誰かを選ばなければいけない
夏休み三日目。朝、目が覚めると、窓の外から雨の音が聞こえてきた。ザーザーと降り続ける雨。それは、夏の夕立とは違う、しっとりとした梅雨のような雨だった。窓を開けると、湿った空気が部屋に入り込んでくる。外の景色は、雨で霞んでいて、灰色の空が広がっている。
時刻は、午前九時。いつもより少し早く目が覚めた。雨の音が、俺を起こしたのかもしれない。
俺は、布団から這い出て、リビングに向かう。
姉は、既にリビングにいた。珍しく、休日で家にいる。ソファに座って、コーヒーを飲みながら、スマホを見ている。
「おはよう、裕一」
姉が、優しく言う。
「おはよう。姉ちゃん、今日は休み?」
「ええ、久しぶりの休みよ。だから、今日はゆっくりするつもり」
姉は、小さく微笑む。
「そっか」
俺は、キッチンに行き、朝食の準備をする。トーストとスクランブルエッグ、それにオレンジジュース。シンプルな朝食だ。
朝食を食べながら、俺は今日のことを考える。雨が降っている。外出するのは、少し億劫だ。でも、家にいても、やることがない。昨日のように図書館に行くのもいいかもしれない。でも、この雨の中、わざわざ出かけるのも面倒だ。
そんなことを考えていると、スマホが鳴る。
LINEのメッセージだ。
銀咲からだった。
「八杉くん、今日は雨だけど、図書館に行く予定ある? 私も行こうと思ってるんだけど」
銀咲からのメッセージを見て、俺は少しだけ驚く。昨日は足立さんと偶然会って、今日は銀咲から誘われる。偶然にしては、出来すぎている気がする。
でも、断る理由もない。雨の中、一人で図書館に行くよりも、誰かと一緒の方が楽しい。
俺は、銀咲に返信する。
「ああ、行くつもりだった。一緒に行こう」
すぐに、銀咲から返信が来る。
「わかったわ。じゃあ、十一時に図書館の前で待ち合わせましょう」
「了解」
俺は、返信を送る。
朝食を食べ終えて、俺は身支度を整える。今日は雨だから、傘を持っていかなければ。カバンに、昨日と同じように宿題のワークブックとノート、筆記用具を詰め込む。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
姉が、優しく言う。
俺は、傘を差して、家を出る。
雨の中を歩く。雨粒が、傘に当たって、タンタンと音を立てる。その音が、どこか心地よい。道路は、雨で濡れていて、水たまりができている。その水たまりを避けながら、俺は駅に向かう。
電車に乗って、図書館に向かう。車内は、雨の日ということもあって、それほど混んでいない。窓の外を見ると、雨が降り続いている。灰色の空、濡れた街並み。その光景が、どこか物悲しい。
図書館に到着する。時刻は、午前十一時。待ち合わせの時間ちょうどだ。
図書館の前には、既に銀咲が待っていた。
銀咲は、白いブラウスに紺色のスカートという、いつもの上品な服装をしていた。手には、黒い傘を持っている。雨に濡れた銀髪が、どこか儚げで美しい。
「おはよう、八杉くん」
銀咲が、冷静に挨拶する。
「おはよう、銀咲さん」
俺は、答える。
「待った?」
「いいえ、私も今来たところよ」
銀咲は、小さく微笑む。
俺たちは、図書館に入る。
傘を傘立てに置いて、二階の自習室に向かう。
自習室は、昨日よりも混んでいた。雨の日は、外で遊べないから、勉強する学生が多いのだろう。でも、まだ空いている席がある。
俺たちは、窓際の席に座る。昨日、足立さんと座った場所とは違う場所だ。
銀咲は、カバンから英語の教科書とノートを取り出す。
「今日は、英語の長文読解を復習しようと思って」
「そっか。俺は、数学の続きをやろうかな」
俺は、カバンから数学のワークブックを取り出す。
俺たちは、並んで勉強を始める。
銀咲は、真剣な表情で英語の長文を読んでいる。時々、辞書を引いて、わからない単語を調べている。その姿が、どこまでも真剣だ。
俺は、数学の問題を解き続ける。でも、時々、銀咲の方を見てしまう。銀咲の横顔が、どこまでも美しい。銀色の髪が、室内の照明に照らされて、キラキラと輝いている。紅い瞳が、真剣に教科書を見つめている。
いや、見とれてない。ただ、隣にいるから、つい視界に入るだけだ。
俺はそう自分に言い聞かせながら、数学の問題に集中する。
一時間ほど経った頃、銀咲が口を開く。
「八杉くん、この英文の意味、わかる?」
銀咲が、教科書を指差す。
「どれ?」
俺は、銀咲の教科書を覗き込む。その距離が、少し近い。銀咲の香水の香りが、ほのかに漂ってくる。それは、どこか上品で、清潔感のある香りだ。
俺は、英文を読む。そして、その意味を考える。
「ああ、これは仮定法過去完了の文だな。『もし〜していたら、〜だっただろう』という意味だ」
俺の説明に、銀咲は小さく頷く。
「なるほど。ありがとう、八杉くん」
「どういたしまして」
俺は、答える。
そして、俺たちは再び勉強に戻る。
お昼になる。
俺のお腹が、グーと鳴る。
銀咲が、それに気づいて、小さく微笑む。
「お腹空いたわね」
「ああ、まぁ……」
俺は、少しだけ恥ずかしくなる。
「一緒にお昼ご飯、食べない? 図書館の近くに、美味しい定食屋があるの」
銀咲の提案に、俺は少しだけ驚く。昨日は足立さんとカフェ、今日は銀咲と定食屋。四皇との食事が、二日連続だ。
でも、断る理由もない。
「ああ、いいよ」
俺は、答える。
俺たちは、荷物をまとめて、図書館を出る。
外は、相変わらず雨が降り続いている。でも、午前中よりも少し弱くなっている気がする。
俺たちは、傘を差して、定食屋に向かう。
銀咲が案内する定食屋は、図書館から徒歩三分ほどの場所にあった。昔ながらの、こじんまりとした定食屋だ。
店内に入ると、懐かしい雰囲気が漂っている。カウンター席とテーブル席があって、壁には昭和の雰囲気を感じさせる古いポスターが貼られている。
俺たちは、テーブル席に座る。
メニューを見ながら、注文するものを決める。
「私は、焼き魚定食にするわ」
銀咲が、言う。
「じゃあ、俺は生姜焼き定食で」
俺は、答える。
注文を済ませて、料理が来るのを待つ。
その間、銀咲と他愛もない話をする。でも、銀咲との会話は、足立さんとの会話とは少し違う。銀咲は、どこか冷静で、大人びている。その会話が、どこか知的だ。
「八杉くん、昨日は足立と図書館にいたんでしょ?」
銀咲が、突然尋ねる。
「え、どうして知ってるの?」
「楪から聞いたのよ。楪、すごく楽しかったって言ってた」
銀咲は、小さく微笑む。
「そっか……まぁ、たまたま会っただけだけど」
「ふふ、たまたまね」
銀咲は、意味深に言う。
そして、料理が運ばれてくる。
焼き魚定食と生姜焼き定食。どちらも、ボリュームがあって、美味しそうだ。
「いただきます」
俺たちは、食事を始める。
生姜焼きは、甘辛いタレが絶妙で、ご飯が進む。
「美味しいね」
俺は、言う。
「ええ、この定食屋、昔からあるの。私、小さい頃から時々来てるのよ」
銀咲は、焼き魚を丁寧に食べながら言う。
「そうなんだ」
俺たちは、食事を続けながら、さらに話を続ける。
そして、銀咲がふと真剣な表情で口を開く。
「ねぇ、八杉くん」
「ん?」
「八杉くん、最近、楪や晄や優里のことを、どう思ってる?」
銀咲の質問に、俺は少しだけ戸惑う。
「どうって……友達として大切に思ってるけど」
「友達として?」
銀咲は、俺をじっと見つめる。その紅い瞳が、どこまでも真剣だ。
「ああ」
俺は、答える。
銀咲は、しばらく黙っていたが、やがて小さくため息をつく。
「八杉くん、貴方、本当に鈍感ね」
「え?」
「みんな、貴方のこと……」
銀咲が、そこまで言いかけて、言葉を止める。
「みんな、俺のこと、何?」
俺は、尋ねる。
「……いいえ、何でもないわ」
銀咲は、視線を逸らす。
その後、俺たちは無言で食事を続ける。その沈黙が、どこか重い。
食事を終えて、会計を済ませる。
店を出ると、雨は止んでいた。空は、まだ曇っているが、雨は降っていない。
「雨、止んだね」
俺は、言う。
「ええ」
銀咲は、小さく頷く。
俺たちは、再び図書館に向かう。
道中、銀咲がふと口を開く。
「八杉くん、もうすぐ海水浴の日ね」
「ああ、そうだな」
「楽しみ?」
「まぁ、みんなと一緒だから、楽しいと思う」
俺の言葉に、銀咲は小さく微笑む。
「そう。でも、八杉くん」
「ん?」
「いつか、ちゃんと向き合わなきゃいけない時が来るわ。自分の気持ちと、みんなの気持ちと」
銀咲の言葉に、俺は少しだけドキッとする。
「……わかってる」
俺は、小さく答える。
図書館に戻り、俺たちは再び自習室で勉強を始める。
午後の勉強は、午前中よりも集中できなかった。銀咲の言葉が、頭の中で繰り返される。「いつか、ちゃんと向き合わなきゃいけない時が来るわ」
その言葉の意味を、俺は少しずつ理解し始めていた。
四皇への気持ち。それを、いつかはちゃんと整理しなければならない。
でも、まだその時じゃない。
俺はそう自分に言い聞かせながら、勉強を続ける。
そして、夕方になる。
俺たちは、勉強を終えて、図書館を出る。
外は、雨が再び降り始めていた。でも、午前中よりも弱い雨だ。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
銀咲が、言う。
「ああ、銀咲さんも」
俺は、答える。
でも、銀咲は、少しの間俺を見つめた後、小さく呟く。
「八杉くん、私ね……」
「ん?」
「私も、貴方と一緒にいると、楽しいの」
銀咲の言葉に、俺は少しだけドキッとする。昨日の足立さんと同じような言葉だ。
「俺も、銀咲さんと一緒にいると楽しいよ」
俺は、素直に答える。
銀咲は、少しだけ頬を赤らめて、小さく微笑む。
「ありがとう。でも、八杉くん。貴方は、いつかちゃんと選ばなきゃいけない時が来るわ」
「選ぶ?」
「ええ。でも、それは今じゃない。焦らなくていい。ゆっくりと、自分の気持ちを整理していけばいい」
銀咲の言葉に、俺は少しだけ安心する。
「……ありがとう、銀咲さん」
「どういたしまして。じゃあ、また明日ね」
銀咲は、手を振って、去っていく。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
今日、銀咲と過ごした時間。
それは、昨日の足立さんとはまた違った、どこか知的で、でも温かい時間だった。
銀咲の言葉。「いつか、ちゃんと向き合わなきゃいけない時が来るわ」
その言葉が、俺の心に深く刻まれる。
俺は、いつかその時が来ることを、少しずつ受け入れ始めていた。
でも、まだその時じゃない。
今は、四人と友達として、楽しい時間を過ごす。
それが、今の俺にできることだ。
俺は、そう決意しながら、家に帰った。
家に帰ると、姉がリビングでテレビを見ていた。
「おかえり、裕一」
「ただいま」
「今日も図書館?」
「ああ」
「誰かと一緒?」
姉の質問に、俺は少しだけ躊躇う。
「銀咲さんと一緒だった」
「へぇ、今度は銀咲さん。昨日は足立さんで、今日は銀咲さん。裕一、モテモテじゃない」
姉は、ニヤリと笑う。
「別に、たまたまだよ」
「ふーん。でも、楽しかったんでしょ?」
姉の言葉に、俺は少しだけ顔が赤くなる。
「まぁ、普通に」
「ふふ、素直じゃないわね」
姉は、意地悪そうに笑う。
その夜、俺は布団の中で、今日のことを思い返していた。
銀咲と過ごした時間。
図書館での勉強、定食屋での昼食、帰り道での会話。
そして、銀咲の言葉。「いつか、ちゃんと向き合わなきゃいけない時が来るわ」
その言葉が、俺の心に深く刻まれている。
四皇への気持ち。
それを、いつかは整理しなければならない。
誰かを選ぶということは、誰かを傷つけるということだ。
その責任を、俺はまだ負えない。
でも、いつかは向き合わなければならない。
その時が、もうすぐ来るのかもしれない。
夏休みという、長い時間の中で。
俺は、その答えを見つけるのだろう。
そう予感しながら、俺は深い眠りの中に落ちていった。
窓の外を見ると、雨が降り続いている。
その雨音が、どこか心地よい。
明日は、また新しい一日が始まる。
夏休みの四日目。
その中で、俺は何を見つけるのだろうか。
その答えは、まだわからない。
でも、一つだけわかっていることがある。
この夏休みが、俺を変える。
四皇との時間が、俺の心を変える。
その予感を感じながら、俺は眠り続けた。
夏の雨は、静かに降り続ける。
そして、俺の青春も、また少しだけ前に進んでいく。
その先に、何が待っているのか。
俺は、まだ知らない。
でも、いつか知る時が来る。
その日を、俺は静かに待っていた。
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