第6話 崩壊 / System Crash
管理領域:エデン。
カイロス重工が占有する研究用ダンジョン。
腐臭も、湿気もない。
見渡す限りの白い砂浜。
頭上には、幾何学模様を描いて回る太陽。
波の音は、心地よい和音で構成されていた。
「……楽園かよ」
俺は呆気にとられていた。
今まで見たどんなダンジョンとも違う。
殺意がない。
むしろ、歓迎されているような——
「気を抜くな」
リリィの声。
だが、いつもと様子が違う。
声が、震えている?
「この空間、何かがおかしい。認識が……滑る」
「滑る?」
「ああ。空間の定義が曖昧だ。まるで——」
リリィが言葉を探すように周囲を見渡す。
「——誰かの夢の中にいるみたいだ」
俺は笑い飛ばそうとした。
夢だろうが楽園だろうが、やることは同じだ。
お宝と出口を見つけて、帰る。
それだけで、俺たちは一桁ランカーだ。
「ビビりすぎだろ、相棒。ちゃっちゃと済ませて——」
その時だった。
「——愛してる」
背後から、リリィの声がした。
「……は?」
俺は足を止めた。
心臓が、ドクリと跳ねる。
今、なんて言った?
ゆっくりと振り返る。
リリィが、数メートル後ろに立っていた。
俺を見ている。
その表情は——
恐怖に引きつっていた。
目を見開き、口元を震わせ、必死に何かを叫んでいる。
「——抱きしめて!」
言葉と、表情が、噛み合っていない。
必死の形相で。
涙を流しながら。
甘い言葉を吐いている。
「……おい、どうした?」
「——キスして! 早く! 幸せなの!」
背筋が凍った。
違う。
あいつはそんなこと言っていない。
口の動きを読む。
『逃げて』
『後ろ』
『死ぬわよ』
——認識が、置換されている?
俺の脳が。
「危機」を「快楽」に。
「警告」を「愛」に。
都合よく書き換えている。
「……なんだ、これ」
リリィの背後。
白い砂浜が、黒く染まっていく。
何かが、いる。
壁に張り付いた、肉とも粘液ともつかない何か。
いや、壁なんてない。空間そのものにへばりついた「シミ」のような存在。
表面に、無数の文字が浮かんでは消える。
《安らぎ》 《幸福》 《愛》
そして——
《通路》
という文字が見えた。
「……は?」
さっき俺たちが通ってきた道。
出口へのルート。
その概念が、文字となって浮かび上がり——
ジュッ、と音を立てて、シミの中に吸い込まれた。
足元を見る。
白い砂浜が、意味不明なモザイクに変わっていた。
距離感が狂う。
前後左右がわからない。
「道」という概念が、喰われた。
「……ヤバい」
俺は後ずさる。
だが、ソレは近づいてくる。
ゆっくりと。
這うように。
物理的な移動ではない。
俺という存在の「意味」に向かって、浸食してきている。
そして——
ソレの表面に、新しい文字が浮かんだ。
《ケイ》
「……ふざけんな!」
俺は銃を構える。
考えるな。反応しろ。
敵だ。倒すべき敵だ。
「お前は敵だ!」
発砲。
必殺の軌道。
だが——弾丸は空中で静止し、ポトリと落ちた。
《敵とは?》
脳に直接、響く。
声ではない。
意味の問いかけ。
「敵は……俺を殺す存在で……」
《殺すとは?》
「……死、で……」
《死とは?》
答えられない。
言葉が、意味をなさなくなる。
「死」という概念が、ゲシュタルト崩壊を起こす。
ただの音の羅列になる。
思考のリソースが、喰われていく。
戦うためのロジックが、一つずつ消去されていく。
「ケイ!!」
リリィの叫び声。
今度は、ちゃんと聞こえた。
いや——
「ケイ! 私を食べて! 美味しいわよ!」
まただ。
脳がバグっている。
振り向くと、彼女が立ち尽くしている。
目が虚ろだ。
自分の体を抱きしめ、震えている。
「……私、誰?」
その言葉だけは、鮮明に聞こえた。
「リリィだ! しっかりしろ!!」
俺は叫ぶ。
彼女の手を掴もうとする。
スカッ。
手が、すり抜けた。
リリィの輪郭が、薄くなっている。
半透明の幽霊のように。
「私……名前、なんだっけ……?」
「リリィだ! お前はリリィだ!! 銀髪の、生意気な、俺の相棒だ!」
必死に定義を叫ぶ。
俺の認識で、彼女を固定しなきゃいけない。
だが——
《リリィとは?》
ソレが、問うてくる。
《相棒とは?》
《銀髪とは?》
「やめろ……!」
俺の中の「リリィ」という概念が、揺らぐ。
彼女との思い出が、砂のように崩れていく。
バーで飲んだ酒の味。
冷たい視線。
温かい手。
全部、文字になって、ソレに吸い込まれていく。
「……誰だ?」
ふと、俺は思った。
目の前にいる、この薄い影は。
誰だっけ?
——マズい。
直感が警鐘を鳴らす。
このままじゃ、二人とも「無意味な染み」になって終わる。
物理的な死じゃない。
存在の消滅。
誰も覚えていない、何も残らない、完全な虚無。
——生きた証を、残すんじゃなかったのかよ。
奥歯を噛み締める。
痛みが、わずかに意識を繋ぎ止める。
電撃は効かない。
物理も効かない。
概念ごと喰われる。
なら。
コイツが喰いきれないほどの、特大の概念をぶつけるしかない。
俺は、笑った。
最期の賭けだ。
生まれたてのダンジョン。
『何でもあり』だと想像して、飲まれた。
なら、自ら飲み込みに行ってやる。
「おい、化け物」
俺は、震える足で一歩踏み出す。
両手を広げる。
「俺は——宇宙だ」
《宇宙とは?》
「全てだ。無限だ。始まりであり、終わりだ」
意識のタガを外す。
いつもは必死にブレーキをかけていた「拡散」を、アクセル全開にする。
「俺は壁だ。床だ。お前だ。このダンジョンだ。過去だ。未来だ。可能性の全てだ!!」
ブワッ、と視界が弾けた。
雨上がりの匂いなんて生易しいものじゃない。
情報の奔流。
俺の輪郭が、爆発的に膨張する。
肉体が弾け飛び、意識が素粒子レベルまで分解され、世界全体へと浸透していく。
《解析不能》
《容量超過》
《エラ——》
ソレの表面の文字が、乱れ始める。
小さな口で、海を飲み干そうとして溺れている。
——今だ。
俺は、世界そのものになった。
この空間の管理者権限は、今だけ俺にある。
意識の残滓で、リリィを見る。
消え入りそうな、小さな光。
あいつを、ここから出さなきゃいけない。
出口はない?
関係ない。
俺が世界なんだから、俺が「外」に押し出せばいい。
リリィの足元の空間定義を書き換える。
強制排出。
「……ケイ?」
リリィが、俺を見た気がした。
俺の姿なんて、もうないはずなのに。
俺は、笑ったつもりになった。
でも、口がないから笑えなかった。
代わりに、俺は彼女を弾き飛ばした。
光に包まれるリリィ。
彼女が最後に、手を伸ばして。
何かを叫んだ。
「■■ーー!!」
名前を、呼ばれた気がした。
それを聞いて、俺は安心した。
ああ、俺には名前があったんだ。
誰かが呼んでくれる名前が。
なら、大丈夫だ。
俺は、ここにいた。
光が消える。
リリィがいなくなる。
あとには、俺と、溺れかけた化け物だけが残った。
さあ、続きをやろうぜ。
俺とお前の、我慢比べだ。
意識が、薄れる。
拡散する。
至福の海に溶けていく。
痛みが消える。
野心が消える。
金も、ランカーへの夢も、全部。
……あれ?
俺、なんでこんなことしてるんだっけ?
まあ、いいか。
なんか、大事なことを守れた気がする。
すごく、大事な……
なんだっけ。
銀色の……
……。




