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僕の通学する学校は街の中央からやや外れた場所にあった。大昔に建てられたその建物は石造りの瀟洒な外見だった。どこかの富豪のお屋敷みたいにも見えた。蔦の絡んだ壁の古び具合に趣があるらしく、よく絵画や写真の題材に使われている。遠くの街から建築物の好事家がやってくることもあり、それに目を付けた学校の経営者が観光客向けの案内紙を刷り、看板を立てたりもしていた。要するに容姿は申し分ない場所なのだ。惜しむらくは、中で日々勉学に励んでいる僕たちにとって学校の見た目など何の意味もないということだった。
さらに言えば、綺麗な場所が必ずしも満足と安らぎを提供するとは限らない。大きさの違いはあれど、どの教室も圧迫感を共通して抱いていた。石の教室では生徒や先生の吐息が籠り、空気が悪くなる。窓を開けたところで、時間が立てば吐息の許容量を超えてしまう。そのような中で先生の講義を聞きながらインク瓶と紙を往復させていると、次第に鬱屈した気分が生まれてくる。放課となる頃にはいつだって、大して運動していないにも関わらず倦怠感が生まれてきた。
とはいえ、学校に通うようにと決められているのは八歳から十四歳までの子どもだ。僕はもうその学校生活の最後の年を三か月ほど過ごしてしまっている。学校の雰囲気をいくらとやかく言おうとも、あと数か月後には卒業する身の上だった。
「久しぶり」
校門から出たら女の子と出くわした。夕日に頬を赤く照らされたその子のことは、よく知っていて、確かに会うのは久しぶりだった。
僕と彼女は古いときからの知り合いだった。古いといっても、僕たちの人生は大した年数を経ていなかったのだけれど、その中でも最も古い付き合いだった。僕の僕としての意識が定まるかどうかという頃だと思う。同じ保育施設で出会っていて、母親同士が仲良くなって、子どもの僕らも接するようになった。だから幼いころは彼女のことを妹のように感じていたこともあった。
「どう? 最近。泳いでる?」
彼女がいきなりそう尋ねてくる。僕が学校帰りによく泳ぎに行くことをちゃんと覚えていたのだろう。
「うん。とりあえず川に行って、空いているようなら今日も泳ぐつもりだよ」
僕がそう答えると、途端に彼女の顔に笑みが差し込んだ。
「じゃあ、私も行く」
「え?」
「昔よく行ったじゃない」
彼女が平然と言ってくる。確かに昔はよく行った。まだ僕が彼女と手を取り合って遊んでいたころのことだ。僕も彼女も川のことが大好きだった。そのうち彼女が泳がなくなって、僕が別の遊泳場を使用するようになった。だから彼女と泳いだのは本当に幼い時代の一時期だけだ。
「道具はあるの?」
「もちろん」
そういって、彼女は自分のバッグを指差した。その中に入っているらしい。
「知らなかった。また泳ぐようになったんだね」
僕が言うと、彼女は首を横に振った。
「今日たまたま思いついたんだよ。本当に久々。で、君と一緒にいた頃のこと思い出して会おうと思ったの。もう泳ぎ方忘れちゃったから教えてよね」
彼女が笑いかけてきた。真正面からその顔を見るのも久しぶりで、なんだか照れくさい気持ちになった。
僕と彼女が会わなくなったのは、別に嫌いになったわけではない。学校に上がってみたら、男の子には男の子の、女の子には女の子のグループがあった。そのグループの中で過ごしているうちにお互いの話が合わなくなって、自然と遊ぶこともなくなった。ただそれだけのこと、といってしまえばそれっきりだけど、幼いころの僕たちにはそれだけで十分疎遠の理由になり得た。学校生活を漫然と過ごしているうちに彼女は僕からすっかり遠い人になってしまった。
川への道を彼女と並んで歩いた。記憶の中にいる彼女は男勝りな子だったけれど、今の彼女はどことなく大人しい。それほどまじまじと見ていたわけではないけれど、疎遠になっているうちに、彼女は随分と変わっていた気がする。
彼女は僕に会いに来たと言っていた。それは別にかまわない。もう男の子だ女の子だで敬遠しあう歳でもない。
だけど、彼女はどうして泳ぐ気になったのだろう。
僕の場合、泳ぐのはストレス発散の目的もあった。鬱屈とした学校の空気を拭い去りたくて、川に飛び込んでひたすら泳ぐ。考えるだけでも清々しくて、学校の勉強が忙しくなる前までは毎日のように遊泳場へ通い詰めたほどだ。
だから、彼女が突然泳ぐ気になったのも、何か理由があるのでは、と思った。もしかしたら本人でも大して気づいていないのかもしれないが。
遊泳場に辿り着たのは、ちょうど船着き場に製鉄会社の名前が印字された作業船が帰ってきたときだった。毎朝川を北上して鉱山へ向かい、日暮れとともに帰ってくる船だ。音を立てて桟橋につくと、幾人もの作業員がどっさり出てくる。川上の方には大きな作業船がまだいくつか見える。
「もう帰ってくるんだね。いつもはもっと遅くに帰ってくるのに」
彼女が不満げにそうぼやいた。作業船が帰ってくると波が立つため遊泳は控えなければならなくなる。
「ここの遊泳場はだめそうだ。もう少し川下の方へいってみよう」
と僕が提案して、堤防を南へと進んだ。十分も経つと別の遊泳場が見えてきた。船着き場は近くにないので作業船には邪魔されないだろう。そう踏んだのだが、遊泳場の入口に近づいてみると『利用禁止』の看板が行く手を阻んでいた。僕らは納得できなくて、遊泳上の事務所で事情を聞いたところ、どうも北の方から黒雲が迫っていて、荒れ模様の天気がやってきているらしいとわかった。それが作業員たちの早めに帰ってきた理由でもあるのだろう。
「そんなに荒れるかな」
彼女が疑い深そうに川を見つめて言った。残念ながらそうだろう、と僕は口に出さずに肩を落とした。
天気が悪ければ水嵩が増し、波も高くなる。人間の泳ぎは環境の急な変化についていけない。遊泳場は事故を恐れて、雲行きが怪しくなればすぐに店じまいをしてしまうのだ。
「今日はどこも無理だろうね」
僕と彼女は並んで堤防の上をとぼとぼと歩いた。南に進んで道を折れれば繁華街に辿り着く。そこを抜ければ僕らの住む住宅街だ。
左手に見下ろす水面は平らで穏やかに見えるけれど、目を凝らしてみると木片や葉っぱがいつもより速く流れている。一見大したことなさそうで、一番足元を掬われる速さだ。沖の彼方のあの水車はひたすら回り続けている。嵐が来るときは水車を微細に管理しなければならない。自由に放置すると増水した水を受け止め、回転量が増して予想外の負荷を受けてしまう。もし今夜川が荒れるのであれば管理会社の父の帰りも遅くなることだろう。
「泳ぎたかったな」
彼女がぽつりとつぶやいたのが妙に耳に残った。口惜しさが滲み出ている言い方で、僕は不思議に思った。
「別の日だっていいじゃないか」
僕はそう言ったのだけれど、どういうわけか彼女は咎める視線を送ってきた。
「君こそ泳ぎたがっていたんじゃなかったの? それでいいの?」
「そりゃそうだけど。無理なものは無理だもの、仕方ないよ。そんな大げさに言わなくても、この街ならいつだって泳げるじゃないか」
僕は笑い飛ばしたけど、彼女は何も言わなかった。僕の笑い声は空中に溶けて気まずく消えていってしまった。
「君、そういう人だったっけ」
そんなことを言って、彼女は口をきゅっと結んでしまう。僕は答えに困った。何に不満があるのか、僕にはいまいち掴めない。だけど、僕の笑いが好意的に思われていないことは察せられた。
そういう人、と言われても――彼女の言葉を思い返して戸惑った。昔と比べたら、それは、変わったに決まっているだろう。彼女と遊んでいた頃に、遊泳場に行って泳げないだなんて言われたら、不満を口にして駄々をこねたかもしれない。そうしても許されるほどの幼い頃の話だ。今は違う。不満はあるけれど、これくらいの不安なら平気で抑え込む。それくらいの処世術は誰だって知らず知らず身につけるものだろう。
むしろ、そんなこと彼女だってわかっているはずだ。話さなくはなったけれど、学校の中で仲間と一緒にいる彼女の姿を見かけることくらいはあった。彼女は僕の全く知らない人たちと一緒にいて、ときにはきつい言葉を発しながら笑いあっていた。彼女には彼女の世界があって、それに気づくたびに昔とは随分変わったのだと思い知らされた。
僕らは当然のごとく昔の僕らじゃない。それなのに彼女は僕を咎める。何を言えばいいのか、僕にはわからない。昔の僕なら思いついたのだろうか。学校に上がる前の、彼女と無邪気に遊んでいた頃の自分ならば。
そんなことを考えているうちに、うっかり彼女を見つめてしまっていた。彼女は僕の視線に気づいたらしく、怪訝そうな目を向けてきた。
「何?」
彼女は不機嫌そうに言い放った。僕は怯みながらも、人差し指を突き上げて「じゃあさ」と言った。
「明日、明日また泳ぎに来てみよう。一日置くのは仕方ないけれど、嵐だって明日になったら引くだろうし」
すると、彼女は途端に目を輝かせた。
「ほんと?」
彼女がすっかり変貌する。面食らいながらも、僕は頷いた。
「約束だよ」
彼女が快活に言ってのけた。気まずい空気がいつの間にやら払拭され、僕は取り残された気分になる。
それでも、彼女が朗らかに笑うのを見るのは悪くない。それは記憶の中にある彼女の笑顔とよく似ていた。
僕は少し遅れてから、大きく「ああ」と返事をした。
住宅街に入ると道が石畳になった。僕らの親の世代が住民投票をして決めた道だ。この国の法律に則って、僕たちは自分たちの決めたいと思ったことをなんでも多数決で決めることができた。多数派が良いと思ったものは迅速に用意して、嫌だと思ったものは迅速に除去することができた。
この街の一地区に僕らの家は通りをいくつか挟んだ位置にあった。隣同士ではなかったけれど、幼い僕たちが一緒に遊ぶのには近かかった。そしてそれは逆に言えば、成長した僕たちがお互いの存在を知っていながらも気楽に疎遠になれる距離でもあった。
空はすでに紺に色づき始めていて、気の早い星たちが漂っているのが見えた。住宅の電灯がぽつぽつと光り、街灯と共に僕らの歩く道を照らしだす。光は淡く広がっていて、人通りの少ない道は静かに伸びていた。
ずっと昔、僕の身長が今の胸元ほどしかなかった頃、僕は今と同じようにいつも彼女と歩いていた。毎日は言い過ぎかもしれないが、そうでない日があまり思い出せないくらいだ。いつもいつも、彼女と同じくらいの目線で、同じくらいの速度で石畳の上を走っていた。
今、横に並ぶ彼女の背がとても低く見える。一方の僕は未だに背が伸び続けている。身体つきも変わってきた。僕と彼女はじわりじわりと別の生き物へと変化している。母親は僕が赤ん坊のときのアルバムを見ては一緒に写っている彼女とよく似ていると言ってくれていたけれど、こうして近くで見るととても信じられない。生きている途中のどこかで別の選択肢を選んでしまったようだ。
僕らはいつの間にか一緒でなくなり、いつの間にか話さなくなり、いつの間にか変わっていた。いつの間にか。気づかないうちに。そんな言葉たちの大群が図々しくも僕の半生を彩ってしまっている。
「ねえ」
交差点の入口で彼女は僕を呼び止めた。住宅の明かりがちょうど遠くて、街灯だけが淡く僕らを照らす。人通りも少なくて、道行く馬車も見当たらない。そこには僕たち二人しかいなかった。
「私の家、こっちだから」
「え?」
僕は思わず声を上げた。控えめに向けられた彼女の指先が左側に伸びる道を指していた。よく見れば見覚えがある。昔その街道の先へ向かっていき、手を振って別れを告げる彼女の姿を何度も見た気がする。
「こんなに近かったっけ」
久しぶりすぎて、距離感がつかめなかったなんて、こんなことがあるものなのか。彼女は返事をしなかった。薄暗い十字路に気まずい沈黙が漂った。
「うん。それじゃ、またね」
彼女が顔を上げて、端的に告げ、自分の家へと走り出した。僕は返事もできなかった。中途半端に片手を上げて、彼女を見つめるうちに、彼女の姿は瞬く間に闇に吸い込まれていった。一度として振り返らないままに。
あれが今の彼女の背中なんだ。
行ってしまった影に対して、思い浮かぶのはそんなことばかりだった。
バケツをひっくり返したかのような雨が突如として降り始めたのは、帰宅してしばらくしてからだった。先手を打って雨戸を引いておいたものの、容赦なく雨粒が打ち付けてくるためとても騒がしくなった。ラジオから聞こえてくるニュースによると、雨は明け方まで降り続けるらしかった。その放送すら雨の音に飲みこまれてしまっていた。
父が帰宅したのはさらに遅く、僕が寝ようとしていた頃だ。仕事が今日は深夜にまで及んだらしい。自室の扉を開くと、母親と父親の会話がはっきりと耳に飛び込んできた。
「三時間後には戻らなければならない」
父が大きなため息をつくのが見えた。びっしょり濡れた上着を母に預けているところだった。白髪の目立つようになった髪のある痩せがちな顔がぐったりと俯いていた。
「身体は大丈夫なの?」
母が青い顔をして父に聞いた。元々白い肌の人だけど、他人を心配するときは、なおさら青白く、不健康そうになる。
「みんな大変なんだよ」
父は素っ気なく言って玄関から廊下に上がった。
「悪いけど服を脱いだらすぐに眠りにつくよ。パンと着替えだけ置いておいてくれ。ん、ああ。起きてたのか」
僕に気づいた父は「よう」と小さく手を上げた。僕も返して口を開く。
「水車はやっぱり危ないの?」
「今夜いっぱいは近づくのも無理そうだ。勢いがつきすぎているから危険なんだ。汲み上げた水を元気に散らし続けているよ。電力の過剰供給はなんとか止めたけど、あとはあれの気の済むまで回すしかないんだ」
なんとも情けない話さ、と父は最後に付け加えた。水車は巨大すぎて、技術者だって完全には扱い切れていない。それを管理するのが父の仕事なのだけど、今回のようなケースでは手をこまねいて事態の安静化を待つよりほかない。水車は人を助けこそすれ、人と寄り添うようにはできていなかった。
「水車を止められればいいのに」
そう言うと、父親は口元を歪めて無理やりな笑みを作った。
「馬鹿でかすぎて引き上げられないんだよ。だから水車は止まらない。自然と調和した最大の電力供給源だとか、大昔に騒がれていたらしいが、あれを作った時代の連中は頭がトチ狂っていたのさ」
その日、結局雨は止まなかった。




