オトナの恋は夢を見ない
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僕がまだ公安に配属されたばかりの折のことだ。まさに右も左もわからなくて、とにもかくにもすなわち「すがる余地」のようなものを探す毎日だったように思う。情けないかな、「公安」なんて立派な仕事を職務とするくせに、僕には明後日どころか明日すらも見えなくて、だから言ってみれば、最初の最初、とっかかり、社会人としての拠り所を探していたんだ。
怖かった、犯罪者を向こうに回すことが。
怖かった、それでも戦わなければいけないことが。
そのときの僕はひどく怯え、迷っていた。
悪は挫くべきだとわかっていたくせに、それができそうにないから心底ビビッていたんだよ。
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僕は僕でエリートなのだけれども他愛もない、その道をなぞるかたちでただひたすら前へと突き進むつもりだったのだけれど、隣から僕に対しての声があった。結婚しろ。一緒になれ。そんな話なのだ。僕は「そんなの嫌」だから前に進むべく、前に進もうとするから、そこにあるのはきっと情けない事柄でありながら強いメッセージだったんだろうって思う。――けど、そのへんはしっかり疑うべきで、だから僕の目の前にあるのは昔だって今だって、余計な脂肪が削ぎ落されたリアルだったんだと思う。厳しい現実、容赦のない現象。僕は地球が嫌いだった――。
*****
僕には恋をするつもりはなかったし、「彼女」もそうだった。
突拍子もないことだったけれども、とにかく言質がとれたから間違いない。
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「彼女」は総理大臣の座をうかがう大物政治家だった。齢二十七にしてそうだったのだから、間違いなく間違いなく「本物」だった。
ある日、まだ全然前線で実績なり経験なりの味わいを得る立場だった僕は彼女の護衛にあてがわれた。誇りに思ったとか名誉に感じたとか、そんな感情はいっさいなく、――ただただ僕は必死だったから眠らないくらいの勢いで気を張っていた。自分の人生――時間を、すり減らしてまで誰かを守ることになるなんて、少なくとも、子どものときには考えていなかった。ただ、父から「男は女を守るものなんだ」と口酸っぱく言われた記憶はある。裏を返せば、父との思い出なんてそんなものだ。奴さんは女房の他に女をつくって、意味不明なことに太宰よろしく入水自殺まで図ったんだからね。女房以外の女を愛してしまったことに罪を感じるくらいなら、ヒトとして、とっとと一人で死ねば良かったのに――と、僕は今でも思っているよ。
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当時のある日、「彼女」が「ワインを飲みたい」と言い出したんだ。理由を問うと「酔いたいからよ。ダメ?」――ニンゲンなんだからダメということはないけれど、そのセリフ自体がとても投げやりに聞こえた。責任ある立場を放棄したい――とは言わなかったけれど、一つ口に含み、こくりと小さく美しげに喉を鳴らすと、警護のニンゲンでしかない僕の前で、彼女は左の頬にひとすじの涙を伝わせたんだ。
「殺害予告……今回で何件目かしら?」
僕が知っているだけでも三件目。
「ニッポン版『鉄の女』と呼ばれる私ですから」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「だけど、ほんとうは怖いのよ、とても、とても……」
彼女は僕の目の前まで来ると僕を見上げてはらはら泣いた。
たぶん、その瞬間だ。
人生を賭して、僕がいよいよ彼女を守ってやろうと考えたのは。
可愛い女性だったんだよ、彼女は。
問答無用に可愛かった。
*****
彼女が政治家を辞めて、イギリスで投資会社を立ち上げたのはそれから半年後のことだった。
その直後に、たまたま現地で用事があったので、彼女と会った。
「ワインも投資の対象なのよ?」
目新しくもなんともない話を口にした彼女は、おかしそうに笑ってた。
*****
なんにも思い出せないけれど夢を見ていた……気がする。若い時分の夢だ。「彼女」が出演してくれた気がする。多くの男性に愛され、特に赤ワインを愛し、結局のところ最初から最後まで己の道を突っ走り、つまるところ「鉄の女」を地で行き、澄ました笑顔を良しとした一人の女性だ。
――と、瞼を上げると、えらく整った顔立ちのうら若き乙女が僕の顔を覗き込むように観察していた。窓のない、白い照明が淡く照らし出す空間、狭い一室。マホガニーの机に腰掛け、「良かったよ。死んだのかと思った」と笑われた。
僕は両手を突き上げ、伸びをした。
「死んだのかと思ったって、きみねぇ」
「だってボスはご老体じゃない」
「気持ちは若いんだよ」
「でも、じじいじゃない」
かんらかんらと笑う乙女――伊織さんに僕は仏頂面を寄越す。伊織さんは頭のてっぺんから爪先までまるで隙がなくとにかく凶悪だ。しなやかな肢体、顕著すぎる凹凸、掛け値なしの黄金比。たしかに僕は問答無用のじいさんだけれど、彼女ほど胸の大きな女性にお目にかかったことがない。
「呼ばれたから来たんだけど?」
「呼んだ? 僕がかい?」
「ほら、もうボケてる」
「冗談だよ。覚えてるってば」
僕は席を立って、本棚に立てかけてあったゴルフクラブ――3番アイアンを手にし、一つ振った。
「小野塚議員のことなんだ」
「小野塚? 今話題の、あの?」
「そう。たぶん、あの、だ」
勢いあるけど泡沫野党の党首でしょ?
うん、伊織さん。
きみの解釈はまず間違いない。
左から右へとえらく振れた彼にまともな信条なんてあるはずがない。
「彼、前科があるじゃない。ちょっと注目されたら図に乗っちゃう。コミュノ、何発直撃してた?」
「だから伊織さん、きみの言うことはもっともなんだけど、彼は現在、キーマンだからさ」
「護衛でもしろって?」
「うん」
「死んでもらったほうが与党的にはいいんじゃないの?」
「だからこその警護なんだよ」
「意味わかんない」
「仕事だからさ」
僕は3番アイアンは二つ三つと振った。
「死ねばいいんスよ、あんな奴」
いきなりそんなふうに物騒な口を利いたのは、応接セットのソファの上でふんぞり返っている彼だ。大柄な彼の口にはタバコ、紙巻き煙草。アメスピなんて今でもあるんだね。
「朔夜くん、仮にも公僕なんだからさぁ、物騒な発言はよそでしてくれないかなぁ」
「思うんスよ、後藤さん」
「何をだい?」
「この国は実質一党独裁ッス。でも綺麗事述べて並べて野党に任せたら国は終わっちまうな、って」
「多くのヒトにそう思わせてしまう時点で、それこそこの国は終わっちゃってるのかもしれないね」
「だったら――」
「それは違うよ、朔夜くん。失われていい命なんてないんだ」
朔夜くんが嫌ぁな流し目を寄越してきた。
僕は小さく肩をすくめてみせる。
すると、朔夜くん居心地の悪そうな表情を浮かべて。
「いいッスよ、わかりました。オノデラでしたっけ?」
「小野塚だよ、朔夜くん」
はーいと返事をしたのは伊織さんだ。
「仕事はやりまーす、だって社会人ですから。ほら、行くよ、朔夜」
その朔夜くんの襟首をひっつかんで立たせた伊織さんである。
黒スーツ姿の二人はほんとうに絵になるなぁ。
「ああ、後藤さん、忘れるとこっした」
「なんだい、朔夜くん」
「そのオノデラって奴、『鉄の女』の息子ッスよね?」
だから、それはそうなんだけど――。
「小野塚だよ、しつこいようだけど」
僕は苦笑を浮かべたわけだ――。
*****
メールで済ませてもよかったんだけど、くだんの小野塚議員の警護を始めた朔夜くんのことを、翌日、僕は呼び出した。今夜も窓のない狭い一室――執務室だ。
「あれれ? 伊織さんは?」
「飲みに行きたいからってイライラしてるッス。車ッスよ」
「ええぇーっと、物申したいことがいろいろあるなぁ」
「街頭演説、つきっきりだったんスけど」なんだか険のある前置きだ。「いいじゃないスか、人気者みたいで。耳障りのいいことばっかほざきやがるポピュリズムの極み――ホント、いいんじゃないッスかね。無責任なところが、特にいいんじゃないッスかね」
朔夜くんは脳筋なところがあるけれど、じつはインテリだし感じ方もいちいち正しいんだ。
「伊織さんも似たようなことを?」
「さあ。でも、アイツは俺より賢いし、なにより大人っスからね」
「違いない」僕は朗らかに笑った。「まぜてもらおうかな」
「なんの話ッスか?」
「酒宴だよ」
「ご冗談を」
上げた右手をひらひら振りながら退場していく朔夜くん。
「わかってるね? 仕事なんだよ?」
「あんな偽善者、つくづく死んじまえばいいのに」
ホント、朔夜くんは大胆なまでに剣呑だなぁ。
だからこそイカしてるっていう面も、多分にあるんだけどね。
*****
明くる日の朝、ルーティンとしている駅前演説の場で、小野塚議員は銃撃に遭い、だから僕のところに彼、ひいては彼の事務所から苦情が届いたんだ。僕が営む組織は隠密部隊。ゆえに誰だ? 議員にこっちのことを知らせたのは。
*****
狭い一室――執務室の応接セット。僕は一人掛けのソファに座っていて、ガラスの天板のテーブルの向こうには御客様――小野塚議員の秘書を名乗る二人がいる。僕の脇に立ち、控えているのはくだんの二人、伊織さんと朔夜くん。一応神妙な顔をしてくれていることはありがたい。
「どういうことですか?」秘書Aとしよう、横分けぴっちりで鼻のデカい男が詰め寄ってきた。「おたくに任せればということで任せました。それが銃撃? どういうことなんですか?」
まったく、的外れなことを述べてくれるなぁ。
僕はそんなふうに呆れつつ――。
「私の部下はすぐそばで警護していたんですよ? だから議員は無傷で済んだんです」
「銃撃されたことが問題だと言っている」秘書Bは角刈りでゴツくていかつい。「へたをすれば議員は死ぬところだったんだぞ」
「いや、だからね、おにいさん――」
「やめましょうよ、後藤さん。コイツら、アホなんスよ」
朔夜くんが身も蓋もないことを言ってくれた。
いや、まあ、そうなんだけどさ。
ほら、秘書AとB、顔を真っ赤にしちゃった。
フォローしなくちゃな僕の立場、わかってもらいたいなぁ。
「善処します。ウチのメンバーにも善処させます。今日はそれで済ませませんか?」
とりなすように僕は言ったわけだけれど、朔夜くんは意地が悪いから、「ケケッ、帰れよ、クソボケのくそったれ」などと口汚くなじった。いや、そうしたい気持ちは理解はできるんだけどね。
「仕事だから仕方なく守ってやってんだよ。俗物根性が抜けねー誇大妄想狂馬鹿に誰が付き従うってんだよ。わかるか? ああ、そうだ。要するに俺はテメーらを侮辱してやってるっつーわけだ。ハハッ、悔しかったら言い返してみやがれ。それができねーなら自殺しやがれ自死しやがれ」
朔夜くん、だからさぁ――。
秘書AもBも格闘技の心得があるに違いない。だけど、朔夜くんの「タダモノではない感」がハンパないからだろう、二人はおかんむりながらも帰っちゃった。
はっとするくらいの大きな声で笑うと、朔夜くんは「もう帰っていいッスよね?」などと訊ねてきた。「いいけれど」と応えつつも、当然、僕は難しい顔をする。
「なんだい? つまるところ朔夜くん、きみは怒っているのかい?」
朔夜くんは大きな舌打ちをした。
「怒る理由なんてないッスよ」
「でも、明らかに怒ってるよね? 今にもキレちらかしそうじゃないか」
朔夜くんはも一つ舌打ちするを、「気のせいっスよ」と言って、部屋をあとにしたんだ。
少々不可解な言動だなぁと思って、僕は伊織さんに目をやった。
伊織さんは自身の左の頬を指差した。
今の今まで気づかなかった。
そこにあったのは銃創だったんだ。
僕の表情はにわかに険しくなる。
心配半分、もう半分は彼女を傷つけたことについての怒り――。
「他意なく言うけど、勘が鋭い私がかばってやらなけりゃ、議員の奴は死んでたよ」
伊織さん、まあきみが言うなら、それはほんとうのことなんだろうね。
にしても、そうか。
軽いながらも相棒が負傷したことが許せない朔夜くん、というわけか。
うん、二人はラブラブだ。
――ラブラブって死語?
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小野塚議員の醜聞が報じられた。
なんでも不倫をしていたらしい。
その旨を知ったからだろう、朔夜くんが我が執務室に怒鳴り込んできた。
朔夜くんって潔癖だから、単純に浮気が許せなかったんだろうな、って。
「俺はおりるッスよ」
僕を睨みつけての、それが朔夜くんの第一声。
僕は苦笑を浮かべるしかなかったんだ。
「女房いんのに若い女とアイビキとか、アホ決定っスよ、奴さん」心底汚らわしそうに、朔夜くんは言う。「しかも、選挙期間中にも会ってたって話じゃないッスか。開票直後も会ってたってんでしょ? 自分がトップ当選したから浮かれてたんスかね。ハッハッハ、マジ死ねよクソ野郎」
マジ死ねよクソ野郎、か。
世の中がきみみたいな男であふれていたら、この国だってもっといい方向に進むのかもしれないね。
「今日も今日とて伊織さんは?」
「車で待ってるッスよ。イライラしてる俺んことは見飽きたらしいッス」
「同感だなぁ。そんなきみのことを愛おしいと思っているのも、また同じなんだろう」
「怒るッスよ?」
「もう怒ってるじゃないか」
「後藤さんっ」
「よそうよそう。喧嘩はよそう」
執務室の出入口の戸、自動のそれがスッと開き――。
入ってきたのは今日も美しい伊織さんだった。
後ろに女性を連れている。
その人物の顔を認めるなり、僕の目はえらく大きくなった。
「まさか、小野塚さん……?」
「久しぶりね、後藤くん」
小野塚――小野塚麗子元議員は目尻に皺をもうけて、穏やかに笑んだんだ。
*****
応接セットに、麗子議員を迎えた。
お連れのニンゲンなんて誰もいない。
「友人に会いに来ただけだもの。ほかのニンゲンは必要ないわ」
そう言って、麗子議員は微笑んだんだ。
先程までとは打って変わって、僕の脇に控える朔夜くんはビシッと立っている。そんな彼を見て、伊織さんがクスッと笑った。「なんか妬ける」と言って、おかしそうにクスクス笑った。
「まだこんな陰気な部屋に引きこもっていたのね、後藤くんは」
「何かの皮肉ですか? 小野塚議員」
「議員ではないし、別れ際のあなたは敬語なんて使っていなかったと思ったけど?」
気のせいでしょう。
なんだかそう言うのが精一杯だった。
「お仕事は? 順調ですか?」
「もうすっかり引退よ。あなたと違ってね」
「訪日の理由は?」
「帰国と言ってほしいわね」
甘ったるい目で、麗子――さんは見つめてきた。
「ほんとうに驚いたわ。あなたがまだ仕事を続けているなんて。ああ、でも、あなたは真面目を地で行くニンゲンだから」
「私にはこれしかありません」本音なんだ。「部下からの信頼。それが私の礎に他なりません」というのもまた本音。
「ほんとう、何も変わっていないわね」今度はころころと、楽しげに麗子さんは笑った。
それから、幾分、真剣な色を顔に貼り付けて。
「息子のことで迷惑を被ったって耳にしたわ。ごめんなさい」
「いえ。それはそれ、これはこれです。仕事ですから」
麗子さんは少し気まずそうな顔をして。
「誰からトップダウンで捻じ込まれたのかしら」
「小野塚議員に亡くなられては困る人物からです」
「それは誰かって訊いているのよ」
「申し上げる立場にありません」
総理大臣ね。
確信したように、麗子さんは言い――。
――正解だった。
「小野塚議員、私の息子ね? 彼はたった一つの政策について民意が得られただけなのに、鬼の首をとったように振る舞ってる。調子にのっているということ。見ているほうが恥ずかしいとまでは言わないけれど、なんだか、ね」
国民は決して馬鹿ではない。
それがかつての重ねての麗子さんの口癖だった。
「でもね、後藤くん、守ってほしいの。私のたった一人の息子だから」
お約束します。
礼儀正しく、折り目正しくそんなふうに応えたのは朔夜くんだ。
熟女に弱いとか、そういうことではないんだ。
ただ、朔夜くんは尊敬している人物の前ではとても丁寧に振る舞う。
彼のそんなところは、僕のお気に入りだ。
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街宣用である大仰なワゴン車の上で政策やら思想やらを声高かつ熱心に語るのは、まさに小野塚議員だ。炎天下の中、僕はそんな彼を眩しい目で見ていた。刑務所から久々に娑婆に出されたような気分――いや、ムショ暮らしの経験なんてもちろんないんだけどね。表に出た気がするのは久しぶりだというだけで。僕もすっかり偉くなっちゃったもんだからさ、悩み事なんかがあっても、誰も本気で相手にしちゃくれないんだ――それは嘘だね。伊織さんにしても朔夜くんにしても、他のメンツにしても、僕が話を聞いてくれと訴えたら真剣に相談にのってくれるに違いないんだから。僕は人生の晩年にあってほんとうに得難い仲間に恵まれた。彼らの信頼こそが僕の財産。その言葉には、やっぱり嘘なんてないんだ。
小野塚議員の演説は力強い。スムーズでもある。さすが東大法学部。いわゆる地頭はいいに違いないんだ。勘までが働くから、肌感覚で「それ」がわかるから、民意を得ることが可能なんだ。だけど、それだけだ。朔夜くんが言ってたっけ、ポピュリズムの極みだ、って。だったら、彼らが欲しているものってなんなのだろう。より良い評価? それとも単純な名声? いずれもだろう。欺瞞に満ちているとまでは言わない。ただ、自尊心を満たそうとしている節は多分に伺える。いつからだろうなぁ、この国の政治が腐っちゃったのは。それとも元から腐っていた? 僕には判断がつかないな。それでいいって考える。国の発展の速度なんて亀の歩みだ。誤りながらも間違いながらも、一歩ずつ前に進めるようであればそれでいい――違うのなら、誰でもいい、僕にそのへん、説いてほしい。
街宣車の上、小野塚議員の隣にいきなり現れたのは朔夜くんだった。乱暴としか言えない手つきで議員の頭を下げさせた。次の瞬間、じめじめした空気をつんざいたのは乾ききった銃声。二発三発と連続した。現場を離れて久しい僕だけれど、狙撃だということはすぐにわかった。伊織さんの指示だろうか、それとも朔夜くんがピンときたのかな? どちらにしても驚くほどに感覚器官が優れている。狙われていると察知したからこそ、即座に議員のもとに至ったのだろうから。まったく頼もしいなぁ、尊敬するよ。
銃声なんていうのは初耳でもなんとなく察知できるものだし、それを耳にしたら最後、たいてい、パニックに陥る。そうだよ、パニックとはかくも鮮やかに引き起こされるものなんだ。このたびもそのとおりで、蜘蛛の子を散らしたように聴衆は逃げ出した。僕は向かってくる人込みをやりすごしながら「朔夜くん!」と最近にはなかった大きな声を発した。朔夜くんはぎょっとしたような顔をした。まさか僕が現場に出向いているだなんて思っていなかったんだろうね。
街宣車の下から、僕は「伊織さんは?」と訊ねた。
「犯人確保の報があったんで、そっちッスよ」
「犯人確保? もう、かい?」
「そッスよ。狙撃のポイント、わかってたんなら撃たせんなって話なんスけどね」
「そのへんはまあ、いろいろと『まぎれ』があるんじゃないかな」
「まったくもって、そのとおりってことなんスよ。まぎれってのはいい表現ッスね」
頼もしいことに、ずんぐりむっくり小太りの小野塚議員がおりてきた。
また撃たれたぞ、どういうことなんだ!?
そんなふうに、えらくのっぽな僕のことを見上げ、文句をつけてくるわけだ。
意味不明に高圧的で口だけ達者な性格にはちょっと感心、敬礼したくもなる。
同時に、「コレ」が麗子さんの息子なのかと考えると、少し悲しくなったし、苦笑いしたくもなった。
「小野塚議員、やめましょう。ウチのニンゲンがいなければあなたが亡くなっていたことは事実なんですから」
「なんだとぉぉっ! 母の推薦だから仕方なく使ってやってるっていうのに!!」
いい年こいてなんと幼い物言いか。でもまあ、言いたいことはわかるんだ。誰も命の危機なんて迎えたくないに決まってる。よかったなって思うんだ、だって次に控えていた麗子さんが応援演説に立つことはなかったんだから。
小野塚議員の膝の裏側に朔夜くんが蹴りを入れた。がくんと崩れそうになったところを、彼は無理やりに髪を掴んでそうさせなかった。ああ、もう、やめてほしいなぁ、朔夜くん、きみのそんな行為について尻拭いをしなきゃなのは僕なんだよ? ――っていう恨み節は半分嘘で、相手が誰であろうが攻撃的に振る舞える彼のことは尊敬すらしている。
「まあまあ朔夜くん、それくらいで」
「だけど馬鹿なんスよ? この小野塚って野郎は。じつはノンポリだってのはわかるし、だったら――」
「この国は法治国家だよ。人治じゃないんだ」
「……うっす」
「きみのしおらしいところはほんとうに可愛いよ」
このタイミングで麗子さんがとことこ近づいてきた。「後藤くん」と呼んできた。「ごめんなさい、迂闊だった。彼にいつもどおり強気に演説をしなさいと言ったのは私なのよ」とのことだった。
僕は肩をすくめてみせ、それから「それでいいんじゃないでしょうか」と述べた。
「あなたの部下が負傷したのよ? ああ、ああ、ほんとうにごめんなさい、朔夜くん」
その朔夜くんは平気な顔をしているけれど、流れ弾を食らったようなもので、右肩に風穴をあけられていた。
「小野塚麗子さん、頑丈さだけが取り柄の俺ッスから。気にしないでくださいッス」
「でも――」
「あなたも無事だし、あなたんとこのドラ息子も生きながらえた。それでいいじゃないッスか」
朔夜くん。
きみはなんて男前なんだ。
「でも、申し訳ないわ。息子には立場をおりるよう、説得します」
「そんな必要はないッスよ。国を動かしたいっていう存在は稀有だ。左だろうが右だろうが、好きにやってみたらいい」
朔夜くんはここに来て、自身の大きな身体を使って、麗子さんの前に立った。まだまだまだまだ警戒しているらしい。朔夜くん、ほんとうになんて優れたニンゲンなんだろう。僕はきみほど頼もしい存在を他に知らないよ。きみは女性は守るべきニンゲンだと強く定義している。今の時代、そんなのお門違い? そんなことを言う輩がいたら僕はそいつを著しく罵ってやることだろう、きみの心意気はいたずらに否定されていいものではないんだ。
「続きは任せてくださいッス。後処理くらいはできるっスから」
「ご褒美として、僕はきみにアルコールの一杯くらいは奢ってあげたいんだけれど?」
「要らないッスよ。俺はいつだって、俺の仕事をしてるだけッスから」
「きみはほんとうに偉いなぁ」
「男に生まれた以上、やることはやってやろうってだけッス」
そう言い切ることができて、実際にその旨を体現できる天才とは彼のことだ。
「それより」
「なんだい、朔夜くん」
「小野塚麗子サンの訪日――帰国ッスか? それってめったにないんでしょう、だったら」
「だったら?」
「――いや、やっぱどうでもいいッス。俺なんかが口を挟むことじゃないッスね」
「そうかもしれないけれど、きみの言葉は不思議と胸に響く」
彼は小さく肩をすくめると、もう安全だと悟っての上だろう、向こうへと歩いていく。
彼ほどのタフガイはこの世の中にいないだろう。
伊織さんが自らを抱くことをゆるすわけだ。
美しい関係性だなと思う。
*****
貸切の遊園地。
コーヒーカップを回したりして。
メリーゴーランドに乗ったりして。
コスモクロック。
横浜の名物的な観覧車の箱の中で、麗子さんと一緒になった。
海風にあおられてよく揺れる。
だけど僕も麗子さんも微動だにしない、臆したりもしない。
それって年をとったがゆえの達観だ。
僕はあらためて、「あなたが早々に政界を引退したときは、驚いたよ」と今更ながらに述べた。
気づけば――言ってみればタメ口になっていた。
「与党はふらふら。だけど、この国の与党は一つしかあり得ない」
「あなたが残っていたら、あなたは今頃、総理大臣だった」
「ええ。そうかもしれないわね」
「どうしてイギリスなんかに?」
「それこそ、飽きたからよ。拙攻続きの政局にも、それこそ政治の世界そのものにも」
あなたはまだつまらないに違いない公安にしがみついているのね。
そんなふうにまた酷いことを言われたけれど、彼女が相手だからか、なんとも思わない。
「っていうかね麗子さん、今の僕があずかっているのは公安じゃあないよ」
「似たようなものでしょう?」
「まあ、そうなんだけど」
僕ははっはっはと笑った。
「それにしても――」
「なんだろう?」
「お互いに年をとったな、って。――だけどね? じつのところ、私は今もあなたが誠実であるところを目の当たりにして安心しているの」
「今、僕の周りにいるのは得難い仲間ばかりなんだ。そしてどうやら彼らからの信頼は得られているらしい。どうだい? いち社会人として、こんな幸せなことって他にあるかい?」
「ない――のかもしれないわね」
「実際、ないんだよ」
ふいに、麗子さんが右手を差し出してきた。
「ねぇ、触れて、後藤くん。これで最初で最後にするから」
言われるがままに、僕は彼女の、そのか細い指に指を絡めた。
彼女は満足そうに微笑むと、「ありがとう」を言って、笑顔をみせた。
「ドラ息子の警護はもういいわ。あんなののためにあなたの部下が傷つくのはゆるせないもの」
「あんなののために、かい?」
「ええ、嘘よ。彼は私の可愛い子なんだから」
「ポジティブに相手をするさ」
「そうしてもらえると、とても助かるわ」
最後にお願いがあるんだ。
僕は麗子さんにそんな言葉を向け。
「あら、何かしら?」
「キスがしたいんだ」
すると麗子さんはクスクスと笑って。
「こんなおばさんとしたいの?」
「それを言ったら、僕だってずいぶんなおじさんだよ、もっと言うとおじいさんだ」
いいわよ。
そう言うなり席を立ち、麗子さんは僕の首を両腕で締め付けた。
それからささやかなキスをした。
醜いなあって思った。
僕の願望もその結果としての現象も。
だけど、それでよかった。
それで僕は幸せだったんだ。
窓の向こうに見える黒い海は、ヒトのどす黒い内面に似ていたように思う。
*****
薄暗い僕の執務室を、伊織さんと朔夜くんが訪れた。朔夜くん、きみは右の肩に銃創を得たのではなかったのかい? そのわりには平気な顔をしすぎていないかい? タフさ加減にもほどがあるよ。だけど、上司からの命令として休めと言っても、きみは無視をすることだろう。なんだかんだで僕はきみのそんなところが好きだ、お気に入りだ。きみが頑張ると言うのであればとことんフォローしたい、力になりたい。ホント、きみは自慢の部下なんだよ。
「麗子さん? ――は、帰ったわけだけれど」と伊織さんが言った。「一発くらいはヤったの?」
「えっと伊織さん、そういう下品な物言いは控えてくれるかな」
「控えない。性欲こそ崇高で高尚なる美学だから。ねぇ、実際、どうだったの?」
「オトナの恋に夢はないよ。ただし、ちょっとくらいは甘酸っぱかったかな」
「彼女、イギリスに帰ったの?」
「ワインファンドが面白いんだってさ。今度、屋敷に招待してくれるそうだよ。その折は伊織さん、きみについてきてもらいたい」
伊織さんはおどけるように肩をすくめてみせた。
イギリスなんてお断りなんだろう、彼女のせっかちな性格からして、長時間のフライトは嫌なはずだ。
「で、だ、朔夜くん」僕は伊織さんの隣に突っ立っている彼に声をかけた。「今回はすまなかったね。銃で撃たれたんだ。ほんとうに申し訳ない」
「いいッスよ、それくらい」と、朔夜くんはけろっとしている。「タバコ、吸っていいッスか?」
「きみはスペシャルだ。ゆえにゆるそう」
くわえ、ジッポライターで火をともすと、白い煙を長く吐いた。
「えらく年がいったじじいとばばあの恋愛は、難しいってことなんスかね」
「おっと朔夜くん、その言い方はキツすぎるよ」
「言わずもがな、一応いろいろ調べたんスよ」
「何をだい?」
「ですから、後藤さんと小野塚麗子議員の内密的関係について、ッスよ」
「その結果は?」
もう行くッス。
朔夜くんは自らの発言を濁すこともなく身を翻し、とっとと部屋をあとにした。
「どんな年寄りにでもラブロマンスはあっていい。私なんかはそう思うけど?」
「結ばれそうで結ばれなかった。その事実だけでも、僕は面白いって考えてる」
伊織さんも肩をすくめてみせると立ち去った。
余計な文言を残さないあたり、彼らは空気を読めると言える。
素敵すぎる次第だ。
*****
羽田で麗子議員を見送った。
別れの挨拶はグータッチ。
「また会いましょう、後藤くん」
「僕だってもうずいぶんと年寄りだから。次はないかもしれない」
「そういう弱気な物言いはだいっきらい」
「だったら、わかった。また会えるように努力するよ」
「息子をよろしく。なんだかんだ言っても――」
「わかるけど、それは保証できないなぁ」
僕がそう応えると、「そうよね」と麗子さんは笑った。
「じゃあ、もう行くわ」
「またワインを飲もうじゃないか、赤いやつを」
「ええ、そうね」
以降、彼女が振り返ることはなかった。
このたびが今生の別れになってもいい。
僕はもはや、ずいぶんと満足していた。
麗子さんが元気なところが見れて、嬉しかったんだ。
何か妙な気配を感じて、僕は振り返った。僕の視線の先には、伊織さんと朔夜くんの姿があった。そうなるに至った要因はわからないけれど――まあ、彼らなら僕の動きにある事実を把握するくらいわけないだろう。優秀なんだ、とにかく。
「あーらら、逃がしちゃってよかったの?」とは伊織さん。
「僕には仕事があるからね。善意にも限界がある」と応えてやった。
「仕事? 善意?」
「悪を挫くのが、僕の業務なんだ」
「職務なの? 趣味なの? どっちなの?」
「真面目すぎるツッコミだなぁ」
ま、これからもがんばろうよ。
僕はそんなふうに提案して。
「ボスは何も得ないつもり?」
「何度も言わせないでほしいな。きみたちとともにあるのが、えらく気持ちがよくてね」
「わかった。仲良くしようよ、だから、これからも」
「もちろんさ」
今夜飲もうよと打ち明けると、早速断られた。
朝までセックスするの。
まあ、なんというかこう、伊織さんと朔夜くんは重ね重ねそういう関係――。
「思ったんだよ、じつは、ボス」とは伊織さんの言葉だ。
「なんのことだい?」と僕は問うた。
「ボスと小野塚麗子議員の関係も、またえらく尊いな、って」
僕は顔に苦笑を張りつけた。
「僕らの恋愛は最初から最後まで未完成さ」
「だからこそ、楽しいんでしょ?」
「否定はできないなぁ」
それは事実で、僕にとっての真実だった。
楽しいね、人生は、まったく――。
だからまだ、僕なんかも生きているんだろうね。