートに綴る。ペンを走らせて、頭を内容に入れて、数か月ごとに訪れるテストさえ乗り越えらればいい。そうすればいずれ卒業できる。そこから先は自由だ。卒業証書の効力は国中に及ぶから、真っ当な人間としての証明がいつまでも残っていてくれる。仕事を始めるのに余計な苦労をする必要はない。もっとも、卒業した先輩方のほとんどがこの街を去ってしまっていたから、僕がその先のことを教えてもらえる機会は少なかった。
一人の学生が同じ授業の中で何度も質問をしていた。こういう生徒はたまにいる。なかなか自分の言葉をまとめきれないようで、先生が困り顔で聞き返していた。本当はじゅぎょうの続きを急ぎたいのだろう。遅れればテストの範囲が狭まり、学期内での修了過程にも影響する。僕は楽になっていいけれど、先生にはきっと何かしらのペナルティがあるのだろう。焦るのも無理はない。
半楕円形の大きな窓から外が見えた。小雨がまだちらついているが、北の方ではもう青空が見えている。僕らの街を目いっぱい湿らせた雲はもう彼方へと行ってしまった。けれども、予報ではまた近いうちに北の海で低気圧が発達して僕たちの街を覆うという。不安定な季節はまだまだ終わりそうにない。
休み時間が来るたびに、僕たちは昨晩の嵐の感想を面白おかしく言いあっていた。
僕は父が管理社員ということもあり、やたらと友人たちに水車と発電所のことを質問された。とはいえ、別に父の仕事の内容を熟知しているわけではない。父親が遅くに帰ってきて、早くに出て行って、きっと今も事後処理対応に追われていることだけしかわからない。
それでも友達は満足そうに驚いてくれて、お返しとばかりに、どこで聞いたかもわからない噂話を口にした。暴風雨のためにどこかの倉庫の屋根が吹き飛ばされてしまったとか、牧場の家畜たちがどさくさに紛れて街へ逃げているだとか、水車を囲むフェンスに穴が開いたと騒がれている話とか。いずれも本当か嘘かわからない話で、次の授業の教室に移動する人が増えてくると、すぐに打ち切られてうやむやになってしまった。授業に遅れるわけにはいかなかった。授業がだけがここにいる僕たちのやるべきことだったから。
昼休みになり、僕と友達数人で地下の食堂へと向かった。愛想よく応対する料理人たちに食券を渡すと、様々な国の料理が作られてくる。今の時代、欲しいと思ったものは何でもすぐに用意することができた。
「俺は絶対南へ行くね」
と眼鏡の友人が力強く言った。誰かが卒業後の話題を口にして、将来の行き先の話が始まっていた。最近では特によくある話題だ。
「なんといっても、港は都会があるんだ。そっちでいろいろ試してやろうじゃないか」
眼鏡の友人の意見はいってみれば多数派だった。将来ともなれば、とりあえず都会へ出て仕事を探す。仕事の数だって街の中とは桁違いだし、生活そのものが華やかな印象も強いから、憧れる友達は多かった。
「ああ、君は都会が似合いそうだねえ」
小太りな友人が食べる合間でゆっくり言った。眼鏡の友人が機嫌よさげに鼻を鳴らす。
「そうだろう。お前は都会いかないのか」
「うーん、僕は合わないだろうな。あんな人だらけのところに行ったら息が詰まっちゃうよ。僕は西の麓の田舎でのんびりしたいな」
人混みを嫌うおっとりとした彼らしい意見だと思った。それに対して、眼鏡の友人が舌を出した。
「げえ、お前わざわざ何もないところにいくのかよ。ここでさえ何にも無い方だっていうのに。メリットがあるとは思えないね」
メリット、というのが彼の口癖だった。この世の行いの全てに損益があると信じていて、天秤にかけてみないと気が済まないのである。
「そうかい。俺は西隣の街がいいな」
二番目の、温厚な友人が柔らかい口調で言った。眼鏡の友人は気に入らない様子で、言い返す。
「だいたいなんでそんな近場なんだよ。山のトンネル潜ればすぐじゃないか。ここと大差ないだろ」
「うん。でもいいじゃない。あまり離れていない方が安心できると思うな、僕は」
しばらく二人のやりとりが続いた後、眼鏡の友人が別の友人に将来を尋ねた。浅黒い肌をしたぎょろ目の友人だ。彼は黒目をしきりに震わせたのち、口元を押さえてぼそぼそと声を発した。
「俺は北がいいな。俺も人混みは嫌だが、かといってのんびり暮らすのも嫌だ。黙々と作業する方が性に合っているよ」
眼鏡の友人は、こちらの意見には呆れず、むしろ感心したようだ。北の方は険しい山があり、川の流れも急なため船で遡上することもあまりない。その代り多くの職人が閉じこもって作業をしていた。浅黒くがっしりとした体格の彼がひとり山小屋で作業をする様を想像するのは容易かった。
「へえ、山か。似合ってそうだな」
眼鏡の友人が、ちょうど僕の考えていたことをはっきりと口にした。浅黒い肌の友人を見据えてうんうんと頷き、ぎこちなく微笑みながら頷き返した。この二人は普段から対照的で将来の行き先として示した方向も真逆だけど、選んだ道はどちらにとっても合っている気がした。
眼鏡の彼は南へ行き、浅黒い彼は北へ行く。温厚な彼は田舎で暮らす。三人とも別々の方向を口にしたけれど、この街に残る気はないという点では共通していた。出ていくことが当たり前だと最初から決められているわけでもないのに、この街で残る気持ちを持たなかった。僕たちだけでなく、他の学生たちも同じだ。この街に何もとっかかりが無いのがよくないのだと思う。あるものといったら馬鹿みたいに大きな水車と、西にあるそれなりの高さの連山くらいで、観光地とするにも地味だ。愛着が無ければ見向きもされない。地縁に重きが置かれていたはるか昔のことならともかく、今はそんなものすっかり忘れ去られてしまったのだから。
「お前はどうするつもりなんだ」
眼鏡の友人の指が僕に向けられた。残りが僕だけなのだから当然質問が回ってくるとは思っていたけれど、僕は顎を抑えて考え込んだ。そろそろ将来のことは考えなくてはならない。そうとわかっていながらも、僕はいまだに自分の行く末を決める努力をしていなかった。
どちらかと言えば人混みは嫌いだ。だから南の都会が向いていると即断はできない。でも山に行くほど厭世的ではない。かといって西の田舎に格別惹かれるわけでもない。僕の頭の中はどうしてもまとまらなかった。
「まだ決めてないよ」
結局そう答えるしかなくて、眼鏡の友人は眉間をきゅっと寄せてしまった。
「しょうがない奴だな。何かやりたいこととか無いのかよ」
言われて、僕は目を上に泳がせる。
「えっと、水泳かな」
「ああ、好きだよねえ」
垂れ目の友人が暢気に口を挟んでくる。
「たまに見かけるけど、本当に魚みたいに泳ぐよね。速すぎる」
「魚みたいに生きるんだな」
浅黒い友人が独特の言い回しで口添えする。意味はよくわからない。
「わからないな」
眼鏡の友人は、大袈裟に顔を顰めて非難した。
「泳ぐのはいいけど、それでどうするんだ。ただ泳ぐことが好きなだけなら、趣味でいいじゃないか。そこから何に繋がるのか、いまいちよくわからないんだが」
眼鏡の友人は言葉も尖っている。僕も言い返したくなった。でも、自分で自分を振り返ってみると、彼の言うとおりだと納得してしまった。水泳のスポーツ選手とか、インストラクターとか、そういうのになりたいわけじゃない。ただ気持ちがいいから泳ぎたいだけであって、それで生計を立てようとは思わない。仕事じゃなく趣味。それ以上ではない。
「僕もわからない」
と答えるしかなかった。
眼鏡の友人は別段怒りも呆れもせず、「だからさ」と話を進めた。
「決まったら教えてくれよ。そういうの知っておきたいからさ」
その発言の裏にもメリットとデメリットの比較が潜んでいるのかもしれないが、気にかけてもらえるのはそれなりにありがたかった。そして申し訳なくもある。今の僕の頭の中には何のとっかかりも見当たらない。彼の満足いく答えはしばらく出せそうにないだろう。さらにもっと申し訳ないことに、答えたいという意欲自体がおそらく僕にはあまりない。
「卒業したらどこへいくか?」
僕の問いかけがまったく思いもかけないものだったらしく、彼女は目を開いたままわずかに首を傾がせた。とても悩ましげな顔で、僕は驚く。そんなに真剣に悩まれるとは思っていなかった。
川で泳ぐという昨日の約束を彼女ははっきり覚えていて、昨日と同じように門のところで僕を待っていた。彼女に先導される形で堤防に来てみたものの、遊泳場にはまたしても禁止の立札が立てられていた。川縁には十何人という黒いゴム製の作業着を着た人々が集まっていて物々しい雰囲気だ。作業着の人たちを取り囲む形でさらに集団の野次馬たちが立ち尽くしている。川に沿って歩いていると次々と別の同種の集団と出くわした。泳いでいる人は誰もいない。
今日も無理そうだと教えると、彼女は嘆息をついて心底残念そうに顔を俯かせてしまった。すると、僕の心はにわかにざわついた。僕はあれこれ思索した末に、堤防を抜けて昨日の喫茶店に行くことを提案した。
「いいの?」
彼女は声を高くして聞き返した。また、すぐに表情が明るくなった。
彼女はどうも、泳ぐのが目的じゃないらしい。そんな確信があったが、追求する気にはなれなかった。脳裏には彼女の落ち込んだ顔がまだ浮かんでいて、それをどうにかする方が先だと感じていた。
そして、喫茶店について出た話題が将来の話で、先ほどの質問が話題に上ったというわけだ。
半分以上飲み干したアイスティーに突き刺されたストローをくわえて、彼女は眉間に皺を寄せた。僕は少し狼狽えた。会話に支障を来すほどに悩ませてしまっていることを申し訳なく思った。
「ごめん。はっきりとは答えられない」
ようやく眉間の筋肉を解きほぐして、彼女が顔を僕に向ける。冴えなさそうな目だ。僕は長い沈黙を破ることにした。
「それはつまり、やりたいことがないってことなのかな?」
だとしたら僕と同じだ、と思ったが口にはしなかった。一方彼女は首を横に振った。
「すっごく漠然としているけど、絶対やりたいと思っていることがあるんだよ。私、いつか一人で暮らしたいの」
彼女の望みがとてもささやかなものに聞こえて、一瞬それが望みだと気づかなかった。
「一人暮らしは、街を出ればできるんじゃないかな」
実際、卒業を機に一人暮らしを始めようとしている同級生も多くいた。彼らと同じように家を出さえすれば、わざわざ望まなくとも自然と一人で暮らすことになる気がした。
そこを、彼女は大まじめに頷いて返した。
「うん。それが今したいの」
「い、今?」
僕は驚いて声が上ずった。何をそんなに焦っているんだと訝ったが、相対する彼女の顔の真剣さは変わらなかった。
「何か目的があるの?」
「別に、ない。親から離れたいだけだよ」
そんなことを、彼女があまりにもあっさりと言ってのけるものだから、僕の方が気おされてしまう。
「親と仲が悪いのかい?」
彼女の両親のことは知っていたから、つい嫌な想像をしてしまう。だけど彼女はすぐに首を横に振ってくれた。「まさか」と言って、笑ってさえいる。
彼女は言葉の代わりに、またひとつアイスティーを喉に流し込んだ。残りわずかだった中身が完全に空っぽになった。僕も手元のコーヒーを口に運んだ。そうしているうちに、何でもない静けさが広がった。
堤防から聞こえるざわつきが大きくなってきて、僕も彼女もそちらに瞳を向けた。最初は水辺を取り囲むだけだった野次馬が、今では堤防の上にまで上り詰めている。双眼鏡を掲げている人もいる。周りの人たちと熱心に声を掛けあう人も見える。ある程度人混みから離れた喫茶店を選んだのに、人混みの方がすっかり拡大してしまっていた。
「騒がしいね」
彼女が呟きを空間に落とした。僕はかなり間をおいてから頷いた。彼女の言葉に返した、というには微妙なラインだった。
「あの嵐で、上流から何かが流れてきているのかもしれないね。流木とか、動物の死骸とか」
「そういうことあるの?」
「前に父さんが教えてくれたから」
僕の答えを、彼女は「ふうん」とも「へえ」ともつかない音で返した。どこにも掴もうとしていない声だったので、僕も次の言葉が出てこなくなる。彼女はすっかり窓の外に顔を向けていたけど、特別どこかを見つめているようには見えなかった。ただぼうっとしている彼女の耳には、何を言っても届かない気がした。
「私のお母さんとお父さんね、あの水車が好きだったんだって」
肘をテーブルの上について、手首だけを曲げて外を指差す。野次馬の向こう側に、聳え立つ半円形の輪っかがあった。この街が誇る世界有数の、とにかくいつでも変わらない巨大発電機。
「私のお父さんの、そのまたお父さんの代にできたもので、昔からあの水車の凄さを刷り込まれていたんだって。それでまだ若かったころのお母さんにそれを話してみたら、同じことを言われたんだって。二人とも水車に憧れていたんだね。だから結婚して早速ここに引っ越してきたらしいの。水車の傍で生きるために」
深く重たい、鉛のような溜息が彼女の口から転がり落ちる。
「でも」
彼女は首を横に振った。小さいながらも、勢いがあって、彼女の前髪がなすすべなく揺らされた。
「お父さんが、やりたい仕事を都会の方で見つけたって、お母さんに話していたの。私が眠っていると思って、二人だけでいろいろ話しているのをたまたま聞いちゃったの。お父さん、私のことも話していた。卒業するまでは家で面倒を見なくちゃいけないから、一緒に引っ越して、転校しても無事卒業できるように取り計らうって。そしたら、お母さんもそれに同意して、それで話が終わっちゃったの」
彼女は両手で頭を抱えた。表情が指で見えなくなる。言葉は続かなかったけれど、沈黙には憤りが満ちていた。
「もしかして、泳ぎたかったのはこの街が名残惜しかったからなのかい?」
と、僕がきくと、彼女はこくりと頷いて、「ごめんね、急に」と言った。
「今更いいよ。そんなの気にすることじゃない」
「ありがとう。でも、よかった」
そう言うと、彼女がようやく手を開いてくれた。
「せめて君にだけは伝えておこうと思ったの。君は私の覚えている限り、初めての友達だったから。時間がかかっちゃったけど、やっと言うことができてよかった」
とても弱々しくて、何を言うのも躊躇ってしまいたくなる笑みが、その顔には張り付いていた。喫茶店を出て、薄暗い十字路で彼女とわかれたあとも、その表情は僕の脳裏に焼き付いてなかなか離れてくれなかった。




