図書館で夢見れば
空想科学祭FINAL参加作品です!
遠い未来。
あるいは、とても近い未来。
いつでもどこでも手軽に読む事が出来る、持ち運びも簡単で一端末に何千冊、あるいは何万冊もの本が入る。便利な電子書籍が人々の間に広く普及してから一体何年が経過しただろうか。
いまや人は皆口を揃えて言う。「紙媒体の本なんか前時代の遺物だ」と。
最初は新聞だった。情報を最も早く、正確に伝える為に新聞は次々と電子化に参加を表明したのだ。パソコンのホームページと違う点はただ一つ。インターネットに寄らないと言う点である。勿論全てにおいてオンライン環境を使用しないという訳では無い。しかし電子新聞は一度配信されてしまえば、必ずしもホームページのように読むのにあたって常時オンライン環境にある必要は無いのだ。
次は、ライトノベルのような小説を主にしている文庫だ。大学を始めとする各教育機関に電子書籍端末が導入されたのをきっかけに、それらは早々に紙媒体に見切りをつけると足取りも軽く電子化に踏み切った。元々ホームページ上で買うことが出来る小説を用意していたのもその一因だろう。
同じ理由で漫画雑誌も電子書籍に移動し始めた。付録が少ないという身軽さもそれを後押ししていたのだ。
最後に高年層をターゲットにした時代小説や付録の多いファッション雑誌等、そして教科書。ついに電子書籍はデジタルディバイドをも乗り越え、公を動かすまでに至ったのだ。
公の弱みは、まず先駆者を作って世論に後押しされなければ重たい腰を上げにくい、と言う所である。よってほぼ先頭に近い形で端末を導入しておきながら、肝心のそれを使った授業をするに至るまでには多大なタイムラグが生じた。
それでも公の機関が動いたのだ。家だけでなく、学校にも端末を使った授業が浸透したこの時代、新しく生まれた世代は紙媒体の本を一度も見たことが無い者、見たことはあっても持ってはいない者がほとんどだった。
紙媒体の本は電子書籍に比べ手間もかかる上に扱いも難しいので、ただでさえ電子書籍より高価だった紙媒体の本は次々と絶版に追い込まれ、更に高価になっていった。
そう、一般人にはとても手が出せない程に。
それでも最初の方は図書館等が辛うじて紙媒体の本を買い集め貸し出しをしていたのだが、図書館に充てられる税金が徐々に減っていくにつれてそれも無くなり、ついには各地の図書館が閉館し始めた。
それは人々の興味が極限まで薄れたための、当然の帰結である。
そして図書館はたった一つだけになった。
「返却お願いします」
『了承しました』
腕一杯に抱えた本をどさりと返却カウンターに置く。
いつ見てもカウンターで笑っている二十歳程の男の人は、笑顔のままてきぱきと本の返却作業をした。
返却作業はパソコンを使わない。IDを持った人が本を返却カウンターに置くだけで成立する。
貸し出し作業はもっと簡単だ。IDを持った人がその本を持ったまま外へ出るだけでいい。
IDは、生きている人間なら誰でも持っている。出生届けを出す時に、まるでバーコードのように全ての人に特殊なインクで印刷されるのだ。それはBCGの注射のようなもの。番号は一生、変わらない。
『返却期限も過ぎていませんね』
それでも一通り確認したその人が、言う。
その声は人間のようで、人間でない。
それも当たり前だろう。彼はAI搭載のアンドロイド。人間ではないのだから。
図書館で働きたいという人は今やほとんどいない。誰も来ないカウンターで一日中座っているだなんて、そんな仕事、誰だって嫌がる。
「今週は誰か来ましたか?」
私は訊いた。答えは変わらないと知りながら。
『いいえ。いつもの通りユメミさんしか……』
想像通り、彼の首は左右に振られた。
「……そうですか」
ふう、とどちらからともなくため息をつく。人間が作り出した存在だとて、その知能は人間さえも凌駕する。それは感情さえも、然り。
彼は寂しくないのだろうか。退屈ではないのだろうか。
思えども、口にはしない。どうしても私には彼が人間であるように思えて仕方がない。真っ青な髪など、紺色の目など、人間にあるはずがないのに。
そこまで考えて、私はそんな思考を振り払った。今はそんな事を考える時間じゃない。
私は笑って言った。
「じゃあ、この図書館は今週も私が独り占めですね、司書さん」
『ええ、そうなりますね』
ぱちり、と彼は瞬きをした。
私は彼を司書さんと呼んでいる。最早無くなって久しい職業。
私が小さい頃、なりたかった職業。
『ユメミさんは今日もお婆様のおつかいですか?』
首を傾げる、彼。
「はい。でも、私も読みたいので……」
今日一日はここにいます、と言う。
『ああ、ありがとうございます。では心ゆくまでどうぞ。この図書館にはまだまだ本が眠っておりますので。ユメミさんもしばらくは退屈をしのげるかと』
ふっと表情を緩めると、彼は言った。
ユメミとは私の名前だ。正確には、夢見。
未熟児だった私は、ずっと保育治療器の中にいる間まるで夢を見ているように笑っていたらしい。それを毎日のように見ていた祖母が決めた名前。
「ずっと夢を見続けられますように」なんて、そんな願いは叶うはずが無いのに。
そんな祖母は今、認知症に罹っている。
個人個人の症状が細かい所でそれぞれ違うあの病気に罹った祖母は、その病気に罹った大多数と同じように、ゆっくりと全てを忘れていった。
ふと私の脳裏に「緩やかな死」という言葉が浮かぶ。
その通りかもしれない。全く、祖母の状態はそれ一言で表せる。
人間の人格形成上において最も大切なのは思い出、経験だ。それが無い人は、果たして生きていると言えるのだろうか。
壊れゆく思い出と共に歩いている祖母は、今ゆっくりと死んでいっているのではないか。
後には祖母だった人形だけが残る。
そんな未来を想像して、私の背筋は薄ら寒くなった。
でも、彼女はまだ「生きて」いる。
だから、私がこうやって図書館まで足繁く通っているのではないか。
しばらく病気が進んだ後、小説を読むのが好きだった祖母は本を求めた。それまで電子書籍で我慢できていたのが、できなくなった。
祖母は、どんなに病気が進んでも本に関することだけは忘れなかったのだ。
いや違う。他のどうでもいいことをあらかた忘れ去る代わりに、本に関することだけを頭の中に留めたに違いない。
それに気付いた時、私は落胆するような、安心するようなおかしな気分になった。
きっと、それは祖母が祖母でなくなって行く中で、しかし彼女の彼女らしい所がまだ残っている事から来た気持ちだったのだろう。
彼女は強く強く、紙媒体の本を求めた。
母や父や叔父や伯母や従兄妹や兄弟、つまり親戚は皆ことごとく困った顔をした。困った顔をして、祖母に溢れるほどの端末を与えた。しかし、祖母はそれらに見向きもしなかった。
「本が欲しい、本が欲しい」
うわ言のように呟き続ける祖母はあまりにも哀れだった。
そして、祖母をそんな風にした病気と祖母の望みを叶えようとしない親戚に向けて、私は怒りを覚えた。
名前をつけてもらった恩もあるのかもしれない。気が付けば、私はたくさんの「本」がある場所を調べまわっていた。
それはすぐに見つかった。日本最後の図書館なんて大仰に銘打ってあるそこは、幸いな事に電車の駅を二つ程隔てた向こうにあった。
それからは毎週土曜日に私がその図書館で本を借りてくる事になった。
お婆さんのためだから、と笑顔で私に「面倒臭い」役目を押し付ける大人たちなんかいなくなれば良いと思った。
祖母の顔は本を読んでいる時だけ、まるで夢を見ているような笑顔になる。
もしかしたら、保育治療器内の私の笑顔を見ている時の祖母の気持ちも、こんな物だったのかも知れない。この笑顔を見るためなら何でも出来る、そんな気分。
ただ、それを知る事はもう叶わない。それは本人でさえも。
「……はぁ」
ため息を吐く。本日二度目のそれは、沈んだ私の気持ちを何よりも代弁しているように思えた。
そんなため息を軽く無視して私は図書館内を闊歩する。誰にも邪魔されない=至福の一時ではないけれど、それでも親戚たちといるよりは一人のほうが、一人でいるよりは祖母といるほうが幸せなのには違いない。
じんわりと胸の奥に広がる嬉しい気持ちの分量でそれを判断した私は、背の高い本棚の陰に隠れる閲覧スペースへと歩を進めていった。
当然、閲覧スペースには誰もいない。
時折ぱらりとページのめくれる音が響くのみである。
かなり分厚いファンタジーのハードカバーのシリーズ物。図書館に来る度に私はこのシリーズを広げる。
タイトルは「光の剣を取れ!」。交通事故に遭い、異世界に転生してしまった男の一生を描いた作品だ。一時期、このシリーズのように「異世界転生・トリップ」というファンタジーの一ジャンルが社会現象になるほど流行ったことがあったらしい。
確かに、誰もが一度は夢見る変身願望を無理のない範囲で叶えているような気もする。まあ、気がするだけだが。
シリーズ物と言っても三・四巻で終わるようなものでは無い。全十五巻。ハードカバーで十五巻は中々壮観だ。今広げているのが十三巻なので、もう少しで読み終わる計算。
なぜ借りないのか、それは愚問である。
一週間で出来るだけ祖母に好きな本を読んでもらいたいからに決まっている。
祖母は私のようにシリーズ物をあまり好まない。代わりに、作者読みをする。塗り絵に色を塗るように同一作者の作品を全て読み終えてから、次の作者へと移るのだ。
料理の本でも、評論の本でも、絵本でも。
幸い図書館は貸し出し冊数に限りが無かったので何冊でも借りて帰ることが出来たのだが、やはり持って帰ることの出来る冊数は限られている。
なら、ここに来られる自分のことはさておいて、自由には動けない祖母にありったけの趣味を渡すのが得策だろう。
祖母は本を読むのが速いのだから、私が持って帰ることの出来る冊数など二、三日で読み終えてしまう。それからは本を何度も読み返してもらっているが、借りられる冊数を増やす為に持ち帰り用のキャリーバッグでも買おうかと思っているぐらいだ。
それにこれ以上減らして今でさえ十分とは言えない祖母の笑顔が減るのは嫌である。
私は読み終えた十三巻目を閉じた。ぱたんと小気味良い音と共に舞った埃に少し咳き込む。
何度も思うが、やはり人手が徹底的に足りない。たくさん人を配置するのは無理だとしても、カウンターに司書さんだけ、という状況はどうにかならないものか。
将来私がなるにしても、給料は限りなく低い。普通のアルバイトの二分の一、いや、三分の一と言っても良いぐらいに。
やはり図書館は人々から求められていないのだろう。一概に給金に全てが表れるとは言い難いが、それでもこれは低すぎるような気が、する。
少し、汗が出てきた。気付けばもう六月も半ばだ。汗っかきの私には湿度の高い状況は鬼門である。本と同じように。
少しでも空調の効いている所へ移動しようと、私は十四巻と十五巻を手に館内を徘徊し始めた。
のが五分前。
私は早々に図書館を回り終えていた。
「と、いうわけでここにいさせて下さい」
今までの経緯をさくっと説明した私。
『はい、どうぞ』
司書さんが場所を空けてくれる。
ここというのはカウンターの中のこと。まだ人間がカウンターに座っていた時代のこと、ここに一日中座っていた人のために、ここは空調が一番効きやすくなっているのだ。と、汗だくになっていた私のために司書さんが説明してくれた。
私の身を気遣って、と一瞬考えかけたのだが、汗で本を濡らさないためだと思い至って少し落胆した。
まあ、涼しさの前には全ての問題は霞のごとく消え去るのだ。現在優雅に本を広げている私の額には一滴の汗さえない。快適である。
『もう少しですね』
司書さんが私の読んでいる本を覗き込んで言った。確かに、もう少しで十四巻目が終わる。
『一般の人が読む速度と比べて大分早いです』
「……そうですか?」
私は首を傾げた。今まで本を読むのが早いなどと言われたことはない。それは周りに本を読むような人がいなかったから、ということでもあるのだが。
『ええ。かなり前のデータになりますが、ユメミさんの速度はおよそ一般の人と比べて二倍……いや、三倍ほどでしょうか』
「へぇ、そんなに」
素直に驚き。本を読む速度というのはやっぱり慣れから来るものなのかなどと考える。
祖母のために本を借りに来るようになる前から、私は良く電子書籍を読んでいた。その時代からの蓄積が影響しているのかも知れない。
それにしても「かなり」前のデータか。昨今の現実を浮き彫りにするようなその言葉に、私はため息を吐きかけて、止める。
「これからのデータはどうなるんでしょうね」
代わりに吐き出した言葉に、司書さんは首を横に振った。
『それは私にも……』
わかりません。
言葉の続きを想像するのは容易だった。
ガラスの自動扉が、ウィンと小さな音を立てて開く。しかしどんな小さい音であろうと、この静まり返った図書館内部では良く聞こえる。その音に反応し、私は顔を上げた。もしかしたら人が来たのかも知れない。
「面倒だが実地調査だ。司書役、どけ」
当たりだ。人は来た。
来たには来たが、しかしその人物は司書さんの望んでいた「利用者」では無かった。
第一に、趣味の悪そうなオレンジ色のスーツ。前言撤回、いや、前言拡大。趣味が悪そうな人では無く、本当に趣味の悪い人だ。
第二に、頭の悪そうな鼻ピアス。しかも一個や二個では無い。見ているだけで気分の悪くなりそうな程の量が鼻腔内を押し広げ、我も我もと盛んに自己主張をしている。空気は良く通しそうだ。鼻の穴が一、二、三……。馬鹿だろう、この人。
第三に、下腹がだらしなく出ている。頑張ってごまかそうとしているようだが、ごまかし切れていない。良く見れば額も広い。髪を染めると頭皮やら何やらが傷付くと聞いた事があるから、きっとハゲないように髪を染めたりするのは我慢しているのだろう。
恐らく年は三十代後半から四十代前半と言った所か。働き盛りで脂ののってきた良いお年だと言うのに、一体何をしているんだろうこの人は。
まあ、その前に男が言った言葉と見せている髪……紙について考えてみよう。
『はい、どうぞ。ユメミさん、すみませんが少し横に寄って貰って構わないでしょうか』
「あ、はい」
と、したところで私は司書さんに言われたように少し横へずれた。勿論本は閉じてある。これから起こる事の顛末を見逃さないように。
「んあ? そこの小娘は何だ?」
まあ、当たり前のような質問。そりゃカウンターの中に利用者が座ってたら嫌でも気になるよね。
『図書館の利用者です』
「何で利用者がそこにいるぅ?」
当然の疑問。ただ、発音的にどこか危ないような。
「すいません、すぐ退きます」
なんだか面倒な事になりそうなので私はそっと席を外そうとしたが、
「待ちやがれ。説明しろ」
駄目だった。がしりと無骨な手に肩を掴まれる。
『管理員様、利用者にそのような言葉遣いは……それに、接触は』
「うっせぇんだよAI風情が」
びっくりするぐらい低い声が耳元で聞こえたと思ったら、急に肩に置かれた手が離された。
私が振り返る前に、がす、という鈍い音と共に司書さんが私の視界で尻餅をつく。
その勢いはかなりのものだったようで、周りの椅子も巻き込んで、それらは司書さんの下でがらがらと音を立てた。
「…………!」
もしかして……殴った、の?
私は信じられない思いでその管理員とやらを見た。
「で? てめぇは何でここにいるんだ? ああん?」
無理やりに合わされる視線。逸らそうにも逸らせなくて、怖くなる。
管理員が床に倒れている椅子を蹴った。反射的に身体がびくりと跳ねる。
「……わ、たしは、暑くて。落ち着いて本が読めない程暑かったから、一番エアコンの効きが良い、ここに」
管理員の一挙一動にびくびくしながら私がそう答えると、管理員は紙に何かしら書き込み始めた。
「ふん、成程な。よぉし、明日から図書館のエアコンは停止だ。電力が勿体ねぇ」
「なっ……」
この男は何を言っているんだ?
訳の分からないことに対する恐怖と言うものは強い。
私もその例外ではなく、その男を危険だと認識してから刺激しないように刺激しないようにと注意掛けていた緊張の糸がぷっつり切れた。
「何か文句あっか? てめぇもいつまでもいつまでもこんな所に来んなよ。いつまで経っても図書館が潰せねぇじゃねえか」
「文句って、そりゃっ」
自分でも驚く程、かすれた声。
「ああん?」
いきなり男の声のボリュームが上げられる。
びくりと大きく身体が反応したのが分かった。
目の前の男が怖くて怖くて仕方が無い。
紙媒体の本と言う物は、今やこんなにも非力なのか。
対図書館用にこんな人員を配置しなければならないほど、落ちぶれているのか。
浮かんでくる涙を必死にこらえながら、私は男が図書館から去っていくのを見つめるしかなかった。
『申し訳ありません、ユメミさんに恐ろしい思いをさせてしまって』
司書さんは男が帰ってから開口一番にそう言った。
ぺこりと綺麗に頭を下げながら。
司書さんが悪いのではないのに。
「私は、大丈夫です。だから頭を上げてください」
きっと悪いのは、いつまでも懐古趣味を引きずる私なのだ。
それを善しとしない社会なのだ。
『本当に、申し訳ありません』
最後にそう言うと、司書さんは頭を上げた。
今にも泣きだしそうな、どこか寂しいような表情をする司書さん。
本はそんなにも悪いのか。
本を読むのは、そんなにも悪いことなのか。
私には分からなかった。
その後読んだ本の内容は上手く頭に入って来なくて。
どことなく気まずい雰囲気のまま私は祖母のための本を持って図書館を出た。
ラッシュと重なったらしく、帰りの電車には人があふれていた。
どこを見ても電子書籍の端末、端末、端末。
私は自分の持っている袋の中の本を見た。
全て、十年以上前に出版されたもの。
素晴らしいまでに時代錯誤。
その内アンティークの店にでも並ぶであろう装丁の美しいそれらを見て、私はため息を吐かざるを得なかった。
きっとその時には、この本はもう実用されていないのだ。
『間もなく崎野、崎野です』
電車のアナウンスが流れる。
私の降りる駅だ。
実際よりも重たく感じる袋を不必要に高く持ち上げて、私は人ごみの中を家に向かって歩き始めた。
「おばあちゃん、楽しい?」
「んー」
一応の返事。
それすら既に上の空で、視線はずっと私の持って帰ってきた本に集中している。
それを見て私は、薄く微笑んだ。
少なくともここに本を必要としている人はいる。
本を読むのが悪いことかどうかは分からないが、それだけは今の私にとって救いだった。
自分のやっている行為が無意味なことでは無いと確認できるから。
「じゃあ私はもう戻るね」
「んー」
必死になって本を読み進める祖母の横に借りてきた本を並べ、私は彼女の部屋を出た。
決して広くは無い家の中、それでも祖母には立派な「部屋」が与えられている。
親戚にとって、家族にとって彼女は重荷だ。
足に絡み付いて、取ろうにも取れない重り。
ならばせめてその存在ぐらいは忘れてしまおう、という意図の表れが、この部屋である。
窓の小さい、二階の、鍵を掛けられる部屋。
それはきっと、監獄なのだ。
閉じられた世界の中、ただひたすらに本を追い求める彼女を親戚は哀れと言うだろう。家族はもう何も言わないかも知れない。
いずれにしても、私はそんな重荷に好んで付き合う酔狂だ。
世間一般から見れば、もう私も立派な「部屋」に閉じ込められても良い程であろう。彼女と二人、それが私の世界になる。
汚いものを見るぐらいなら、私はそっちを選ぶ。
本が好き。
活字が好き。
そして、優しい祖母が好き。
面倒は嫌い。
家族も嫌い。
そして、こんな世界が嫌い。
きっと私は生まれてくる時代を間違えたのだ。
一昔、二昔前にこうであれば私はいつまでも可愛い孫でいることが出来たのに。
認知症の祖母に本を届ける、感動的な少女であれたのに。
なぜ。
頭を振って暗い思考を掻き消す。
さあ、今からの私は孫ではなく娘、姪、姉、妹、そして友達だ。
「お母さん」
「……あら、夢見。おばあちゃんはもう良いの?」
「うん」
「あなたももうそろそろ疲れたでしょう、おばあちゃんのために本を広げるのは」
「ううん、大丈夫。楽しいよ、お母さん」
「そう? 無理しなくても良いのよ。書籍の端末が欲しくなったらいつでも言いなさいね」
「うん、分かった」
ひとつひとつ、母に頷く度に言いたかった言葉が胸の奥に溜まっていく。
これを吐き出せる日は、いつか来るのだろうか。
「お姉ちゃん」
「なあに、夢見。今忙しいんだから、後にして」
「うん」
「夢見お姉ちゃん」
「どうしたの? 由記」
「お姉ちゃんは何で本を読むの?」
「さあ、何ででしょう」
「それ、クイズ?」
「どっちでも良いよ」
「なら知らない。変なの。絶対こっちの方が面白いのに」
「ゆめみん、見て見て! 可愛いでしょこの新しい端末! ゆめみんも早く買いなよぉ」
「いいの。私は本で十分だから」
「え……あ、またおばあちゃんの話?」
「ううん。電子書籍より本の方が好きなだけ」
「ふーん」
そして、また一週間が過ぎる。
私は新調したキャリーケースを転がしながら、図書館に向かった。
一週間前に起こった出来事はまだしっかりと心に染み付いていて。
いくら洗濯しようとしたって、取れないのだ。
永遠の難題にはいまだ挑み続けている。
「……おはよう、ございます。司書さん」
一歩、踏み出す。
『あ……』
ウィン、と小さな音を立てて開いた自動ドアから見えるカウンターに、いつものように彼は座っていた。
『おはようございます、ユメミさん』
少し、フリーズしてから。
彼はまた、いつものようにそう返してくれた。
「今日はハンディな扇風機を持ってきました」
そう言って私はにこりと笑う。
「本に汗を付けたくありませんから」
『それは、ありがとうございます』
悲しそうに。
一瞬聞こえたのは気のせいでは無いだろう。
次の瞬間には嬉しそうな声に変わっていたけれど、やはり、彼は自分に責任があると思っているのだ。
「図書館がやっぱり一番落ち着きますよ。どんなに周りが変だって言っても。……あ、返却手続きお願いします」
『はい』
司書さんに本を手渡すと、彼は今度こそ一片の曇りも無い笑顔でそれを受け取った。
カウンターの中の椅子に座って広げるのは「光の剣を取れ!」の最終巻。
ハードカバー十五冊読破は自分でもよくやったと思う。
まだ、途中だけど。
あれ、展開が遅いな。もう最終巻なのに、まだ冒険の途中だ。
ここからどんなオチが待ってるんだろう。
最後のページを、めくって。
「…………は?」
私は目が点になった。
そこには「主人公たちの旅は、まだまだ続く!」の文字。
昔よくあった少年マンガの打ち切り文句。
それがどうして、この本に。
『ああ、ユメミさん。それは電子書籍の普及によるレーベル自体の電子移行化によって打ち切られてしまった小説ですね』
私の上げた声を聞いて、本を覗き込んだ司書さんが言った。
「電子移行化?」
『そのままですよ。そのレーベルは紙媒体から撤退し、電子書籍に全面移行したんです。それによって打ち切られてしまった作品も多々あるようで。それはその内の一つです』
すっ、と心に氷水が流し込まれたような痛みを感じた。
電子書籍に侵食されていく紙媒体を錯覚する。
「そんな」
これじゃあ作者が、何より私のような読者が浮かばれない。
利益追求の気持ちも分かる。
が、せめて当時出ている途中だったシリーズが完結するまでは待っていても良かったんじゃあ無かろうか。
もしくは共にシリーズを電子化するか。
それらが当時決して出来なかったとは、私にはとても思えない。
『寂しい事ですけれど、この図書館もユメミさんが唯一の利用者なので……もしかすると、閉館せざるを得ないかも知れませんね』
時折見せる寂しそうな顔で、彼はそう言った。
私は反射的に声を大きくする。
「そんなこと! だったら、だったらおばあちゃんは、本は……それに、司書さんはどうなるんですか?」
『私は図書館用に開発されたAIなので、恐らくはお役御免かと』
お役御免。
それは、AIを含め人間の手によって開発された機械類にとって最悪の言葉だ。
イコール、死。
その概念がある彼の胸中には、一体どんな思いが渦巻いているのだろうか。
「……私、ずっとここに来続けます。だから、閉めないでって言って下さい」
『それはありがとうございます。私も嬉しい限りです』
どこか現実感の無い彼の言葉。どこまでも綺麗な笑顔がそれを助長させる。
「ぜ、絶対ですよ! 私のおばあちゃんが本を必要としてるんです」
それは子供の我がままかも知れない。でも、私は目の前の彼が死にゆくと言うのをただ見送る事は出来なかった。
私が彼の生死を握っている可能性もあると言うなら、尚更だ。
でも、彼は私の顔を見て微笑むだけだった。
『また、来週来て下さいますか?』
夕方。
ラッシュに引っかからないように少し早めに図書館を出ようとした私に、司書さんはいつもより丁寧な口調でそう言った。
「……はい。来週でも、再来週でも。いつまでも来ますから」
言外に込めた意味は伝わっただろうか。
ただ、今となっては、一週間に一回しか来る事の出来ないのが悔しくて仕方が無かった。
ウィンと小さな音を立てて、日の光を反射したそれに阻まれた司書さんが見えなくなる。
蝉が鳴いていた。
普段は煩いだけのそれに耳を傾けてみようと思ったのは、気紛れなのだが。
ふと立ち昇る陽炎に、更地になった図書館を幻視した。
本の墓場。
浮かんだ言葉に対して激しく首を横に振る。
これ以上考えていてもしんどいだけだ。
帰ろう。
向けた背に立ち上る熱気が追い風となった。
「お母さん」
「なぁに? 夢見」
「本を読むのって、悪いことなの?」
「急に、何でそんなこと」
「……ううん、訊いてみただけ」
私は慌てて後ろを向いた。
本当は違う。
きっと、出かけたのだ。
溜まっていた、胸の奥の言葉が。
本を読むのは悪いことなのか。
それの答えはまだ出ていない。
答えが出るような問いじゃないのは何より自分が良く分かっていた。
それをいつまでも引きずって生きるのは辛いかも知れない。
でも皆、ひとつぐらいは答えの無い問いを持っていると思うから。
私が抱えた疑問がたまたまそれだったのだ。
いつの間にか、一生引きずる覚悟は出来ていた。
甚だしい時代錯誤と共に。
翌日、電子新聞が報道した。
日本最後の図書館、閉館。
それは日本全国の、世界全体のウェブサイトを一秒足らずで駆け巡り、そしてすぐに他のニュースに埋もれた。
皆が当たり前だと思った。
一人の少女を除いて。
一人の老婆を除いて。
そして、一人のAIを除いて。
紙媒体の本を読む者はもういなくなり、旧時代の歴史史料として、または好事家たちの調度品としてのみ存在するようになった。
それは人々の興味が極限まで薄れたための、当然の帰結である。
少女の祖母は施設に入れられた。もう手に入らない本を求めて暴れ、親戚たちが手におえなくなったからだ。
週に一度、見るに堪えない様子の彼女に、少女は面会に行った。
彼女が彼女で無くなって行くのをとても辛そうな表情で見て、時には涙を流す。
まるで、自分に全責任があるとでも言わんばかりに。
「……司書さん?」
あの日幻視した更地と寸分違わぬそこに、彼は一人立っていた。
『こんにちは、ユメミさん』
いつもの通り、いや、いつもとは違う寂しそうな笑顔で。
『申し訳ありません。私の責任です』
「あ、いえ、それは良いんです」
私はぶんぶんと首を振って、頭を下げかけた彼を元の姿勢に戻す。
そして軽く震える手を押さえ込んで、言う。
「……それより。無事だったんですか?」
そう訊ねると、彼はふうっと息を吐いた。
『ええ。電子図書館の管理でどうやら残されるようで』
苦虫を噛み潰すような表情をしたのは、一瞬。
『出来たらまた、読みに来て下さいね』
次の瞬間にはまた内面の読み取りにくいあの微笑に戻っていた。
幽霊では、無いらしい。果たしてAIが幽霊になるのかは疑問だが。
安心するように表情を緩めた私を見て、彼は少し首を傾げ、
『約束を守れませんでした。ごめんなさい』
青色が視界の下半分に広がったと思ったら。
彼は、深々と頭を下げていた。
それは今までのどんな物より人間らしくて。
少し敬語を崩したのも。
それがおかしくて、おかしくて、私はいつしか泣き笑いをしていた。
ひやりとした彼の手に触れて、握って、言う。
「私こそ約束を守れなくて、すいませんでした」
ああ、彼だ。私が毎日憧れて、親しんで、……きっと嫉妬していた、彼だ。
なら。
私は彼の手にカバンから取り出した物を握らせた。
『これは?』
渡したのは、栞。
「おばあちゃんが、作ってくれたんです。小さい頃」
そう言って笑う。悲しみを払拭するように。
『そんなもの、受け取れません!』
さっと表情を曇らせた彼が首を左右に振り、大きな声で。
「受け取って下さい」
そんな彼の目を見て、私は言った。
胸の奥がざわめく。
『でも』
逡巡したような彼に、奥の何かが取れた気がした。
「それに!」
彼の台詞を遮るように声を大きくする。
「おばあちゃん、言ってました。何にも分からなくなったと思ってたけど、それだけはずっとおばあちゃんが持ってて」
言葉を切って、深呼吸。
「私の話、病気に罹ってからもずっと聞いてくれてました。聞き流してると思ってたけど、ちゃんと分かってくれてました」
視界が揺らいだ。
いつのまにか涙でいっぱいだった目をこする。
「私、おばあちゃんに司書さんの話ばっかりしてて。最後に、面会に行った時、司書さんに渡してくれって。夢見のために作った栞だけど、渡してくれって、言ってました」
鼻水をすすった。
「司書さんとは会えないかも知れないって言っても、聞かなくって。司書さんに会えなくても図書館に置いてきてくれたらいいからって、おばあちゃん、図書館の建物が無くなったこともきっと知らなくって。私それにいいよって言っちゃったんです。図書館なんか、もう無いのに、守れない約束をしちゃいました」
もう話し声なのか泣き声なのか自分でも分からなくなっていた。
「おばあちゃんそれから昏睡状態でっ、起きてくれません! お医者さんはもう起きないって言いました! 親戚も、家族もおばあちゃんをいつ死なせるかで必死だし、私にも本の話題を出すなって、もう本を読むなって、おばあちゃんはもういないからって、わ、悪いことみたいに!」
『ユメミさん……』
「本を読むのってそんなに悪いことですか? 皆馬鹿みたいに電子書籍電子書籍って、言って! 本も読めない! こんな世界、なら、好きなことも出来ない世界、なら、生まれて来なかったら、良かった!」
『ユメミさん!』
大きな声。
驚いて私が黙ると、司書さんは今まで見たことの無いような険しい表情で言った。
『分かりました。頂きます。頂きますから、そんなこと言わないで下さい!』
「だったら。だったら、私はどうしたら、良いんですか! 図書館はもう無いのに! 私は、私は……」
後はもう、声にならない。
屋外で、人目につくということも気にせずに私は泣き叫んだ。
『ユメミさん』
「ぁい……」
ずっ、と鼻水をすすり上げた。
ぽんぽんと優しく背中を撫でてくれる彼は、どこまでも優しい声色で。
『落ち着きましたか?』
「……はい」
『それは良かったです』
背中から彼の感触が無くなるのを名残惜しく感じながら、私は彼の顔をちらりと覗き見た。
いつにも増して、真剣な顔。
『ユメミさん』
「はい」
『文章で世界を変えた人を知っていますか? あるいは、言葉ででも』
「……知りません、ごめんなさい」
『謝らなくても良いのですよ』
司書さんは目を細めると、少し話して良いですかと訊ねてきた。
私は迷わず首を縦に振る。
『では。……彼ら彼女らは一発信者である前に、一読者でありました』
一読者であった彼ら彼女らは、元からの頭の出来云々関係無くある共通点を持っていました。
それは「世界に対しての疑問」です。
大抵の場合疑問というものはその規模にかかわらず日に日に大きくなっていくものですが、それも例外ではありませんでした。
世界に対してのあまりにも大きな疑問。途方も無いと周りには馬鹿にされながら、あるいは自分の中にそれを溜め込みながら、彼ら彼女らはそれと戦い続けました。答えを求め続けました。膨れ上がって、今にも破裂してしまいそうな疑問を解消するために。
様々な困難と出会ったでしょう。しかし、彼ら彼女らは諦めませんでした。……いえ、諦められなかったのです。どうしても、生まれた疑問を掻き消すこと、忘れ去ることは彼ら彼女らには出来ませんでした。
そうして長い間心の中で蟠ったそれらは、ついに耐え切れなくなり出口を求めて暴れ出します。そのはけ口。それが、彼ら彼女らの言葉であり文章であったのです。
疑問とは、より多くの人がそれを考えることによって格段に解きやすくなります。彼ら彼女らの中から飛び出した疑問は、前述の通り言葉や文章に変化しました。そしてそれは人を動かし、世論を形成し、世界を変えたのです。
そして「世界に対する疑問」は、大方無事解消されました。
『私の話はここまでです。……ユメミさん、』
「……はい」
すっ、と、司書さんが息を大きく吸ったのがわかった。
『あなたの「世界への疑問」を文章にしましょう』
「え」
『あなたの考えを、外へ発信しましょう』
「何、を」
『私が断言します。……あなたには、世界を変える資格がある』
「そんなの、」
『出来るはずです』
まっすぐ、目を見られる。目を射られる。
そんな大それたこと。
言いかけて、それは喉に詰まった。
司書になりたいと願ったのは夢だったか?
本が好きだと思ったのは幻想だったか?
違う。
家族に、親戚に、時代に、世界に苛立ったのは嘘だったか?
違う、違う。
図書館には、いたくなかったか?
絶対、違う。
図書館を潰されて、悔しくはなかったか?
違う。ものすごく、悔しかった。
胸に溜まった言葉は、もう全部吐き出せたか?
違う、まだだ。まだ、残っている。
ユメミ。
おばあちゃんがくれた名前は、嫌いか?
違う、大好きだ。
夢を見ろ、夢見。
「……それをしたら」
やっとのことで搾り出した言葉はかすれていて。
『はい』
「それをしたら、世界は変わりますか」
『確実に変わるとは、断言できません』
目の力を緩めずに。
『でも、変えていきましょう。変わるのを待つのではなく、自分たちの手で』
「……はい」
『世界を、変えましょう』
すがすがしい笑顔で、おかしい世界の筆頭の場所で、司書さんは宣言した。
遠い未来。
あるいは、とても近い未来。
これは、そんな時代の出来事。
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