月の奏者
出番が直前の控室で、少女は一人、鉛筆を走らせる。その姿を父が見たら、きっと「コンクールの前に無駄に指を使うな」とでも言って怒るに違いない、と朗らかに苦笑しながら。
十メートルほど先にある舞台から、微かにピアノの旋律が漏れ聴こえてくる。これはショパンのエチュード、『木枯らし』だと意識の外でぼんやり感じながら、それでも少女は手を止めない。既に、この後のシナリオは出来上がっている。自分はここで栄光を掴み、世界への切符を手にする。そして――。
感情をすべて書ききった少女は、満足げに日記を閉じる。この日記は、一週間前にある女性から助言を貰い買ったものだ。思えば、なぜあのとき学校帰りにペットショップに立ち寄り、見知らぬ女性と連れの男性と話し、さらに言われたとおりに日記を買って帰ったのかは謎である。もはや、答えは誰も知るまい。けれど、少女は後悔していない。数時間後の未来を悔いることがないのと同様に。
エチュードは問題なく演奏されて、次の曲が奏でられる。コンクールでは、主催者側からの課題曲の中から一つを選んで弾いてから自由曲に取りかかり、出演者三十五名の中から総合の出来で、一位から三位までの奏者を選ぶ方式となっている。少女の出番――この少女は、最終奏者である――の前の人は、自由曲にベートーベンのソナタを選んだようだった。
「そろそろ行かなきゃなぁ」
少女は呟き、しなやかな動きで立ち上がる。この日のために父が用意した黒のドレスは、まだ十六歳とあどけない彼女を大人へ変える。派手すぎず、しかし女性らしくあしらわれたフリルは、まるで音楽の世界への誘いの扉のようで。凛とした表情には、日記を書いていたときの明るさは見られない。
少女は、一歩を踏み出した。
◇
――七月九日(水)晴れ
五つある音楽室は、どこも満員でした。さすがに、音楽の専門学校だ、と実感できます。私は、家に自分の練習室があるから、早々に帰ることにしました。やっぱり、一週間後のコンクールが終わるまでは、早く帰らないとお父様に怒られてしまうと思うのです。
今日あった出来事といえば、珍しくペットショップに立ち寄ったことと、そこで猫を買いに来ていたカップル(二人は否定してたけど……)に会ったことでしょうか。
ペットショップに行った理由は、あまりよく覚えていないのですが、今日は特別に日差しの強い日でしたから、無意識のうちに涼みに行ったのかも知れません。
そこで会った女性は、レナさん、と男性の方から呼ばれていました。彼女は私が誰かを知っていました。男性の方も名前を呼ばれていたと思いますが、あまり記憶には残っていません。本当にごめんなさい。
ケージの中の動物を見ているうちに、私はそれが自分のように思えてきました。小さな檻の中の世界がすべてで、運命は外にいるお父様に握られている。私だけでは、何もすることができない子供……。
そんなことを考えていたせいで、寂しい表情を浮かべていたのでしょうか。近くにいたあの二人が話しかけてきました。とても優しい二人でした。話しているうちに、心がじんと暖かくなってきて、気づいたら自分のことを話していました。アドバイスも貰って、楽になれました。
その二人のおかげで日記を買い、いまに至るのです。
額を伝う汗を拭って、少女は溜息をついた。国内予選コンクールは一週間後に迫ってきている。突破できないとは思わないが、少女の場合は事情が違う。
姫路秋文。それが、少女の父親の名前だ。姫路秋文といえば、『世界の姫路』と言われるほどの有名かつ実力派のピアニストで、その一人娘でありピアノをやっている少女、彩音にも過大な期待が寄せられているのだ。あの姫路の娘なら、一位通過はもちろん、世界一も夢ではない、と。
物心がついたときから、彩音はピアノと共に生きる人生を定められていた。それは、ピアノの巨匠のもとに生まれた宿命であるのだと、少女は考えている。
少女にとって、秋文は父親ではなく、厳しい指導者だった。学校行事に姿を見せることはなかった(スケジュールが忙しいというのも多少はある)し、ましてや彩音自身が行事に参加できることがまれだった。運動会は勿論のこと、普段の体育の授業も『指を守るため』という触れ込みで出席したことがない。唯一許されていたのが、小学校の音楽会と中学校の合唱コンクールだった。理由は一つ、ピアノが関わるからだ。
(帰りたくないなぁ……)
家に帰れば、ピアノに縛られる一日が始まる。別にピアノが嫌いなわけではないけど、違う家庭に生を受けていたのならもっと自由な人生が待っていたのだろう、そう思えるのだ。
今回のコンクールでは、ドビュッシーの『月の光』を演奏することにした。曲のレベルとしては中級だが、『弾く』のと『奏でる』のは似て非なるものだ。ゆったりとしていて優美で、しかし一瞬たりとも気の抜けないその旋律は、観衆の心に甘く溶け込む。完璧な演奏を行う自信もテクニックも、少女は持ち合わせている。だからこそ、この曲にしたのだった。
この国内予選コンクールは、既に行われた地区予選をくぐり抜け、さらに国内予選コンクールの予選を突破したものが参加することになっている。三年前から始まった、若きピアニストの登竜門、『ヨーロッパ音楽連盟国際ピアノコンクール・プロフェッショナル部門』への出場をかけて、全世界で現在選考会が行われているのだ。トップレベルの技術を誇る彩音には国内突破は容易なことであるので、日本人のライバルでなく世界の、特に主催地域であるヨーロッパ方面のピアニストのデーターが届けられている。ちなみに、少女が国際的な大会のプロフェッショナル部門で出場するのはこれが初めてだ。過去では主にジュニア部門で演奏し、いずれも優勝を収めてきた。
このコンクールの特色としては、年齢制限がないこと、本選で演奏するのが一曲しかないことにある。通常は、予選で弾いたもの、もしくは課題曲と、今までで選ばなかった自由曲、場合によってはオーケストラとの共演が課せられることもあるが、ともかく『一曲のみ』ということは滅多にない。一曲にどれだけ集中できるか。プロの意地が試されるのだ。
それに、曲目が増えるほど演奏時間も長くなり、体力も試されることになるのだが、一曲しかないとなれば全身全霊で音楽に挑める。奏者のすべてが、そこで分かるのだ。
帰路につきながら、少女は再びため息をつく。時折、ピアノを弾きながらすべてを破壊してしまいたい衝動に駆られるのだ。ピアノさえなければ、私は自由になれるのに、と。馬鹿なことだとは分かっているし、もはや少女を構成する九割以上がピアノだといってもいいほどだ。それを奪われたときに、なにもかもを失って空っぽな存在になってしまうことは、彩音自らが把握していることである。それでも、少女は夢想する。彼女の、まったく別の、開けた人生を。
汗で張り付いた前髪を横に流しながら、ふと足を止めた。最近できたばかりの、ペットショップである。一時期は、カフェブームなどといってお洒落な店が数多く建ち並んだが、今はどうやらペットブームらしい。世間に疎い少女でも、そのくらいのことは知っていた。
じりじりと太陽に照らされるアスファルトから熱気が漂い、それが体温の上昇を加速させる。
――気がつくと、汗はすっかりひいていた。ああ、と思うと、ペットショップの中に入ってしまっていた。寄り道していることを父は咎めるだろうと思いながらも、身体は涼やかな憩いの場から離れようとしない。どうしようかと迷っているうちに、彩音は今日、秋文が雑誌記者の取材を受けに東京へ行っていることを思い出した。帰りは夜遅くなると言っていたはずだ。
ここに留まる条件は整った、と嬉々としながら、彩音はケージに収まっている小さな動物を眺めた。昼過ぎで眠くなってしまっているのか、丸くなっている子が多かった。硝子越しの小さな命は、希望に満ちているように思えた。どんな飼い主に飼われるのだろう、優しい人だといいなぁ。そんな風に、彼らは思っているのだろうか。あるいは、……。
「もしかして」横で黒猫を見つめていた女性が、彩音に話しかけた。珍しくはないことなので、余裕を持って振り返ることができた。声を発した女性は、明るい笑顔を浮かべている。黄色いピンが、雰囲気に合っていると思った。「姫路、彩音さんかなー?」
「はい。そうです」
小さく微笑みながら返すと、女性は可愛らしい顔立ちに花を咲かせて、「やっぱりそうだった、慶二!」とはしゃぐ。慶二と呼ばれた男性が、「よかったね玲菜さん」と返答しているところから、女性の方が年上であることが推察できるが、男性の方がしっかりしていて大人らしいな、と彩音は密かに思う。玲菜の方が無邪気で、仕草や言動も子供っぽい、というのもあるのだろうが……。
「猫、飼うのですか?」
そう訊いてみると、彼女は「そう! クリスマスに頼んでたんだけどねー」と横目で慶二を見やった。どうやら年上の彼女は、年下の彼にペットを購入させるつもりらしい。
「かわないよ、って言ったんだけど……」
彼の言葉に苦労が滲む。それから小さく、「まだ大学生だからお金ないのに」と付け足したのは、横の女性に届かない。
「でも、ピアノ弾けるなんて凄いよねぇ。私なんて、右と左、ばらばらの音を弾くことすらできないと思うなー」
「玲菜さんは不器用だからね、……意外と」
「うるさいな」
テンポよく掛け合う二人に微笑ましい眼差しを送りながら、「練習すれば出来るようになると思いますよ」と言い、「二人はその……恋人なのですか?」と恐る恐る訊いてみた。
「まさか!」
「ありえないよー」
即座に否定してきた。が、口調から相手に対する愛情は感じ取れる。それは、恋心などではないのかもしれないが、それ以上に互いを信頼し、敬愛するような雰囲気があった。
「まあ、一緒には住んでるんだけどねー。仕事の都合上」
「お店とかですか?」
「いや。慶二は心理学を専攻する大学三年生で、私は獣医だよー」
「か、関係なさそうですね」
「うん、関係あるのは副業の方の」
言いかけた玲菜を慌てて制すように、慶二は「まっ、まあ、僕は玲菜さんの後輩なんだよ」と作り笑いを浮かべた。
困らせてはいけないと思い、深くは追求しないことにした。
まさか、泥棒や殺し屋なんてわけでもなさそうだし、と。
「でも、コンクール間近でこんな所にいてもいいのー?」
「……う、」
「なにかあるなら、僕たちでよければ相談に乗るけど」
五分後、三人はショップ内にあるドッグカフェにいた。犬用のカラフルなケーキやクッキーがメニューに並んでいる。
犬がいなくても入れるのか、と彩音は疑問視していたが、人間だけの客も目についた。心なし、彩音は安堵する。
「それで、何があったのー?」紅茶を飲みながら玲菜が問う。
「たまになんですけど、ピアノを弾くことが堪らなく苦痛になって……。嫌いじゃないんです。でも、なんだろう。もっと別の人生もあったんじゃないかなぁって、思えてしまって」
「あ! セカンドライフってやつー?」
「玲菜さん、それちょっと意味違う」
「――ごめん、続けて」
「あっ、はい。……演奏しているときは、すべての感情をピアノに注ぎ込んで、一体化する、みたいな感じで弾くんです。でも、最近はそれが上手くいかなくて、曲が心ここにあらず、っていう雰囲気になってしまって」
「要するに、ピアノに集中できないってことかな?」
慶二の問いに、少女は黙って頷いた。慶二と玲菜の視線が交錯するのを視界の隅に認めつつ。
柔らかい表情を崩さないまま、彼は言葉を口にした。
「僕たちでよければ、これからも相談に乗れるけど」
「…………」
「玲菜さんは獣医だけど、僕は将来カウンセラーを目指してるしね。結構本格的な助言もできると思うよ」
二人の言葉に、少女は暫しの間考え込むそぶりを見せていたが、やがて小さく首を振った。それは否定の意味だった。
「そっかぁ。残念だなぁ。うーん、そうだ。じゃあ、日記書いたらどう?」
「日記……ですか」
「そう! 思ったことを、全部字にしちゃうの。そうしたら、気分も多少は違うと思うけどなぁ」
「なるほど……それはいいかもしれません」
玲菜の言葉を受け取って少女は頷く。今度はただし、肯定的な意味で、だ。
お茶代は慶二がしっかりと三人分払って、彩音は何度も礼を言いながら店を出た。最後にも、玲菜は助言をくれた。
家についたのは、学校を出てから一時間半ほど経ってのことだった。普段は、三十分程度で帰宅するので、三倍の時間がかかったことになる。
門をくぐり玄関の二重扉を開けると、母が「おかえり」とほっとした表情で声を発した。連絡くらい入れておけばよかったと今更ながらに後悔しつつ、「ただいま」と笑顔を見せる。
こうして我が家に戻ったときに父がいない、というのはよくあることだが、そのたびに少女は幾分安心するのだ。秋文のことは尊敬しているが、それは同じピアニストとしての話であり、父親としては最悪だった。彼にとって、娘とは自分の後継者なのだ。一切の妥協も、失敗も許さないその信念を貫くことはある意味で素晴らしいのかもしれないが、当事者としては息が詰まるだけである。
「さーて、練習、れんしゅー」
「あらあ、今日はえらい機嫌がいいのねぇ」
「そうかな」
「ええ。何だか、吹っ切れたみたい」
娘の些細な変化に気づいた母は、やっぱり母親なのだな、と彩音は感じた。
スクールバックを置きに、少女は二階へ向かう。
その日の練習は、とても捗った。
――七月十四日(月)雨
今日は学校を休みました。コンクールの前々日ともなると、さすがに学校へ行く余裕はありません。ずっと家で、細かい調整をしていました。この日記を書き始めてから、もう五日目になります。レナさんの言葉通り、確かに気持ちは楽になってきています。いままで以上にピアノに打ち込めるようになったし、感情も乗るようになったと思います。ピアノの前にずっといても飽きないし、とても楽しく弾けるようになってきました。
それにお父様も、今日は久しぶりに私のことを褒めて下さりました。もちろん多少の叱咤はあったけれど、それ以上に激励の言葉が記憶に残っています。でも、その後ミスタッチをすると、怖い顔で怒られてしまいました。でも、それ以上に、その後の言葉が心に突き刺さりました。私が否定されてしまったみたいで、とても、苦しくて、悲しくて。辛いです。ピアノが、お父様が好きだから。ミスタッチなんて、しなければよかったのに。本当に悔いが残ります。
……でも、ついこの間までの破壊衝動が嘘のようです。こういう場面で残念に思うのは、やっぱり私がピアノを愛している証拠なんだと思います。次は、もっと上手く弾きたい。音を美しく奏でたい。心を揺さぶる演奏がしたい。なによりお父様に、認めてもらいたい。
だってピアノは、私の存在意義なのだから。
外では、どしゃ降りの雨が降っているらしかった。けれど、練習室に籠りっきりの少女には、関係のない話だった。ピアノの音と、魂を注ぐ彩音の息遣い。そして秋文の譴責。それだけが、防音の壁に囲まれた部屋に響いていく。
今日だけで、一体何度、曲を弾き終えただろうか。普段から長時間の演奏への準備は整えているとはいえ、指先は気だるく痺れていた。出し尽くされた感情は、虚しく空中を彷徨っている。これだけ奏でても、まだ、駄目なのか、と。
「あと一回だな」
「……分かりました」
このあと一回、というのは文字どおりの意味ではなく、「完璧に弾けたなら」という前置詞を隠しての言葉であることを彩音は把握している。
細切れになった精神力を寄せ集めて、少女はピアノと対面する。全神経を指先に集中させて、演じるように奏でていく。
まずは、課題曲のエチュード。彩音が選択したのは、『黒鍵』と呼ばれるものだ。この曲は一分半程度で演奏が終わるが、題名のとおり右手は後半の和音の一箇所を除き、すべてが黒鍵の部分を弾き続ける。つまり、出せる音の種類はかなり少ないのである。しかし、この曲はメロディーが一辺倒ではなく、逆に限られた音源だからこその複雑さを持っている。曲風は軽やかながら、音をしっかりと指先で捉えなければならず、パキパキとしたタッチが求められる。次に弾く月の光とはかなり対称的な作品だ。
テンポの速い曲ではあるが、問題なく最終和音に辿り着く。エチュードを完成させほっと息をつく間もなく、月の光のイメージを膨らませていく。
澄み切った夜空。そこに散りばめられた星々と、静かな月。白く輝く優しい満月が、淡い光で大地を包んでいく――。
優雅な旋律。甘くも少しだけ切ない、神秘の調べ。指だけでなく、腕で、身体全体で月の光を表現する。
(あっ……)
二回目の主題に入る直前で、一箇所音を落としてしまった。だが、弾き直すわけにもいかない。これ以上の失態を犯すわけにはいかないと力みかけるが、何事もなかったかのように平然と演奏を続けた。このくらいの図太さがないと、ピアニストは――秋文の娘はやってられない。
音を零したのはその部分だけで、あとは完璧な展開だった。
肘からすくいあげるようにゆったりと指先を離しペダルをあげると、ようやく彩音は息を洩らした。栄養素をすべて失った植物のように、椅子の背もたれに寄りかかる。張りつめていた意識が途切れて、瞼が重くなった。
「まずは黒鍵だが、まあ、悪くはなかった。強いて言うならもう少し快活さが欲しかったが、これだけいままで弾き込んで来たんだからさすがにそれは無茶ぶりと言えるだろう。一つ一つの音がはっきりと聴こえた上に、和音も調和していた。合格だ。よくやった」
惜しみのない称賛の声に、彩音は思わず涙が出そうになった。こうして父から褒められるのは、一体何年振りだろうか。父は鞭の割合が圧倒的に多い鬼の指導者だが、だからこそ稀に与えられる飴のありがたみが増すというものだ。
だが。
「月の光。テーマの直前でミスタッチをされては萎えるな。主題でミスをするよりは遥かにマシというものだが、それにしても、だ。あれは許されざるものだ、お前が本当にピアニストならばな。この件は、疲れていたからで済まされる問題ではない。自分が誰であるかの自覚は当然、あるな? ならば、今後二度と、こんな愚かな失態を犯してはならん。分かったな?」
「……以後、肝に銘じておきます」
「まあいい。今回は少しハードすぎた」
父も反省していたのか、と彩音は思考を緩めたが。
「――私は、お前の力を過信しすぎていたようだな」
飛び出したのは、あまりに過酷な言葉で。
「コンクールまでには、完璧に自分のものにしろ」
室内の扉が閉ざされる音が、真っ白な脳内にやけに響いた。
――七月十五日(火)晴れ
今日は、お父様があまり口を聞いてくださりませんでした。昨日のミスタッチのことをまだ怒っているのでしょうか。嫌われてしまったようで、私はとても悲しいです。ただ、お父様の私にかける思いは感じ取ることができました。
明日着るドレスも届いて、その出来栄えも最高でした。本当に嬉しかった。ありがとう、お父様。
でも……私はもう、いままでの私とは違います。自分で何をすればいいのか、これからどうするべきなのか。私なりに、しっかりと考えてみたのです。
今日の夜は、とても恐ろしい夢を見ました。でも、そのおかげでしっかりと現実を見ることができたと思います。
レナさんが私に言ってくださった言葉は、決して忘れません。私は、私の人格をちゃんと守って生きていきたい。だから、もうくよくよするのはやめます。
私は、世界の姫路の娘としてではなく、姫路彩音として、これからピアノを続けたい。
泣いても笑っても、明日が最後。本番でミスをしたら、すべてが終わってしまう。
だから、完璧な曲を、観客の方々に届けます。
不吉な夢だった。真夜中に飛び起きた彩音は、心拍数が上がって苦しくなっている胸を鎮めるために、水を飲みにふらふらと一階へ降りた。
スポットライトの当てられた、孤高の、そして孤独な舞台。そこには、丹念に磨き上げられ調律された一台のピアノが鎮座している。
椅子に腰を下ろす。黒鍵の第一音。そこから広がっていくショパンの世界。加速する音。煌びやかに輝く和音。
そして突然の不協和音。
一度ずれた指先はなかなか戻らない。壊れた世界。すべてが狂っていく。音楽も、少女そのものも……。
失敗するはずがない、と彩音は確信している。いままで行ってきた練習は、決して無駄にはならないだろうと。誰よりも厳しい道を通ってきた自覚はあるし、それは誰の目からしても事実である。少女は険しい道のりを歩んできたのだ。
だからこそ、彩音は自信を持って言い切れる。
必ず、私は世界へ飛び立てる、と。
しかし同時に、今までの道のりを振り返るからこそ、少女には思うところがあるのだ。
一体、誰のためにここまで頑張ってきたのだろうか、と。
彩音の世界は、父親が中心にいた。自分の人生でありながら、主人公は彼女自身ではなかった。否、あるいは、父というプレイヤーが主人公の彩音を操作していたといってもよかった。それほどまでに、彩音は自分で物事を決めたことがなかった。
(私は、ピアノのプロだって、胸を張って言えるのかな……)
親に言われてピアノを始める人や、物心つく前からピアノに触れさせられてきた子供は、少なくはないはずだ。ただ、そこから才能が開花し世界を広げていく人材が少ないだけで。少女は父親の圧倒的なバックアップの中、周りの過大な評価に打ち勝ち、見事その名を轟かせたといえる。親の七光りでないことは、とっくに証明済みだ。海外でも、彩音の評判はいいと父から聞いていた。世界各国の強豪たちが、コンクールに向けて少女のデーターを取り寄せているのだという。それを少女はとても誇りに感じている。この十六年間が間違っていなかったという証拠だ。
本当に彩音が自立し、本物のピアニストとして成功するためには、いつまでも父の腕の中にいるわけにはいかない。
大人になった雛鳥は、やがて巣を飛び立っていくのだ。
(私なら、……)
――自分の人生はさぁ、誰にだって、自分で決める権利があると私は思うよー。
玲菜の言葉を、胸の中で反復させる。何度も、何度も。
(決められるはずだ)
胸の圧迫感は、消えていた。
夜はしんしんと更けていく。水の入ったコップを片手に、彩音は茶色のカーテンを開く。
硝子越しに眺める世界は、まぎれもなく広くて。少女が月の光に夢見た情景をそのまま描いたかのように、大きな満月が暗い世界をそっと包み込んでいる。
月は、自分では輝けないけれど。
それでも、この物静かな暖かさが変わるわけじゃない。
太陽の代わりなんかじゃ、ない。
(明日は、最高の一日にしてみせる)
少女の顔に、笑顔が戻った。
朝日が昇ると同時に、彩音は起床した。悪夢のせいで途中起きてはしまったが、その後深く眠ったことで頭は冴えている。
明日のコンクールに向けての準備、ということで、今日は学校を休むことを許可されている。練習室で缶詰になるだろうな、と予想しながら、ベッドの上の布団を整理する。
カーテンを開くと、白みを帯び始めた空が目に映った。部屋に差し込む光の量は、徐々に増えていく。日光を浴びて体内時計をリセットさせると、大きく伸びをしてから着替えた。出かける予定はないので、スウェットにパーカーという完全な部屋着である。
身支度をすべて済ませてからダイニングに向かうと、秋文が珈琲を飲んでいるところだった。
「おはようございます、お父様」
「おはよう」
素っ気ないのはいつものことだ。こういう部分が、父親としては駄目なんだよなぁと思いつつも、儀式的な挨拶だけをして奥のキッチンに向かう。父親が起きている以上、母親も起床済みのはずだった。
果たして、母は魚を焼いているところだった。
「おはよー」
「あらあ、早いのね。おはよう」
「ま、明日コンクールだから……」
「こんだけ練習してんだから、予選突破は確実よ。気負わずに頑張んなさい」
「おう。で、今日は何魚?」
「鮭よ。お味噌汁がワカメで、あとは卵焼きかな」
「ん。分かった」
朝食のメニューを確認してから、彩音は食卓に戻った。父は、新聞を読んでいた。脇に置かれたマグカップのブラックコーヒーは、半分以上残っているのに冷めていた。
掛ける言葉も見つからぬまま、痛い沈黙だけが流れる。ピアノの話でもすれば間は埋まるだろうが、昨日の件もあるので彩音の方からは切り出しにくかった。それに、それでは親子の会話ではなく師弟の会話になってしまう。食事中はせめて、父と子らしい話をしたいものなのだが。
秋文は、無言を貫くと決めたのか視線を記事から外さなかった。普段より、じっくり読みこんでいる気がした。
「ご飯できたわよー」
「ありがと」
「冷めないうちに食べちゃいなさいね」
「んー。いただきます」
手を合わせて箸を取ると、まずは味噌汁を一口。ちらりと父の方を見やれば、口の中で挨拶をしてからやはり汁ものから手を付けているところだった。
鮭は程良く焼かれていて、余分な脂が落ちていながら身は柔らかかった。熱いご飯と一緒に口に頬張ると、何とも形容しがたい幸せな気分に包まれる。鮭の季節はまだまだ先だが、それでも十分すぎる美味しさだ。
「そういえば、明日着るドレス届いたわよ」
「ほんとー?」
「ええ。今年は、お父さんが選んだのよ」
「そうなの?」
驚いて見つめると、「まあな」と父は苦笑する。幼い頃は母自らがドレスを作っていたし、大きくなってからは母が専門店で借りるか買うかの二択だった。どのくらいの値段が掛かっているかを彩音は知らないが、ざっと数十万といったところか。
「別に言うほどのことでもないだろう。今回はたまたま時間があったから、適当に選んできただけだ」
「そうなんだ。でも、ありがとう。嬉しいよ」
「そういうのは、実際に見てから言え」
呆れたように吐き捨ててから、味噌汁をかっ込むと「ごちそうさま」とだけ言い残して秋文は立ち去った。
「怒らせちゃったかな?」と向かいに座る母の顔を見ると、「お父さんたら、照れちゃってー」とふざけたように笑った。それから真面目な表情を浮かべて、「適当に選んで買ったわけじゃないのよー、実は」と箸を置く。
彩音の方も、自然と真剣な表情になる。
「どういうこと?」
「一カ月くらい前かな、突然、『彩音の服のサイズを教えろ』って言いに来てね。どうしてって訊いたら、『今回は俺が衣装を用意する』って。それであの子は細いからSでいいわよ、って言ったら、『なるべく正確なサイズで頼む』ってさ」
「うん、それで?」
「スリーサイズをそのまま言うのもなんだか申し訳ないから、メモに書いて渡したわ」
「お母さん、私のスリーサイズ知ってたんだ……」
「そらぁそうよ。母親ですから」
「おう……で、それから?」
「さあ?」
「は?」
「あとはヨロシク状態だから、それからのことは知らないわ」
「いやいや、訳知り顔で『実は適当に選んだわけじゃないのよ』って言ったじゃん」
「その方が面白いかと思って」
「そういうとこで面白さを追求しないでよ……ってか、あとはヨロシク状態って何よ」
「丸投げ」
「なんで丸投げしちゃったのさ。いつもお母さんが選んでくれてたじゃない」
「だって、お父さんが自分で用意するって言ったんだもん」
「言ったんだもんじゃないよー。お父様、センス大丈夫なの? スーツとかも全部お母さんが選んでるけど」
「……大丈夫じゃない? 大丈夫よ、ええっ!」
「その前の間は何よ……」
「ま、酷いことにはならないはずよ」
「ひっ、酷いことって」
「まあ、期待していいんじゃない? 見てみたけど、綺麗だったわよ」
「見たんだ、私より先に」
「気になるじゃない。お父さんがデザインしたんだから」
「え?」
本日二度目の衝撃に、彩音の思考は一瞬止まる。
「お父様が、デザイン、した?」
「ん、そんなこと言ったかしらー」
お皿を下げなくっちゃと慌てて退散するところを見ると、どうやら、母はそのことについて口止めされていたらしかった。うっかり話してしまったのか、意図的に話したのかは分からないが、彩音は国内予選突破にかける父の熱意を感じ取った。
(……ありがとう、お父様)
じんと、胸が暖かくなった。
同時に、少しだけ、胸が痛んだ。
◇
小気味よい足音が響くたびに、黒のドレスはふわりと広がる。後ろにまとめられた横髪は、淡いオレンジ色のリボンで結ばれている。
前奏者が、ソナタを弾き終えた。観客席から盛大な拍手が巻き起こる。彼は額に汗を浮かべながら一礼すると、ゆったりとした足取りでステージから退いていく。お疲れ様です、というか悩んだが、年上に対して失礼かと思い直し、結局黙って頭を下げた。
アナウンスの女性が、少女の名と曲目、使用するピアノのメーカーを読む。トップ通過が予測されている大物の登場と聞き、ホールに期待に満ちた静寂が訪れる。
大きく息をつくと、少女は舞台に足を踏み出した。当てられた照明に目を細めながら、観衆に向けてしなやかに一礼。最前列に、父と母の姿を確認する。一切無駄のない動作は、心のゆとりを表していた。
送られる拍手に胸の内で感謝しながら、椅子の高さを調節する。本格的なコンクールはこれが初とはいえ、地区予選、国内予選の予選と工程を踏んでおり、実質三度目であることや、ジュニア部門などでの経験もありさほど苦労はしない。一発で調整を終えると、落ちついて腰を下ろした。
ここからは、別世界。拍手も止んで、束の間訪れる沈黙。さしずめ、嵐の前の静けさ、とでもいうところか。
す、っと肘を上げると、一気に音の空間を創っていく。素早い黒鍵の連打から、和音を紡いでいく。一つ一つの音がホールにきらきらと反響し、一瞬にして人を魅了させる。主軸の音を引き立てるように、他の音が絡みついていく。真っ直ぐに落ちていく滝のように激しく、心が洗われるような感覚。旋律の風に乗ったそれはとどまることを知らず、終焉に近づくほど盛り上がり、一気に下降していく。なめらかに返される手首と、鍵盤をとらえる指先。高音から低音に向かい下がったメロディーはそこでいったん小休止して、今一度舞い上がる。すくいあげられた腕は目測を誤らず正確な場所に振り下ろされ、手首から指に伝わる力強さは音となって広まる。
ノーミス。この高揚は、スポットライトのせいではない。弾ききったという達成感と、あとは。
問題は、このあとだ。
練習のときに失敗した、主題の直前の和音。その後の練習では、一度も失敗することはなかったが……。
今回は、「今回だけ」は、絶対に成功させなくてはならない。
少女は夢見る。暗闇を照らし出す、月光を。
少女は重ねる。その月に、自分自身の姿を。
目を閉じる。鍵盤に指を乗せる。吐かれた息は、何に対してだったのだろうか。
ピアニッシモから始まる第一音。甘く、でも少しだけ切なく、繊細ながらか細くない、そんなメロディーがホールを包む。静かな中に渦巻く感情を込めて、丁寧に曲を紡いでいく。
少女が月の光に描いた世界を、優しく流れていく旋律が観客の脳裏に具現化していく。泣きたくなるほど愛おしく、ぞっとするほど正確で、絶対的に優雅な、そんな月の光。
真っ暗な大地は不安だけれど。照らす光は必ずある。
だから、少女はピアノを奏で続けるのだ。
いままでがそうだったように。そして、これからも。
真っ白な鍵盤の上を、指先が軽やかに駆け巡る。
反響する叙情の調べは、間違いなく、少女の最高傑作だ。
曲調が少しずつ変わっていく。二度目のテーマへ向けて、音楽が階段を駆け上っていく。高まる期待に応える、完璧な演奏。練習時に厳しい叱咤を受けた箇所も、このホールではそんな様子を微塵も感じさせなかった。
少女はこの瞬間から姫路秋文の娘でなく、確かに姫路彩音として羽ばたいたのだった。
創り上げられた月の光の世界に、拍手の嵐が轟く。素晴らしい演奏を届けてくれた少女には称賛の雨が降り注ぎ、心の大地を暖かく潤す。湧き上がる想いは、スタンディングオベーションという形で表現された。
少女のすべてを堪能し、劇的な場面の証人となるであろう人々に笑顔を送りながら、堂々とした足取りで舞台裏へ戻った。最前列の家族と特別に視線を合わせることはしなかった。
――これだから、ピアノはやめられない。
自然と、笑みがこぼれた。
「さて。以上ですべてのプログラムが終了いたしました。いよいよ、結果発表です。ヨーロッパ音楽連盟国際ピアノコンクール・プロフェッショナル部門、国内予選コンクール、まずは、第三位」
司会が演奏者の名前を告げる。告げられた当人は、挑戦権を手にしたことの喜びを、隠し切れていなかった。ホールからも、納得の表情が伺えた。
晴れやかに一礼をし、一言コメントをすると、拍手が沸き起こった。
「第二位」
今度呼ばれたのは、国際大会の常連だった。本人は、一位通過でなかったことにプライドをいたく傷つけられたようであったが、そんなことは少女の知ったことではない。
「第一位」
さすがに、空気に緊張感が満ちる。誰もが固唾を飲んで発表を待つ中、少女だけが毅然としていた。
「プログラムナンバー三十五、姫路彩音」
少女の目が伏せられる。ホールが再び熱気に包まれ、十六歳の少女の門出を祝う声が上がった。
一度大きく頷き、決意を固めたかのように彩音は微笑する。音楽界の巨匠たちが――秋文は、娘が参加するということで今回はメンバーから外れている――選考理由を滔々と述べている中で、司会に促されるまま彩音は一歩を踏み出した。
天からのスポットライトは、彩音だけに向けられる。この日のための漆黒のドレスは、輝く少女の魅力を増幅させて。そこでようやく、彩音は父とステージ上から対峙した。
組まれた腕、厳しくも寂しげな表情。けれどどこか、娘を誇りに感じているような。弟子の活躍でなく、娘の晴れ姿を見守るような。
ようやく、父から認めてもらえた。そのことが何よりも嬉しくて、同時にやはり彩音は申し訳なく思うのだ。
「姫路彩音さん。一言、お願いします」
――さあ、これで、クライマックスだ。
彩音の表情は黒鍵のように快活で、月の光のように優しい。
「一位通過できるとは思っていませんでした。私の持てるすべての力を、出し尽くせたと思います」
栄誉に輝いた少女は、はっきりと述べた。満足げな司会が次に移ろうとしかけたところで、「ただ」と更に続ける。
ホールが沈黙した。この先に何が続くのか、答えを知っているのは少女と――。
「私は、予選通過を、辞退させていただきたいと思います」
「は……?」
思わず漏れ出した司会の声が、全員の意見を代表していた。他を圧倒する演奏をしておきながら、世界への切符を自ら捨てるのは、愚の極みであると考えられたのだった。
騒然とする客集をよそに、彩音は理由を語った。
「私がこの大会に出場したのは、父である姫路秋文に勧められたからでした。いままで数多くのコンクールに出てきましたが、それもまた、父に言われてのこと。思えば、自分から考えてピアノを続けてきたことはなかったのかもしれません。
このように考えたきっかけは、話すと長くなってしまうので省かせていただきます。ただ、ある女性の言葉が、私に勇気をくれたとだけ言っておきたいと思います。
いままでは子供だったから、言われるがままでもよかった。でも、これから私は大人になっていきます。そろそろ、自立しなくてはならないと思いました。
だから、その第一歩として、国際大会への挑戦を辞退させていただきたいのです。
もっとこれから練習を積んで、自分の力で挑めるようになったときに、もう一度、挑戦したいのです。
いまはまだ、独り立ちはできないかもしれないけれど、それでも……自分の人生は、自分で決めていかなきゃいけないと思うから」
秋文は腕を組んだままだ。
「我が儘を言っていることは重々承知しています。辞退するくらいなら、棄権すればよかったではないか。そう思われても仕方がないかもしれません。
でも、私はピアニストです。ピアニストとして、演奏を途中で投げ出すことはどうしてもできなかった。ミスタッチをすれば、予選通過をすることもなかったと思います。でも、それは間違っている。そう思ったんです。曲をぶち壊すのは、弾き手としてのモラルを問われる。ピアノは私のすべてです。だから、中途半端にはしたくなかった。だから絶対に、私は予選を通過しなくてはならなかったんです」
少女の言葉に、観衆はしっかりと耳を傾けていた。客席の母はどこか愉快そうに笑っていたが、父は表情を変えない。
「お願いします。私の我が儘を、聞いて下さりませんか?」
司会者が困惑する中で、選考会の中の一人が、「姫路」と呼びかけた。
彩音は特に反応はしなかった。彼が呼んだのは、彩音ではなく客席の秋文であったからだった。
「お前はどう考えているんだ。君の弟子……娘だろう?」
注目が秋文に集まる中、司会者がそそくさと彼のもとに向かった。マイクを突き付けられた父は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたまま、発言した。
「まあ……薄々は分かっていたことだ」
「え?」
これには、彩音も驚きを隠しきれなかった。思わず目を見る少女は、娘としての姿だった。
「前日の練習を聴いて、いままでとは違う演奏をしていると思った。なにか吹っ切れた様子で、本番直前になって腹を括ったのかとも思ったが……今日の演奏終了後、一切私と顔を合わせなかったところで、ようやく悟った。だから格段、驚くことではない」
「そうですか……では、辞退を認める、と」
「そういうことだ。異論はないし、裏切りだとかも思わん」
そういって秋文は苦笑すると、しっかりと彩音の姿を認めた。歯を食いしばる娘に対して、父は穏やかだった。
「これは、ピアノの指導者としてでも、同じピアニストとしてでもなく、父親として言わせてもらうが……」
組まれた腕が、ゆっくりと解かれた。
「――成長したな、彩音」
舞台の上で、一筋の涙が伝った。
――七月十六日(水)
今日はいよいよコンクール当日。いつもは一日の終わりに日記を書いていただけに、なんとも不思議な気分です。
出番直前に指を酷使するのはよくないから、一言だけ書いて終わろうと思います。
ピアノを続けてきて、ピアニストになれて、こんな風にコンクールに参加できて本当によかった。私は幸せです。
では、行ってきます。