#50 稚魚 破「怪魚と芽生」
時は2031年。
第22代江戸幕府将軍の治める太陽の国、日本。
此処はその天領、甲斐国・甲府藩。
甲府藩を守る「甲府御庭番衆」に急遽入隊した、竜の少年・硯桜華。
これは一人前の侍となるべく御家人研修に臨んだ桜華の身に起きた、一春の友情と悲劇の物語である。
破 ~怪魚と芽生~
─2031年4月4日 13:10頃─
〔甲府藩 甲府市 白井町〕
河川敷から甲府城へ帰るギッシャーの中、䑓麓さんは窓際に肘をつきながら、つらつらと話し始めた。
「本多忠勝の平八郎家直系の嫡男として生まれた僕は、父がすぐに死んだので急遽家督を継いで、わずか6歳で縁もゆかりも無い古賀藩に奉公に出され、さらに江戸幕府側衆にされました。──
──そして先代の上様、今の大御所の計らいで、当時の側用人・石野千秋様の開く政治派閥「石野塾」に、あのサツマイモ・島津豊三とニコイチで入れられました。
既に石野塾には3人の先輩が居て、いずれも若年寄…うち2人は、既に甲府の守護神と名高かったスーパーヒーローの硯風弥様と新閃目黒様でした。
それが風弥さんとの出会いです。
江戸での仕事は僕にとっては超過酷でした。
朝は6時に叩き起こされ、昼まで塾でミッチリ授業を受け、午後はひたすら事務作業or戦闘任務…気付けば日が暮れ、夜は寝るまで塾の課題に取り組む。
学問も武道も別に得意じゃない…地方の藩校でイキれる程度の成績が江戸で通用するわけないし、ボールすらまっすぐどころか真後ろに投げてしまうような運動神経で十合技の訓練に追いつけるはずもない。
そして何より、大それた目標も憧れも無い僕にとっては、ただただ苦痛でしかなかった。
僕は別に本多家の当主にも幕府高官にもなりたくなかったので、入塾してからはひたすら駄々をこね続け、とにかく周りの大人から嫌われてつまみ出されることを試みました。
武士としての誇りも信念も無い僕に失望し、呆れて放ってくれる大人も居ましたが…石野塾の面々、特に風弥さんはなかなか僕を逃してくれませんでした。
ドがつく程のクソ真面目で、仕事にめちゃくちゃ厳しくて、任務や課題からの逃げは一切許してくれなかったんです。
…でも風弥さんは、僕が毎度のように、「仕事は嫌だ」だの「武術なんてできない」だのと駄々をこねるのを、一切責めてこなかったんです。
あの人って、突然異界からこっちの世界に飛ばされてきたらしくて…自分よりも小さい子供が、自分と同じようにいきなり遠くから寄越されて苦しんでるのを、可哀想にでも思ってたんでしょうか。
僕が延々と愚痴ってるのにも、仏頂面を変えることなくずーっと話を聞いてくれて、僕の気が済んだら頭をわしゃわしゃと撫でてきやがった。
〜〜〜〜〜〜
ある日とうとう、僕は風弥さんに向かって言い放ったんです。
「いい加減にしてくださいよ!風弥さんはなんで僕に優しくするんですか!?仕事も武術も下手くそで、いつまで経ってもイヤイヤ期の終わらないこんなクソガキを、なんで見捨ててくれないんですか!?」
そしたら風弥さんは少し固まって、明らかに「困ってます」みたいな顔をしやがったんです。
「うん…どうしてと言われても、困るな…」
流石にキレました。
「はぁ!?そこで困らないでくださいよ!いつも『自分の発言や行動には理由を説明できるくらいの責任を持て』ってクドクド説教垂れてくるのはそっちじゃないですか!」
甲府最強と呼ばれ、あらゆる点で僕より遥かに上を行くエリートが、特に理由もなく僕に優しくしてくる。
捻くれ者の僕は、それを勝手にマウントだと思ってたんです。
でも風弥さんの回答は意外なものでした。
「お前は、そうやっていくら嫌だ嫌だとゴネ続けても、最後はちゃんと努力して乗り越えるだろ。」
逃げたいと思いながらも、逃げられないことはずっと前から知っていて、結局は維持と根性でなんとかする。
でも、そんな奴より、何も言わずに努力する奴の方が偉い…だから弱音を吐くなと、ずっと言い聞かせられてきたし、自分も自分のことを弱虫のクズだと思って生きてきた。
誰にも褒められなかった僕の習性を、初めて認めてもらえたと思ったんです。
〜〜〜〜〜〜
まあ風弥さんが僕に優しくしてくれた理由の大半は、あの人がただ子供に優しかったのと、面倒見が良すぎただけなんですけどね。
あの人の優しさに、大した理由なんて無いんですよ。
あと風弥さんが出世しながら働く理由って、忠誠を誓った夕斎様のためであって、それ以外の理由はあんまり無くて。
僕が働く理由も日銭とゲームくらいしか無いですが、どうやらそれでも成果を出せばいいらしくて。
やっぱり僕には今も大した目標や憧れは無いですけど、それでも胸張って侍やってていいんだって…風弥さんのおかげで、僕の生きづらさはけっこう解消されたんです。
仕事が嫌いなことは変わらなかったし、苦手な武道もビシバシ指導されましたけど…あの頃の僕は、あの人が居たから、後ろを向きながらでも前進できたんだと思います。
──以上、僕なりに君に話せる、風弥さんの思い出話でした。」
顔合わせの時に声を大にして「君のお父様にはお世話になった」と話していたけど…お父様と䑓麓さんはそんな関係だったんだ。
䑓麓さんはいつの間にかどこか懐かしそうな、少し優しい顔をしていて、そこからは「尊敬のにおい」を感じる気がした。
お父様のことを心から慕ってるんだ…
䑓麓さんは座席に深くもたれると、上を向いて大きくため息を吐いた。
「はぁ〜っ…あの人は後輩指導もめちゃくちゃ上手かったわけですが…それに引き換え、僕は本当にダメでした…」
「そんなことありませんよ、䑓麓さん…僕が䑓麓さんのしてくれたいろんなことに気付かなかっただけで、䑓麓さんにはいっぱいお世話になりましたから。」
「ガキに励まされてる時点でダメなんですよもう…」
䑓麓さんはムクッと起き上がると、少し膨れた顔で僕を見つめ直す。
「ところで桜華くん、君はどうして人に優しくして、仲良くなろうとするんですか?」
突然回答に困る質問が飛んできて、思わず僕は固まってからオロオロしてしまう。
すると䑓麓さんは、フッと意地悪そうな笑みを溢した。
「…そういう反応、本当あの人とそっくりだなー、やっぱあの人の息子だ。」
「どうせ大した理由なんて無いから、返答に窮してるんでしょ。」
「わかって質問したんですか?意地悪です…」
僕が頬を膨らますと、䑓麓さんは少し得意げな顔をした。
「この五日間、幕府でも折り紙付きの捻くれ者の僕と、どうにかして距離を縮めようと試みてきたこと…褒めてあげます。」
「理由もなく人に優しくできる人っていうのは、この世の中じゃなかなか貴重なもんです。」
「せいぜいその意気で会う人会う人に優しくしながら働けばいいですよ…これからわかると思いますけど、そうしていれば君のお父様のように大勢の人が味方になってくれます。」
「良い人も悪い人も、正直者も捻くれ者も、真に優しい人間ってのは分け隔てなく絆すんです。」
「ド陰キャの僕には虫唾の走るアドバイスを言っておきますが…優しさは人と人を繋ぐので今後も続けるといいでしょう…僕みたいになるなよ!」
僕は思わずきょとんとしてしまう。
「䑓麓さん…初めて素直に僕のことを褒めてくれましたね…」
僕がそう呟くと、䑓麓さんは恥ずかしそうにプイッとそっぽを向く。
「ま、まあ…褒めるに値する部分はあったので?僕は苦手ですけど…褒めるっていうのは、人を伸ばすにおいて最も基本的かつ有効な指導なんです。」
「たまに『褒めると調子に乗るから褒めない』とか言って厳しくするだけの人間が居ますが…ああいうのは、指導を受ける側が自信を持つための成功体験をわざと削って、精神的に疲弊させるだけのゴミ教官です。」
「かく言う僕も褒めるのは苦手ですけど…昔は風弥さんに褒められるのが嬉しくて、それで仕事も勉強も頑張ってたので…まあ世代を越したお返しみたいなものとし受け取っといてください。」
「䑓麓さん、お父様のことを恨んでいるなんて…本当はウソだったんですね?」
僕がそう言うと、䑓麓さんはムスッと不機嫌そうな顔に戻り、座席に仰向けに寝そべってため息を吐いた。
「ウソじゃないですよ、本当です…」
「だってずるいだろ、何も言わずに逝くなんて…僕はまだちゃんと大人になれてないのに…」
そう呟くと䑓麓さんの声は、どこか細く悲しそうな響きをしていた。
甲府での初期研修はこれでいったん終了。
土日は休み、次は江戸で五日間の研修を受けることになる。
䑓麓さんが何かを思い出して話し出す。
「あ…そうだ、江戸で石野さんに会ったらよろしく言っといてください、本多䑓麓はやっぱり教育係に向いてなかったです〜って。」
「その石野様って…どんな方なんですか?」
「どんな方…ですか…うーん、超厳格で、風弥さんより怖い人…かなぁ?まあ大人として僕なんかよりうんとしっかりしてますよ、厳つくて顔怖いけど。」
江戸での研修担当である「石野さん」なる方が、お父様よりも怖い…?
あんまりお父様に怖いイメージが無いからイマイチよくわからないけど、強面で厳つくて厳格な人か…
勝手ながら、彫りの深い顔の力士のような人を想像している…それは怖いかも…
「僕は10年側用人やっててもデカい子供のままなので、どうやったらちゃんとした大人になれるかも石野さんに訊くといいですよ。」
そう呟く䑓麓さんからは、少し「悔しさのにおい」を感じる気がした。
──────
─2031年4月9日 9:00頃─
〔武蔵国 忍藩 秩父郡 長瀞町 荒川河川敷〕
テンカラ竿を振り、毛針を水面に投げ落とす。
ポチャン…
風の音、川の音、そこに立つ小さな波紋の音。
春の陽射しを受けて、宝石のようにキラキラと輝く川面。
青緑に透き通った水の中には、細長い影が何個も見える…ヤマメだ。
その中の1匹は他よりも倍くらい長さがあって、一番深いところを悠々と泳いでいる。
この辺りではあまり見かけない大物だ…もしかして50cmくらいはある?
毛針を動かして、気を引けないかな。
私は智多川弥舞愛。
町立荒川尋常中学校に通う、中学2年生…じゃなくて、今月で中学3年生になる。
本当はもう新年度になって、1学期も始まっているんだけど…私は学校に行かず、ここで釣りをしている。
学校には…自分の意思で、行っていない。
あそこには、怪物がいっぱい居る。
私はあそこで息ができない、生きていられない。
〜〜〜〜〜〜
それを理解したのはいつからだろう。
幼稚園に入った頃だったっけ。
幼稚園のお絵描きの時間に、魚を描いたことがある。
私は物心ついた時から魚や水が大好きで、先生が「おさかなさんをかきましょう」と言ったから、家にあった図鑑を持ってきて、好きな魚を描いたんだ。
ゴンズイという魚を描いた。
ナマズの仲間で、黒い体に黄色の縞模様がある。
たくさんのクレヨンを使って、綺麗に描けた。
でも、手を洗って戻ってきたら、同じクラスの別の子たちが、私の絵にクレヨンでめちゃくちゃに落書きをしていた。
「や…やめて、やめてよっ!」
私が落書きする子たちを遠ざけようとすると、逆にいっぱい叩かれて、絵は奪われそうになって、それを引っ張ろうとすると、相手の子が大げさに転んで泣き出した。
大騒ぎになって先生が駆け付けると、転んだ子は私に転ばされてケガをしたと訴えた。
私は必死に違うと訴えたけど、それに対する先生からの答えはビンタだった。
「なんで話し合って仲直りできないの!それにこの絵は何なの!?こんなお魚さんは誰も知りませんしどこにも居ません!お魚さんを描きなさいって言われたことも聞けないの!?」
違う、違うの、先生、それは図鑑に載ってる魚なのに…たくさん叩かれてボロボロになった体で、頑張って持ってきて開いて見せた魚図鑑は、その場で先生に捨てられた。
そして私は、その日は帰るまでずっと、教室の外に締め出されて泣いていた。
小学校に入ったらランドセルを買う。
中学校に入ったらリボンを買う。
男の子は黒か青、女の子は赤。
だけど私は水が好きで、水色を選んだ。
みんなはそれが気に入らなかったみたいで。
ランドセルは入学式の日に、原型を留めないくらいにグシャグシャにされて、窓の外に捨てられた。
リボンも入学式の日に、引きちぎられてゴミ箱に捨てられた。
私は醜くて弱い。
歳の割に背が低くて、手足が木の枝みたいに細くて、胸もお腹もぺったんこ…骨ばった薄っぺらい体。
そのくせ目はまん丸で大きくて、でもクマがひどくて、髪は灰色で腰より下まで伸びていて、前髪は首元くらいまで伸びてる。
だからみんなは私を「山姥」っていう。
髪の毛は埃みたいな色だから、掃除の時間に「ゴミがある」と言われてよく引きちぎられた。
先生たちは揃いも揃って、私の話を聞いてくれることはなかった。
むしろ相談すると、「あなたが先に手を出したんじゃないのか」とか「転んでケガをしただけなのに人のせいにするなんて」とか、逆に私が怒られた。
愚かな私は長い間、大人なら話を聞いてくれるだろうと思い込んでいたけれど…
先生たちの中では既に「私が悪い」というシナリオが固まっていて、いくら何を話しても無駄だとようやく気付いたのは中学生になった頃のことだった。
そして中学生になると、先生からもいじめられるようになった。
体育の柔道の時間、ペアの子にいっぱい足を踏まれて、足が真っ赤なタコみたいに腫れ上がって、涙が出る程痛くて…
それでみんなが教室移動で靴を履いて出ていく中で、足が靴にはまらなくて手こずっていたら。
「チンタラするな、集団行動しろ、自分だけ優先順位一番なのか?」
体育の先生に睨まれて、竹刀で思いきりバシンと叩かれた。
私の紙細工のような体にはとんでもない衝撃で、気絶した上に背中にヒビが入ってしまった。
やり返したら負けだ。
同じレベルに落ちるだけだ。
だから私はずっと黙っていろんな仕打ちを受けてきた。
幼稚園の頃に、お母さんからもらった、水色のミサンガ。
辛いことがあったら、手首につけたミサンガを握って、目を閉じて「うみだ ちゃぷちゃぷ ざんぶりこ」と繰り返し唱える…そうやって耐えてきた。
でも…あれは先月のこと、そんな我慢の糸がとうとう切れてしまう出来事があった。
クラスで飼っていたエンゼルフィッシュが、「私に可愛がられていた」というだけの理由で、私の飼育当番前日に水槽に大量の塩を入れられて死んでいた。
本当に本当に許せなくて、私は棒きれみたいな手を振り回しながら、その場にいた男女6人に飛びかかった。
結末なんて言うまでもない…すぐに取り囲まれて、壁に叩きつけられて、口の中が切れて血が出るくらい殴られた。
「お前のせいで尊い命が失われま〜した〜!」
「アンタなんかに飼われるのが嫌で魚が自殺でもしちゃったんじゃない?」
「ギャハハハハハ!」
あくまでエンゼルフィッシュが死んだのは私のせいにしたかったらしい。
私が関わった生き物は殺される。
私にみんなと同じように生き物を愛でる権利は無い。
それを知らしめて、私を下に押さえつけて、この子たちは自分たちの立場を確かめてるんだ…
いつも通り何も言わなければよかったのに、そこでまた私は余計なことを言ってしまった。
「魚…じゃなくて、エンゼルフィッシュだよ…ミコとマロって名前もついてたんだよ…」
「ああ?魚は魚だろ。」
「かわいそう…あなたたちに飼われたミコとマロも、くだらないことでミコとマロを殺しちゃうあなたたちも、ほんとに、かわいそう…」
そう言い終えると同時に、視界を靴底が覆う。
顔に大きな足跡をつけられ、ぐちゃぐちゃになった私の口には、死んだミコとマロが詰め込まれた。
口いっぱいに充満したのは、ひどい腐臭と薄い塩味…絶望の味だった。
お母さんを悲しませたくなくて、お母さんにまで毒牙が向けられるのが嫌で、お母さんにはずっと何も無いと伝えてきたけど…
その一件で、とうとうお母さんにもいじめがバレた。
それから私は学校に行かなくなった。
生徒指導部の体育教師や担任の先生は、私を連れ戻そうと何度も家に来たけど、その度にお母さんに追い返された。
私へのいじめは奉行所に通報され、加害生徒と学校は訴えられることになるらしい。
今まで気付けなくてごめんねとお母さんには泣かれたけど、隠していたのは私だし、仕事で朝から晩までほとんど家に居ないお母さんに気付けないのは仕方ないことだった…謝られたことが一番悲しかった。
世の中の人間は、悉く腐っている。
一握りの綺麗な人間は、その腐臭と汚濁に、身を縮めて耐え忍んで生きている。
なんて不条理な世界だろう。
〜〜〜〜〜〜
向こう岸で騒いでる人たちがいる。
よりにもよって、私にエンゼルフィッシュを食べさせた男女6人組のメンバーだ。
男子3人…手持ち花火を両手に持ったり咥えたりして、振り回しながら走り回っている。
それだけじゃない…爆竹みたいな花火を持って、鴨や魚を狙ってポイポイ投げている。
爆竹の一個が鴨に当たり、鴨がガーガーと鳴いて暴れ出すと、下品な笑い声が上がった。
「ギャーハハハハ!当たり〜!100点!」
「それ何点満点のやつ〜?勝ったら何くれんの?」
「千円!千円やるよ!」
「すくねー、負けた奴は智多川ん家にピンポンダッシュな。」
「えー、今そんなのやったらあの裁判ババアに捕まっちゃうよ〜。」
「大丈夫だよ捕まんねーって!俺のかーちゃん怒ってたよ、俺の進路に影響するようなことしやがって!ってさ。」
「怒ってたらなんなんだよ〜。」
「俺のかーちゃん、智多川ん家の大家だから、その気になりゃ家から追い出せんだよ!訴えたら追い出すぞって言っとくから安心しろってさ!」
「ヒュー!そりゃ頼りになるぜ!」
「てか智多川って学校来ねぇけどどこ居るんだろ?」
「出魚のどっかに居るだろ、探して引きずり出して…わからせてやろうぜ。」
怖い…息がまともにできない…
竿を引っ込め、草むらに身を隠し、ミサンガを押さえて、深呼吸を繰り返す。
「うみだ、ちゃぷ…ちゃぷ…ざん、ぶりこ…」
恐る恐る様子を伺っていると、男子3人に誰か近付いてきた…と思ったら、私の背中にヒビを入れた体育教師だった。
「おいお前らぁ!学校サボって何してんだぁ!」
竹刀を振り上げる体育教師に、男子3人は悲鳴を上げる。
「…だが智多川を探そうってのには賛成だ、あいつもあいつの親も学校を舐めてやがる。」
「マジで!?じゃあ先生も一緒に探してくれんの!?」
「あいつの母親も引きずり出して、まとめて指導してやる…学校にも守るべき面子があるんだ、問題を起こしやがったのはお前らだが、それはもうこの際どうでもいい!お前らも学校も絶対に訴えさせん!」
「おお!頼りなるぜ先生!」
「フン…任せとけ!今にもあの母娘をとっ捕まえて…」
怖い…怖いよ…助けて、お母さん…
背筋を震わせ、蹲りながら話を聞いていると、突然聞いたことのない男の人の声が割り込んできた。
「ねえそこの人たち、しーっ、ダメだよ?そんなに騒いじゃ…」
「お魚さんが怖がっちゃうでしょ?」
ガブリッ
「ぁギょッ!?」
そして、急に声が止んで静かになった。
草むらから顔を出して見渡してみると、男子3人の姿も、体育教師の姿も、どこにも見当たらない。
代わりにあの子たちが居たところは一面血塗れになっていて、たくさんの魚がピチピチと跳ねていた。
何が起きたの…?
呆然と立ち尽くす私の足元に、1匹の魚が流れ着く。
図鑑でも見たことのない、異様に歯が鋭くて、目が飛び出た、赤い魚。
自分でも何を考えてたのかわからない。
その得体の知れない魚を、私は拾い上げて、クーラーバッグに入れて…
部屋に持ち帰った。
──────
─2031年4月9日 22:00頃─
〔忍藩 秩父郡 長瀞町 野上下郷〕
私の家は、町から少し外れた場所にある。
最近リフォームした古い一軒家で、入り口には石造りの鳥居が建っていて、まるで神社みたいになっている。
家に続く道にしか灯りがないから、夜中になると星空が綺麗に見えるくらい真っ暗になる。
お母さん、今日はなかなか帰ってこないなぁ…
心配になって玄関から外を見渡してみると、家に続く道の端の木の裏に、何か人影が見えた。
その人影の背中には、魚のヒレのようなものが見えて、私はふと今朝拾った奇妙な魚のことを思い出して…
徐に、その人影の後を追いかけていた。
「あめあめ、ふれふれ、かあさんが〜♫じゃのめで、おむかい、うれしいな〜♫」
闇間に響く、暗い歌声。
家から10分以上走ったところで、人影はようやく足を止めて、こちらに振り返った。
紺色に白い鯖模様の描かれたら貫頭衣のような上着に、ブカブカの黒いズボンと下駄を履いた、背の高い緑髪の男の人。
顔立ちは端正で、歯はサメのようにギザギザしていて、狐のように鋭い目付きに、吸い込まれるような渦巻いた青い瞳。
この人は…人なの…?
「君…俺が見えるのかい?」
しゃ、しゃべった…!
「み、みえます…」
返事すると、男の人はニコリと微笑んで、私の頭を撫でながら、耳元に囁いてきた。
「あの魚、持って帰ったんだね。」
私が思わず飛び上がると、男の人はケラケラと笑った。
「ごめんごめん、怖がらせるつもりは無かったんだ…ただ、俺の“産んだ”魚を持って帰っていく人なんて初めて見たからさ?」
「そ、それは…見たことない魚で、調べてみようと思って…」
「ふーん?魚が好きなんだ?奇遇だね、俺もだよ。」
「ほんとですか?」
「うん、見るのも食べるのもだーいすき♫…君、名前は?」
「弥舞愛です。」
この男の人は、自分を「山神」と名乗った。
聞いたことがないけれど、古くからこの地に居るらしい。
山神様は目の前に通りがかった鹿を片手で捕まえると、もう片方の手を牙の生えた魚の口に変えて、鹿の体内に突っ込んだ。
ガブリッ
その音とともに、鹿の体はみるみるうちに血を噴き上げながらグシャグシャと歪んでいき、肉団子のようになった。
そしてそこから手足が伸びてきて、辺りにいろんな色の魚を撒き散らしながら、赤茶色の魚と鹿が合わさったような怪物になった。
「これが俺の力だよ。」
男子3人と体育教師は、突然消えたんじゃなくて、山神様によって魚に変えられてしまったらしい。
「俺の作った魚はなんでも齧る…特に俺が直接魚になった時は、生物の魂も齧ることができるのさ。」
「魂を齧られた生物は、己の本来の姿形を見失い、その“在り方”を捕食者に委ねる…その結果がコレだよ。」
呆然と見つめる私の顔を、山神様は不思議そうな表情で覗いてくる。
「怖くないの?」
「はい、別にこういうのは…意外と平気です…」
「そっか、君変わってるね。」
「変わってるのかな…私はただ、今のを見て、山神様の話を聞いて思ったんです…命って掛け替えのないものじゃないの?命には価値はないの?って…」
「掛け替えはあるし、価値は無いよ。」
「えっ…?」
「命…すなわち魂は、ただの精神力の塊に過ぎないよ…俺が一齧りしただけで、
その在り方は簡単に変わる…」
「それって…」
「俺は魂を食べる山神…俺の前では全ての命は等しく無価値、俺はそれを本能のまま食べているに過ぎないんだよ。人を殺すのと蚊を殺すのと、何か違うと思うかい?」
「それは…思いません…人は同族だから殺し合ってはいけないという社会のルールがあるだけで、人を殺してはいけないという根本的な規律は存在しない。」
「そうそう、それでいいんだよ♫うーん…弥舞愛ちゃん、誰か殺したい人でもいるの?」
殺したい人…それなら…
〜〜〜〜〜〜
「ほら、食えよ食えよ。」
「大事な友達でしょ〜?」
〜〜〜〜〜〜
私がグッと口を噤むと、山神様はニッコリ笑って、私の顔に手を突っ込んできた。
ズブッ
「えっ…?」
「弥舞愛ちゃんってさ、自分にとって嫌いな人のことはどう思う?」
「それは…嫌いだけど、それだけです…」
「じゃあ、自分のことを嫌いな人は?」
「…死んでほしい。」
「それじゃあ、そんな奴を殺せる力をあげちゃうよ♫」
頭の中を掻き回される、不思議な感覚。
目の中で火花がバチバチ光って、夜空が瞬く。
「魂は確かにそこにあるけれど、はっきりした姿形は無いものだ…でも、そこに姿形をイメージして発露することができる人たちが居る…世の人々は彼らを『ソウル使い』と呼ぶんだ。──
──世の中の人間は大きく4つに分けられる。
①ソウル使いの素質があり、能力が発現できる体の構造の者。
②ソウル使いの素質があり、能力が発現できない体の構造の者。
③ソウル使いの素質がなく、能力が発現できる体の構造の者。
④ソウル使いの素質がなく、能力が発現できない体の構造の者。
今僕の魚に弥舞愛ちゃんの体の中を調べてもらったけど、どうやら君は今挙げた4つの中の②にあたるらしい。
ソウル能力は、大脳で着火された術式の情報が、小脳へ送られることで出力されるんだけど、君みたいな人間は術式の情報を通せない「ストッパー」のような器官がついている。
今その「ストッパー」を僕の魚に食べさせて、取り払ってやった。
これでソウル能力の発現が可能になったはずだ…あとは何か精神に大きく影響するきっかけさえあれば、ソウル能力が覚醒して使えるようになるはずだよ。──
──弥舞愛ちゃん、ソウル使いの才能あるよ。」
私に、そんな力の才能が…?
すると山神様は何かに気付いたような素振りを見せ、歩き出そうとする。
「おっと、俺はそろそろ帰らないと…いつまでもここには居られないし、君を探してる人も居るだろう?」
「ま、まって、山神様…あの…」
「大丈夫大丈夫、君のその力は時を待てばそう遠くないうちに覚醒するよ、だから心配しないで。」
「は、はい…」
「あとは…そうだね、葵の御紋を知ってるかい?それを身に着けてる侍と会ったら、仲良くするといいよ。」
山神様はそう言って私の頭に手を置くと、屈んで目線を合わせ、優しく囁いてきた。
「また会おうね、弥舞愛ちゃん。」
「俺はいつでも君の味方だよ。」
私の味方…
私の声が届いた。
話を聞いてもらえた。
心がぽかぽかする気がした。
山神様の姿は闇の中に消え、代わりにヘッドライトをつけた同心様が駆け付けてきた。
「弥舞愛ちゃーん!こんなところに居たんだね!探したよ…」
この人は駐在の同心様・潤也さん。
3ヶ月くらい前に来た若い同心様で、お母さん以外では数少ない、私のことを親身に心配してくれる大人だ。
「ごめんなさい、お母さんを探していたら迷子になっちゃって…」
「よかったぁ…君にもし何かあったら、愛宮衣さんに示しがつかないよ。」
私が不登校になってから、よく町のあちこちであっては声をかけてくれる潤也さん。
心配かけちゃったよね…ごめんね…
潤也さんが私を家に送ってくれた頃には、お母さんも家に帰ってきていた。
今夜の不思議な出会いのことは…
自分にとってもにわかに信じがたいことだったから、寝て起きて夢かどうかわかるまで誰にも話さないことにした。
そして拾った魚は、部屋の押し入れに隠すことにした。
──────
─2031年4月9日 15:00頃─
〔忍藩 秩父郡 長瀞町 荒川河川敷〕
江戸での御家人研修開始から三日目。
緊急通達を受け、江戸から電車で三時間程。
ここは武蔵国北西部の忍藩・秩父郡・長瀞町。
長い電車移動で体のあちこちが痛むけど、清流の涼しい空気が爽やかで心地よい。
もちろん、僕…いや、僕らは、ここに観光目的で来たわけではない。
僕の隣に居るのは、身長200cmを超えようかという、引き締まった巨躯のお侍様。
七三分けのオールバックの金髪に、厳しく彫りの深い端正な欧州人風の顔立ちの、壮年の男性。
細く冷たい目つきの中には青い瞳があり、細く四角い眼鏡をかけていて、鼻は高く、頬はやや凹んでいる。
そして葵紋の描かれた黒羽織。
何重にも張られた立入禁止のテープを前に、彼は低く渋い声でゆっくりと僕に忠告する。
「ここが報告のあった場所になります。」
「凄惨な現場です…心の準備はよろしいですか?」
山と清流の香りの中に、漂う濃い血と魚の臭い。
僕は正面を睨みつけ、頷く。
「はい、大丈夫です。」
教官は正面を向いたまま、僕の顔を見て小さく頷き返す。
「では行きましょう。」
足を揃え、テープをくぐる。
僕の隣に居るこの人は、二人目の研修担当。
名前は石野千秋様。
江戸幕府五大老の一角。
そして…
江戸幕府が誇る、「日本最強」の侍。
〔つづく〕
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
〈tips:ソウル〉
【soul name】本多䑓麓の“言霊”
【soul body】本多 䑓麓
パワー-A
魔力-A
スピード-A
防御力-E
射程-A
持久力-E
精密性-B
成長性-C
【soul profile】
江戸幕府側用人・本多䑓麓のソウル能力。
発声した言葉に応じた現象を、声の届いた対象に発生させる。
たとえば「止まれ」と言えば敵は動けなくなり、「弾けろ」と言えば敵は爆発する。
非常に強力な反面、使う言葉が強い程・対象が格上である程、喉への負担が大きくなる。
日常生活における暴発リスク・味方を巻き込むリスクなども高いが、䑓麓の高度な精密制御によってこれらの問題は解決されている。
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