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何回忘れても、ぼくだけはあなたを愛し続けます

作者: 梅木しぐれ
掲載日:2026/03/29

お腹すきましたね。

 がたん、体が揺れる。

 わたしを乗せた車は、わたしの家に帰っているところらしい。らしいって、変な感じだ。窓から見える景色が、一定の速度で流れていく。見慣れないどころか、見たことない景色に、喉が渇いていく。緊張と恐怖で胃がぐるぐるする。お腹の下の方の不快感を生み出す元凶を、ちらりと覗き見た。

 誰がどうもみても好青年にしか見えない、爽やかな男が慣れた手つきで運転をしている。偏見でしかないが、この車の乗り心地は数多の女性を虜にしたことだろう。そんな男の横顔は、どこか刃物を彷彿させるほど鋭利で、綺麗だった。

「ん、なにか気になるものでもありましたか?」

 見られていることに気がついたのか、それとも窓の向こうの景色に対していったのかわからないわたしは、なんだか無性に恥ずかしくなって「……なんにもない、です」と、口をもごもごと動かした。視線のやり場に困ったわたしは、また窓の外をぼんやり見た。そんなわたしを「そう?」と楽しそうな声色で男は返事をした。

 そもそも! なんでこんなことになっているのかといえば、だ。

 世にも珍しいことに、どうやらわたしは――――――記憶喪失、らしいのだ。

 また〝らしい〟だ。

 昨日、目を覚ましたわたしが最初に見たのは、知らない白い天井だった。鉛なんて持ったことないけど、体が鉛のように重たかった。……プールに入った後の、あのだるい感じに似ていたかもしれない。重い体に動くことができないわたしは、ぼんやりと白い天井を見上げることしかできなかった。どれだけそうしていたかは、わからないけれど様子を見に来てくれた看護師さんが、意識のあるわたしに気がついて急いで先生を呼んでくれた。

 意識の確認、身体の検査、なんかいろいろやったが――――記憶以外の異常はなかった。記憶に関しては原因不明らしい。わたし自身が、自分に関することのすべての記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている、らしい。記憶は外傷と違って、外からはどうすることもできないとのことだ。自力で思い出すか、開き直って今の状態で生きていくしかないらしい。自分のことはわからないのは不安だけど、ボールペンはボールペンと認識できるし、お金の価値だってわかる。なんとか生活はできそうだ。

「ああ、そうだ。今日は念のために入院してもらうけど、明日退院だからね」

「え? あ、明日ですか?」

こちらの驚きなんて興味ないように「うん、そうだよ」と先生は穏やかに笑う。――そうだよ、じゃない! なんて言いたかったけど、困惑が口から飛び出す前に脳内を占めたのは――どしよう。だった。

 だって自分に関する記憶がない、てことはだ。わたしは一体どこに住んでいた? というか、一人暮らしだったの? 誰かと住んでいたの? なーにも、わからん。

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。さきほど、あなたの同居人のかたと連絡とれまして……」

「ど、同居人がいるんですか、わたしに?」

「えぇ、もともと、ご自宅で倒れていたあなたを見て、救急車を呼んだのは、その同居人のかたですよ」

 正直なところ家族と一緒に住んでいてほしかった。同居人ってなに? ルームシェアとかしていたの? 相手はどこのだれ? 男性、女性どっち? ……記憶がないから、家族も同居人も思い出すものなんてないけれども、それでも考えずにはいらない。

「だから、大丈夫ですよ。そんなに心配しなくても」

 なにが大丈夫なのか、まったくわからない。心配も不安も尽きないのに、穏やかな微笑みで「じゃあ、今日はゆっくり休んでね」なんて、のんきな先生になにも言えずに、わたしは大人しく病室へ戻った。ベッドに横になると、慣れないことに疲れていたのか早々に意識がなくなって、気が付いたら太陽が外で輝いていた。さっそく太陽に絶望したわたしは、朝からちょっと泣いた。……ちょっとだけだよ。

 退院の手続きをし、待合スペースで同居人とやらを待つ。待っていたところで、顔なんてわからないから、自動ドアが開くたびに失礼だとわかっているが、入ってきた人の顔をじっと見てしまう。

 ――帰ろうにも、家わかんないし。荷物もないから、時間つぶせないし。

 ――あ、やば。わたしって名前なんだっけ?

 ふつふつ湧いてできた不満に、どんどん思考が暗く、重たくなっていく。重たくなったとしまえば、今度は誰かも知らぬ相手への理不尽な怒りに変わっていく。むしゃくしゃして、胸に何かがこみあげて、口から勢いのまま吐き出そうになるのを我慢するように、自分の膝に顔を埋めた。

「――さん」

 声が聞こえる。

「――さんってば、……もしかして、寝てるんですか?」

 低くて、少しだけ不安で、でも安心するような声に、顔をゆっくり上げれば、目の前に端正な顔の青年が、眉を八の字にして、わたしの顔を覗き込んでいた。あまりの近さに思わず「ひいっ!」なんて情けない悲鳴が喉から出た。

 わたしの失礼な態度にも怒ることなく、少しだけ距離をとったその人は、困ったように笑いながら「大丈夫ですか?」と優しく問いかける。

「だ、だい、大丈夫、です。はい。」

 どう見ても大丈夫じゃないわたしを嘲ることなく、ゆっくり立ち上がった彼は静かに右手を差し出した。彼の行為が何を示すのか、わからないほど鈍感ではない。慌てて立ち上がって、その手のひらを握れば、ごつごつとした、柔らかさを感じない手のひらは、驚くほど冷たかった。

「ええと、初めまして。あなた……いや、田所さんと同居している榎本です」

「は、はじめまして榎本さん。……田所です、よろしくお願いします」

 そうだ。わたしの名字って、田所だった。忘れないようにしないと。

「病院にいても何もすることがないので、とりあえず僕たちの家に帰ってから詳しい話をしましょうか」

「は、はい。わかりました」

 わたしの返答が気になるのか、妙な表情をして「……こっちです」の言葉とともに、するりとわたしの少ない荷物を持ってくれた彼の背に「ありがとうございます!」と伝え、後をついていった。

 そんなこんなで車に乗り、一時間ぐらい走ったところで普通のアパートに到着した。少し古びているが、汚いわけではなく、よく見る普通のアパートだ。一階に二部屋、二階に二部屋、合計四部屋。わたしと榎本さんが借りている部屋は、二階の右側の部屋らしい。間取りは、2LDKだそうだ。それぞれ自分の部屋をつくり、お互いのプライベート空間を守っているとのことだ。

 榎本さんはポケットから、鍵を一本とりだした。鍵には少し汚れた、……なんの動物だろう? なんか茶色い動物のキーホルダーがついている。大切に使い込まれた茶色い動物は、どこか誇らしげだ。意外とかわいい趣味の持ち主なのかもしれない。わたしの視線に気がついたのか、榎本さんは「手を出してください」といいながら、鍵を渡してくれた。キーホルダーの動物は、ふさふさのふわふわで、毛は少し、こうカサカサ? いや、ちくちくかも。していた。

「そのカモノハシ、田所さんが僕に似ているからって、買ってきたんですよ」

「わたしがっ??!」

「カモノハシに似ているって、なに!!?」わたしの叫びに、喉を鳴らしながら笑う榎本さんは、本当に楽しそうだ。無性に恥ずかしくなってきて、どこぞの少年のように「ん!」と鍵を突き返す。突き返した鍵を彼は受け取らずに「せっかくです。田所さんが開けてください」と、ドアの前をわたしに譲る。

「あ!」

 なにか思い出したような声を上げた榎本さんは、人が好さそうな笑顔でわたしに手のひらを差し出した。なにをいいたいのか、まったくわからないわたしは伺うように彼を見る。

「鍵の開け方も忘れてしまったなら、僕が開けますよ」

「なっ! それくらい覚えてますよ、失礼ですね!」

 勢いよく流れるトイレの水のような速度で、わたしは知らない部屋の鍵を――がちゃり。と開けた。なんとも言えない不思議な感覚は、懐かしさもあるけれど、なんだか水を含んだスポンジを踏んだような気持ち悪さがあった。もしかしたら、知らない部屋に入るっていう緊張感だったかもしれない。……自分の家らしいけども。

 ゆっくりと扉を開ければ、そこは普通の玄関だった。靴箱があって、傘立てがあって、実に一般的だといえる。そもそも、普通じゃない玄関って、なんだよ。

「さぁ、入ってください。数日ぶりの我が家はどうですか?」

 ぐいぐいと榎本さんに後ろから押されながら、慌てて靴を脱いで家へと上がる。

「どう、って聞かれましても……」

 後ろへ振り返れば、にこにこと笑っている榎本さんがいた。期待に満ちた両目は、わたしの返答を待っているのが嫌ってほどわかる。わかるけれど、言葉が出ない。あーとか、うーとか、 意味のない音を出すだけだ。唸っていたって仕方がない。

「……あ、あはは、ちょっと、懐かしい、かも?」

 絶対に顔が引きつっている。だめだ、嘘が下手すぎる。もう素直に言おう。何も思いません、て。

「あの……」

「大丈夫ですよ。わかっていますから」

 緩やかな動きでわたしの両手を、彼の大きな手が包み込んだ。榎本さんの手のひらが温かいと感じるほど、自分の指先は冷えているのがよくわかる。

「記憶にない場所に、思う感情なんてありませんよね」

 その言葉は、的確で、明確で、正しくわたしの本音だった。言い当てられた気まずさから、口を開けずにいるわたしに、榎本さんは「ですから」と言葉を続けた。

「またこの場所が、あなたにとって安全な場所になるように願っています」

 そう笑った榎本さんは「さ、いつまでも玄関にいてしょうがないですから。はやくリビングに行きましょうか」と、わたしの手をひいた。

 案内されたリビングで、台所でなにやら作業している榎本さんを大人しく待つ。リビングも玄関同様に普通のリビングだ。テーブルがあって、二人掛けのソファがあって、テレビがあって、ラグが敷かれてて、ウォーターサーバーがあって、……なんというか、家具屋さんに展示されてたモデルルームをそのまま配置したような感じだ。個性を感じない、ちょっとよそよそしさを感じた。

「なにかおもしろいものでもありましたか?」

 首を傾げながら、両手にコップを持った榎本さんがリビングへと戻ってきた。

「熱いので、気をつけてくださいね」

右手に持っていたコップをテーブルの上に置いた。湯気が立つそれは、言葉通りに熱そうだ。

「毎日飲んでいたココアです」

「えっと、ありがとうございます」

わたしってココア好きだったんだ。いや、いまのわたしも別に嫌いではないけども。榎本さんに注意されたように、気をつけて熱々のココアを飲む。熱いものが喉を通って、お腹に溜まるのがわかる。

 一息ついたわたしは、榎本さんに何があったのか聞いた。

「記憶喪失になる直前、わたしがなにをしていたかわかりますか?」

「んー、と。想像になりますけど、いいですか?」

「想像、ですか?」

「正直、僕は見ていたわけじゃないです。だから、想像の域も出ません。それでもいいですか?」

 申しわけなさそうに頬を掻く榎本さんに、「それでもいいです」と答えた。

「それじゃあ。あの日は―――」

 榎本さんはひとつ、ひとつ思い出すように話し始めた。





 榎本が会社から帰る途中で、スマホにメッセージが届いた。

 相手は一緒に住んでいる彼女からだった。すぐさま内容を確認すれば、スマホの画面に『メープルシロップと牛乳買ってきてください』の文章とよくわからない生物がお辞儀しているスタンプが表示された。実に彼女らしい、単純明快な言葉と相手を和ませるスタンプチョイスだ。榎本がすぐに『わかった』と返信した。

 ちゃんとメープルシロップと牛乳を買って帰ったが、帰った時には彼女はリビングで倒れていた。静かだった。怖いぐらい静かで、どうしたらいいのかわからなかった。どれだけ突っ立っていたのかも、わからない。

 榎本には、この後の記憶が曖昧だった。どう救急車を呼んだのかも覚えていない。必死で、無我夢中だった。記憶がはっきりするのは、彼女が病院のベッドで小さな寝息を立てていたところからだ。わずかに上下する布団だけが、彼女の生存を教えてくれた。

 彼女がいつ目覚めてもいいように、着替えなどを取りに榎本は家に戻った。少し冷静になった頭で、家の中を見れば彼女が倒れる前にしようとしていたことがわかった。

 台所に出されていたボウル、泡だて器、卵、砂糖、薄力粉、サラダ油、塩、ベーキングパ”ダー、バニラエッセンス、そして頼まれた牛乳とメープルシロップ。


 そう。そうだ、彼女はパンケーキを作ろうとしていたんだ。


「わたしは記憶をなくす直前に、パンケーキを作ろうとしてたんですか?」

「あー……。たぶん、ですよ。すべて状況証拠でしかないですし、確証はありません」

「え、夜ご飯ですよね?」

「……はは」

 気まずそうに笑う榎本さんは、嘘はいっていないようすだ。記憶を失う前のわたしは、夜ご飯にパンケーキを作る女ってこと。意識が高いのか、低いのか微妙なところだな。……パンケーキって朝とか、昼とかに食べる料理じゃないのか……? まったく、わからん。

「彼女はパンケーキを作るのも、食べるのも好きでしたから」

「つ、作るのもすき?」

「ええ、彼女は料理……じゃなくて、お菓子作りが趣味でしたから」

「お菓子作りが趣味っ?!」

 絶対に嘘!

「絶対に嘘ッ!!」

「たぶん、思っていることが口から出てますね」

 お菓子作りが趣味だなんて信じられない。わたし自身、できる気がしない。え、お菓子作りってあれだよね、しっかり分量を量って、きっちりしないとおいしくできないやつだよね? いやいや、無理でしょ~~~~。

「信じられないかもしれませんが、案外やってみたらしっくりくるかもしれませんよ」

「さっそく、やってみましょう」なんて、気軽く言い放った榎本さんは、状況についていけないわたしを置いて立ち上がる。


「ちょっと早い昼食に、パンケーキを一緒に焼きましょう」




 あれよあれよの間に、紺色のシンプルなエプロンを着させられた。ちなみに、榎本さんはふりふりのラブリーな白いエプロンを着ている。普通逆じゃないのか? いや、別に、わたしはふりふりのエプロンなんて着たくないからいいけどさ。

 考えていたことが顔に出ていたのか、呆れたような顔をした榎本さんと目が合った。わたしが口を開く前に、榎本さんは「これも彼女の趣味ですよ!」と叫んだ。

「どこで見つけてきたのかわかりませんが、名前もついていたし、……なにより、せっかく彼女が僕のために用意してくれたものですから」

 恥ずかしそうに頬を掻く榎本さんに、なんだかこっちまで恥ずかしくなってくる。恥ずかしく感じれば、感じるほどに寂しさが雪のようにしんしんと積もっていく。

 わたしの知らない、わたしの記憶。

 いまのわたしには病院からのわたししかいない。けれど、榎本さんには倒れる前のわたしの記憶がある。それは、なんとも……。

 ――て、暗いことを考えても、暗くなるだけだ!

 ――考えるのを止めよう!

 思考を追い出すように頭を左右へ犬のように振れば、榎本さんは不思議そうに首を傾げた。

「えっと、それじゃあ、作っていきましょうか」

 そんなこんなで始まったパンケーキ作りだが、詳細は省かせていただきます。言葉にするには悲惨で、凄惨な台所だった。戦力外通告されたわたしは、榎本さんが台所を掃除している間、リビングで正座をして待つ。わたしが汚したのに、悠々とココアを飲んで待つなんてできやしない。いっそのこと怒ってくれれば、叱ってくれれば、わたしの罪悪感は薄まったのに。……なんて酷い事を考えていたら、両手にカップ麺を持った榎本さんが戻ってきた。

「どっちがいいですか?」

 右手にはうどん、左手には焼きそば。

「え……っと、」

 正直に答えるなら〝焼きそば〟が食べたい。食べたいが、台所をめちゃくちゃにしてしまった手前、素直には言いづらい。

「たぶん、さっきのことを気にするなっていうほうが難しいですよね」

「……はい」

 項垂れたわたしを困ったように笑いながら見る榎本さんは「それじゃあ」と、空気を変えるように、わざとらしく明るい声で話す。

「あなたの好みを、これからいろいろ教えてください。それでチャラにしましょ」

 まったくもってチャラになっていない提案に、顔がひきつる。

 だって、なんだ、その、そもそもだ。わたしの好みってなんだ? わたしの好みなんて、わたしの記憶がなる前と一緒だと思うから、わざわざ知らなくても、一緒に住んでいたなら知っているでしょ。なのに、わざわざ教えてほしい、て、なんでだ?

「好みがないなら、今の気分で選んじゃってください」

 ずいずいと迫りくる二つのカップ麺にわたしは、「それじゃあ、焼きそばで」と指をさした。榎本さんは明るく「わかりました!」と、嬉しそうにカップ麵を持って台所へ戻っていく。すぐに、ビニールが敗れる音がし、こぽこぽとお湯の音が聞こえる。

「あと3分待ってくださいね」

「……ありがとう、ございます」

「はい、どういたしまして!」


 そうして三分後。わたしたちは、二人でカップ麺をすすった。


 榎本さんは、わたしの退院日を含めて二日間有休を取得したらしい。いくら同居人といえど、そこまでしてくれるのはおかしいだろう。もしかしたら、同居人、ルームシェアをする友人以上の関係なのか。それを聞くには、まだ勇気が足りない。もし、もしだ。もし、こ…………。友達以上の関係だった場合、気まずすぎて、山に生きたまま埋めてほしい。昨日の事でさえ恥ずかしすぎて、申しわけなさすぎて五体ばらばらにして海に撒いてほしいぐらいだ。

 どんなに気まずくても、恥ずかしくても、申しわけなくても、太陽は上って、新しい今日が始まっていく。どんな顔で榎本さんに会えばいのか……。30秒考えた結果、朝ご飯を作ろう! という結果に至った。

 できるかどうかわからないけど、人間やらなきゃいけない時がある。それが今だ。料理できる気はしないが、パンを焼いたり、目玉焼きを焼いたりするぐらいならできる、はず! 

 そう意気込んで台所へ向かったわたしが、そこで見たものは―――。

「あ、おはようございます。昨夜はゆっくり眠れましたか?」

 朝にぴったりな爽やかな笑顔、並べられたトースト、いちごジャム、マーガリン、小皿に盛られたフレッシュなサラダ、両手に名前通りの目玉焼き、漫画にできそうな完璧な朝食が用意されていた。しかも眠気覚ましなのかコーヒーの匂いが漂っている。

「コーヒーは飲めそうですか? ホットミルクもありますよ」

 な、なんて、できる人なんだっ!!?

 え、わたしは一体どうやって、こんな素敵で無敵な朝食を作れる人と知り合ったの? あまつさえ、同居しているの? 前世、なにで徳積んだ?

「さ、座ってください。朝ご飯を食べましょう」

 榎本さんに促されるまま椅子に座り、一緒に「いただきます」の挨拶をし、まずはトーストに手を伸ばす。トーストにマーガリンを塗って、食べる。

「ん!」

 外はカリカリで、中はふわふわ。すごくうまい。え、これは一体、どうやって焼いたの?

「え、どうやって焼いたの?」

「たぶん、また思ったことが口から出てますね。えっと、普通にトースターで焼きましたが、食パンにちょっと細工しましたけどね」

「ちなみに細工って?」

「それは―――秘密です」

 川の流れのように、わたしの質問を流した榎本さんは、なんだか少し楽しそうだ。そんな間で、朝の眠たくて、どこか怠くて、爽やかな時間はゆっくりと始まった。

 おいしい朝ご飯のおかげて、しっかり目が覚めたわたしたちは、食後のココアを飲みながら向き合っていた。

「昨日は聞けなかったことを聞いていいですか?」

「いいですよ。なんでも聞いてください」

 改まって聞くのはやはり恥ずかしい、昨日はさんざん内心で言い訳したけども、やっぱり確認しないわけにはいかないだろう。

「わたしと榎本さんは、どんな関係、だった、んです、か?」

 つっかえつっかえの質問に笑うことなく、榎本さんは真剣な顔をした。それから少し疲れたように笑った。

「いわゆる、先輩と後輩の関係でしたよ」

「大学で同じサークルだったんです」と榎本さんは言葉を続けた。

「わたしたち、なにをしていたんですか?」

「謎解きサークルです」

「……もう一回言ってもらっていいですか?」

「いいですよ。では、もう一回言いますね、謎解きサークルです」

「………」

 二回聞いても、わからないぞう。

 記憶を失う前のわたしは、謎解きが好きだったの? 日常生活で謎解きが入ることある? なくないか?

 うんうんと悩むわたしを見た榎本さんは、困ったように笑いながら「この話は止めましょうか」と言った。

「今日は気分を変えて、外に出ましょう」

 このあたりの土地についても覚えていないわたしからすれば、ありがたい申し出だった。申し出なのだが、謎解きサークルも気になりすぎる。

「謎解きサークル含めて、僕たちのことはまた後日にしましょう」

 にこり。と笑った顔には「話したくない」と書いてあった。気になりはするが、聞き出してまで聞きたいことでもないから、わたしは榎本さんの提案に頷いた。

 少しだけ気まずい雰囲気だが、外は清々しいほどの青空が広がっている。空から届く陽は暖かく、吹き抜ける風は冷たい。そのちぐはぐとした気温が、眠気を誘う。

「そういえば、一つ気になっていたことがあるんですが、質問してもいいですか?」

「記憶のないわたしでも答えられることなら、なんでも聞いてください」

「記憶がないあなたにしか答えらないことなので」

「それでは、ご質問をどうぞ」

「――仕事については、聞かなくていいんですか?」

 ――――?

 仕事について? だって、そんな、そんなこと――ちょっとも考えていなかった!

「わ、わた、わたしって、」

 ガタガタと体が震え、カチカチと歯がなる。

 榎本さんに聞かれるまで、微塵も考えていなかった。そうだよね、わたしって社会で働いている年齢だよね! 失念してましたわ~~~! え、ていうことは、もしかして、わたし無断欠勤してる?? 社会的にアウトじゃん! し、しんだ。

 焦るわたし見ながら口元を隠す榎本さんは、確かに口元は隠してはいるものの目元が緩みまくっていて、笑っているのが丸わかりだ。

「ちょっと! 笑ってるの丸わかりなんですからね!」

「す、すみません、おもしろくて。……ふふ」

「早く教えてくださいよ! 働いているなら会社に連絡しないと! そういえば、わたしの携帯もどこなのよっ?!」

「あっはっはっはっ」

 わたしの慌てぶりに、堪えきれなくなった榎本さんは声を上げて笑う。わたしからすれば、笑っている場合じゃない。一切ない。だからこそ、榎本さんが笑えば笑うほど、わたしは無性に腹立って、悔しくて、なにひとつおもしろくなんてない。ギュッと、下唇を噛む。

 静かになったわたしに不思議に思ったのか、榎本さんは笑うのをやめた。それから、すごく真剣な顔をした。氷の冷たさに似た鋭さ孕んだ瞳は、煮えたぎっていた怒りも、吐きそうなほどの悔しさのすべてが瞬き間に凍り付いた。

「笑ってすみませんでした。――――彼女にとっては、会社の事は前も後も重要なことでしたよね」

「前も……?」

「ええ、彼女はいつも仕事優先の生活をしていました」

「それじゃあやっぱり、記憶をなくす前のわたしは働いてたんじゃないですか」

「そうですね、一生懸命働いてましたよ。詳しい話はこの喫茶店の中でしましょうか」

 重たそうな扉を片手で榎本さんに促されるまま、店内へ入室する。中は心地いい室温が保たれ、テンポのいいジャズと、暖色のライトが穏やかにわたしを迎えてくれた。研修中と書かれた名札をつけた店員さんが、緊張しているのか少し硬い声色で「こちらへどうぞ」と案内してくれた。

 二人用の席で、向かい合うように座る。奥まった席で、なんだか隔絶されたような場所だ。一人掛けのソファに座れば、柔らかさに体が沈む。わたしが見やすいように、榎本さんはメニューを広げた。

「飲みたいものを選んでください」

 榎本さんはもうすでに決まっているのか、静かにわたしが選ぶのを待っていた。

 ペラペラと意味もなくメニューをめくる。なんとなく目に留まったココアをお願いする。ちょうどいいタイミングで、さきほどと同じ店員さんが「ご注文はお決まりでしょうか?」の言葉とともに、二人分のおしぼりとお冷をテーブルに置く。榎本さんはお礼を伝えてから、「ココアとカフェラテを一つずつお願います」と、流れるように注文した。

 注文を確認して、すぐ去っていた店員さんの背を引き留めるように見つめるが、伝わるはずもなく厨房の方へと消えてしまった。

「それじゃあ話しますけど――」

「いきなりすぎません?」

 なんの前触れもなく始まりそうな話に〝待った〟をかける。

「そもそも働いているのか、働いていないのかについては、あなたも気がついていますよね」

 榎本さんの指摘にわたしは頷いた。

 わたしと榎本さんの関係が実際どうなのかはわからないが、事実として喫茶店でゆっくりしている時点で考えられる可能性は二つ。一つ目は、榎本さんが会社に連絡をしてくれている。二つ目は、会社を辞めている。……後者はあまり考えたくないなあ。

「言ってもいいですか?」

 早く言いたくてしかたがないのか、榎本さんが纏う雰囲気で急かしてくる。鼻からゆっくりと息を吸い、口からさらにゆっくり吐く。――よしっ!

「お願いします」

「彼女は一週間前に会社を辞めています」

「で、ですよね」

 つまり、いまのわたしは無職ってことか……。それはすごくダメだ。よくない。絶対にダメだ。アルバイトでもいいから、なんでもいいから働かないと。働かなきゃだめだ。喫茶店の一人掛けのソファに座っていたはずなのに、目の前のテーブルも、なにもかもなくなっていく。視界がどんどん暗く、黒くなっていく。不思議なことに、ちかちかと光が小さな虫のように飛び回る。脳みそが回っているのか、体が回っているのか、はたまた世界が回っているのか、どっちが上か下か、氷が解けるようにわからなくなっていく。水に溶けて消えるクラゲの死体のように、わたしの意識も遠く……。

「―――!」

 音が、

「―――んっ!」



 ――パァンッ!



 渇いた音が目の前でした。ぼやけていたはずの視界は、ゆっくりと目の前にものにピントを合わせていく。なにかわからなかったものは、どんどん輪郭を明確にしていった。

「……ん?」

 それは手だった。

 それから榎本さんと目が合った。しっかりとつながった視線に榎本さんは、安心したように笑う。それから席を立った榎本さんは「お騒がしてすみませんでした」と、周りの人へ頭を下げた。

 気がつけば店内は、時間が止まってしまったかのように静まり返っていた。恥ずかしさから、一気に顔が燃えるように熱くなった。手のひらを握りしめ、なんとか首だけ動かして、頭を下げる。下げたまま俯いたわたしに榎本さんは「意識はハッキリしましたか?」と首を傾げた。

「は、はい。すみません、はっきりしました」

「ならよかったです。……僕の言い方が悪かったですよね、すみません」

「い、いえ! わたしがかってに取り乱しただけですから! 榎本さんは悪くないです!」

 わたしたちが会話を始めれば、安心したように周りの時間も動き始めた。

「確かに彼女は辞めましたけど、正確に言えば僕が無理やり辞めさせたようなものなんです」

「詳しく聞いてもいいんですか?」

「もちろんですよ。……彼女は〝働きたい〟、じゃなくて〝働かなきゃ〟と毎日言っていました。働きたいと働かなきゃじゃ、雲泥の差があります」

 それはそうだ。

 この言葉だけでも切迫感がまったく違う。記憶を失う前のわたしはこの言葉以上に、精神的に追い詰められていたのだろう。周りが見えなくなって、休み方がわからなくて、短絡的に終わる方法を探してしまう前だったのだろうか。いや、もしかしたらすでに探していたのかもしれない。

「辞めた彼女は、倒れる前まで生活習慣は同じでした。早く起きて、起きている間は何かしていないと落ち着かないからと言って、ひとりで大掃除も顔負けの掃除や家事をして、眠れないと布団の中で胎児のように丸くなるを繰り替えしていました」

 話を聞いてるだけでも、なんというか悲惨だ。記憶をなくす前のわたしもそうなのだが、一緒に住んでいる榎本さんはわたしに付き合っていたはずだ。倒れる前のわたしが榎本さんにおつかいを頼めるぐらいには回復していたのだろう。それなのに倒れて、記憶をなくした女のめんどうをこうして看ている。……ただの同居人じゃ、やっぱり説明がつかないだろう。もしかしたら、そういうことなのかもしれないけれど、わたしに言わないってことは違うかもしれないし……考えたってわからないけど、榎本さんがあえて言わないのは何か考えがあるからなのかもしれない。

「ま、とにかくですよ。あなたが気に病むことは何一つないってことです」

テーブルに置かれていたココアを見ながら「少し冷えてしまいましたが、ココア飲んでみてください。おいしいですから」と、わたしにすすめた。

 いつのまにか運ばれていたココアは、本当に驚くぐらい冷めていた。それでも口に含めば、甘い味が口いっぱいに広がって、胃に流れ落ちていくはずの液体は、脳みそでじゅわあと広がった。あ~~~~~、甘いものが沁みる~~~~~。

 甘いものは偉大だ。暗い気持ちだったはずなのに、もう明るくなってきている。これが合法だなんて信じられない。

「落ち着きましたか?」

「あ、はい。おかげさまで」

「なら、よかったです」

 仏か?

 一緒に住む関係で、自分の事も、なにもかも記憶を吹き飛ばし、取り乱す女に、ここまで寛容でいられる榎本さんの懐の深さはマリアナ海溝よりも深いだろ。その深さに戦々恐々としていれば、沈痛な顔もちで榎本さんは「先ほどは、すみませんでした」と頭を下げた。わたしにも頭を下げる榎本さんを慌てて顔を上げてもらう。

「いくら落ち着いてもらうためとはいえ、突然あんな大きな音が目の前でしたら怖いですよね」

「そもそも、あの音は一体……?」

「ああ、柏手を打ったんです」

「は、はあ?」

 人生で柏手を日常生活でする人がいるとは思わなかった。

「相国寺の鳴き龍でご住職にも褒められるほどの腕前なんですよ」

 謎の自慢も始まってしまった。

「……て、そんな話は不要でしたね」恥ずかしさを誤魔化すように、榎本さんはカフェラテを口に含んだ。なんだか近所の池ぐらいの親近感だ。

 どんどん話がそれていき、ゆっくりお茶を楽しんだ。




 記憶をなくす前のわたしは、どうして仕事に執着していたのかそれとなく聞いてみた。どうやら常々「犯罪者になりたくないから働かないと」なんて言っていたらしい。嫌に鮮明で、耳に高校の選択授業で先生が「ニュースを見ていて感じたが、無職は犯罪者になりやすい。だから君たちはアルバイトでもなんでもいいから、とにかく働きなさい」と言い続けていたらしい。だからなのか、無職という事実は記憶を失う前のわたしにとっても、失った後のわたしにとっても重大なことらしい。まさに体……じゃあないか、脳みそにこびりついていたらしい。我ながら、もっと別の事を脳みそにこびりつけてほしかった。文句を言っても、こびりついていないのだからしょうがないか。

 その後もとくに思い出せることはなく、榎本さんの有休も終わりを迎えた。榎本さんはわたしを一人で家に残すのが心配だったようだけど、お休みが終わったならしかたないと思う。「まだ有休残っているので伸ばせます」と、謎に粘ってきたときは正直怖かった。心配してくれるのはありがたいが、そろそろ一人で整理もしたかったから大丈夫だと言い張れば、納得してない表情ではあったが伸ばすことはしなかった。

 出勤していった榎本さんの背中を見送ったわたしは、手始めに掃除をすることにした。どこになにが置いてあるかは教えてもらったので、なんなく掃除道具を見つけることができた。掃除は難易度が低すぎたようだ。この後は、夕飯の買い出しに行こうかな。たぶん大丈夫、だぶんね。クレジットカードも預かったし、セルフレジなるものについても説明を受けた。なにかあっても店員さんがいるはずだ。

 不安がっていたわりには、買い物も何事もなく終わった。家に帰って勢いのままカレーを作ってみたが、案外何とかなってしまった。料理に至っては体が覚えている感じであったが、こう料理しようとすると、料理の記憶が詰まったタンスが開いて、それに沿って体が動く感じがしたのだ。

 この事実に榎本さんは驚いていたが「よかったね」と笑ってくれた。一応、まだ何があるかわからないから、働くのはまだ先にして家政婦として住まわせてもらうことになった。榎本さんがどう思っているかは知らないが、わたしとしては行き場所も、あてもないからありがたかった。

 平和で穏やかな日常は、退屈ではあったが満ち足りていた。それと同時に、自分の記憶が一向に戻らないことに、どうしようもない焦りと不安が背中にくっついていた。ただ思い出せない以上に、思い出すことの方が今のわたしには怖かった。記憶を失くしたわたしは、失くすとともに亡くなった。それなら思い出したら〝わたし〟はどうなってしまうのか? やっぱりわたしが亡くなってしまうのだろうか。……わたし(体)が死ぬわけじゃないけれど、わたし(意思)が死ぬのも嫌なんだよなあ。絶賛に前のわたし(意思)は死んでるし、このあと復活できるかもわからない。……て、同じことをずっと考えてる。これぞまさに堂々巡りってやつじゃないか! 感心している場合でもない。

 榎本さんはどう思っているのかわからないけど、思い出しても出さなくてもどっちでもいい、みたいな雰囲気だ。ありがたい気持ちもあるが、なんだかちょびっと寂しさもある。一緒に住んでいるぐらいには仲良しなら、普通は記憶を取り戻そうと必死になるのではないか? そうしないってことは、……逆になにか、やましいことがあるのか? 実はわたしの頭を殴っていた! とか。もはや事件ですな。

 うだうだ考えていても仕方がないので、今日は思い切って榎本さんの部屋に突撃しようと思う。自分の部屋や、共同の部屋からはなにも出てこなかった。何か一つぐらいは出てきてもいいだろうに。こんなにも出てこないのは、もう怪しすぎるのよ。一つぐらいなにか出てこれば、ここまで自分自身に対する興味はわかなかっただろう。

「失礼しまーす……」

 恐る恐る扉を開ける。……空き巣に入ったような気持ちになってきた。許可もなく入る罪悪感がすごい。…………うぅ。

 わたしは扉を静かに閉めた。

 榎本さん部屋については、ちゃんと本人に許可を得てから調べよう。許可出してくれない可能性が高いけど。それでも、いまみたいに黙ってはいるよりか、幾分かましだろう。

「あ、まだ押入れ見てないな」

 まさに天啓のようだった。突然脳みそを駆け巡った単語に体は動き出し、押入れを勢いよく開けた。押入れは小さなタンスや大きなタンスを利用して、丁寧に整頓されていた。もう整理されすぎて、怪しいものとかなさそう。いや、探す前から諦めたらダメだよね。ちゃんと確認すれば、何か出てくるかも!



 ―――なんてことはなくッ!



 えー。

 押入れからは何も出てきませんでした。

 やる気も、元気も、なにもかもなくなったわたしは、床へゴロンと寝転がった。固いし、痛いしで最悪。適当にゴロゴロと回転していれば、ゴンッ! と勢いよく本棚に頭がぶつかった。痛すぎて声も上げることができなかった。

 痛い部分を労わるように撫でながら、本の背表紙を追いかけていく。なんだか見たことあるようなものから、まったく見覚えのないものまでいろいろだ。どちらの趣味か知らないが、啓発本から詩集、はたまた文庫本やラノベも並んでいる。ジャンルに拘りがなさすぎだろう。あ、絵本もある。背表紙を追いかけていれば、〝1years〟と書かれたものを発見した。その隣には〝2years〟と、どんどん数字が大きくなって、〝8years〟まで並んでいた。恐らくアルバムなのだと思う。まさに木を隠すなら森の、本を隠すなら本棚ってことなのかも。

 とりあえず〝1years〟と書かれた本を抜く。表紙にも小さく〝1years〟と書かれていた。好奇心に誘われるまま表紙を開けば、二人の男女が、頬を寄せて笑っている写真が載っていた。写真の下には『今日が記念すべき1日目です!』と一言コメントが書いてある。

 一枚、また一枚とページをめくる。どこを見ても同じ男女しか登場しない。添えてある一言は楽しそうで、時には喧嘩もして、実にありふれた日常を切り取った幸福な写真ばかりだった。それは別にいい。むしろ善いことだ。悪いことなんてなく、酷いことしかない。だって、写ってる男女は――――榎本さんとわたしなのだ。

 ときどき写っている左手には、見知らぬ指輪が輝いている。写真の向こうの二人は同じ指輪をしていて、きっと、つまり、そういうことだよね……? けど、榎本さんの左手にも、わたしの左手にも指輪ない。わたしの部屋にもなかった。榎本さんが二人分の指輪を持ってる? どうして? 仮に……。うん、仮に夫婦だったのなら、わざわざ隠す意味がない。はずだ。

 起きた日の事を思い出すと、いきなり現れた見知らぬ男に「あなたの旦那です」と言われても、信用できないな。

 いま言われたら、すぐには否定しないけど、やっぱり信じられないかもしれない。榎本さん、ごめんなさい。

 もともと自分のことなんて何一つ覚えてないけど、自分が結婚できるような人間ではないと思う。むしろ、どうやって結婚した??? 

「いったん、れいせいになろう」

 手元のアルバムから本棚へと視線を移す。

 しかし、一度気がついてしまえば、気にしないようにしても、重力に引きずり落とされるように、他のアルバムの背表紙を見てしまう。そう、そうなのだ。最低でもこの結婚生活は、8年は続いているのだ。四捨五入して10年だ。約10年って相当だ、すごすぎる。

 すべてを忘れた私に対して、悲観……してるかはわからないけど、わたしに怒ることなく、伴侶や恋人としてではなく、あくまで仲のいい同居人という距離を保ってくれてる。

 そういえば、記憶を失くす前のわたしと、いまのわたしを分けている感じがする。あくまでも〝わたし〟として尊重してくれている。記憶を失う前のわたしのことを『彼女』と呼んでいたし、榎本さんもわたしにどう接していいのかわからなかったのかも……?

 でも、やっぱり、それでも、信じられなくても、――言ってほしかったなあ。

 本当はわたしとの結婚が嫌だったのかな? だから言いたくなかったのかな? いつか言うつもりだったの? でも、いつかっていつなの? 榎本さんに聞いて、答えてくれる? そもそも聞いて、わたしはどんな答えがほしいのだろうか。

 そうですよ。と、淡々と肯定してほしいの?

 すみません。と、しくしくと謝ってほしいの?

 それとも、

      それとも、

           それとも、

                 ――――――。



「ただいまー」と、榎本さんの少し疲れた声が、玄関から聞こえてきた。わたしはぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、玄関へ走る。

「榎本さん、おかえりなさい!」

 明るく、元気に榎本さんを迎えれば、驚きを隠しもせずに両目はぱちくりさせた。驚きすぎて言葉が出ないのか、喉まで来てるが音にできないのか榎本さんは、陸に上げられた魚のように口をパクパクと動かしている。なんかちょっと、おもしろいかも。

「ごはんにする? 沸かし途中のお風呂にする? それとも、……」

「そ、それとも?」

 ――わたしについて話す?

「ごはんにする?」

 提示したかった三択目は、音にならなかった。逃げたのだ。途端に怖くなった。聞いて、教えてもらった後、どうなるかわからなかった。わたし自身もそうだけど、榎本さんとの関係もきっと変わってしまう。いずれ変わる関係だとしても、今無理に変える必要はない。なんて言い訳して、わたしは逃げた。

 そんなわたしの心内を知らない榎本さんは、肩を揺らしながら「選択肢ひとつじゃないですか」と言った。

「笑ってないで早く答えてくださいよ!」

「じゃあ、ごはんでお願いします」

「それでは、鞄を置いて、着替えてきてください」

「はい、わかりました」

 会社のような堅苦しいやりとりでさえも、なんだか楽しくなってきた。気持ちの切り替えが早いのは、いいことだ。

 今日の夜ご飯は、卵焼き、みそ(なめこ)、塩焼きの鮭、サラダ、白米。朝ご飯みたいなラインナップだけど、夜食べたっておいしいから許してほしい。

 榎本さんは特にメニューの感想はなかったけど、目は雄弁に語っていた。口に出さなかったので、許そうと思う。朝ご飯みたいな夜ご飯を二人で囲って、食べる。

 食事中はとくに会話はない。静かなものだ。お互いに食べながら話すことが苦手だし、この沈黙は苦痛じゃない。むしろ安心するし、心地よさもある。それはきっと、榎本さんのおかげだ。確かに仕事の疲れはあるだろうけど、仕事での不満や不安を持ち込まず、他人や物に当たらず、自分の機嫌を自分でとる。あたりまえのことだけど、実際にできる人は少ないだろう。

 静かな食事が終われば榎本さんは「あのさ」と、気まずそうに話しかけてきた。

「なんですか?」

「なにか聞きたいことがありましたか?」

「様子が変だったので」探るようにわたしを見つめる瞳は、端から端まで心配しかなかった。

 あなたとわたしのアルバムを見つけちゃいました。て言ったら、話してくれるのだろうか。そもそも榎本さんがわたしに話すことなんてなにもないだろう。いまのわたしは、過去を共有して笑いあうこともできない。優しい榎本さんは、笑えないわたしを見て、話をすぐに止めてしまうだろう。

 どうして話してくれなかったんですか?

 それでも聞きたいことは、そればかりで。

 どうして隠していたんですか?

 聞いていいのかもわからなくて。


 どうして、



「――――わたしと離婚しないんですか?」



 口から出た言葉に、わたしも榎本さんも驚いていた。

「ぁ、いや、その……えっと」

 意味もない言葉が口からこぼれ出る。

 それでも出たものは戻すことができないし、時間だって戻ることはない。静かに進んでいく時間に、榎本さんは何かを考えているのか瞼を閉じた。

 あまりの重たい空気に「冗談」なんて言えず。わたしからこんな空気にしたのに、口を噤むことしかできない。そんなわたしを見て、榎本さんは静かに座りなおし、ゆっくりまぶたを上げた。凛とした瞳は、どこまでも誠実だった.

「確認ですが、あなたはアルバムを見たんですね」

 断定だった。

 否定できないわたしは、小さく頷く。

「……そう、ですか」

天井を仰ぎ見て、深呼吸する榎本さんは言葉を探しているようだった。

「隠していたわけじゃあないんです。いや、あなたからすれば隠していたように見えるとは思いますが」

「言い訳ですけど、いいですか?」榎本さんは、伺うようにわたしを見た。わたしは、ただ頷いた。

「………怖かったんです」

 疲れたように笑った榎本さんは、おもむろにアルバムがしまってある本棚を見た。榎本さんの視線を追って、わたしも本棚のアルバムをぼんやりと見た。

「あなたの旦那です、と伝えるのも、伝えた後のあなたの反応を知るのも怖かったんです。だから、このまま友達として、――同居人として隣にいられるなら」

 痛々しい榎本さんの姿に、わたしはなにも言えなくて、どうしてわたしは忘れてしまったんだろう。アルバムを見た限りは、もちろんアルバムに残されてない部分で喧嘩とか、辛いこと、悲しいこともあっただろう。それでも楽しそうに、嬉しそうに笑っている写真ばかりのアルバムを見てわたしはこんなにも……。

「騙すような形になってしまい、すみませんでした」

 そう言って、頭を下げた榎本さんにわたしは「顔を上げてください!」と叫んだ。ゆっくりと顔を上げた榎本さんは、薄く笑いながら口を開いた。

「いまさらですが、あなたが僕と離婚したいと望むならそうします」

「え?」

「離婚届、あるんです。記憶がこのまま戻らないなら、いっそ僕と離婚してあなたとして生きていくのがいいと思うんです。許されるなら自立できるまでは、僕にサポートさせてください」

 つらつらと話を進めていく榎本さんに、わたしはついていけなかった。よく回る口は肝心の『離婚しない理由』を話さないし、あまつさえわたしが望むなら離婚するという。榎本さんは、本当はどうしたいの? わたしとどうありたいの? 記憶のないわたしは嫌? さまざまな思いや、考えが頭に浮かんでは消えていく。

 榎本さんは、なにを聞いても答えてくれるけど、肝心なことはいつも教えてくれない。わたし自身は、自分の過去を少なからず知りたいと思っている。思い出した結果、わたしの現在の思い出や気持ちが亡くなっても、……それはやっぱり嫌だな。

 だって、

    だって、              だって、            だって、

   だって、     だって、    だって、     だって、

         だって、             だって、

だって、                だって、

        だって、   だって、             だって、

   だって、      だって、    だって、       だって、           だって、


 ――だって、


              わたしは愛してしまった/いまのわたしを見てほしい

 わたしは無性に腹が立って、泣きたくなって、叫びたくなって、とにかく体内のエネルギーのぜんぶが火山のように噴火した。衝動のままわたしは立ち上がり、トイレへと駆け込んだ。外に出ていきたかったけど、どこか冷静な思考回路が「それはだめだ」と引き留めた。

 トイレの鍵を閉めて立てこもったわたしに、榎本さんが慌てた様子でトイレの扉を三回ノックした。

「すみません、無神経でしたよね」

 榎本さんは怖い人だ。

 いとも簡単に、そう毛糸のセーターを解くようにするすると言葉を口にする。

「あなたと出会ってから、ぼくは自分の事しか考えていませんでした」

 榎本さんが扉の向こうで座ったような音がした。

「多少なり気づいていたと思いますが、ぼくはあなたが記憶を取り戻しても、戻さなくてもどちらでもいいんです。こういう言い方をすると信じられないと思いますけど、ぼくはどんなあなたでも好きで、大好きで、たまらないほど愛しています」

 突然の言葉にわたしの頭は真っ白なペンキがぶちまけられた。――えっ? 反応ができない。トイレにこもっているわたしが悪いのだが、反応をしない(できない)わたしを置いて、榎本さんはハッキリと言った。


「――ぼくは、ぼくのわがままで大好きなあなたと離婚したくなかったんです」


 榎本さんの言葉には羞恥なんてなく、そこには相も変わらず誠実さだけがあった。

「でも、ぼくなんかと結婚しているとわかれば離婚したくなるかもしれない。だから同居人とだけ伝えました。実際、ぼくと彼女が後輩と先輩の関係も嘘じゃありませんし、結婚生活も同棲も生活だけ見れば同じですから」

 ここで口を閉じた榎本さんは、こちらを伺うような、自分の中で言葉を探しているようだった。わたしもなにか言葉を返したかったけど、急遽ぶつけられた榎本さんの気持ちを処理するのにいっぱいいっぱいで喉から先へ音は出ない。

「……あの、直接顔を見て伝えたいので、トイレから出てもらうことは可能でしょうか?」

 取引先に話すような態度に、わたしはトイレに引きこもっているのが少し馬鹿らしくなってきた。わたしの衝動は1時間も持たないらしいが、そう簡単に出たくない。意固地になっているのは認める。

 すごく長い時間トイレにいたと思う。実際は10分もいなかったかもしれないけれど、体感1時間ぐらいいた気がする。それだけ時間が経てば、さすがにトイレの前からいなくなっているだろうと思って、ゆっくり扉を開ければ「やっと顔が見れました」なんて、ふにゃりとだらしなく笑う榎本さんが立っていた。――怖すぎて声も出なかった。

 驚きで固まるわたしをよそに、榎本さんはわたしの手を取り、確かめるようにぎゅっと握った。痛くはないが、逃がさないという意思を感じる。動かしてもびくともしない。




「何回忘れても、ぼくだけはあなたを愛し続けます。――――――ずっと隣にいますからね」





 頬を染めて、恥ずかしそうに笑う榎本さんの瞳は、いまにも涙が零れ落ちそうだった。







最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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それでは、また会う日までさようなら!


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