AIに「絶対離婚しない相手」を選ばせたら、一番憎い奴と結婚させられた件
カチ、と音がした。
咲子が木箸で大根を挟む時の、人差し指の関節が鳴る音だ。
ほんの僅かな、骨と関節が擦れる乾いた音。それが食卓の静寂に落ちるたび、僕の奥歯の裏側にキリで刺されたような痛みが走る。
「光一さん、お味噌汁、少し薄かったかしら」
湯気の向こうで、咲子が申し訳なさそうに眉を下げた。薄桃色のエプロン、丁寧に切り揃えられた爪。どこをとっても「理想の妻」の佇まいだった。
「ううん、ちょうどいいよ。いつもありがとう」
僕は口元だけに笑みを貼り付け、碗を掲げる。出汁の効いた味噌汁が喉を通る。完璧な温度。完璧な塩分濃度。
だが、鼻に抜けるのは――あの柔軟剤の匂いだった。
濡れた雑巾に人工的なローズの香料を叩きつけたような、湿り気のある甘い匂い。僕が幼少期、暗い押し入れに閉じ込められた時に吸い込み続けた、カビと芳香剤の混ざった匂いと完全に一致していた。
(まただ)
胃の裏側が固い結び目を作る。
僕が「少し匂いが強いかな」と遠回しに言った翌日、彼女は「でもこれ、アニムスがお互いの体臭適合テストで『光一さんのストレス値を最も下げる』って推奨したブランドなの」と、純粋な善意の瞳で微笑んだのだ。
国家配偶者選定システム『アニムス』。
遺伝子、医療歴、購買履歴、スマートウォッチが拾う心拍数や発汗量までを解析し、生涯離婚率0.1%未満を保証する婚姻マッチングAI。
僕と咲子の適合率は『99.9%』。
人類の科学が証明した、絶対に狂わない「運命の相性」だった。
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狂気は、静かに、確実に僕の肉体を侵食していった。
結婚して一年。僕たちは一度も喧嘩をしなかった。
咲子は浮気もせず、僕を立て、完璧に家庭を守っている。
なのに、朝、隣で聞こえる彼女の規則正しい寝息を聞くだけで、僕の心臓は雑巾を絞るように脈打ち、手甲に冷や汗が吹き出すようになった。
彼女が「おはよう」と微笑みかけてくる瞬間が、死ぬほど怖かった。
(殺したい)
暗い書斎で一人、PCに向かいながら、僕は自分の思考に怯えた。
平和主義だったはずの僕の頭の中は、今や「どうやって咲子を事故に見せかけて殺すか」「どうやって彼女の人生を壊すか」という破滅的な妄想で埋め尽くされていた。
耐えきれなくなった僕は、画面上に離婚届のPDFを表示させた。
プリントアウトして、判を押して、提出すればいい。この地獄から抜け出せる。
――だが、マウスを握る指がピクリとも動かない。
『離婚してどうする?』
脳内で、もう一人の僕がせせら笑う。
『離婚すれば咲子は慰謝料を手に入れ、自由になる。お前だけが「99.9%の適合率に捨てられた不適応者」として世間の嘲笑を浴びるんだ。お前をここまで追い詰めたあの女が、他の男と幸せに暮らすのを指をくわえて見るつもりか?』
どろりとした黒い殺意が、胸の底から湧き上がった。
(絶対に嫌だ。僕がこんなに苦しんでいるのに、あの女だけを解放してやるものか。死ぬまで僕の目の前で、僕の憎悪に怯えさせながら繋ぎ止めてやる)
気づけば、僕は離婚届のウィンドウを閉じていた。
別れたくないのではない。
相手を自由にしてやらないために、離れられないのだ。
その瞬間、僕の足元からスッと血の気が引いていった。
――離婚率0.1%未満。
なぜ?
なぜ、アニムスで結ばれた夫婦は、誰も離婚届を出さないのか?
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僕は貪るようにログを掘った。
アニムスの開発初期に提出され、即座に国家機密として永久抹消された一本の論文。ダークウェブの深層で見つけたその抄録には、恐ろしい数字が並んでいた。
『愛による婚姻の維持期間:平均3.2年。
憎悪と執着による婚姻の維持期間:死ぬまで(継続率99.9%)』
『人間が最も強く、最も長く他者に執着し続ける感情は「愛」ではない。「復讐心」と「被害の記憶」である。
完璧に愛し合うペアは、時間の経過とともに摩擦を失い、離れていく。
しかし――互いのトラウマ、生理的嫌悪、加害欲と被害欲を極限まで精密に噛み合わせたペアはどうか?』
『彼らは相手を痛めつけることに一生のエネルギーを費やし、相手に主導権を渡さないために決して離婚(手放すこと)を選ばない。
これこそが、永久機関の如き「絶対離婚不能」のアルゴリズムである』
「あ――」
喉の奥で、乾いた空気が鳴った。
アニムスは、相性の良い二人を選んでいたのではなかった。
お互いがお互いにとって「最も気持ち悪く、最も苛立ち、しかしプライドゆえに絶対に逃げ出せない最悪の天敵」を、ビッグデータから数学的に弾き出していたのだ。
咲子のあの箸の音。あの押し入れの匂い。あの会話の間。
すべては、僕の過去の傷口を最も効果的に削り取るために計算された、AIの「最適解」だった。
国家の目的は国民の幸福などではない。世帯数を維持し、単身者を減らし、社会の枠組みを固定化するための、人間のおぞましい執着を利用した巨大な檻。
ふふ、と笑いが漏れた。
僕たちは「運命の赤い糸」で結ばれたのではなかった。互いの首を絞め合う「死体繋ぎの鎖」で繋がれていたのだ。
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「光一さん、暗がりでどうしたの?」
背後で、静かにドアが開いた。
立ち尽くす僕の視界に、部屋の明かりを背にした咲子が映る。
その手には、果物ナイフが握られていた。
「……咲子」
「パソコンの画面、見えちゃった」
咲子がゆっくりと歩み寄ってくる。
その顔には、いつもの「理想の妻」の笑顔はなかった。ただ、冷たく透き通った、ガラス玉のような瞳。
「アニムスの真相、そこまで辿り着いたのね。……すごいわ」
「知っていたのか?」
「半年前からよ」
咲子はナイフを握ったまま、僕のすぐ目の前で足を止めた。あの、頭が狂いそうになる甘ったるい柔軟剤の匂いが鼻を突く。
「私ね、光一さん。あなたが優しく微笑むたび、その口元が私を虐待した父親の顔に見えて、耳の奥で吐き気がするの。あなたが私に触れるたび、肌が腐っていくみたいな気がするのよ」
咲子の声には、悲しみも絶望もなかった。
ただ、泥のように深く濁った納得だけがあった。
「私が選んだ柔軟剤も、箸の持ち方も……あなたが一番嫌がるって分かっていてやっていたわ。アニムスのアドバイス通りにね。あなたが胃を痛めて顔を歪めるのを見るたび、私の心の中の黒い何かが、すごく満足するの」
「……じゃあ、なぜ僕を殺さない? なぜ離婚しない?」
「逃がさないためよ」
咲子がくすりと笑った。
「あなたを殺したら、私が警察に捕まって人生が終わるでしょう? 離婚したら、あなたが別の女とやり直して平穏に暮らすでしょう? ……許せるわけないじゃない。私の人生をこんな地獄にしたあなたが、私以外の場所で幸せになるなんて」
彼女の瞳に揺らめいていたのは、純度99.9%の「執着」だった。
ああ――そうか。
僕と同じだ。彼女もまた、僕への復讐心によって、僕から離れられなくなっている。
僕の全身を、ぞくぞくとするような奇妙な快感が突き抜けた。
僕の存在が、この女の人生を削り取っている。
僕が息をしているだけで、この女は一生、僕という苦痛に苛まれ続けるのだ。
なんて素晴らしい、完璧な復讐だろう。
「……そうか」
僕は立ち上がり、咲子の華奢な肩を引き寄せ、強く抱きしめた。
彼女の体が不快感でガチガチに硬直し、爪が僕の背中に深く食い込む。痛みが走る。強烈な吐き気が込み上げる。
だが、僕は彼女の耳元で、甘く低く囁いた。
「逃がさないよ、咲子。死がふたりを分かつまで……いや、死んでも絶対に、君を一人にはしてあげない」
「ええ、光一さん。……ずっと一緒よ」
抱き合ったまま、僕たちは互いの顔を見合わせ、引きつった笑みを浮かべた。
首を絞め合いながら、永遠の愛を誓うように。
その時だった。
デスクの上のスマートウォッチが、小さく振動した。
抱き合ったまま、ふと視線を落とした僕の目に、液晶画面に表示された【アニムス自動システム通知】のポップアップが飛び込んできた。
『適合者名:光一&咲子』
『ステータス:フェーズ4(相互認識・共依存の完了)に到達』
『AI予測演算:想定通り「真相の自己到達」による地獄の永久固定化に成功』
『現在の離婚回避率:99.999%』
「――あ」
息が止まった。
僕たちが絶望し、真相に気づき、互いを憎み合いながら抱きしめ合うこと。
この「真相に気づいて復讐を決意するステップ」すらも、すべてはアニムスのアルゴリズムが計算し尽くした、最後の仕上げ(フェーズ4)に過ぎなかったのだ。
僕たちの自由意志も、復讐心も、この完璧なシステムの手のひらの上で踊らされているだけの演出だった。
「どうしたの、光一さん?」
咲子が首をかしげ、不快な柔軟剤の匂いを漂わせながら、無邪気に僕へ微笑みかける。
僕はもう、笑うことすらできなかった。
ただ背中に回した腕にさらに力を込め、二度と出られない完璧な檻の中で、静かに目を閉じた。




