"本物の恋"がしたい
「ねぇ、八杉っち。今日も一緒に帰ってくれない?」
保健室の中で下校の支度をしていた優里は言った。その瞳は不安が宿っていて、今日の出来事の恐怖がまだ消えていないのが見て取れる。優里の手は、少し震えている。
俺はそれを見て「分かった」と言って了承した。優里には今日色々と悪い事があった。佐藤先輩に手首を掴まれて、廊下で叫び声を上げて、多くの生徒に見られて。なら、少しでも今日が安心できる一日だってことを教えてあげるべきだ。
保健室のベッドに座っている優里の隣に俺も座ると、彼女は俺の腕に寄りかかるように頭を当てた。そこから伝わってくる優里の温もりに俺の心臓が高鳴る。優里の髪からは、甘い香りがする。シャンプーの香りだろうか。
優里の体温が、俺の腕を通して伝わってくる。その温もりは、どこか安心感を与えてくれる。いや、違う。俺が優里を安心させなければならないんだ。
「ねぇ、八杉っち。私もいつか本物が欲しいな」
優里が、小さく呟く。その声は、どこか寂しそうだ。
「本物……?」
優里の言ったその一言に俺は困惑した。優里にとって"本物"とは一体何か。それは何を指していて、何を求めているのか。今の俺には何も分からなかった。
偽の恋人関係じゃなくて、本当の恋人が欲しいということだろうか。それとも、別の何かを指しているのだろうか。
そんなことを思っていると、優里は俺の手を絡めるように握る。その手は、少し冷たくて、でも柔らかい。俺の高鳴る心臓の鼓動が早くなっている。
「ねぇ、今日私の家まで来てくれない? 今日はパパもママもいないの」
優里は優しい顔で言った。それはどこか幼くて、それでいて誰かに寄り添って欲しいという願望が見えた気がした。優里の瞳は、どこまでも不安そうで、一人にしてほしくない、という気持ちが溢れている。
……ん? この展開薄い本で見たことがあ――何考えてんだ俺!?
俺は、慌てて頭を振る。今は、そんなことを考えている場合じゃない。
「……ああ、いいよ」
俺は、優里に答える。
「やった、ありがとね!」
優里は、満面の笑みを浮かべる。その笑顔は、少しだけ不安が消えたような表情だ。
夏休みも定期テストももうすぐある。それまでにこの問題を解決しなきゃな。まぁまずは今日は優里に付き添うしかなさそうだ。一人にしたら、また不安になるだろう。
※ ※ ※
帰り道。夕日が道を照らす中で俺たちはそのまま二人で帰っていた。空は、オレンジ色から徐々に紫色に変わっていく。街には、帰宅する人々の姿が見える。
優里が"カップルだから"という理由で手を繋ぎながら俺達は優里の家に向かっていた。優里の手は、俺の手をしっかりと握っている。その力は、思ったよりも強い。まるで、離したくない、というような。
「ねぇ、八杉っちはさ。好きな人とかいないわけ?」
優里が、ふと尋ねる。その声は、どこか探るような、でも純粋な好奇心が混ざっている。
「――いない、断じていない」
俺は即答していた。当たり前だ去年の夏休み、一途に長年好意を寄せていた彼女に振られたのだ。熱のあるものが一気に冷めてしまった以上、それを元に戻すのは難しい。
あの日の夏祭り。浴衣姿の彼女に告白して、優しく断られた。「ごめんね、八杉くん。でも、友達としてこれからも仲良くしたいな」というその言葉は今でも耳に残っている。あの日から、俺は恋愛から距離を置くことを決めた。
神行晄、銀咲明日香、足立楪、川瀬優里、この四皇のうちの誰かに好意を抱いたことはない。それは別にこの四人に魅力とか、興味がないわけじゃない――ただ今の俺にはそれが必要ないってことだけだ。
俺は今アニメやゲームに没頭している。俺の趣味は俺を裏切らないからだ。アニメのキャラクターは、俺を傷つけない。ゲームは、俺を裏切らない。
川瀬優里と偽りとはいえ偽の恋人を演じてきたが、心臓が高鳴る瞬間はあれど、それはきっと"本物の恋"とは言えないだろう。優里といると楽しい。でも、それは友達として楽しいだけだ。恋愛感情じゃない。
さて、俺にもいつか"本当の恋"ができる日が来るのだろうか。
「そっか、じゃあ八杉っちには好きなタイプとかいないの?」
優里が、続けて尋ねる。
「好きなタイプか……あんまりそんなこと考えたことないかな」
俺の脳裏を過ぎるのは去年の夏に告白した女子の顔。それは花火が爆発した瞬間よりも明るくて眩しかった。でも、花火が消えるのは一瞬と同じようにあの時のその子の眩しさも一瞬だった。
「そっか、私は八杉っちになら何されても大丈夫だよ?」
優里がどこか甘い誘いをするように呟く。おいおい、それ聞く相手が俺じゃなかったら勘違いして終わるやつだぞ。優里の声は、どこか甘えるような、でも真剣な響きがある。
そんな会話をしていた時、優里の家が見えてきた。少し大きめの一軒家で、確かに広い駐車場を見ると車一台すら止まってない。本当に親が帰ってきてない状況だな。
家は、白を基調とした綺麗な外観で、庭には花が植えられている。かなり立派な家だ。
俺はそのまま優里に案内されるように、彼女の家に入った。玄関を入ると、広々としたリビングが見える。家具は、どれも高級そうだ。
優里の家の中の匂いはとても良くて、ついつい嗅いでしまう。アロマか何かを焚いているのだろうか。リラックスできる香りだ。
そこから俺はしばらく優里と一緒に家にいることになった。夜の二十時に優里の親が帰ってくるとのことなので、俺はその時間帯まで優里と一緒にいることにした。
その二十時まで俺たちはアニメを見たり、テレビ番組を見たりして過ごした。優里は、俺の隣に座って、時々俺の肩に頭を預けてくる。その時間はとても心地よくて、ゆっくりとリラックスできた。
優里と一緒にいると、不思議と落ち着く。アニメを見ながら、優里は時々笑ったり、感想を言ったりする。その姿は、どこまでも自然で、いつもの明るい優里だ。
そんな時だった。優里がふと立ち上がり、俺に視線を向けた。
「私の部屋……見る?」
「は?」
優里の部屋? それは一体どういう意味だ? 疑問が俺の頭いっぱいになる。俺は思わずポカンとしていた。
そんな俺を置いて、優里は俺の手をゆっくりと優しく引いて、部屋まで案内してくれた。階段を上って、廊下を歩いて、優里の部屋の前に着く。
「ここだよ、可愛いでしょ」
優里は、ドアを開ける。
優里の部屋はとても女子らしい部屋――いやギャルに近い部屋と言ったところか。ピンクを基調とした壁紙、大きなベッド、クローゼットには服がたくさん並んでいる。机の上には、化粧品やアクセサリーが置かれている。壁には、アイドルのポスターが貼られている。
夜の月明かりが部屋を照らす中で、優里はベッドに座った。そして、彼女はベッドをトントン叩き、俺を優里の隣に誘導させた。
俺は、少し迷ったが、優里の隣に座る。ベッドは、思ったよりも柔らかい。
「ねぇ、私達ってこうなってみれば、本当の彼氏彼女みたいだね」
優里が、俺の方を向いて言う。その瞳は、どこまでも真剣だ。
「――何言ってんだ。寝言は寝てから言え」
俺は、素っ気なく答える。でも、心臓は早鐘を打っている。
「少しは私の冗談に乗ってよ……もう」
優里がどこか拗ねたように言う。その表情は、少しだけ不満そうだ。
――次の瞬間だった、優里は俺の体を掴み、俺が彼女を押し倒すような形でベッドに倒れた。
俺は、優里の上に覆いかぶさるような形になっている。その距離は、異常に近い。優里の甘い香りが、鼻をくすぐる。優里の瞳が、俺を見つめている。
「ねぇ、八杉っち。私、八杉っちには何をされても良いんだよ?」
優里の瞳が潤んでいる。それはどこか俺を俺自身を求めているようで、今にも襲って欲しいと言っているような仕草だ。優里の頬は、少し赤く染まっている。その唇は、少し開いている。
俺はそんな優里を見て、ため息をついた。
「あのな、そういうのは本当に好きな人とするんだよ。俺とお前じゃ不釣り合いだろ」
俺は、優里から離れて、ベッドに座り直す。
「……そっか。ごめんね、なんか変なことして」
優里は、少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。その瞳には、涙が浮かんでいる。
俺には人を異性を好きになることを忘れてしまった。それは俺にとってはどうでもいい事で、逆にそれが俺に"究極の恋愛耐性"を得てしまった。
去年の夏、あの失恋以来、俺は恋愛から距離を置いている。誰かを好きになることを、恐れている。また傷つくのが怖いから。
優里と俺はすぐに元の位置に戻り、優里が俺の肩に頭を預けた。その体温が、俺の肩を通して伝わってくる。
「ねぇ、八杉っちもいつか"本物"が見つかるといいね」
優里の声は、どこまでも優しい。その言葉には、俺への願いが込められている。
「……ああ、そうだな」
俺は、小さく答える。
優里は、しばらく黙っていたが、やがて小さく呟く。
「私も、いつか"本物"が見つかるといいな」
その声は、どこか寂しそうだ。
俺は、優里の頭を優しく撫でる。
「大丈夫だ。優里なら、きっと見つかる」
俺の言葉に、優里は少しだけ笑顔を見せる。
「ありがとう、八杉っち」
優里は、俺の肩に顔を埋める。その姿は、どこまでも幼くて、でも愛おしい。
いや、愛おしいとかじゃない。ただ、友達として大切に思っているだけだ。
俺はそう自分に言い聞かせながら、優里と一緒に過ごした。
そして、二十時になり、優里の親が帰ってくる。
俺は、優里の両親に挨拶をして、家を出た。
帰り道、俺は今日のことを思い返していた。
優里の「本物が欲しい」という言葉。
優里の「何をされても良い」という言葉。
優里の「本物が見つかるといいね」という言葉。
その言葉の意味を、俺はまだ理解していなかった。
いや、理解したくなかった。
なぜなら、それを理解してしまったら、俺の心が揺らいでしまうから。
俺は、恋愛から距離を置くと決めたんだ。
だから、優里の気持ちには、気づかないふりをする。
俺はそう決意しながら、家に向かって歩いた。
でも、心の奥底では、少しだけ揺らいでいる自分がいた。
その事実に、俺はまだ気づかないふりをしていた。
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