夜中3時の浴槽の恐怖
その夜、奈緒はなぜか寝つけなかった。布団に入ったのは午前0時を回った頃だったが、寝返りを打つたびに、天井の隅から誰かが覗いているような感覚がして眠れなかった。
時計を見ると、午前2時54分。
「…お風呂、入ってなかったな」
日中は仕事で疲れ、帰宅してすぐに夕食を食べ、気づいたらソファでうたた寝をしていた。汗もかいていたし、このまま寝るのも気持ち悪い。いつもはこんな時間に風呂に入ることはないのに、そのときだけは「今、入っておかなきゃ」という妙な義務感のようなものが胸を締めていた。
足音を忍ばせて浴室に向かう。ひんやりとした床のタイルが足の裏に冷たく吸い付いた。誰もいないはずなのに、風呂場のドアの向こうから、水音のようなものが微かに聞こえる。
「……シャワー? いや、止めたはず」
奈緒は一瞬、胸騒ぎを感じたが、それを打ち消すように自分に言い聞かせた。
(寝ぼけてるだけ。こんな時間だし)
風呂の蓋を開けると、湯気がもうもうと立ちのぼる。追い焚きをしていないのに、まるで誰かがさっきまで入っていたような温かさ。しかも、浴槽の表面には人が出たあとのような水の流れの跡がくっきり残っていた。
「……おかしいな」
思わず口から漏れたその言葉に応えるように、**キィィ……**と背後の扉がきしむ音がした。
奈緒は振り返ったが、そこには誰もいなかった。
気のせいだと自分に言い聞かせ、服を脱ぎ、浴槽に足を入れる。
ぬるいが、逆に心地よく感じた。体まで沈め、目を閉じる。風呂場の明かりは天井の白い蛍光灯だけ。閉じた瞼の裏にうっすら赤みがかる。
――と、そのとき。
ポタ… ポタ…
水の滴る音。
天井から落ちているようだが、明らかに音の位置が動いている。
(……どこ?)
目を開けると、湯気がこもって視界がぼやけている。浴室の一角――窓のそばに、何か黒いものが立っていた。
人影。いや、違う。人のようでいて、明らかに異質な何か。
髪が濡れて、ぼとぼとと水を滴らせている。顔は見えない。ただ、そこに“いる”という気配だけが異常に濃い。
奈緒は声が出なかった。
逃げ出そうにも、体が石のように重い。浴槽の水が突然、氷のように冷たくなった。
するとその影が、ゆっくりと奈緒のほうへ顔を向けた。
その顔には――目も鼻も、口もなかった。
のっぺらぼう。ただ、顔の中央に、ぽっかりと穴があいていた。
「っ……!」
次の瞬間、奈緒は本能的に浴槽から飛び出した。体はガタガタと震えていた。誰かが背後にいる感覚が背中にべったり貼りついて離れない。
ふらつく足で浴室を出て、振り返らずにドアを閉めた。ドアの向こう側から、カツ…カツ…と足音が近づいてくる。
(いやだ、こっちに来る……)
全速力で部屋に戻り、布団にもぐりこんだ。心臓が壊れそうなほど鼓動していた。
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朝。
窓から差し込む光がまぶしい。
昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのか、区別がつかない。だが、風呂場に行くと、それが夢ではなかったことを思い知らされた。
風呂の床には、水浸しの足跡が一対だけ残されていた。
奈緒のものではない、小さく、異様に指が長い足跡だった。
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その日から奈緒は、午前3時前には決して風呂に入らないことにしている。
なぜなら――あの“何か”は、午前3時に目を覚ますからだ。