第一月
「へえ……」
人のいない静かな図書館で、俺は今までに無い読後感に浸りながら読んでいた本を閉じて元の本棚に戻した。
地球の歴史は、どうやら百五十年も前に呆気無く終っていたらしい。
だから、こんな月面基地なんて偏屈な居住空間に一万人もの人間が住んでいるのだ。
外に出た事は無いが、大人の話によると基地はさながらドームの様な作りらしい。
何しろ、この基地だけで生きる為に必要な食糧から娯楽の為に使う雑貨まで全てが抜け目無く揃ってしまうのだ。
つまり、人類は月面へ出る機会を自ら封印してしまったと言えるだろう。
だが、俺はというと外に広がる月面の景色が気になって仕方無かった。
十七年の間、常に無機質かつ巨大な鉄の壁を見ながら育って来たのだ。
俺以外にも、外の景色が気になっている奴は沢山いるんじゃないかと思う。
「要ここにいたの」
図書館の中を詮索していると、突然後ろから名前を呼ばれ右肩に手を置かれた。
「桔梗か。どうした?」
もう、後ろを振り向かなくても彼女の名前を忘れる筈は無い。
肩まで伸ばされた長い茶髪に、特徴的な蒼色の瞳を持つ昔からの幼馴染みだ。
「要、また私なんかの為に無理してるんじゃないかと思って……」
だが、桔梗は決して逃れる事の出来ない過酷な運命を抱えていた。
「ばか。約束しただろ?」
そう言いながら、桔梗の左目を覆い隠している小型の機械を静かに外す。
「少しでも早く、この義眼を卒業して普通の視力を取り戻させてやるって」
そう、桔梗の左目は原因不明の病で徐々に光を失っているのだ。
今は義眼を装着しているが、これは眼鏡の様に入って来る光を屈折させて映像に変換するという簡単な代物である。
言わば応急処置の様な物だが、左目の移植をしなければ、いずれは失明する。
それがもし右目に転移してしまえば、二度と桔梗の瞳に光が差し込む事は無い。
「だけど、そのうち臓器提供者が見付かるかもしれないから……」
桔梗は、まるで別れでも告げるかの様に哀しい表情を浮かべていた。
「要には無理して欲しく無いの」
「桔梗……」
だが、厄介な事にこの病気に蝕まれた者に普通の移植手術は通用しない。
無理に移植しても、型が合わなければまるで白血病の様に死ぬ可能性を伴った激しい拒絶反応を起こしてしまうのだ。
桔梗に合う目の持ち主は、病気が確実に進行しているにも関わらず未だに一人も見付かっていなかった。
「……桔梗、俺はお前を助けたいっていう俺の意思で行動してるんだ」
なだめる様に言い、外していた義眼をそっと桔梗の左目に装着してやる。
「俺は、自分の幸せの上に、お前の不幸を乗せるなんて事はしたくない」
と、不意に俺のポケットに入っている通信機から覚えのある声が聞こえた。
『玲音だ。要、応答願う』
それは、俺の友人であり桔梗の病気についての情報収集を手伝ってくれている玲音からの連絡であった。
「玲音さんから連絡?」
「ああ」
素早く通信機をポケットから取り出し、ONと書かれたスイッチを押す。
『要!大変だ!!』
「何だよ、そんなに慌てて」
いつもは冷静な玲音が、この時ばかりは何故か声を荒げて取り乱していた。
そして、次の瞬間通信機を通して玲音から発せられた言葉は驚愕の台詞だった。
『じ……実はな、桔梗さんの病気を直してやれるかもしれないんだ』
それは、手元の通信機に表示された印から計算して恐らく同じエリア内にある別の図書館からの発信だ。
「分かった」
それだけ言うと、俺はゆっくりと通信を切断してポケットへ通信機を戻した。
「桔梗、行こう」
「えっ?」
不安そうにする桔梗の手を引き、俺はすぐ側にある移動用の転送装置に入り玲音の待つ図書館へ目標を設定した。
「これだ、要」
玲音は、多少乱れた銀髪を整えながら目の前の机へ無造作に何かを置く。
そこに広げられたのは、人間の身近に群生している様々な種類の植物が書かれた分厚い図鑑だった。
そして、そのページには月面に群生している唯一の植物という記事があった。
「月生花……?」
玲音の指差す先には、月に群生している植物として『月生花』という名前の白い花の絵が描かれていた。
「まさか、この月面に植物が生えていたなんてな……驚いたよ」
「ああ、確かに……」
玲音の発見は、俺達の持っている考えを根底から覆す結果となった。
そう、今まで月面という場所は高度な化学技術を持つ人間ぐらいしか住めない場所だと思い込んでいたからだ。
「月生花。その絶大な治癒効果の為、乱獲が進み絶滅の危機に貧している」
と、それまで黙っていた桔梗が俺達の代わりに細かい説明を朗読する。
簡潔に、それでいてどこか希望に溢れている様な短い説明の文章だった。
もしや、この花が見付かれば桔梗の病気を直してやる事が出来るかもしれない。
俺の精神は、たった一つの希望に向かって行動を始めようとしていた。