宇宙人がやってきた!
くっくっく。ついに、この時が来たのだな……!
苦節十年、ついにオレの時代が来たのだ。ああ、長かった。あの辛い薄布だけを纏って靴磨きをしていた時代、歯を食いしばって耐えた、耐えた、耐え抜いてきた!!
寝る間も惜しんで夜中やっている店のバイトだってやったし、朝一番で情報ペーパーを配り走った。空気圧バイクなんて高価なもんはオレにはなぜか支給されなかったから、おれはチャリンコで頑張った。すげー疲れた。一般家庭で先生をするバイトは時給がべらぼうに高かったが、教える家のいたずらっ子にいつも泣かされたのも今では良い思い出だ。
目の前のチケットと身分証明書を見ると自然と顔がにやけてきてしまう。
『片道 地球行き』。
『宇宙川 仁助(20)』(写真付き)。
今日からオレの新しい人生が幕を開けるのだ。
路上でライブをしていたら下手くそだのくたばれだの町の騒音だの散々言われ続けてきた。今からそんなことを言ったやつらを見返してやる。
オレ、ウチューカワ・ジンスーケは、地球で歌手になるっ!!
◆◇◆
時は西暦二二〇一年。
緑豊かな都市国家ニッポン。町を歩けば目に飛び込んでくるのは、円盤型の空を飛んでいる宇宙船だ。見た目は宇宙船と言うより巨大なUFOである。
この国で、高名な発明家によって宇宙に浮かぶ無数の星との連絡を可能にし、ついには行き来もできるようになったのは今から十年ほど前のことだ。宇宙を超えるのは高額になるが、今では、頻繁に宇宙人と地球人とが交流をする時代になっている。
この緑豊かなニッポンという国に、空気圧バイクなるものや、話をし、スケジュールを把握するロボットが宇宙の星星から送られてきた。それに対してニッポンからは農業の発達した知識や苗――例えば植えれば三十年は収穫し続けられる枝豆を育てるにはどうすればいいのかという知識やその苗、一度受粉をすれば時期が来ればなり続けるスイカの苗などを提供している。
今もまた、どこかの星からの一隻の宇宙船が発着場に近づいてきた。
白い円盤型の宇宙船が発着場に降りてくる。
守山柚葉の頬にも少し冷たい風が吹きつけた。柚葉は急に強くなった風になびく、肩甲骨くらいの長さの黒い髪を右手で押さえた。
横に立っていた友人の立木奈菜が抱えていた、「第14回音楽部演奏会のお知らせ」というチラシもバサバサと音をたてた。二人は同じ大学の二年生だ。今は二人が所属している部活の演奏会の宣伝でチラシ配りをしている途中なのだ。街行く人たちに片っ端から宣伝して回ってこいというのが二人を部室から外へと追いやった部長の言だ。
宇宙船が無事着陸すると、奈菜は茶色いショートヘアを片手で直しながら柚葉に向かって笑って見せる。奈菜のカラーコンタクトをしている茶色の瞳と、柚葉のもともと茶色い瞳が交差する。
「今度はどこの星からのお客さんかな~?」
「さあ。あ、あれじゃない。S-マアディーム」
「地球から一番近い星だっけ。あ、お客さん出てきたみたい」
奈菜は宇宙船の方に近づいて行く。柚葉は奈菜が何をしたいのかが分かり、後について行った。宇宙から来たお客さんにチラシを渡すつもりなのだ。
柚葉たちの演奏会は地球の人間だと見るのに百円かかる。それが、宇宙から来た人たちが見る場合は無料なのだ。ただし身分証明書が必要になる。
宇宙から来て一月以内であればその身分証明書で必要なものを買うのに全て事足りる。その間はそれぞれの星の役所が事前に蓄財しておいた電子マネーで賄うのだ。ただし、一月以上滞在する場合は、どこか働き口を見つけてニッポンのお金を用意しなければならない。そう決まっているのだ。なので、違う星で一月以上暮らそうとするには、一から稼ぎ直しをしなければならない。
地球人の場合演奏会はたかが百円だが、お金を払って見に行くのなら見に行かないことを選ぶ人もいるだろう。対して宇宙人ならタダ、タダなら行ってみるかという気になるかもしれない。ということで、奈菜はターゲットを宇宙人にしたのだ。
柚葉と奈菜は部長に言われた通り、チラシを手当たり次第に宇宙船から降りてきたと思われるすれ違う人に配って回った。
「一週間後、文化ホールで演奏会をやります。宇宙から来た方は無料なので、お時間ありましたらぜひいらしてください」
「よろしくお願いしまーす」
「演奏会だと? 歌うのか?」
無反応で、あるいは会釈をしながらチラシを受け取っていた宇宙からのお客さんが大多数だったが、突然心地いいバリトンで話しかけられた。
柚葉が振りかえると、そこにはチラシを真剣に凝視している一人の青年が佇んでいた。
青のような水色のような、紫のような……寒色系には違いないが、光の当たり具合で色が違って見える肩の長さの髪に、群青の瞳、すっと鼻筋が通っていて、切れ長の目、全体的に人目を惹く容姿の青年だった。
柚葉は、目を瞬かせながら、頷いた。綺麗だが、光の下で見る青年の髪の色は眩しすぎて目に痛い。
「そうですね。三部構成になっていて、全てのステージで歌います。一部は合唱、二部は重唱独唱、三部は物語に合わせて合唱や重唱独唱を。絵本を読んでいるような感じで、物語は進んでいきます。物語を読む人がいて、歌う人がいます」
「……仕方ないな。行ってやる。ハッハッハ! 将来大物歌手のオレが来るのを楽しみに待っているんだな!」
「……はぁ」
この宇宙人、変な宇宙人だ。柚葉はそう思った。そう思ったが、できるだけ顔に出さずに、お待ちしています、とだけ伝えた。こういう人とは関わりを持たないうちに遠くへ逃げた方がよい。
目印などふんだんに織り交ぜたできるだけ分かりやすく書いたと思っている地図を見ながら、その青年は文化ホールに行くにはどう行けばいいのかと訊いてくる。柚葉は地図があります、と答えそうになるのを必死でこらえ、懇切丁寧に説明した。お客さんにはできるだけ優しくしておいた方がいいだろう。
説明を聞き終えた青年は、オレが来るまでよっく練習しておくんだな、と言い残して去って行った。
なんだかどっと疲れて、柚葉は呆然とその場に突っ立っていたが、奈菜が抱えていたチラシを配り終えて近づいてきたのを見てはっと我に返った。いけない、ぼうっとしている場合ではない、大事な任務の最中なのだった。
「こっちは終わったよ~」
「お疲れ。ごめん、私はまだ残っているんだ」
というのも、先ほどまであの宇宙人の青年にかかりきりだったからだが。
「いいって。手分けして終わらせよう」
「ありがとう」
柚葉の持っていたチラシを半分にしてから二人はまたチラシ配りに勤しんだ。
二人が見た宇宙船から来た宇宙人のお客さんは多かったらしく、チラシ配りは三十分もかからないうちに終わった。
だが宣伝を終えた二人はまだ忙しい。部室に帰れば、歌の最終仕上げで確認事項は山ほど出てくるだろう。二人とも演奏者なのだが、部員数が少ないためこうして宣伝に駆り出されたのだ。
「戻ろうか」
「そうだね」
二人はどちらからともなく言い歩きだした。柚葉は帰る前になんとなく宇宙船の方を見る。もう宇宙船から降りてくるお客さんはいなかった。
本番までの一週間は練習ずくめの日々だった。
柚葉は大学の講義を終えると、部室に直行する。今の時間は午後の三時だから部活が始まる六時までの三時間は練習できるだろう。何といっても明日は本番である。指導してくださっている教師の都合で本番と同じようにやるゲネプロは昨日済ませた。教師から指導を受けた箇所は今日中に納得のいくようにしておきたい。
レッスン室で発声練習をして、注意された箇所を練習していたら、あっという間に三時間が経った。柚葉は部室に向かうべく、少し狭いレッスン室を出ていく。
明日は日曜日である。どのくらい演奏会にお客さんが来るのか分からないが、来てもらう以上はできる限りいいものを聴いてもらいたい、観てもらいたい。そういえば、あの、偉そうに高笑いをしていた目に優しくない色合いの髪の青年は本当に来るのだろうか。ふとそんなことを考え、掲示板の前で水を飲み、喉を潤した。
その日は遠し稽古を一回やって部員たちで意見を言い合い、その後は歌の確認に入った。
柚葉は一部、二部三部と全てのステージに出演するので、忙しい。この部活に入ってからまだ二年目だが彼女の声は素直で透き通っていると評判である。表現力などの技巧はまだまだ先輩には及ばないが、その歌は聴いている人たちを心地よくするらしい。
「お疲れさまでした」
「今日はよく休んでね」
「柚葉、一緒に帰ろう」
帰り道が同じ奈菜が柚葉に声をかけた。それに頷き、一足先に帰りの支度が済んでいた柚葉は奈菜がやってくるのを待つ。ちなみに二人は大学から上りの電車で帰るのだが、上りの電車で帰るのは二人の他にはいない。
おまたせ、と小走りでやってきた奈菜を迎えて二人は歩きだす。
「いよいよ、明日だね~」
奈菜が高揚した様子で柚葉に話しかけた。
「そうだね。私、今から緊張しちゃって」
「あはは。柚葉、全ステージ出ずっぱりだもんね。わたし、二部は出ないし。でも、大丈夫だよ。絶対成功する」
「……そうだね」
「そうそう! あ、演奏会といえば、普段は着られない衣装とかも楽しみだよね~」
「……衣装かぁ」
力強い奈菜の言葉に勇気づけられていた柚葉だが、次の話題、衣装のことが出ると、いきなりトーンダウンした。
彼女は色が白い。昔から白くて周りの人からみれば羨ましい限りなのだが、小学生の時に男子にそのことをしつこくからかわれて以来それをずっと気にしていた。夏になると焼こう焼こうとするのだが、いくら焼いてもただ赤くなり痛くなるだけで、秋、冬になると白く戻ってしまうのだ。いつしか彼女は肌を焼くのを諦め、できるだけ肌を出さないようにするようになった。
演奏会で、その肌を露出するドレスを着ることは彼女にとっては苦痛でしかなかった。一部の衣装は長袖ブラウスに踝までの黒いスカートなのだが、二部三部のドレスは、裾はそんなに短くはないのだが、ノースリーブで腕が全て出てしまうデザインなのだ。ドレスはこういうデザインのものでと決まっていて、衣装班が以前に使ったドレスを合わせたり適当に人数分部費で買ってきたりしてしまったのだ。一人だけ我がままで着ないわけにはいかなかった。
「……あ、そっか。ごめんね。わたしからみれば色白くて羨ましいけどな」
「ううん。こっちこそごめんね。大丈夫。実際歌っちゃえば気にならなくなる程度だから」
数秒黙り込んでしまった柚葉を見て、察した奈菜は謝ってくれる。柚葉はそんな彼女に笑顔を向けるが、内心衣装のことを考えないようにしようとするので必死だった。歌は好きだったので、克服したいと思っている。
演奏会当日は見事な冬晴れだった。カラッとした気持ちのいい空気を吸い込むと、まるで肺の中の空気を丸ごと浄化してくれるかのようだ。
午前中はリハーサルをして午後はいよいよ演奏会本番となる。
柚葉たち部員は会場設営に没頭した。文化ホールには備え付けのロボットがあるので受け付けは彼らに任せることにする。ただ、ドアマンや照明、音響、ビデオなどはスタッフを臨時で募った。部員の友人に頼んだり、院の試験で演奏会に出られない先輩に頼んだりした。
リハーサルで最後の指導を教師から受け、緊張でお腹が空いていないが昼食を食べる。
開場の時間になると、ぽつぽつと観客が入ってきたのが分かった。どうやら受付のロボットは上手く動いてくれているようだ。そして一時間後、とうとう幕は上がった。
演奏会の構成は三部構成になっていて、第一部は合唱ステージである。古今東西の歌を――それこそ地球の歌ではない、違う星の歌も混ざっている――部員全員で合唱する。第二部は、独唱、重唱ステージである。部員の中から数名が選ばれてミュージカルやオペラの一部分を切り取ったところを歌と共に少しだけ演じる。そして第三部は歌と物語がセットであるものを合唱や重唱や独唱で、演奏するステージである。ナレーションを読む人がいてその間に演奏が入るのだ。
ステージに下座から出た柚葉は観客が思っていたよりも大勢いたことに、驚きそれと同時に喜んだ。あの宣伝の効果なのかは判然としないが客席の三分の二以上埋まっていた。半分観客が入ればいいだろうと思っていたので、予想外の嬉しさだ。
柚葉は、観客の入りの効果もあってか歌を歌うことに夢中になり始めると、二部、三部とドレスの腕が出ていることを気にしていないかのように、歌い続けた。実際柚葉は歌い始めると歌うことに集中するので、肌を露出する苦痛は、ステージに上がる直前までのことなのだ。
柚葉は他の人が観ていても分かるほど、普段より表現豊かに一つ一つの歌を歌いあげていく。第二部ではミュージカルの重唱に出演したのだが、共に歌った相方とよく合いハーモニー心地よく歌い終わる。第三部では独唱に一曲出たのだが、伴奏のピアノとも調和がとれていて、力強く歌うところは力強く、繊細に歌うところは繊細に、ここはこうしてほしいという思いに応えてみせた。
自分でも思ったが、この日の柚葉はいつもよりも調子がすこぶる良かった。
◆◇◆
――なんだ、この感覚は……!
真ん中より少し後ろの客席に座っていた一人の客が、今歌っている少女の歌声にうち震えていた。
こんな感覚は生まれて初めてである。鳥肌が体中を駆け巡る。
客は思う。オレも歌手を目指して、路上で歌い続けてきたが、もしかしたら自分よりも上手いのではないだろうか。なぜなら、今、まさに、自分のハートが感動で震えているからだ、と。
まるで、そう……。まるで一匹の白豚が降臨してきたようである。彼の星では白豚は神聖な動物として崇め奉られていた。音楽の神として。
だが、だが、自分も負けていないはずである。あの十年は無駄ではなかったと信じたい。辛い思いを乗り越えて、歌手になるという夢だけを追ってやっと地球にやってこられたんだ。彼は、拳を握って口の端をわずかに上げて、歌い続けているまだ名前も知らない少女の歌声にじっと耳を傾け続けた。
◆◇◆
盛大な拍手で演奏会は幕を閉じた。
その後は、会場の片づけが待っている。観客が全て外へ出ると、柚葉は受付ロボットを回収しにドアの外側へ向かった。丁度抱えられるくらいの大きさのロボットを両手に持つ。そして、ドアの内側へ入ろうとしたその時――。
パシッと後ろからむき出しになっていた右の二の腕を掴まれた。
「きゃ!」
全身に震えが走り、危うくロボットを落としてしまうところだった。このロボットは宇宙からの寄贈品で落として壊してしまったら、どう弁償していいのか分からない。慌ててロボットを抱え直し、柚葉は後ろを振り返った。
「お前だな!?」
「はい? ……あ!」
そこには、あの髪の毛が目に痛い柚葉がチラシを配った青年がいた。目を見開く柚葉に青年は偉そうにふんぞり返る。
「なかなかだったぞ」
「……それは、ありがとうございます」
「オレの名前を訊きたいだろう」
「……いえ、別に訊きたくない――」
唐突な言葉に柚葉は何とか離れようとしたが、生憎右の二の腕を掴む手は強かったので、身をよじっただけだった。
「オレは、宇宙川仁助だ。年は二十歳。出身はS-マアディームだ」
「はあ……」
特に訊きたくなかったが、青年は勝手に名乗ってしまった。そして、そのまま黙ってじっと柚葉の顔を見つめる。柚葉は何なんだと思って、うつむいた。なんとか手を離してほしかった。
「……お前は?」
「はい?」
「お前の名前だ。オレが名乗ったんだから、名乗るのが礼儀だろう」
「……守山です」
「下は?」
「……柚葉です」
会場の片づけがまだ途中だ。もう行っていいかと訊こうとした時、宇宙川仁助と名乗った青年は柚葉の腕を掴んでいない方の手で拳を握った。そして、柚葉、と一息置いてから、
「オレと歌の勝負をしろ!!」
わけのわからないことを言いだした。
「はあ!?」
柚葉はあまりの展開に素っ頓狂な声を上げた。
「オレはお前の歌に真に感動したぞ! だが、オレも歌手を目指す身だ。お前に負けてはいられない……! それを証明するために、オレと歌の勝負をしろ!」
「い、や……いやいやいや。意味が分かりません! どうして、あなたが歌手を目指す上で特に何の関係もない私があなたと歌の勝負をしないといけないんですか!? 嫌ですよ」
「む、逃げるのか!?」
「逃げるとかじゃないです! 私、やりませんから! 会場の片づけの最中なんです。手、離してください! それじゃあさよなら!」
柚葉はさっさとこの場を去ろうと、回れ右をして一歩を踏み出した。
「せっかく白豚が降臨したと思ったのにな」
「……今、なんて言いました?」
柚葉ぴたりと歩くのを止めて、どす黒いオーラを漂わせ始めた。しかし仁助の方は、今の言葉のどこに怒る要素があったのか全く分からない。仁助は諦めとちょっとした褒め言葉のつもりで呟いたのだ。
そんな事とは知らない柚葉は、仁助の方に近づいてくる。それもとても怒った様子で。
「今、『白豚』って私のこと言いました?」
「ああ、言ったぞ。それがどうした?」
「……どうしたですって!? いいわ。さっき言っていた勝負、受けるわよ」
「本当か!?」
「ええ。日時は明日の午後三時で。勝負の内容はそちらに任せます。……本気で勝負です!」
「よし! そうこなくちゃな。場所は、そうだな……文化ホール前でいいか。ハッハッハ! 楽しみにしてるんだな!」
打ち上げで話を一通り聞いた奈菜は、あまりの展開に唖然として柚葉を見つめた。
「……いくら『白豚』が嫌だったからって勝負に乗ることはなかったのに……」
「……私も今はそう思っている」
肩を落とし、カクテルをちびちびと飲む柚葉は早くも先ほどの自分の言葉を後悔し始めていた。しかし、あの時は『白豚』と聞いた時に我を忘れてしまったのだ。そして、気がつくと勝負をすることに決まっていて、去っていく仁助を呆然と見送ることになっていた。
「とりあえず、明日、もう一度文化ホール前に行ってみるよ」
「わたしも行こうか?」
心配してくれた奈菜が申し出てくれた。
本当はまだ仁助がどんな人物か分からなかったし、勝負の内容も分からなかったので心底来てほしかったが、柚葉は知っていた。奈菜が明日彼氏とデートの約束をしていたことを。演奏会が終わるまでは演奏会が優先だったので久しぶりのデートだということを。そんな二人の邪魔したくはないので、柚葉は丁重に断った。すると気をつけてね、と何回も言われたのだった。
今日は演奏会の翌日だ。普通に大学はある。だが、部活はない。
柚葉は寝坊してしまいそうになって、慌てて飛び起きて準備をした。昨夜は家に帰れたのが夜の十一時だった。そのあとにお風呂に入ってすぐに寝た。それなのに目覚ましを止めて寝ていたようだ。こういうときに一人暮らしというのは大変だと思う。大学から電車で三十分ほど離れたところに家を借りたが、もう少し近いところに借りればよかっただろうか。
朝の準備を今までの最短記録でやりきり、柚葉はいつも持ち歩いているウォークマンを持ち、楽譜をふと見る。今日は部活がない日だが、なんとなく楽譜を鞄に入れ鞄を持って外へ出た。
「よく来たな!」
時刻は午後三時の十分前、十分前行動で文化ホールまで来た柚葉は両手を腰に当ててふんぞり返っている仁助の姿を発見した。一体いつから待っていたのだろうか。
しかし、いらないことは訊かない。柚葉はこんにちはと一声かけてから、仁助に問いかけた。
「それで、勝負をすると言っていましたが……」
「そうだ! ずばり! 歌の勝負だ!」
「それは、もう分かっていますが」
「む……。そうか。そうだな。具体的に言うとだな、ここで歌ってどっちが観客を集められるか競うんだ」
「なんとも漠然としていますね……。わかりました。ちょっと待っていてください」
柚葉は文化ホールの中に走っていく。そして、少しすると、一体のロボットを抱えて戻ってきた。
「なんだ、それは?」
「これは『数える君』です。頭の上のスイッチを押すとそれをカウントしてくれるロボットです。これで、気に入ったらスイッチを押してくださいと張り紙をしておけば……大丈夫でしょう」
それと、ホールの職員にホール前で歌う許可を取ってきた。あっさり許可が下りたので安心する。
「そ、そうだな……よくやったぞ」
「じゃあ、私からでいいですか?」
「い、いいぞ」
では、と柚葉は文化ホールの前で歌い始めた。
道行く人たちはいったい何が始まったんだと一瞬びっくりしたが、数える君と張り紙を見るとなんとなく事情を察してくれたようで、ぽつぽつと数える君のスイッチを押してくれる人も現れた。
柚葉が歌ったのは、昨日第三部で歌った独唱だ。無伴奏だったので難易度がぐっと上がるが、何度も練習したので何とか歌い終えた。
「五回か……こんなものかしら」
押されたスイッチの数は五回であった。
歌った歌は物語の中で生きる歌であったし、ここは路上である。声の響きの問題もあるだろうし、忙しく行き来する人々の足を止めてまでスイッチを押させるのは難しい。五回も押してくれたのはありがたかった。
「つ、次はオレだな……!」
仁助は武者震いなのか一度震えると、大きく息を吸い込んだ。
次の瞬間――。
「――――!!」
なんとも表現しづらい、高い声でただ叫んでいるような歌を歌い始めた。まるでハウリング現象が起きているようだった。
仁助が歌い始めると、側を歩いていた人たちは両手で両耳を押さえて足早に去って行った。子供を抱いていた母親がいたのだが、いきなり子供がぐずり始め、一生懸命あやしながら歩き去る。目を閉じて歌っている仁助にはその光景は映っていないようで、より大きな声を張り上げて歌い続ける。
柚葉はいったい何が起きているのかしばらくの間理解できなかった。目の前で起こっているのは災害か。嵐か。仁助を中心にして良くない風が吹き荒れているかのようだった。
仁助は苦しげに騒音をまき散らしていた。
「やめろー!!」
「歌を止めてー!!」
誰かが叫んで、小石が飛んできた。
その小石が仁助の腕に当たって、仁助はとうとう歌うのをやめた。辺りは元の静けさを取り戻す。
数える君は一度も押された形跡はない。それを見た仁助はいびつに口元を歪めた。
「……フフフ……ハッハッハ。勝負はお前の勝ちだな」
――しかし。柚葉は思った。
「待って」
「……なんだ?」
仁助はやさぐれた様子で話しかけてきた柚葉を見返す。
「声に合ってないと思います」
「声に?」
「あなたの声はもっと低い歌が合うと思います……例えばこんな歌が」
柚葉はそう言って一曲のサビを口ずさんだ。それは仁助も知っている有名な歌手の歌だった。
「知っていますか? ト・オルトゥーメノンです。多分、この高さの歌を歌うのは初めてじゃないでしょうか」
「そういえば、そうだな……。いつも、同じ歌手の歌しか歌ってこなかった」
「私、今丁度楽譜とウォークマンを持っているので、知っているなら歌ってみてください」
柚葉が楽譜とウォークマンを渡すと、戸惑いながら仁助はウォークマンのイヤホンを耳に入れ、ト・オルトゥーメノンを口ずさんだ。すると、今まで感じていた苦しさが一切感じられない。声が素直に腹から出てくる感覚がした。初めはただ口ずさんでいただけだったのだが、次第に声は大きくなっていく。それでも先ほどまでのハウリング現象は見られず、ちゃんとした歌になっていた。
それを見ていた柚葉はなんだか楽しくなってきて、以前音楽部でやったト・オルトゥーメノンのハモリパートを口ずさむ。するとそれがぴったりとはまり、通り過ぎようとする人々の足をとめた。人々の輪はどんどん大きくなり、中には数える君に気付いた人もいてわざわざスイッチを押してくれる人も現れた。柚葉はその様子が一部始終見えていたが、楽譜にかじりついて歌っている仁助にはその様子は見えていない。見えたらきっと驚くだろうなと思い、前を見てほしくて柚葉は仁助の肩をトントンと叩いてみる。それに気付いた仁助は、周りを見てという柚葉のジェスチャーに従い、その人の輪に驚いて音を外しそうになった。なんとか立て直して、目を白黒し歌い続ける仁助に、柚葉は笑いかけた。すると、だんだんと口角を上げて歌い始めた仁助の歌はますます精彩を放った。
ト・オルトゥーメノンが終わると、わっと歓声があがった。
柚葉と仁助はおじぎでその歓声にこたえた。
数える君は十五回スイッチが押されていた。
「見てください。数える君は十五回です。でも、この観客の前じゃ数える君なんてもうどうでもいいですよね」
「……かった……」
「はい?」
「気持ち良かったと言ったのだ。オレは歌がこんなに歌っていて気持ちいいものだと知らなかったぞ」
目を輝かせている仁助を見ていたら、どうして歌手になりたいのか訊いてみたくなった柚葉は疑問を口にした。
「歌手になりたいって言ってましたけど、どうしてそう思ったんですか?」
「かっこいいからだ!」
なんとも単純な答えが返ってきて、柚葉は脱力してしまう。
「本当にそれだけですか?」
「そうだ。ああ、それとお金が稼げそうだからだな」
「……あまり否定する気はないんですが、それで歌手ですか」
それで本当に歌手になれるのかと心底疑問を感じた。
「オレは音痴だと思うか……?」
仁助はぽつりと声を漏らす。柚葉は自分が思ったことを言った。
「歌う曲次第だと思います。自分の声に合ってない曲を歌うと誰でも上手く歌えないと思います。さっきはト・オルトゥーメノンを歌っていましたけど、私は音痴じゃないと思いましたよ」
「……オレは、故郷ではずっと音痴だと言われ続けてきたんだ」
「……はい」
いきなり仁助の身の上話が始まり柚葉は多少戸惑ったものの最後まで聞くことにした。一曲一緒に歌った付き合いである。それくらいしてもいいだろう。
「路上ライブでは町の騒音だと言われて、石を投げつけられた。オレは音痴だ。でも、地球に行けばオレの歌を分かってくれると思っていたんだ。だからオレは必死に稼いで地球行きの切符を手に入れた」
「高かったんでしょうね」
「ああ、べらぼうに高かった。だけど、それでも良かった。地球で歌手になることがオレの目標だったんだ。休む暇なくバイトをして、路上ライブで歌の腕を磨こうとして……実際磨けなかったがな。そうしてここに来た」
「はい」
「最初は皆にオレを認めさせてやるって思ってたが、オレのこと、音痴じゃないと言ってくれたのは柚葉が初めてだった。それだけでいいと思った。それに、今は、他にやりたいことができた」
「やりたいこと?」
「ああ、柚葉、お前のおかげだ」
その言葉になんとなく嫌な予感を覚えながら、先ほどまでのシリアスな空気を一転し笑顔になり、またなとその場を去っていく仁助を見送ったのだった。
それから一月が経った。
「今日は、音楽部に新しい仲間が増えます」
部室内は部長の言葉にざわつく。柚葉は、こんな中途半端な時期に一体誰だろうと首をかしげた。しかし、演奏会は終わったし、ある意味、丁度いい時期なのかもしれない。紙パックの抹茶オレを飲みながらその新しい仲間とやらが姿を現すのを待つ。
「留学生の宇宙川仁助だ。二年生だ。よろしくな」
「!!」
危うく抹茶オレを噴き出すところだった。
現れたのはまさしく、一月前に歌の勝負をして別れたあの宇宙人、宇宙川仁助であった。
なぜ彼が平然と留学生と名乗ってこの大学の学生となっているのか。そして、この音楽部の部員になろうとしているのか。別れ際に嫌な予感はしたが、何もこんなところで再会しなくてもいいではないか。
「柚葉!」
「……な、なんで……!」
「下宿先を探すのに手間取ってこんなに時間がかかってしまったぞ。宇宙人専用の留学試験を受けてなんとか二年生になれた。オレに新たなやりたいことができたと言ったな。今のオレの目標は柚葉とグループを組んでこの部活でオレの歌の腕を磨くことだ。あんないい気持ちで歌えたのは生まれて初めてだった! よろしくな! オレが来て嬉しいだろう!」
「う、嬉しくない……! ていうか、どうしてこの大学を知っているんですか!?」
「そんなの、演奏会に行ったからな。パンフレットを見れば書いてあるだろう」
「…………!!」
ハッハッハと笑いながら、仁助は柚葉の肩をポンと叩く。
「これからもグループとしてオレと歌ってくれ!」
「グループなんて組んでないから!!」
部室に柚葉の大きな声が響き渡った。
お疲れさまでした。そして読んでくださってありがとうございました。