星を手に入れるまで
【1】
びくん、と身体をのけぞらせる時、日下愛稀は腕をぴんと伸ばす癖があった。
喉元から短い破裂音を発しながら、窓の外の星空へと手を伸ばす。腕の先を眺め、いくつ星を掴めたか確認してみる。ひとつなら自分だけの秘密、ふたつ以上なら恋人と分け合うのだ。
そんな子供じみた想像も、彼女にとっては楽しいひとときだった。彼と抱き合う度に幸せが手に入るような気がして、何となく嬉しい気分になってしまう。
行為が終わると、ベッドの中で色々と話をする。恋人の鳥須凜は寡黙な性分で、大抵話すのは愛稀の方だった。仕事のことやその日あったことなどを取りとめもなく話すのみで、とりわけ重要な話題というのは少ない。
けれどこの日、彼女の言葉にふたりは時の流れが止まった。
「私たち、いつまでこうしていられるかな」
何の気なく発した言葉だったが、妙にずしりと響くのを感じたのだ。
「いつまで、って――」
「私たち、付き合い始めてから何年になる?」
愛稀はさらに質問を重ねた。
「そろそろ5年じゃないか」
5年も――と、凜の回答に愛稀はため息を漏らした。思い起こせば、この5年間に色々なことがあった。愛稀は大学で専攻していた生物学の分野には進まず、福祉方面の仕事に就いた。凜は凜で、大学院の博士課程を修了し、2年のポスドク期間を経て、来年度から助教としての採用が決まっている。
しかし、彼と出逢った頃を考えると、まるで昨日のことのようなのだ。自分たちを取り巻く環境はめまぐるしく変わっているのに、自分たちの関係性はまるで変わっていない。
「ずっと、おばあちゃんになっても、このままなのかな」
「…………」
凜は上体を起こし、ベッドの淵に座り込んだ。布団がめくれて、愛稀の身体にも年末の寒さがじんじん感じられる。
「このままでいたいけど、このままではいられないのかもな」
凜はそう呟いた。愛稀の胸に、一抹の不安が生まれた。
私たち、これからどうなっていくんだろう――。
【2】
年末、仕事納めの日。
「お疲れさまでした」
仕事が終わると、愛稀は市内のカフェへと向かった。友人とそこで落ち合う約束をしている。年内に片付けなければならない仕事が残っており、予定よりも退社が遅くなってしまった。
カフェに着き、窓ごしに中を眺めると、年末のためか店内はいっぱいだった。客席の中に、退屈そうに唇を尖らせる友人の姿があった。愛稀は入り口から店に入り、注文カウンターを素通りして友人のもとへと向かう。
「トモちゃん、ごめん。ちょっと待たせちゃって」
「もう、お姉ちゃん、遅いよ……!」
友人は、愛稀を見上げながら不満げに言った。
鶴洲友恵は愛稀よりも6才年下で、地元の私立大学の法学部に通っていた。読書好きな彼女は文学部を志望していたが、両親が許さなかったらしい。
この日は、互いの近況報告をし合う約束をしていた。友恵はボランティアに通っている施設での出来事を話した。愛稀も大学を卒業するまでボランティアをしていた施設である。友恵は特に、施設に通うある人物と親しく、彼との間には何やら深い関係があるようなのだが、愛稀にはその詳細をうかがい知ることはできない。
愛稀は、仕事のことや、凜とのことを話した。その中で、やはり先日の凜との会話を外すことはできなかった。
「この数日間、ずっとそんなこと考えてたわけ?」
愛稀の話を聞いて、友恵は言った。何だか、冷めた口調にも思える。
「うん……」
「お姉ちゃんってさあ、何ていうか――とことん幸せバカだよね」
「その言い方酷くない?」
愛稀は多少非難を込めた口調で返した。しかし、友恵の口の悪さは、相変わらずと表現した方がいいかも知れなかった。愛稀に対してズケズケとものを言う性質は、出逢った頃から変わっていない。
「ううん、私からしたら、お姉ちゃんって幸せそのものだよ。愛する人がそばにいて、しかもお互いに愛を確かめ合える関係を築けてて」
「そうかなぁ――」
「そうだよ。一緒にいたって、相手の気持ちを知りようもないことだってあるんだよ……」
「それって――トモちゃん自身のこと?」
「…………」
友恵は頬杖をつき、何も答えなかった。しばらく窓の外を眺め、行き交う人々を目で追いながら何か考えているようだったが、やがて再び口を開いた。
「まあ、それでももっと幸せの証が欲しいっていうなら――」
ジロリ、と友恵は愛稀の方へと視線を戻す。
「子供作っちゃえば?」
「はぁ――!?」
愛稀は素っ頓狂な声をあげた。
「トモちゃん、こんな所でそんな話……!」
「何で? 好きな人と一緒にいるなら、当然の話じゃない?」
「だからって……」
「それにさ、これ以上の愛の証ってないでしょ。もし仮に、好きな人と逢えなくなる日が来たとしても、相手の心を知ることができなかったとしても、その人と交わったという証明はずっと自分の手元に残るんだから」
友恵はニンマリとした笑みを浮かべた。その表情は、誰かを挑発しているようにもとれる。目の奥には、覚悟にも近い感情が渦巻いているように思えた。これから起きる波乱を予期している、というよりは、これから自分が波乱を起こそうとしているのではないか。
しかし、今の愛稀には、友恵に対し何も言及することはできなかった。愛稀がそうであるように、友恵も自身の幸せを模索している。たとえそれが、茨の道を進むことになろうとも、彼女自身が決めることなのだ。
「でもさ、いきなり子供を作るっていうのは……」
愛稀はとりあえず話の矛先を自分自身へと戻した。
「じゃあさ、その前に然るべき手順っていうのを、踏んでおけばいいでしょ」
そんな愛稀に、友恵は平然とした口調で返してみせるのだった。
然るべき手順――愛稀は友恵の言葉を頭の中で反芻した。けれど、それが具体的にどういうことなのかについては、よく分からなかった。友恵は頬杖をついて、そっぽを向いている。もう、この話を続ける気は、あまりないようにも見えた。
まあいいか、と愛稀は次の話題を探した。
【3】
大晦日。
とある児童養護施設のレクリエーションルームでは、年忘れパーティーが行われていた。
恒例イベントであり、施設のスタッフや子供たちばかりではなく、彼らに近しい人間や地域住民なども参加することができ、毎年盛大で賑やかな会となる。
生まれて間もない頃から3年間、この施設にお世話になっていた愛稀は、毎年会の準備や進行の手伝いをするのが恒例となっていた。お世話になった院長やスタッフに会えるのが楽しみでもあったし、自分の後輩たちが成長していく様子を見るのが嬉しくもあった。
パーティーでは毎年、子供たちが4, 5人でグループに分かれ、出しものをすることになっている。合唱したり、踊りを踊ったり、劇をしたりと、それぞれのグループでさまざまな試みがなされていて面白い。今回のパーティーではその中に、『冬の星座の伝説』というテーマの発表があった。
「オリオンは月と狩りの女神アルテミスと愛し合っていました。しかし、アルテミスの兄アポロンはオリオンが好きではありませんでした。オリオンとアルテミスを引き離そうと、アポロンは海で泳いでいるオリオンの頭を金色の岩と偽って、アルテミスに弓矢で射てみろと命じます。何も知らないアルテミスは、自分の放った矢でオリオンを殺してしまうのです。そのことを知り、悲しみに暮れるアルテミスは、最高神ゼウスにオリオンを星座にしてくれるように頼みました。ゼウスはオリオンを星として、アルテミスが夜を照らす時の天の通り道のすぐ近くに上げました。
それで冬の夜には、オリオン座のすぐ近くを、アルテミスが月として通るようになったということです――」
「はあ~あ」
レクリエーションルームの隣の準備室でひとり休んでいると、
「愛稀、どうしたのよ?」
友人の間宮遙に声をかけられた。遙は施設の利用者ではないが、愛稀との交友関係が深いこともあり、時間があればパーティーの準備を手伝いに来てくれている。
「いやねぇ――。さっきの星座の話」
「あの神話の?」
愛稀はこくりと頷いてみせる。
「聞いてたら、何だか切なくなっちゃってさ」
遙は肩をすぼめて言った。
「どうして? ああいう話、面白くない?」
「物語としては面白いんだけど――」
「だけど?」
「綺麗なお星様に、どうしてあんな悲しいお話を当てはめちゃうのかなぁ、って」
「なるほどねぇ――」
遙は、顎に手をあて、少し俯き加減で言った。
「言われてみれば確かに、人間のエゴなのかも知れないわね」
「エゴ――?」
愛稀はキョトンとした様子で訊き返す。
「そう。人がなりたくてもなれないものに、自分たちの理屈を押しあてようとする、みたいな。結局人間って、星になりたいと願ってしまうくらい、欲深き生き物なのかも知れないわね」
「ああ~――」
遙の説明には納得がいくような気がした。愛稀は感慨深げに言う。
「幸せなんて、もっとちっぽけなものでいいのにね。自然のまま、当たり前に恋をしたり、当たり前に夢を見たり――普通に普通で普通を生きる。それだけで十分なのにね」
「その当たり前が分かりにくいんじゃないかな。だから、より大ききを求めてしまうのよ」
つくづく、人って幸せを感じにくい生き物なのね――と、遙は言う。確かに遙の言う通りかも知れない、と思う。現に、愛稀自身も、自分と恋人との幸せについて、迷っているところだった。
「じゃあさ、幸せってどうしたら感じられるんだと思う?」
今度は、愛稀はこう切り出した。
「うーん……そうねぇ」
遙はしばらく考えてから答えた。
「形にする、っていうのはどうかしら」
「形にする――幸せを?」
「そう。幸せだと思える状態を作ってしまうの。“状態”というよりは、“状況”といった方が正しいかもね。とにかく、“幸せ”と納得できる証を残すのよ」
「そっか…………」
愛稀は考えてみた。恋人との関係についての不安。それは、進展も何もなく、先が見えないがための不安に他ならない。ならば、逆にこれからのふたりを形に現せれば、不安は解消されることになる。
では、ふたりにとっての“幸せの形”とは、一体何なのだろう――。
「あ、あなたたち、こんなところにいた!」
急に声がしたのに驚いて、はっと見ると、施設の院長の奥さんが、ドアの隙間から首だけ出して、じっと愛稀たちを見ていた。
「そろそろ子供たちの最後の出しもの、全員での合唱よ。よかったら、会場に戻って聴いてあげて」
「あ、はい……!」
愛稀と遙は、レクリエーションルームへと急ぐ。そこには、来るべき幸せな未来に目を輝かせる少年少女たちが、列を作り彼女たちを待っていた。
【4】
それは、母の何気ない一言だった――。
実家では、両親がお節を用意して待っていた。
久々に帰ってきた愛稀をもてなしてくれる。父親には日本酒を勧められ、喜んで飲むと、父は愛稀以上に喜んでくれた。ついこないだまで幼いと思っていた娘が、酒が飲めるまでに成長したことが嬉しいのだろう。
愛稀の両親は、当時3才だった愛稀を養子として引き取り、実子のように可愛がって育ててくれた。愛稀にとっては、実の両親以上に感謝して止まない存在だった。
そんな家族水入らずの時間を過ごしている時。
母親がふいにこんなことを言った。
「愛稀ちゃん、もうそろそろお母さんたちを安心させてくれないの?」
「――へ?」
愛稀は気の抜けた返事をする。
「――仕事は順調だよ?」
「いや、仕事じゃなくって……」
鈍いわね、この子――と、母親は苦笑いを浮かべた。どうやらとんちんかんな返しをしてしまったらしい。次に口を開いたのは父親だった。
「女としての幸せはどうだ?」
「女としての幸せ――?」
「彼氏とはまだ続いてるんだろう?」
こくり、と愛稀は頷いてみせた。両親には凜をまだ会わせたことはないが、時々話題には出していた。
「そろそろ一緒になる気はないのか?」
「一緒になる、って――」
「結婚はしないの、ってことよ」
母親の言葉を愛稀は「けっこん――?」とただ反復した。
「いやだ。この子、“結婚”って言葉を初めて聞いたみたいな反応よ?」
「“けっこん”って――あの結婚!?」
愛稀は突然素っ頓狂な声をあげた。普段あまり飲まない日本酒に酔いが回ったのか、母の言葉が頭に到達するのに少し時間がかかったらしい。
「それ以外にどんな結婚があるのよ――」
母親は呆れたように言う。
「結婚なんて、考えたことなかったけど……」
「結婚するほどの相手とは思ってないのか?」
父に向かって、ううん――と愛稀は首を横に振った。
「彼のことはとっても愛してるよ」
愛稀の言葉に、母親はふっ、と穏やかな笑みを浮かべた。
「愛しているなら考えてみたら? そして、早く私たちを安心させてちょうだいよ。あなたが幸せになることが、私たちの願いなんだから」
(そっか。幸せになるって、自分たちだけのためじゃないんだ……)
愛稀は思った。今まで、凜との関係について、ふたりだけの問題として捉えていた。けれど、実際はそうではなかった。自分の大切な人、そしてその人との将来は、自分を想ってくれる人にも大切なことなのだ。
次に脳裏に浮かんだのは、先日の友人たちの言葉だった。
『幸せと思える状況を作ってしまうの』
『子供作っちゃえば?』
どちらの言葉も、聞いた当初はピンと来なかった。しかし、ふたりの言葉をつなぎ合わせるのは、自分を想ってくれる両親の願いであった。
それは、2文字のキーワードとして、愛稀の頭に刻まれることになった。
今までそんなこと考えもしなかった。それは、愛稀が子供すぎたことと、恋人の凜が世間離れした性分であることが原因であったに違いない。しかし、今後も互いに愛を育んでいくためには、次なるステップを踏む必要性があるのだろう。
「――私、結婚したい」
愛稀は自らの決意を口にした。彼女の言葉に、両親も喜んでくれたようだった。
「愛稀、もっと飲め!」
父が愛稀のカップに日本酒を豪快に注いだ。愛稀も父に応えるように、勢いよくそれを飲み干す。父はさらにカップに日本酒を注ぐ。
幸せとは、自分たちのためだけのものではない。周りの人をも巻き込むパワーをもっていて、周囲の祝福があってこそ自身の幸せもより大きくなるものなのだ。愛稀はそのことを深く噛みしめていた。
父との酒宴は、愛稀が年越しの記憶がなくなるまで続いた。
【5】
元日。
神社は初詣の参拝客でごった返していた。
周りを見渡しても人、人、人で、拝殿までは未だ長蛇の列が続いている。あとどれくらい待てばいいのかと考えると気が遠くなる。おまけに、昨晩の日本酒がまだ残っているのか、頭がじんじんするのだ。
「ねえ、昨日は何してた?」
愛稀は隣に立つ恋人に尋ねた。話でもして気を紛らした方がいいと思った。
「実験」
凜は短く答えた。
「大晦日だよ~?」
「4月から研究室が変わるからな。それまでにいいところまで結果を出したいんだ」
「相変わらず研究の鬼だね」
「そんなことないよ。――ところで、そっちはどうしてた?」
今度は凜が訊いてくる。
「実家に帰ってたよ」
と、愛稀は答えた。
ふと、昨日の母の言葉を思い出す。愛稀はどことなく気恥しい気持ちになって、下唇を噛んだ。今まで意識することもなかったことを、どうしても意識してしまう。
愛稀は再び拝殿の方を見た。さっきよりも、ほんのわずかだが距離が近づいている。参拝時にお願いすることを考えて、少しドキドキする。願い事はすでに決めていた。愛する人と幸せを形づくるために必要なことだ。
(早く言いたい、神さまに私のこの想いを――)
愛稀は、はやる気持ちのまま、拝殿まで飛んでいきたい気持ちに駆られた。もちろん、現実はそういうわけにはいかず、ゆっくりと石段を上がってゆくしかない。けれども、着実にその時は近づいているのだった。
参拝を終えると、人々の列からようやく解放された。
「結構長い間こと拝んでいたよね」
歩きながら、凜がふと言った。
「あれ、そう――?」
愛稀はそう返すも、確かに少し長かったかも知れないと思う。それだけ丁寧にお祈りをしていたのは間違いなかった。
「そんなに熱心に、何をお祈願していたの?」
ん~……、と愛稀は空を見上げ唸ってから言った。
「人に話すとお願い事が逃げちゃうって言うからなぁ――」
「そういうもんなのか? じゃあ、あえて聞かないでおくか」
「……いや、今回のはむしろ逆かも?」
愛稀は一瞬歩みを止め、そう呟いた。すぐに歩きだしたものの、立ち止まっていた分凜が前を歩く形になった。愛稀は、何故だかこのままでは凜が逃げていってしまうような心地がした。
(やっぱり今言わなきゃ……!)
彼の背中を見つめながら、彼女は思う。
凜くん――そう呼びかけようとした時、ふと鳥居をくぐったあたりで凜が立ち止まった。愛稀もつられて立ち止まる。凜と愛稀は、鳥居の外と内に分かれるような形となった。
「そうだ、ひとつ君に話したいことがあるんだ」
「――へ?」
愛稀はキョトンとした顔で首を傾げた。突然どうしたのだろう。同時に残念な気持ちになった。せっかく想いを伝えようと決意を固めたところだったのに。
でも、まあ、いいか――と、彼女は思い直した。別に、今の関係を続けていたところで、とりわけ問題があるわけでもない。互いが互いを想い合っていることに変わりはないのだ。そこまで不安に思う必要もないよね――と、愛稀は気持ちを切り替えて、にっこりとした笑顔を浮かべて応えた。
「なに、どうしたの?」
凜は相変わらず表情を変えないままで、さらりと言った。
「結婚しよう」
「……え?」
「年末の間、ずっと考えていたんだ。話していたろう。私たちこれからどうなるんだろう――って。それで、そろそろお互いの将来のこと、しっかり考えるべきだと思った。僕も今年からちゃんとしたポストが決まったんだ。君を迎える準備はできているつもりだよ」
凜の言葉に愛稀は驚きを隠せず、口をあんぐり開けたまま本殿の方を振り返った。自分から口にしようとしていた想いを、なんと彼の方から言ってくれたのだ。どれだけご利益が強い神社なんだろう――と思った。
しばらくぽかんとしていた愛稀だったが、徐々に気持ちが冷静さを取り戻してくると、胸にじんわりと温かいものが湧き上がってきた。
「……うれしい」
愛稀は彼に向き直り、素直な想いを口から漏らした。
「実はね――私の願いごとも、それだったの」
「そうなの?」
凜は珍しく、感情を言葉に乗せた。相手も同じように考えていたとは思っていなかったようだ。愛稀は胸のあたりで手を組んで目を閉じた。神さまに感謝の気持ちでいっぱいになる。目を開くと、彼女は凜の方へと向き直り、彼に近寄って言った。
「じゃあ、私の方からも言わせてね。私と結婚してください」
「喜んで」
と、凜は答えた。愛稀は嬉しさのあまり、今ここで彼にキスしたい衝動に駆られたが、思いとどまった。辺りには、たくさんの参拝客がいる。外国ならつゆ知らず、日本で人前でキスをすることははばかられるということは、愛稀にも考えがついた。以前なら、何も考えずに自分の気の向くままに行動していたのであろうが、社会人になって数年経つと、こういった常識的な観点も生まれてくるものらしい。
キスの代わりに、愛稀は凜にもっと近づいて、彼の腕に自分の腕を絡めた。
「凜くん、今年もよろしく。ううん、今年からよろしく、だね」
「ああ、こちらこそ」
「行こっか」
そして歩きだした。愛稀は思う。いつか、自分と彼の間に、自分たちの子供が入ることだろう。子供は男の子かな、女の子かな――いや、きっと両方できるんじゃないかな。
夫婦と子供たち――4人並んで歩いている未来を、愛稀はその心で描いていた。
【6】
昼下がりから、街に雪がちらつき始めた。
夜になっても雪は止むことはなく、窓の外を眺めれば大量の紙吹雪が舞っているようだった。見上げてみれば、うっすらとした雲が全体にかかり、空が濁って見える。
「お星さま、見えないねぇ」
愛稀はため息まじりに言った。
「――星? 好きなのか」
凜は愛稀に10オンスタンブラーを手渡しながら言った。色鮮やかなオレンジ色のカクテルがなみなみと入っている。ついさっき、凜はシェーカーを振っていた。酒好きの彼は、愛稀によく、カクテルを作ってくれるのだ。バーテンダーの見よう見真似だと本人は言っているが、その所作はやけに堂に入っているし、味もそれなりのものだと愛稀は思う。
「たまに眺めるくらいだけどね」
愛稀はそう答えながらグラスを手に取り、彼の手作りカクテルを口に含む。オレンジの甘みと炭酸の相まった爽快な味だった。
「星座とかも興味あるの?」
凜が尋ねる。愛稀はふるふると首を横に振った。
「それほどは。ただ、たった一度だけ、星座を見つけた時は感動したなぁ――」
愛稀はしみじみと言う。いつの頃だったか、今日のように寒い冬の夜だった。見上げれば屋根と屋根の隙間に覗く空に、特徴的な位置関係で瞬く星々があった。愛稀はそれがオリオン座だとすぐに分かった。すごい、いつか理科の教科書で見たのと同じだ――と、彼女は間の抜けた感慨をもったものだった。
「新年の初星、見れなくて残念だったな」
と、凜は言う。愛稀はううん、と首を横に振った。
「平気だよ。だって、人生のパートナーがそばにいてくれるんだから」
愛稀はグラスをテーブルに置き、椅子代わりにベッドの上に腰かける凜へと近づいた。彼の首元へと腕を回し、にっこりと微笑みかけると、彼の方から唇を押し当ててきた。しばらく愛の会話を楽しんだ後、その余韻に浸りながらうっとりと目を開く。その時彼女ははっとした。
「星だ……」
愛稀はぽつりと呟いた。彼の瞳の中に、瞬く複数の光が見えたのだ。
「――え?」
「凜くんの瞳に、星がある。ひょっとして――」
愛稀は凜の身体から離れ、慌てて洗面所へと駆けこんだ。鏡で自分の目をまじまじと眺める。鏡の中には、うるんだ瞳にたくさんの星をたずさえた自分の姿があった。
(やっぱり――私の目にも星がある)
次に愛稀は左腕を前に出し、手を開いて、何かを掴みかけるようなポーズを取ってみる。薬指のつけ根のあたりに、キラキラと輝く星が見えた。近い将来、凜が買ってくれるであろう結婚指輪だ。彼に抱かれながら、その手は何度も星を掴もうとして空を切っていた。けれども、彼女はじきに本当に星を手にしようとしている。
愛稀ははたと気づいた。
(そっか、人は星になることはできなくても、自らに星を宿すことはできるんだ――)
愛稀の胸がじんわりと熱くなった。嬉しさに自然と涙が溢れてくる。
夜空に星が見えなくても、それは今まさに自分の中にある。
そして、手にしたひとつひとつの星のカケラ。それこそが、その人にとっての幸せの形なのだ。
年末・年始に時期相応の短編を書こうと思い書き始めたのですが、大幅に執筆期間が伸びてしまいました。まあ、想定の範囲内です ♪~( ̄ε ̄ )
要は、ひと組のカップルが結婚を決めるというお話でした。
今回の主人公は、僕のシリーズ小説でもメインどころを務めることが多い、凜と愛稀のふたりでしたが、せっかくなので、別のキャラクターのエピソードも書いてみたいと思っています。鶴洲トモエ (友恵) が大人になった時の話とか、マオの後を継いで祈祷師となったイチコの話とか面白いかも。
別の作品の執筆状況に応じて、書けそうなら書いてみたいと思っています。
その際はどうかまたよろしくお願いします。