図書館での偶然
夏休み二日目。俺は、朝からある決意をしていた。それは、夏休みの宿題を少しずつ進めるということだ。銀咲のメッセージを思い出す。「夏休みの宿題、少しずつ進めた方がいいわよ。後でまとめてやるのは大変だから」その言葉が、どこか心に引っかかっている。
確かに、夏休みの宿題は大量だ。数学のワークブック、英語の課題プリント、国語の読書感想文、理科の自由研究、社会のレポート。それらを全て、夏休み最後にまとめてやろうとしたら、確実に地獄を見る。だったら、今のうちから少しずつ進めておいた方がいい。
でも、家で勉強するのは、どうしても集中できない。誘惑が多すぎる。パソコン、ゲーム機、漫画、アニメ。それらが、俺を誘惑する。だったら、外で勉強した方がいい。
俺は、図書館に行くことにした。
朝食を食べて、身支度を整える。カバンに、宿題のワークブックとノート、筆記用具を詰め込む。そして、家を出る。
姉は、またも夜勤明けで寝ている。テーブルの上には、また付箋が置かれていた。「お昼ご飯は冷蔵庫に入れてあるわ。外出する時は、ちゃんと戸締まりしてね」姉の優しさが、その付箋から伝わってくる。
俺は、電車に乗って、街の中心部にある図書館に向かう。車内は、夏休みの学生たちで少し混んでいる。みんな、それぞれの目的地に向かっている。遊びに行く人、バイトに行く人、勉強しに行く人。様々な人がいる。
図書館に到着する。時刻は、午前十時。図書館は、まだそれほど混んでいない。
図書館の入り口をくぐると、冷房が効いた涼しい空気が俺を包む。その涼しさが、どこまでも心地よい。外の暑さとは対照的な、快適な空間だ。
俺は、二階の自習室に向かう。階段を上がって、自習室のドアを開ける。
自習室には、既に何人かの学生が勉強していた。みんな、真剣な表情で、教科書やノートに向き合っている。その雰囲気が、どこか張り詰めている。
俺は、空いている席を見つけて、座る。窓際の席だ。窓からは、図書館の庭が見える。木々が生い茂っていて、緑が目に優しい。
俺は、カバンから数学のワークブックを取り出す。そして、問題を解き始める。
二次関数、三角比、確率。試験で出た範囲を、もう一度復習する。問題を解いていると、試験勉強の時のことを思い出す。勉強会での時間。柊が教えてくれた解法。神行、銀咲、足立さん、川瀬と一緒に勉強した時間。
その時間が、どこか懐かしい。
俺は、問題を解き続ける。集中していると、周りの音が聞こえなくなる。鉛筆で紙に書く音だけが、耳に届く。
そして、一時間ほど経った頃。
誰かが、俺の隣の席に座る。
俺は、顔を上げる。
そこには、足立さんがいた。
「あ、八杉くん」
足立さんが、優しく微笑む。
「足立さん……どうしてここに?」
俺は、驚いて尋ねる。
「私も、夏休みの宿題をしようと思って。それに、新しい本も借りたくて」
足立さんは、カバンから教科書とノートを取り出す。
「そっか。俺も、宿題を少しずつ進めようと思って」
「偉いね、八杉くん。私も、明日香ちゃんの言葉を思い出して、早めにやろうと思ったの」
足立さんは、小さく笑う。
俺たちは、並んで勉強を始める。
足立さんは、国語の課題をしている。古文の問題を解いているようだ。時々、わからないところがあると、古語辞典を開いて調べている。その姿が、どこまでも真剣だ。
俺は、数学の問題を解き続ける。でも、時々、足立さんの方を見てしまう。足立さんの横顔が、どこまでも美しい。茶色の髪が、窓から差し込む光に照らされて、柔らかく輝いている。
いや、見とれてない。ただ、隣にいるから、つい視界に入るだけだ。
俺はそう自分に言い聞かせながら、数学の問題に集中する。
そして、お昼になる。
俺のお腹が、グーと鳴る。
足立さんが、それに気づいて、クスッと笑う。
「お腹空いたね」
「ああ、まぁ……」
俺は、少しだけ恥ずかしくなる。
「一緒にお昼ご飯、食べない? 図書館の近くに、美味しいカフェがあるの」
足立さんの提案に、俺は少しだけ迷う。でも、断る理由もない。
「ああ、いいよ」
俺は、答える。
俺たちは、荷物をまとめて、図書館を出る。
外は、相変わらず暑い。真夏の日差しが、容赦なく降り注いでいる。蝉の鳴き声が、さらに大きくなっている。
足立さんが案内するカフェは、図書館から徒歩五分ほどの場所にあった。白を基調とした、可愛らしい外観のカフェだ。
店内に入ると、冷房が効いていて、涼しい。店内は、木製のテーブルと椅子が並んでいて、落ち着いた雰囲気だ。壁には、観葉植物が飾られている。
俺たちは、窓際の席に座る。
メニューを見ながら、注文するものを決める。
「私、チキンとアボカドのサンドイッチにする」
足立さんが、言う。
「じゃあ、俺はBLTサンドイッチで」
俺は、答える。
注文を済ませて、料理が来るのを待つ。
その間、足立さんと他愛もない話をする。夏休みのこと、宿題のこと、最近読んだ本のこと。
「ねぇ、八杉くん。『人形の家』の新刊、もう読んだ?」
足立さんが、尋ねる。
「ああ、昨日読み終えた。あの展開、すごかったな」
「でしょ! まさか、あのキャラクターが犯人だったなんて」
足立さんは、目を輝かせながら言う。
俺たちは、『人形の家』の話で盛り上がる。好きなキャラクター、印象的なシーン、次巻の予想。その会話が、どこまでも楽しい。
足立さんと話していると、時間が経つのがあっという間だ。足立さんの笑顔を見ていると、こっちまで楽しくなる。
そして、料理が運ばれてくる。
サンドイッチは、ボリュームがあって、美味しそうだ。
「いただきます」
俺たちは、サンドイッチを食べ始める。
その味は、絶品だ。BLTサンドイッチのベーコンの塩気と、トマトの酸味が、絶妙にマッチしている。
「美味しいね」
足立さんが、嬉しそうに言う。
「ああ、本当に」
俺は、答える。
俺たちは、サンドイッチを食べながら、さらに話を続ける。学校のこと、友達のこと、将来のこと。
「ねぇ、八杉くん。将来、何になりたいとか考えてる?」
足立さんが、尋ねる。
「将来か……まだ、はっきりとは決まってないかな。でも、何か自分の好きなことを仕事にできたらいいなって思ってる」
「そっか。私も、まだはっきりとは決まってないけど、人を笑顔にできる仕事がいいな」
足立さんは、優しく微笑む。
その笑顔を見て、俺は少しだけ胸が温かくなる。足立さんは、本当に優しい人だ。その優しさが、人を惹きつける。
食事を終えて、会計を済ませる。
「じゃあ、また図書館に戻ろっか」
足立さんが、言う。
「ああ」
俺は、頷く。
俺たちは、再び図書館に向かう。
道中、足立さんがふと口を開く。
「ねぇ、八杉くん」
「ん?」
「今日、一緒に勉強できて、すごく楽しかった」
足立さんの声は、どこまでも優しい。
「俺も楽しかった」
俺は、素直に答える。
「また、一緒に勉強しようね」
「ああ」
俺は、頷く。
図書館に戻り、俺たちは再び自習室で勉強を始める。
午後の勉強は、午前中よりも集中できた。足立さんが隣にいる安心感が、俺を支えてくれる。時々、わからない問題があると、お互いに教え合う。その時間が、どこまでも心地よい。
そして、夕方になる。
俺たちは、勉強を終えて、図書館を出る。
夕日が、街をオレンジ色に染めている。その光が、俺たちを照らしている。
「じゃあ、また明日ね」
足立さんが、優しく微笑む。
「ああ、また明日」
俺は、答える。
でも、足立さんは、少しの間俺を見つめた後、小さく呟く。
「ねぇ、八杉くん」
「ん?」
「私ね、八杉くんと一緒にいると、すごく楽しいの」
足立さんの言葉に、俺は少しだけドキッとする。
「俺も、足立さんと一緒にいると楽しいよ」
俺は、素直に答える。
足立さんは、少しだけ頬を赤らめて、小さく微笑む。
「ありがとう。じゃあ、また明日ね」
足立さんは、手を振って、去っていく。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
今日、足立さんと過ごした時間。
それは、どこまでも楽しかった。
足立さんの笑顔、足立さんの優しさ、足立さんの温もり。
その全てが、俺の心に残っている。
そして、俺は少しずつ気づき始めていた。
足立さんのことを、ただの友達として見ているだけじゃない、ということに。
でも、それを認めたくない。
俺は、恋愛から距離を置くと決めた。
だから、足立さんのことも、友達として大切に思っているだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
俺はそう自分に言い聞かせながら、家に帰った。
でも、心の奥底では、わかっていた。
もう、元には戻れない。
俺の心は、確実に変わり始めている。
足立さんとの時間が、俺の心を変えている。
その事実に、俺はまだ気づかないふりをしていた。
家に帰ると、姉が既に起きていた。
「おかえり、裕一。今日は図書館?」
姉が、尋ねる。
「ああ、宿題してきた」
「偉いわね。ちゃんと勉強してるのね」
姉は、優しく微笑む。
「まぁな」
俺は、素っ気なく答える。
「それで、今日は一人で?」
姉の質問に、俺は少しだけ躊躇う。
「いや、途中から足立さんも来て、一緒に勉強してた」
「へぇ、足立さん。あの優しい子ね」
姉は、ニヤリと笑う。
「別に、たまたま会っただけだよ」
「ふーん。でも、楽しかったんでしょ?」
姉の言葉に、俺は少しだけ顔が赤くなる。
「まぁ、普通に」
「ふふ、素直じゃないわね」
姉は、意地悪そうに笑う。
その夜、俺は布団の中で、今日のことを思い返していた。
足立さんと過ごした時間。
図書館での勉強、カフェでの昼食、帰り道での会話。
その全てが、どこまでも楽しかった。
足立さんの「私ね、八杉くんと一緒にいると、すごく楽しいの」という言葉。
その言葉の意味を、俺は少しずつ理解し始めていた。
足立さんは、俺に好意を持っているのかもしれない。
でも、それを認めてしまったら、俺はどうすればいいのか。
四皇全員が、俺に好意を持っているのかもしれない。
その事実を、俺は少しずつ認識し始めていた。
でも、それを受け入れることは、まだできない。
誰かを選ぶということは、誰かを傷つけるということだ。
その責任を、俺はまだ負えない。
だから、今は友達として、四人と平等に接する。
それが、一番いい選択肢だ。
俺はそう自分に言い聞かせながら、眠りについた。
でも、心の奥底では、わかっていた。
いつかは、選ばなければならない時が来る。
その時が、もうすぐ来るのかもしれない。
夏休みという、長い時間の中で。
俺は、その答えを見つけるのだろう。
そう予感しながら、俺は深い眠りの中に落ちていった。
窓の外を見ると、満月が空に輝いている。
その光は、どこまでも美しくて、でもどこか儚い。
明日は、また新しい一日が始まる。
夏休みの三日目。
その中で、俺は何を見つけるのだろうか。
その答えは、まだわからない。
でも、一つだけわかっていることがある。
この夏休みが、俺を変える。
四皇との時間が、俺の心を変える。
その予感を感じながら、俺は眠り続けた。
夏の夜は、静かに更けていく。
そして、俺の青春も、また少しだけ前に進んでいく。
その先に、何が待っているのか。
俺は、まだ知らない。
でも、いつか知る時が来る。
その日を、俺は静かに待っていた。
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