固い毒
亜希子は飽き飽きしていた。毎日の生活に疲れ果てたのである。すべての原因は、彼女の夫の敏夫にあった。敏夫は、四十歳という年齢にしては、若く見えて端正な顔立ちである。そのためか、彼は、女性から、よくモテた。それで、自然と不倫を重ねて、我慢強い亜希子も、もう彼の素行には限界に達していた。しかし、財産家である彼と別れれば、当然、彼女が大損をする。どうしよう。亜希子は悩んだ。そして、究極の選択を選んだ。
敏夫を殺そう、と。しかし、彼女が疑われては、元も子もない。何とか、容疑を免れなくてはならない。ならば、鉄壁のアリバイ工作をして、彼女が疑われなくてすむようにしよう。では、どうすればいいか。とにかく、彼が死んだ現場に彼女が居なければ、嫌疑をかけられる可能性は低くなる。それで、彼女は、毒殺することにした。それでは、どうすれば、彼女がいない間に、敏夫を毒殺できるか?そこで、亜希子は、昔読んだ推理小説のトリックを拝借する事にした。つまり、凍らせた氷に毒を混ぜておき、ウイスキーが好きな敏夫が、酒に氷を混ぜて飲み、毒死することを目論んだのである。それならば、あらかじめ、毒を混ぜた氷の入ったアイスペールを冷凍庫に入れておいて、外出すれば、その間に敏夫が酒を飲み死んでしまうだろう、と予測したわけである。これでうまくいくわ、と亜希子は、ほくそ笑んだ.........。
「あなた、お昼はどうするの?」
亜希子が訊くと、ソファの敏夫が、笑って、
「気にしなくていいよ。自分で何か作って食べとくから、気にしないで、行っといで」
「あら、そう。じゃあ、お言葉に甘えて、出かけてくるわ」
「楽しんでくると、いい」
今日は、友人の沙也加と一緒にランチを楽しむ予定であった。出かけている間に、敏夫も親友の岡村と一緒に酒を飲むといってる。うまくいけば、敏夫は死ぬだろう。ワクワクして、亜希子は外出した。
「どうだい、調子は?」
と、岡村が尋ねた。彼はもう飲んでいた。いい気分である。
「会社の方が、急がしくてさ、たまの休みだから、酒でも飲まなきゃやってられないよ」
そう言って、敏夫は、棚からウイスキーのボトルを抜き出した。まだ新品のボトルだ。封を開ける。そして、冷凍庫から、氷の入ったアイスペールも出してきた。グラスに酒を注ぎながら、
「で、奥さんとは、うまくいってるのかい?また、お前、浮気でもしてるんだろ?」
「お前でもあるまいし。俺は、女房一筋さ、真面目なものだよ」
敏夫が、酒の入ったグラスに氷を入れて、また、氷のアイスペールを冷凍庫に仕舞い込むと、一口飲んだ。
「お前は、遊びをシラン男だよ。たまには、俺みたいにー」
と言いかけて、突然に、その場で立ち上がったかと思うと、手で喉をかきむしり、うぐっと叫んだかと思うと、床に倒れ込んだ。
「お、おい、どうした!」
岡村が、助け起こしたが、ぐったりとして、敏夫は動かない。そう、亜希子の計画は、見事に成功したのだ.............。
「青酸系の毒物のようですな。アーモンドの匂いがする。で、現場にいたのは、あなただけですな。何か、気づかれたことはありませんかな?」
ソファで意気消沈している岡村に、笑顔で、山村刑事が言った。
「特に何も。酒を一口飲んで、いきなり倒れたから、私は驚いてしまって。いったい、どういうことなんです?」
そして、あれこれと、聴取が続けられているところへ、亜希子が帰宅してきた。彼女は、手にした荷物をテーブルに置くと、警察から事情を教えてもらい、ショックを受けたふりをして、愕然として椅子に座りこんだ。そして、
「で、夫は?夫はもう死んだのですか?」
「あいにくですが。お察しします。で、奥さんは、今日は、どちらへ?」
「ええ、知り合いと、お昼ご飯を食べようと思って。でも、こんなことなら、出かけなければよかったですわ」
「あのう、さっき、調べたんですがね、あなたのご主人、どうやら毒殺されたような可能性があるんです。それで、誰か、そんなことをする人物に心当たりは、おありですかな?」
「さあ?」
と、亜希子は、チラリと岡村を睨みつけて、
「存じ上げません。自殺の可能性はないのですか?」
「そのような気配はありましたかな?」
「いいえ、まったく。不思議で堪りませんわね、あたしには」
「そうですか」
と、山村刑事は、答えてから、何やら、同僚の刑事と話し込んでいた。亜希子は聞き耳を立てていた。
「うん?どうした?」
「変なんですよ、例の酒の入ったグラスからは、青酸のアーモンドの匂いがするんですが、その酒の入ったボトルからは、そんな臭いが全くなくて................」
「ふうむ」
と、山村刑事は、しばらく沈思黙考していたが、やおら、亜希子を振り向くと、
「ご主人は、ウイスキーがお好きだったようですな。いつも、お一人で飲むんですかな?」
「そうですわね。準備くらいは、あたしが致しましたが、あたしは、お酒に弱いから、バックスフィズのカクテルくらいかしら?それなら、冷蔵庫に冷やしてありますわ」
すると、何を思ったのか、急に山村が立ち上がり、冷蔵庫のところへ行くと、勝手に、グラスを出して、カクテルを作り始めた。そして、出来上がったグラスを亜希子の目の前のテーブルに置くと、
「あたしも素人だから、詳しくは知りませんが、バックスフィズには、氷が合うんでしたっけ?」
と、言いながら、冷凍庫から、例のアイスペールの氷を出してきた。それを酒に入れながら、
「さあ、お飲みなさい。これで少し、元気でも出して.............」
亜希子は、唖然とした。これは........、この氷は...................。
「さあ、お飲みなさい」
「あたし、このお酒は、飲めません」
「どうしてですか?このお酒が、なぜ飲めないんですかな?」
亜希子は、しばらく黙っていたが、やおら、
「刑事さん、ご存じでしたのね、あたしが主人を殺したってことを」
山村は、笑顔を崩さずに、
「ええ、知ってましたよ。ついさっきからね。でも、決め手がないもので、ついこんな手に出てしまいましたがね?」
いつの間にか、亜希子は泣いていた。そして、泣きながら、
「主人が許せなかったんです。浮気ばかりで。あたしの気持ちなんて、これっぽっちも..............」
山村は、そっと、亜希子の肩に手をおいた。そして、黙っていた。その手は、まるで、娘をいたわる父親の手のようであった....................。




